メソポタミア文明と日本神話
メソポタミア文明は世界4大文明の一つで、中東のチグリス川とユーフラテス川に囲まれた肥沃な土地で紀元前3000年頃から栄えていました。シュメール人と呼ばれる人達が南部のウルやウルクで高度な都市国家を営んでいましたが、不思議なことに、どの部族にもルーツを持っていませんでした。突如現れたシュメール人は農耕技術、楔形文字、天文学、社会生活など現代にも繋がる高い文明を持ち、議会の二院制や裁判員制度、12進法や60進法は現代にも生きています。この頃は都市国家は周りに城壁をめぐらし、その中心には神殿がありました。上下水道が整備された城内で、人々は高い文明生活をしていたようです。ただ、この高度な文明は時を経るごとに次第に廃れていったとされています。
奈良時代の天武天皇が日本書紀を編纂させたましたが、日本神話の場面では、神たちが「高天ガ原」から降りてきた地を「葦原の中つ国」と呼んでいます。「高天ガ原」はイラン北部にあったとされる「タガマ」と「ハラン」がモデルであり、この「葦原」は当時の「アッシュール」と「ハラン」のこととされています。中は奥、津は港になるから、アッシュールとハランの奥の港の国という意味になり、ペルシャ湾沿いにあり貿易で栄えていた都市ウルがここに該当します。主にシュメール人やエラム人が主に住んでいました。ウルのUrは倭国の倭(わ)に音が似ています。
近年は日本書紀の中の日本創生の伝説部分は、紀元前のメソポタミアの民族移動の歴史を一部取り込んだという説があり、因幡の白兎の物語は、大国主がワニにだまされたウサギの話ですが、フルリ人の都市国家ウシャとワニとされるシュメール人との対立を描いているといわれます。