酒生地区の名所がかるたになっています。
皆さんはいくつ知ってますか。

  令和2年1月 酒生まつり推進協議会


ア行
あ 荒木遺跡 弥生時代の 玉つくりの跡

い 一栢さん 八十一難経 高尾で出版

う うっちゃり よりきり 栂野の子供相撲

え 笑顔咲く 今日も巡回 さこういきいきバス

お 大きな礎石 篠尾にあった 五重塔

カ行
か 刈り取った 古代米で おもちつき

き きんきらきん 天神山から 金の耳飾り

く 車塚にオカマ 古墳があちこち 篠尾の里

け けやきの木の下に 水の神様 弁天さん

こ 古墳の数 四百以上もあるのは 北陸一

サ行
さ 逆生(さかしょう)の木 大野街道行き交う人々 一休み

し 宿布発電所 北陸初の 水力発電

す すぐそばを 流れる大河 足羽川

せ 銭太鼓 荒木の村に 鳴り響く

そ 総動員 体育祭で盛り上がる 地区対抗の人生リレー

タ行
た 鷹の端(たかのは)は 殿様の鷹狩りで遊んだ場所

ち 亭(ちん)の水 目の病気に 効くという

つ 築田多吉 家庭の医学書 今もベストセラー

て 天狗が住むという ドングリの木 稲津にあり

と 灯火の 行列の先に 遺跡まつり

ナ行
な 夏祭り キラリン節で 盆踊り

に 日中友好の先駆者 橋川時雄先生 篠尾の人

ぬ 布目瓦 奈良時代の 寺の屋根

ね 願いは一つ 地区の団結 酒生の火

の 登り口 波着寺と刻まれた 鳥居あり

ハ行
は 八郎山 新しい街 篠尾台

ひ 彼岸花 真っ赤に咲いて 秋の訪れ

ふ 不動明 流れ着いた宿布で 動かない

へ 平成三年 高尾第一の 誕生日

ほ ほたる舞う 酒生の木は 甘いぞ

マ行
ま 前波九郎兵衛 前波に住んだ 朝倉家の家臣

み 水面(みずも)には カモがのんびり 篠尾のため池

む 昔から 黄金の稲穂 米どころ

め めだかにふな 元気に及ぶ ビオトープ

も もちつきは 俺たちに任せろ さこう工務店

ヤ行
や 薬師如来 高尾の神社に 鎮座する

ゆ 弓の名手 小国源兵衛 稲津の人

よ 養生小学校 篠尾にあった小学校

ラ行
ら ランドセル 子供の安全 見守り隊

り 竜神の ねむりをさます 太鼓の響き

る ルンルンと酒生のゆるキャラ さこんちゃん

れ れんげ草 田んぼに春が 訪れる

ろ 老人会 堤防に植えた桜が 満開に

ワ行
わ 渡し船 今は天神橋で 東郷へ

ん 縄文の 土器を発掘 天神山


スマホでも見られます。


【あ】 荒木遺跡 弥生時代の 玉つくり跡

 昭和43年福井県考古学研究員によって、隣の曽万布町や林町とともに荒木町の弥生遺跡が調査されました。荒木遺跡からは弥生時代後期(約1800年前)の土器が多数出土しました。住居跡には碧玉(へきぎょく、ブルーサファイア、島根県の玉造りの石等)の加工した跡も発見され、福井県立歴史博物館には実物大の加工場が復元されています。また、出土した土器類は渕町にある福井市の埋蔵文化財センターの第2展示室に展示されています。



【い】 一栢さん 八十一難経 高尾で出版

 谷野一栢は元南部の僧で、中国(明)に渡り医学を学び、帰国後は関東から関西に移り住みました。朝倉孝景の招きで1529年(享禄2年)には一乗谷に移り住んだといいます。朝倉氏遺跡から医学書「湯液本草」の版木の焼片が出土され、これは日本で印刷された2番目の医学書になります。高尾町には薬師神社がありますが、その場所は以前高尾寺があり、そこで谷野一栢が「八十一難経」と呼ばれる医学書を校正しました。



【う】 うっちゃり よりきり 栂野の子ども相撲

 昔は、神社の祭りなどで境内に土俵が設けられ、あちらこちらで子ども相撲が行われていました。相撲の歴史は古く、元々神様の前で力自慢をして奉納したのが相撲の始まりとされています。栂野の熊野神社には今でも土俵が設けられており、祭りの時には子ども相撲が開催されています。



【え】 笑顔咲く 今日も巡回 さこういきいきバス

 酒生いきいきバスは、高尾第一地区が発起人となり平成23年4月から試験運行が始まりました。2年後の平成25年10月より本格運行が開始され、国土交通省中部運輸局長の表彰受けました。同時に低床型バスの新車両が導入され、酒生地区と福井市東部のマーケットや医院の間を毎日元気に走り回っています。オレンジ色の車体には酒生地区のキャラクターである「さこんちゃん」とその家族が描かれ、酒生地区のイメージアップに一役買っています。



【お】 大きな礎石 篠尾にあった 五重塔

 篠尾町の塔垣内と呼ばれる場所に、搭の礎石が露出しています。これは、7世紀後半の白鳳時代から平安時代にかけて存在した5重の塔の心柱を支えた基礎石です。心礎に掘られた柱座(穴)は直径88センチに及びその大きさから、搭の規模は奈良の法隆寺と同等の30数メートルと考えられています。
 周辺から見つかった瓦の特徴から、同時期の越前市深草寺の瓦とは異なっており、技術的に山城(京都)に近いそうです。1445年の京都東寺の記録では足羽郡に46名の僧数を持つ越前で2番目に大きい大惣持寺という寺が存在したことが分かっています。これだけ大きな寺は他になく、酒生の5重の塔はこの大惣持寺の施設ではないかと推定されます。



【か】 刈り取った 古代米で おもちつき

 古代米というのは古代の稲の品種で、赤米、紫黒米、香り米などの種類が栽培されています。私たちが祝いの時に食べている赤飯は、あずきともち米を蒸して作りますが、その起源は古代米にあるそうです。古代米は炊きあがりが赤飯の様な赤い色で、赤は邪気を祓うとか災いを避けるとかいう意味がったそうです。今でも赤飯は祝いの時などに食べられていますね。酒生地区でも一部の農家で古代米が栽培されました。



【き】 きんきらきん 天神山から 金の耳飾り

 天神山古墳群は、酒生古墳群の一支群であり、国道を挟んで13の古墳が確認されています。その中でも直径52メートルの7号墳は、最大の大きさを誇ります。埋葬施設からは銅製の鏡、金製の耳飾り、勾玉(まがたま)、甲冑、鉄の剣や刀、弓などが発見されました。
 これらの品は古代の制度や生活を知るうえで貴重なものであり、全国的にみても貴重なものとなっています。この古墳は5世紀のものと考えられておりますが、篠尾廃寺を建てたとされる生江氏に繋がるか人かどうかは分かっていません。



【く】 車塚にオカマ 古墳があちこち 篠尾の里

 酒生古墳群の中心に位置するのが篠尾町です。この集落は山々に眠る古墳に囲まれているだけでなく、村の至る所に古墳とみられる遺跡が多く残っています。黄金の車輪が埋められているという車塚や、構成する石が露出しているオカマ、横山古墳などがあり、訪れる歴史ファンを飽きさせません。千数百年の間、古墳を守り生活を共にしてきた集落の人達のご苦労と努力には頭の下がる思いです。



【け】 けやきの木の下に 水の神様 弁天さん

 荒木新保地籍の足羽川右岸の堤防に、樹齢数百年の大きなケヤキの木があります。その木の根元には弁天さんと言われる小さなお地蔵さまが水の神様として祀られています。昔はこの付近に足羽川の渡しをした渡り村という集落がありましたが、足羽川が氾濫して家が全て流されてしまいました。村の人達は元の場所に住むことをあきらめ、酒生地区内の各集落に分かれ、それぞれ移転をしたそうです。



【こ】 古墳の数 400以上あるのは 北陸一

 荒木町から高尾町にまたがる成願寺山や八郎山、篠尾の山すそには数多くの古墳が存在していることが確認されています。その数は328基を数え、昭和38年から平成元年にかけてそのうち14基が緊急発掘されました。
 古墳からは人骨、銅鏡、勾玉(まがたま)、管玉、鉄刀剣など貴重な資料が出土しています。酒生古墳群は足羽川対岸の脇三ヶ町から東郷にかけての古墳群と合わせて、県内のみならず北陸を含めても最大級の古墳の宝庫と言えます。



【さ】 逆生の木 大野街道行き交う人々 一休み

 酒生小学校の南方の足羽川の右岸河川敷に「逆生の木(さかしょうのき)」と呼ばれる野良山椒(のらさんしょ)の老木があります。高さは約6メートル、幹の周囲は1メートル50センチあり、昔から霊木とされて小枝を切り落とすと発狂して死んでしまうとして、個人での伐採は恐れられていました。三月の社会奉仕の日には、荒木新保の係りの者達が周囲の草刈りなど整備をしています。



【し】 宿布発電所 北陸初の 水力発電

 宿布発電所は北陸電力の前身である京都電燈株式会社により、明治30年11月から工事に掛かり、明治32年5月には発電が開始されました。北陸では初、全国でも3番目でした。当初は80kW、その後は160kWで発電され、市内の3000燈の需要をまかない、福井の繊維産業の発展に大きな力となりました。
 昭和31年には老朽化によって廃止されましたが、保存されていた発電機は、熊谷組により令和元年の秋から元の宿布発電所跡に戻され展示されています。当時石組みであった熊谷組はこの事業を礎に建設会社として発展しました。



【す】 そぐそばを 流れる大河 足羽川

 酒生地区の南には一級河川の足羽川が流れています。四季を通じて流れる豊かな水は田畑を潤し、河川に生息する鳥や獣の命の源となっています。古くは「生江川」と呼ばれ、足羽郡の首長であった生江氏は、この生江川から用水をひく事業に大きな力を注ぎ、福井平野の米作りに大きな役割を果たしました。また、福井豪雨で氾濫し多くの被害を出した足羽川ですが、現在は上流の池田町に洪水調節用の足羽ダムを建設しています。



【せ】 銭太鼓 荒木の村に 鳴り響く

 銭太鼓とは、小銭を入れ布で綺麗に飾った竹の筒を両手に持ち、太鼓の拍子に合わせて床に打ち付けて行うものです。同時に舞台上ではドジョウすくいの舞踊を踊ります。荒木町では伝統行事として世代を超えてこの銭太鼓を受け継いています。数十年前には、酒生の青年団がその活動の一環として荒木の銭太鼓を学び、当時の県民会館で披露しました。



【そ】 総動員 体育祭で盛り上がる 地区対抗人生リレー

 酒生の地区をあげての催し物の一つに酒生区民体育祭があります。以前は秋に開催した時もありましたが、最近は5月に開催され、令和元年で第46回を数えます。主催は自治会連合会、主管は酒生体育振興会で開催され、各企業の協賛金も頂き地区をあげての大会になります。集落対抗の数多くのプログラムが用意されていますが、フィナーレは小学生から一般がバトンを繋ぐ人生リレーです。集落ごとに色分けされた鉢巻をして懸命に走る姿に会場の参加者は声の限りを上げて応援します。



【た】 鷹の端(たかのは)は殿様の鷹狩で遊んだ場所

 鷹の端(たかのは)とは栂野町の西の端の場所で、江戸時代の宝永年間に殿様が鷹で狩りをする所として定められました。鳥見奉行という役人によって管理しており、竹や木の伐採は禁止されていました。午前10時までは人や馬の往来まで禁止されていたそうです。現在でも、稲津橋の上流側の河川敷は自然に生えた木々が多く、足羽川の水面には数多くのカモなどの渡り鳥が羽を休め休憩する場所になっています。


   
【ち】 亭(ちん)の水 目の病気に 効くという

 高尾町の山中に「亭の水」とよばれる清水があります。朝倉時代に医学に通じた谷野一栢がここの高尾寺で医学書に携わったことは知られていますが、この亭の水を用いて薬を調合したと地元では伝わっています。今でも休日にこの水を汲みに来てコーヒーをたてたり米を焚いたりする人がいるようです。



【つ】 築田多吉 家庭の医学書 今もベストセラー

 戦前の家庭には「赤本」と言われた家庭の医学書が必ず置いてありました。正式名称は「家庭における実際的な看護の秘訣」という名で、編集者は酒生村の荒木新保出身の築田多吉という人でした。この本は大正14年に発刊され、1000万部を売り上げる超ベストセラーになりました。現代に数多く発刊されている家庭の医学書の基礎となった書籍だと言われています。



【て】 天狗が住むという どんぐりの木 稲津にあり

 稲津町の塚田さん宅敷地の北東の角に、樹齢250年を超える古いドングリの木があります。この木には昔から天狗が住むという言い伝えがあります。太い幹の木肌を眺めていると、本当に天狗が住んでいるように思えるから不思議です。近頃は、「ととろ」が住んでいるという噂もあるとか。



【と】 灯火の 行列の先に 遺跡まつり

 酒生の遺跡まつりでは、初回から主に篠尾の廃寺跡にて点火式を行っています。古代の舞錐(まいぎり)式で点火された酒生の火は行灯に入れられ、古代の衣装をまとった子供達や大人の灯火行列によって主会場である酒生小学校グラウンドまで運び入れます。太陽が沈んで薄暗くなった中、厳かに行灯を運ぶ灯火行列は酒生の遺跡まつりでしか見られないものであり、大切な見どころとなっています。



【な】 夏祭り キラリン節で 盆踊り

 キラリン節は10年程前、成願寺の桜川幸夫さんを中心とした酒生青年団OB会が制作した、酒生の名物を歌詞に読み込んだ民謡です。夏の遺跡まつりでは、イッチョライ節などの曲の他このキラリン節が流され、地元の民謡団体がその踊りを披露しています。地区の皆さんもぜひ覚えてもらうと良いですね。



【に】 日中友好の先駆者 橋川時雄先生 篠尾の人

 篠尾町出身の橋川時雄さんは、中国文学者で戦前の日中友好に寄与しました。1894年生まれで福井師範学校を卒業後、小学校教諭を経て中国へ渡り、新聞記者などを経て終戦後まで国策の「東方文化事業総委員会」に勤務しました。戦後は京都女子大、大阪市立大、二松学舎大などの教授を歴任され、1982年に亡くなられました。酒生公民館には橋川先生やその子弟に関係する書物が集められた橋川時雄文庫があります。



【ぬ】 布目瓦 奈良時代の 寺の屋根

 布目瓦とは奈良時代から平安時代にかけて用いられた屋根瓦です。円筒あるいは凸面の台の上に布をかぶせその上に粘土を張り付け、外から叩いて作ったため布目が付いています。篠尾町に立っていた五重の塔にもこの布目瓦が使われており、搭の周りからは数多く見つかっています。余談ですが、奈良県の明日香村を散策したときに、村の畑の周辺にこの布目瓦がごろごろと転がっているのを見たことがあります。



【ね】 願いは一つ 地区の団結 酒生の火

 酒生の遺跡まつりで灯された酒生の火は、灯火行列によって祭り会場まで運ばれますが、この行列を構成するのが酒生の各集落の方々です。平成30年は栂野町と稲津町の子ども達と大人が、令和1年は荒木新保町と荒木町の人達によって運ばれました。礎石後で点火された「酒生の火」が出来るだけ多くの人達によって会場まで運ばれます。酒生の火には、当地区に誇りを持ち、酒生の未来に夢を持って欲しいとの願いが込められています。



【の】 登り口 波着寺と刻まれた 鳥居あり

 成願寺山の中腹、標高214メートルの中腹に、平安時代に5間×5間の広さの波着寺というお寺がありました。後に永平寺を開いた道元禅師が越前に入ったときに訪れたと言われます。
 道元禅師の弟子のひとりだった酒生の稲津保生れの稲津太郎(義介禅師)は、13歳で波着寺に出家し、師が去ったあと永平寺の3世として布教に活躍し、中興の祖として知られています。
 戦国時代に金沢の前田利家公がこの波着寺観音を厚く信奉し、1584年に金沢城主になるや否や波着寺を酒生地区から金沢の石引町に移転しました。現在でも寺の活動は営まれています。



【は】 八郎山 新しい街 篠尾台

 平成17年に、成願寺町の八郎山の麓に篠尾台の自治会が生まれました。酒生平野を見下ろすことが出来る高台にありその見晴らしは素晴らしく、現在では30数軒の住居があります。この場所は、北陸自動車道を建設した際に道路の土台として土砂を運び出したところで、眼鏡会社のグラウンドとして使われていた時期もありました。



【ひ】 彼岸花 真っ赤に咲いて 秋の訪れ

 彼岸花は九月のお彼岸の頃に赤い花を咲かせる多年草の植物です。花が咲くときは葉が無いのが特徴で、花が終わってから葉が出ますが、その葉も春には枯れてしまいます。植物全てにリコリンという毒が含まれるため、そのまま口にすることは出来ません。この毒を利用して、人為的に田んぼの土手や畑の周辺に植えられ、モグラやネズミから土手や畑を守ったと言います。酒生地区内にも彼岸花が多くみられ、彼岸の時期には見事な花を咲かせています。



【ふ】 不動明 流れ着いた宿布で 動かない

 宿布町の一角に、高さが1メートルほどの笏谷(しゃくだに)石の不動明王が祀られています。明治34年、依頼主によって製作された不動明王を輸送中、この宿布で足羽川に水没してしまったそうです。後に村人によって引き上げられましたが、不動明王がここに置いてくれと言って動かなくなったと言います。それ以来、宿布町に祀られているそうです。酒生に現存する貴重な不動明王ですから、皆さんも一度は訪れて見てはいかがでしょうか。



【へ】 平成3年 高尾第一の 誕生日

 天神山の一部を削って高尾町と篠尾町にまたがった住宅地が整備されました。国道に近く、周囲を山々に囲まれ南方に足羽川を望む自然豊かな住宅地は人気を呼び、あっという間に区画が埋まっていきました。平成3年には高尾第一という自治会が発足し、令和元年現在では戸数が170を超える大所帯に成長しました。小学校へ通う子供たちの数も多く、酒生地区の体育祭ではいつも素晴らしい成績を納めています。


 
【ほ】 ホタル舞う 酒生の水は 甘いぞ

 ホタルが餌としているのがカワニナという淡水の巻貝です。このカワニナが住めるのは水がきれいで石灰岩層があり、日当たりが良く珪藻類の植物性プランクトンが豊富な場所だそうです。一乗谷や酒生など山から流れ出る水が豊富な場所では、カワニナが多くみられ、毎年6月中旬から下旬にかけて、沢山のゲンジボタルが飛ぶ姿を楽しむことができます。



【ま】 前波九郎兵衛 前波に住んだ 朝倉家の家臣

 前波吉継は朝倉家の家臣前波景定の次男として生まれ、通称を九郎兵衛と言いました。1572年に織田信長の小谷城攻めのとき朝倉義景に従い近江へ出兵しましたが、日中堂々と信長の陣に入って降伏しました。翌年の一乗谷攻めでは信長の道案内をしました。
 朝倉氏滅亡後は信長から越前の守護代をあずかり、越前攻めの本陣であった越前市の龍門寺城を居城としました。その後、桂田長俊と改名するも失明、同じ時期に寝返った富田長繁にねたまれ殺害されてしまったそうです。前波氏の屋敷跡は、朝倉氏の住む一乗谷方面を見下ろせる宿布の春日神社付近と考えられています。



【み】 水面(みなも)には カモがのんびり 篠尾のため池

 篠尾町には長者が池と呼ばれる長方形のため池があります。何処から見ても四隅の一つが見えない池で「隅かくしの池」とも呼ばれています。日照りが続いて水田の水が足りないときはこのため池の水を水田に利用しています。普段は、カモなどの渡り鳥の貴重な休憩場所となっています。
 池の名として伝わる長者とは左近長者のことで、東大寺正倉院の古文書にも出てくる生江一族と見られています。飛鳥から奈良時代にかけて、足羽郡を中心に勢力をもっていた一族で、東大寺とのつながりも深く、左近(酒生)用水を整備し福井市東部の水田整備に尽力しました。篠尾廃寺の五重塔建設にもこの生江一族が関わったと考えられています。



【む】 昔から 黄金の稲穂 米どころ

 酒生地区は足羽川の恵みを多く得ています。古くは左近長者(生江東人)が酒生用水を整備して、現在の酒生地区、岡保地区、和田地区で安定的に米作りが出来る環境を作り上げました。また、作付面積が日本一のコシヒカリの誕生にあたって、隣の岡保地区にある福井県農業試験場が大きな役割を果たしました。春の作付けが終わった後の田は、一面大きな湖のようになり、秋には酒生地区一帯が黄金の稲穂におおわれます。



【め】 めだかにふな 元気に泳ぐ ビオトープ

 平成13年、水土里ネット足羽川堰堤連合が、酒生小学校の酒生用水沿いに第一号のビオトープを整備ました。その名を「酒生わいわいトープ」と言い、その後、8面のビオトープと3か所の魚道などを整備したそうです。小学校のビオトープでは、四季を通じて近年見られなくなった魚や昆虫などが群れ遊び、子供たちの良き環境教育の素材になっています。



【も】 餅つきは 俺たちに任せろ 酒生工務店

 福井市の呼びかけにより、酒生では男女20名ほどの青年グループ「酒生工務店」が生まれました。体育祭、遺跡まつり、生き生き文化祭などの地区行事への協力はもちろんの事、独自が企画する子供達との餅つき大会や、おめでとう20歳パーティなど活発に活動しています。




【や】 薬師如来 高尾の神社に 鎮座する

 高尾町の薬師神社には小名彦命行基の作と伝えられる薬師如来立像が祀られています。高さ1メートル9センチの桂の一木造りで、細かく切り付けられた螺髪(らほつ)や極端に浅い刻みの目鼻立ちなど、平安末期か鎌倉初期に造られた仏像の特徴を持っていると言われています。酒生に住んでいても実際にこの仏像を見た人はそれほど多くないはずです。酒生の宝であるこの薬師如来立像に一度はお目にかかりたいものですね。



【ゆ】 弓の名手 小国源兵衛 稲津の人

 建暦2年(1212)の正月に、源の実朝が鎌倉幕府の御弓場始めの儀式に、弓の名人を10人集めました。小国源兵衛(頼継)は一番手で将軍の前で弓を放ちましたが、5本とも的のど真ん中を射抜いたそうです。実朝は感心し、その場で越前国の稲津の地頭職を任命したと「吾妻鏡」という文書に書かれているそうです。邸宅跡は上稲津の52字にあり、御屋敷という字名や大門先とか馬場という字が残っています。



【よ】 養生小学校 篠尾にあった小学校

 酒生地区には成願寺町に酒生小学校がありますが、このルーツは明治期に篠尾町の60字新溜にあった養生小学校です。明治末期に荒木新保町にあった日進小学校に併合され廃校となりました。現在の酒生小学校の来賓玄関には、当時の「養生小学校」の看板が保存、掲示されています。



【ら】 ランドセル 子供安全 見守り隊

 これからの時代を担う子供達。朝夕の小学校の登下校には明るい子供たちの話声が聞こえることでしょう。昔は、それぞれに自由に下校していた子供達ですが、昨今のクマ出没うや交通量の増加により、集落のボランティアの人たちによる見守り隊がその登下校を見守っています。雨の日も風の日も変わらず子供たちを見守れていることに、心から感謝したいと思います。



【り】 竜神の ねむりをさます 太鼓の響き

 篠尾町の北方の山林の谷間に竜神谷といわれる谷があります。急こう配の谷を登れば頂上付近に石の祠(ほこら)があります。祠の前には小さな池があり、水面は青く底が見えず竜が住んでいたと言われています。毎年7月17日には例祭が行われ、太鼓を打ち鳴らし山を登り、池や境内を掃除します。
 篠尾町の田んぼの三分の一は山からでる谷水によって養われており、日照りが続くと干ばつの被害も出ました。その時はここへ登り清掃してお神酒を供え、雨ごいをしたそうです。北野竜神太鼓の鬼面太鼓は、農民の姿が鬼に変身して太鼓を打ち、自然に対する信頼と感謝の気持ちを表しています。



【る】 ルンルンと 酒生のゆるキャラ さこんちゃん

 今から10年程前のゆるキャラブームの中、酒生地区遺跡まつりの広報部会が企画し、大一印刷のデザインで誕生したのが左近ちゃんです。5重の塔が建っていた飛鳥時代から奈良時代の衣装をまとった若い日の左近長者(生江東人)がモデルです。以後、遺跡まつりの広報活動や酒生地区の様々な行事のイメージキャラクターとして大活躍です。コミュニティバスの車体にも左近ちゃんやその家族が描かれており、酒生だけでなく地区外にもその存在をアピールしています。



【れ】 れんげ草 田んぼに春が 訪れる

 赤紫色のレンゲソウの花は綺麗なものですね。レンゲソウやクローバーの根には根粒菌と言って、空気中の窒素を植物に使えるように変化させる働きがあります。レンゲソウ畑自体が肥料の役目をしています。酒生地区の休耕田にはレンゲソウが栽培され、春になると地区の人達や国道を通る車の運転者たちの目を楽しませてくれています。



【ろ】 老人会 堤防に植えた桜が 満開に

 荒木新保地籍の足羽川堤防に30本ほどの桜が、春になると国道を通る人の目を楽しませています。これらの桜並木は、昭和49年に荒木新保町の老人クラブがクラブの発足記念として植樹したものです。40数年を経て立派な大木として育った桜並木、関わった人達は天国から温かく見守ってくれていることでしょう。桜の季節には桜の木の下でバーベキューなどをすれば思い出のひと時を過ごせるはずです。


【わ】 渡し船 今は天神橋で東郷へ

 足羽川には篠尾町と脇三ヶ町を結ぶ天神橋が掛けられています。この橋が架かる前、昭和30年代ぐらいまでは渡しの船がありました。篠尾町天神にお住いの吉村吉春さんは、若い時にこの渡し舟の船頭さんをしていました。この天神の渡しの場所は、武生方面から丸岡方面を繋ぐ朝倉街道の一部として、昔からとても重要な場所でした。また、篠尾町の子ども達はこの渡しの付近で川遊びをしたと言います。



【ん】 縄文の 土器を発掘 天神山

 天神山付近は山々の間を流れ下った足羽川が平野に出る所です。こういう場所は狩猟や採取する場所に適しており、昔から人が住み付いていました。天神山は古墳時代の遺跡が有名ですが、それ以前の狩猟生活をしていた縄文の時代から人が住み付いていました。天神山の遺跡からは、縄文時代中期(4500年前)から晩期(2500年前)までの特徴を持つ土器が見つかっており、約2000年もの長い間この天神で縄文の人達が生活を続けていたことが分かっています。

――おしまい――