友人と和歌山  2018.10




   友人と奈良、和歌山

(前日)
前日21時に自宅を出発。賤ヶ岳SAにて1泊するが一晩中雨降り。4時や5時に眠気眼で出発するよりも、前日発の方が気分的に楽という考え方だ。オマケに高速の深夜割も利用可能だし。

(1日目)
 8時過ぎには友人宅近くに到着する。町内の道が狭いため量販店近くで待ち合わせ。久しぶりに会う友人は奥さんの軽自動車に乗ってきた。何年経てども若いときと変わらぬ印象だ。
 40年ほど前に発見された明日香村の高松塚古墳、その壁画は当時話題になったものだ。まだ現地を見たことが無かったため、友人の道案内で向かうことになった。その近くにはキトラ古墳があり、こちらも壁画や天井の天体画が有名だ。ともに、同村の丘陵地にあり、文武天皇稜のすぐ近くになる。高松塚古墳は発見から年数がたっており、見学施設もそれなりに老朽化していた。当然ながら展示は壁画のレプリカである。それに比べれば近年開館したキトラ古墳の展示施設は、国の予算がふんだんに使われ立派な専用の博物館といった趣のものであった。共に大和朝廷初期のころの時代背景が分かる素晴らしい古墳遺跡であった。どちらも古墳管理には多額の経費が掛かっているらしく、綺麗な公園のようであった。
 友人は最近水彩画をたしなんでいるという。この時期に展示会を開いているというので見に行く。飛鳥駅近くの古民家に、一緒に学んでいるグループの作品と共に3点ほど展示されていた。どれも丁寧に描かれており、学生時代には思いもしなかった才能を見た思いだ。多くの作品は、のどかな明日香村の風景を描いており、ここで絵を描けること自体羨ましく思った次第だ。
 

 昼は、道沿いで見つけた台湾料理の店で食事を摂った。店の表構えはくたびれた雰囲気があったが、出てきた料理は圧倒的なものであった。大きな唐揚げ、酢豚に似た炒め物、豚骨のラーメン、中華の漬物と白いご飯が付いて、値段は980円であった。とても食べきれる量でなく、唐揚げと炒め物はパックに入れて夜の酒の肴にした。店員さんや料理人は台湾の人なのだろうか、本格的な中華味であり二人で舌鼓を打った。この辺にはこのような台湾料理の店が多く、友人もよく行くという。12月に台湾に行く予定なので、良い予行練習になった。
 

 時計を見れば、高野山に行くだけの時間がある。この日のうちに高野山に行ければ、翌日は和歌山をゆっくり見学できる。早速、南海電車の橋本駅に向かう。ここは、高野山への電車の乗り換え口であり、駐車場もあるようだった。駅前のコインパーキングに車を入れて、構内へ入る。ここはJRと南海電車が双方乗り入れており、高野山へは15分間隔ごとに電車がある。各駅停車と特急が交互に走っているが、ケーブルカーと高野山でのバス券がセットになった特急列車券を購入した。我が非力なキャンパーで標高800mの高野山まで登るのはきつい。登れても、下りのブレーキ過熱が心配だ。様々なリスクを考えれば、電車代の2500円はリーズナブルだろう。それに、狭い山間を走る電車やケーブルカーを楽しめるから、一石二鳥だ。
 電車に乗れば、高齢者夫婦の他、リュックを背負った外人さんが目立つ。高野山は世界遺産に指定されていることもあり、人気の場所のようだ。ケーブルカーは本格的なもので、30度、の傾斜を800mほど上るものだ。最初乗り込んだときは、電車とホームの角度が合わず目がくらくらした。まるでアルプスの登山列車のようで、これはこれで面白い経験だった。

 高野山駅を降りれば、乗り継ぎのバスが待っている。当初はバスなど思ってもいなかったが、距離が結構あり今回のような時間が無いときにはありがたい。キャンパーから電車、ケーブルカーからバスと次から次へと乗り換えるのも、子供の遠足の様で面白い。
 金剛峯寺前でバスを降り、寺を見学する。しっかりと金のかかった荘厳なつくりは、見る人を圧倒する。屋根の上には防火上の水桶とそこへ登る梯子が置かれている。どこまで効果的かは不明だが、予防意識を高めるには良いだろう。中に入ってゆっくり説明を聞きたかったが、今回は止めて、外だけの見学になった。

 奥の院までの本通りには、昭和初期の時代を思わせる古い作りの店が並ぶ。ゴマ豆腐の店、薬屋などがそれなりに繁盛していることに驚く。友人はお土産に胡麻豆腐を買い求めていた。観光地化しているはずなのに、宗教の街ゆえか世界遺産ゆえか手垢がついていない。ほどなくして、奥の院への参道に入る。高野山は、ある時代に死後の再生を願う武将たちが競ってここへお墓を建てたという。奥の院まで暗い杉の林の中に全国の有名武将のお墓が延々と続く。中に江崎グリコの社長墓を見つけたが、今でもここは墓地として生きているようだ。しばらく歩き、ほどなくしてバスにて乗り駅まで戻った。

 この日の宿泊は、紀ノ川万葉の里の道の駅を予定。紀ノ川沿いにある落ち着いた道の駅である。そこまでの道中のコンビニで翌日の朝食を仕入れ、近くの蕎麦屋さんで夕食となった。店に構えは悪くなかったが、一台の車も停まっていなかったのが気になった。店内にはいって、当たり外れがなさそうな鍋焼きうどんを注文。昔話に花を咲かせながら、エビ天とうどんを頂いた。窓越しには色鯉が何匹も泳いでいた。味は、深みも色気もなくまあ中の下あたりか。通りがかりの客が1回入るだけの店のようであった。
 道の駅では、キャンパーらしく車内で宴会となった。昼の唐揚げや炒め物を出して、ウイスキーをちびりちびりと味わった。昔の話や体調の話にあっという間に就寝時間となった。

(2日目)
 前日の夕食の時に、和歌山の満幸商店が話題に上がった。名物のシラス丼の店が休みで入れなかったので残念だったという話であった。それではと、朝一番に和歌山の海岸へ向かう。昼の時間には早いが、朝早く行けば空いているだろうとの目論みだった。まずは日南市の海岸に向かう。途中、果物県和歌山らしい蜜柑や柿の畑が延々と広がり、福井や奈良では見られない風景である。紀伊水道を臨む日南の海岸は天気も幸いして明るく気持ちが良かったが、特に見学するところもないので、それではと本命の加太の港に向かった。途中和歌山市内を通るが、さすがに県庁所在地であり車の数が多い。加太の港に着けばいたって普通の漁港。一番奥に淡嶋神社があり、その参道の近くにお目当ての満幸商店がある。しかし、神社やお店の駐車場はなく、どこも有料ばかり。キャンパーは車体が大きいのでどこへでも手軽に置けない。港の駐車場に700円払って満幸商店へ入る。
 
 3軒並んでいるお土産店の真ん中が満幸商店だ。中へ入れば、何と表現したらよいのだろうか。昭和的と言おうか手作り的と言おうか、対応するおばちゃんも含め面白く好感が持てるものであった。名物は大盛りのシラス丼と魚介類を一晩煮込んだというわさびスープ。ともに、他では味わえない味であった。
食後は隣接する淡嶋神社に参拝。ここは人形供養の神社らしく、拝殿の軒先には所狭しと人形が並ぶ。数万円はするような高額な人形が惜しげもなく並びその姿は壮観だ。招き猫やカエルの置物も置かれ境内は賑やかなものだ。

 ぶらりぶらりと漁港を見学後、市中央部の和歌山城へ向かう。ここは、紀州徳川家56万石の居城であり、その規模は大きかったようだが今は県庁や美術館、博物館に場所を譲り、当時の4分の1だという。天守閣は幾度か火災に遭い、現在の物は昭和33年に鉄筋コンクリートで再建されている。
入場料を払って入れば、1,2階は資料館、3階部分は展望台になっており、東は奈良五條方面、西は紀伊水道、南は日南市方面、北は大阪に紀ノ川と四方を見渡すことが出来る。当時の交通の要所だったことがうかがい知れる。現在の和歌山市は35万人が住む中核都市として活気にあふれた街になっている。
白浜や串本まで足を延ばす方法もあったが、今回はここから帰路に向かう。途中、丹生都比売神社の看板を見かける。後で調べれば、高野山と深い関係のある神社であり歴史は深いらしい。シラス丼の昼飯が早かったので二人とも空腹気味、早めに晩飯を探す。ところが、国道24号は和歌山と奈良を結ぶ主要道路だったが、京奈和道が出来てから寂れてきたようだ。食事処を幾つも通り過ぎるが、まともにやっている様子が無い。唯一見つけたのが単品のおかずを選ぶビュフェ形式の店。サバの煮つけ、肉じゃが、豆腐と白ご飯を選んだが、味は少々濃いもののまるで家庭料理のようだ。これはこれで良しとして、道の駅の九度山に向かう。九度山は真田親子が幽閉されたところで有名だ。

(3日目)
 宿泊した道の駅は九度山見学の駐車場ともなっており売店などもある。駐車場には同じようなキャンパーが数台停まっており、静かでバランスの良い道の駅であった。
 最終日は、早朝に山中にある丹生都比売神社へ向かい、余った時間で九度山の記念館などを周遊する計画を立てた。7時半過ぎに道の駅を出て、比売神社に向かう。2,3キロ和歌山方面に戻ると小さな看板があったため、そこから入る。すぐ山の中の急な上り坂になり、道路がいつの間にか狭くなっている。おかしいなと思いながらも、Uターンする場所もなくずんずん進む。ナビを見れば道があるのでこれも良いかと進めば、標高はかなり高くなり眼下に集落や田圃が見えている。山中をしばらく走ると、予想もしない広い場所へ出た。道中からは想像もできない普通の田園や村が広がる場所で天野地区というらしい。すぐに目的の比売神社を見つけることが出来た。
  朝早いのに駐車場には車が数台。中には長崎から来ている車もある。庭の池にかかる錦帯橋のような太鼓橋を通って境内に入る。しっかりとした作りの神社はとても奥深い山中にある神社とは思えない。「丹生」とはけがれを避けるとされた水銀を産出した場所のことである。丹生都比売神を始めとして4つの神を祀っているがそれぞれの本殿が立ち並ぶ姿は圧巻である。全国に180社ほどある丹生神社の総本山であり、空海が真言密教の地を求めていた時にこの神社が高野山へ導いたとされる。今でもこの神社と高野山の関係は深いという。
 古く由緒深い神社は霊的なものが強いのか、後ろから朝日が差し込む本殿にお参りした際、自分が80か90まで生きて行けるような直観を得たのは嬉しい。帰りは高野山へ通じる国道480号線を下ったが、往の時の道とは大違い。2車線が確保される広い道は観光バスが十分通れる幅を持っていた。
 瞬く間に昨日宿泊した九度山の道の駅に到着。残った時間を利用して、真田親子が幽閉された九度山地区の見学だ。

 真田幸村は信濃国上田藩の城主であり、徳川軍を2度も打ち負かした優秀な武将である。しかしながら関ケ原の戦いにて豊臣軍が破れ、命は取られなかったものの高野山麓の九度山へ幽閉された。14年間の幽閉後、大坂冬の陣で真田丸にて徳川軍を圧倒し世間を驚かせた。ただ、お濠を埋められた夏の陣ではなす術もなく敗れ、息子の大助と共に切腹させられた武将である。
  九度山には真田ゆかりの建物や資料館があり、見学できるようになっている。道の駅の駐車場へ車を置き歩いて九度山地区へ入る。都合で裏道を通ったが、きわめて道が狭く軽自動車がやっと通る程度で、昔から道幅がそのまま使われているようだ。屋敷跡の真田庵も見ものだが、今回は全貌が分かる真田ミュージーアムを見学する。この施設は建設されてまだ日が浅く、展示方法も現代風である。入り口では、深紅の鎧兜を身に付けた真田昌幸、幸村、大助の等身大人形が迎えてくれる。写真撮影の格好の場所だ。順路に沿って施設内を周れば、生い立ちから九度山の生活、大阪城での戦いまでが丁寧に展示され、ちょっとした真田通になれそうだ。

 この日は朝早くから動いたので、10時前には丹生都比売神社と九度山地区の双方を見終えることが出来た。九度山の道の駅でお土産のミカンや柿の葉寿司を買い求め、紀ノ川のアユの塩焼きを二人で食べる。落ち鮎は脂がのって美味しいものであり、九度山の良い思い出になった。
 その後、京奈和道を使って移動、11時半には橿原のイオンモールにて友人と食事を摂り今回の旅行の締めとした。二日半ほどの日程の旅行であったが、奈良から和歌山にかけて数多くの見どころを訪れることが出来た。何より本来の目的である旧交を温めることもでき、貴重な良い時間を過ごせたと思っている。



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