生江氏の関わる話ー生江氏は何処へ消えたのか
生江不明事件
生江氏は4世紀から11世紀にかけて、越前国足羽郡を中心として活躍した地方豪族です。足羽郡司を務め、奈良の東大寺とも深い関係を持っていました。越の国をふくめて最大級の篠尾廃寺を建立したのも生江氏といわれています。最盛期には大野郡司、丹生郡郡司など、一族は足羽郡だけでなく広い地域に勢力を広げていました。
この生江氏は、記録に残っている範囲だけでも350年の間、この足羽郡にて大きな業績を残しているのですが、1016年を最後に歴史から忽然と姿を消してしまいます。その後の消息については、不明のままです。
平成の現時点で、酒生地区、旧足羽郡、福井市全域を含めて、生江姓あるいは生江に因む地名は見られません。別名とされる左近の姓も見られません。
全国的に姓を調べることが出来るネットサイトにて生江姓を検索すると、全国で1200人ほど出てきます。そのうち、460人が福島県に存在します。その中でも多いのが、河沼郡会津坂下町で160人の生江姓が見られます。
会津坂下町は、会津若松市の西方、新潟県境側の田園地帯に位置し、人口は1万5千人、5千戸あまりの小さな町です。歴史は古く、大字の塔寺には、1200年ごろ建立の恵福寺観音堂が存在しています。同寺には、これも鎌倉初期と見られる高さ7m42cmの千手観音像が納められています。
「東蒲原郡史蹟」によれば、生江大膳基氏という人物が会津坂下の青津に1379年に移り来て、翌年この青津に浄福寺を建てています。さらには、この大膳は代々名が受け継がれ、通称は「山城」と呼ばれていたそうです。
生江氏が足羽郡から消えた時期は、律令制後が定着して地元豪族の私有地が次第に減少した頃です。居場所がなくなり、せっかく居付いて繁栄を極めた越前国ですが、一族は荷物をまとめ新天地を求め越前を出たという仮説が成り立ちます。生江一族には海運に関わった人物もおり、船を使えば一気に北上できたはずです。ただ、生江氏が足羽郡から名が消えた時期と、会津に現れる時期に300年ほど空白があります。その間、富山か新潟において新たな水田開発に勤しんでいた可能性もあります。
本来、この時期に日本へやってきた渡来系の人々は、長い年月をかけて、大陸を東へ向かって来た人たちです。苦労の末、東の果ての島国で理想的な国づくりをはじめた人ですから、自分たちの生活がままならないときには、さらに東へ向かったとしても不思議ではありません。生江姓が多数見られる福島県の河沼郡は、福井県のほぼ東と言っても良い東北東の方角にあります。
会津に新天地を求めた生江氏は、会津坂下町を拠点に一部は喜多方市、仙台市へ移り住んだようです。平安末期には生江大膳という人物が会津坂下の青津拠点の1万石小名になっていますし、地頭として江戸末期まで存在しました。幕末には生江元膳という人物が仙台藩士になっています。