左近長者物語ー第5場面 酒生村での春祭り


 第5場面 酒生村での春祭り

ナレーション
 ここは、酒生村にて収穫を祈る春の祭礼が行われています。米や野菜を作ることは、この時代の最大の産業であり、大きな関心ごとでした。米作りを始める前に、神様に豊作を祈る春の祭礼は、大切な行事でありました。大領であった東人の参加の元、厳粛にそして、儀式のあとはにぎやかに春の例祭を楽しみました。

村人:今日は村の春祭りじゃ。この年の豊作を祈る春の祭礼は吾が村の大きな行事だ。粗相がないようにしなければ行かんのう。

村人:今日は、いつもの様に生江の東人様もお見えじゃ。良い春の例祭になりそうじゃ。

東人:この地は、生江川が育む豊かな地じゃ。この豊かな地に苗を植え、豊かな実りを得られるのも、村人みんなのお蔭じゃ。有り難いことだ。

村人:きょうは、東人様からお酒と肴をいただいています。皆が楽しみにしているお酒です。有難うございます。

東人:皆が喜ぶならうれしいことだ。それでは、私も一緒にお酒を飲もうかな。明日には会議で都に行かなければならないが、今日は特別な日じゃ。まあ良いだろう。

ナレーション
 大事な春の例祭は、大領を預かる東人にとっても大事な行事でした。村人と一緒に豊作を祈り、そのあとの酒を飲むのも、村人とのつながりを保つ大切なことでした。この日は、肴も美味しくてついお酒を飲みすぎたようです。東人に関する記録には、都での会議が予定されていたものの、春祭りで酒を飲みすぎて欠席したということが書かれているそうです。


暗転  東人の自宅にて


ナレーション
 ここは、何年か後の東人の自宅です。座敷で横になっているのは老いた東人です。最近体の調子が悪く、横になっているときが多くなりました。

家族:お父さん、体の調子はどうですか。

東人:ありがとうよ。若いときは何をしても元気で居られたのに、最近は少し動いてもこのとおりじゃ。歳は取りたくないもんじゃ。

家族:この間、都から呼び出しがありましたよ。なんでも、懸案の事項があるから、ぜひ着て欲しいということみたいでした。お父さんいけますか。

東人:元気なときは、都まで4日か5日あれば歩いていけたのに、この年になるととても駄目じゃ。電気で動く箱車があれば3時間ほどでいけるのだが、今は馬か歩きだ。とても、この年ではいけないよ。本当は、一番に駆けつけて、足羽郡のことや荘園のことをいろいろ頼みたいのだが、残念なことだ。

ナレーション
 高齢な東人にとっては、都まで出かけるのは、大変な重労働でした。東人が都の会議に病気に掛かって出られなかったという記録が残っています。
ところで、酒生の篠尾町には、「さこん長者」という長者様が昔住んでいたとい言い伝えがあります。そして、長者が池という名の溜め池も残されています。
 「さこん」という名は何処に由来があるのでしょう。

 9世紀の平安の時代、都の朝廷を警備する役に左近衛府(さこんえふ)と右近衛府(うこんえふ)がありました。仕事は、朝廷を警備し、儀式には行列を整え、天皇の出張に付いていく仕事です。また、生江氏の地元である天神山古墳には鉄の鎧(よろい)や、武具が発掘されていました。生江氏の祖先は戦いに長けた一族であったのでしょう。
 東人の子息か一族が、都に関係が深かった東人や知り合いの口利きでこの左近衛の仕事をしていた可能性があります。(証拠となる文献は残っていませんが。)当時、地方の郡司級やその子息が都で仕事をするには、東人ように事務方の仕事をするか、あるいは、天皇の警備しか選択肢がなかったと言います。
 そして、左近衛で働いた生江氏の一族が都から酒生へ戻ってきたときに、地元の人は敬意を持って左近衛(さこんえ)様、あるいは省略して左近(さこん)様と呼ぶようになりました。天神山は左近山と呼びましたし、生江氏が作った用水は左近用水と呼んでいました。左近用水の左近は、いつしか佐小、そして、酒生の字が当て字で使われ、明治時代に9つの集落をまとめて村が出来たとき、酒生用水から名をとって酒生村になったという説があります。

                                                                              ーおしまいー

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