酒生の歴史ー篠尾廃寺と生江氏



篠尾廃寺と生江氏

篠尾廃寺の背景
 それまで自然の中の神々を信じていた人々に、538年、朝鮮の百済国の聖明王により仏教が日本に伝えられました。それから50年後、蘇我馬子により大和の飛鳥に飛鳥寺が建立され、これが、日本での最初の寺院になるそうです。仏教には経典、僧尼、仏像、寺院、それを経済的に支える人々が必要だそうです。白鳳期(7世紀後半)になると、北陸など畿内以外にも仏教が広がり始めます。
 
 越前にも、この時期に寺院が建てられました。福井周辺では篠尾廃寺と三宅廃寺。丹生郡では深草廃寺、野々宮廃寺、大虫廃寺が建てられました。篠尾廃寺は、残された礎石の大きさ、瓦の出土範囲や量から、奈良の法隆寺に匹敵すると言われています。丹生郡の廃寺は、瓦の文様などから滋賀県の近江に近い関係にあり、篠尾廃寺の場合は山城の国(京都府の南半分)と関係が深いらしいのです。同じ越前でも足羽郡と丹生郡とは建築職人同士のやり取りが無く独立傾向にあったそうです。

篠尾廃寺を建立したのは誰なのか
 まず第1として、篠尾廃寺が2世紀余りにわたって古墳が作られ続けた酒生古墳群の真ん中に存在しているということです。御廟(ごべ)古墳などは丘陵の南斜面に建てられ古墳終末期の特長を持ちます。7世紀前半には天神山10号墳が造られますが、その後、古墳の造営が中央から規制され、その代わりとして氏寺を建立した可能性が高いということです。

 2番目としては、生江一族がこの足羽郡の有力な豪族であったことです。生江の東人は先に都で造東大寺司の史生(文書事務を行う役人)を務めました。そして、東大寺が越前に荘園を持つにあたって大きな役割を果たしました。帰郷して足羽郡の大領(責任者のトップ)になり、坂井郡の桑原荘の経営にも関わりました。道守の荘では、自ら開墾した墾田100町を東大寺に寄進しています。

 さらには、大領には東人の他に、生江臣安麻呂、生江臣金弓、少領には生江臣国立、郡目代には生江臣長浜、生江臣息嶋と生江一族の名が連なります。これらのことから、生江一族が足羽郡の有力な豪族であったことが分かります。

 3番目としては、篠尾廃寺では、8世紀後半に新たな瓦が葺き替えられています。量的には創建時に匹敵する量であり、多額の経費が掛かっています。他の丹生郡の廃寺はどれも維持が出来なくて寺を閉じたのに対して、篠尾廃寺はそれが出来たと言います。奈良時代の足羽郡にこれだけの建物の造営・維持ができたのは生江氏以外には考えられないとのことです。




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