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遊子(ゆうし)集落の紹介

先祖
京都府丹後地方から移り住んで来たとされる(三方町歴史より)戸数14戸の集落です。 遊子:旅人
田邊家(生家)の先祖、弥左衛門(寛永3年[1626年]に亡くなる)から父(藤一)で18代目。 過去帳の記載より。 屋号は「大良」(だいら)
仏教の宗派は「曹洞宗」、本山は「永平寺」。

村社の「廣峯神社」は兵庫県姫路市の廣峯神社や京都の八坂神社とご縁があるようです。

言い伝え 景色
遊子集落はリアス式海岸の常神半島のつけねに位置している。
家の直ぐ近くが波打ち際であったのが、ある時代に湾内に砂浜ができ始め、そこに村人が土のうなどを積んだため、
波の働きで砂浜が誕生し、砂浜の内側に水田や畑ができたと言い伝えられています。
砂浜には塩田があって、江戸時代にはその塩を若狭藩への年貢として納めていたようです。
となり集落の「塩坂越」(しゃくし)という名前の由来が、この「塩」にあるとうかがっています。

昔、津波が押し寄せて、常神半島の北端にある「くるみ村」(うしろ集落)が被害を受けたとの言い伝えがあります。
そこへは村の子供数人で、何回か峰づたいに歩いて行ったことがあります。 今は無人です。
天正地震(1586年)や、その後の地震による津波と考えられます。
村の言い伝えでは、夜に魚釣りをしたらよく魚が釣れたそうで、口笛のような音がしてから津波が
押し寄せたとのことです。
お寺は、村の中央にある山復を利用し、城の石垣のように大きな石で、高さ数メートル以上に積まれた場所に建立されています。
お寺を津波からまもる為に、石垣を積んだ高所に建てたと考えられます。
お寺の東側の斜面では、土を崩したときに、川か浜にある石で囲ったお墓(町の教育委員会による)が発見され、錆びた鉄や素焼きの壺などがでました。
遊子の砂浜から海を眺めると、前に久須夜ケ岳(おおやま)があり、海が荒れると手前にある「沖の石」から上がる波しぶきが見えます。
晴れて空気が澄んでいる日は、久須夜ケ岳の右に青葉山(若狭富士)が、さらに右に「経ケ岬」がかすかに見えます。


遊子 集落の行事

大晦日
12月31日は、青年団員が集落にある廣峯神社の社で一泊します。
年が明けた1月1日の早朝、皆で「しび(鮪)や、かつお(鰹)や」と大声を出しながら家に戻ります。
鮪や鰹が今年も獲れるようにとの願いごとだと思います。


狐狩り(きつねがり)
毎年2月14日、小学1年から6年生の男子が6年生を先頭に1列になり、遊子集落の廣峰神社より「きつねがり」の歌を歌いながら、村の家々(集落のお寺も)をまわります。
小学6年生が先頭と再交尾につき、左肩に棒を担ぎ、その棒を右手に持った木槌で叩きながら歌い、家を1周してから、家の玄関でお年玉をいただきます。

棒と木槌は、毎年、親に作ってもらいます。
出発の前に、一番風呂に入り身を清めます。
頭に手ぬぐいをきりりとしめます。

「歌の台詞」
今年の年は めでたい年で 門(かど)には門松 背戸(せど)には背戸松 おつまる よによに
寺山(てらやま)の狐と大良山(だいらやま)の狐が なにをなにをするわいな 狐狩りをするわいな
狐狩りのつつは ななおけ やおけ やおけにたらんとって 狐がある がある がある
(以上 繰り返し)
子供達が健やかで良い子に育つようにとのいわれがあるそうです。


8月13日  施餓鬼(せがき)  村のお寺にて、旗などで飾りつけをした三界碑に水・野菜をふりかけます。
8月16日  精篭流し(しょうろうながし) 8月13日に使用した旗などで飾り付け、供え物を入れた小船を、船で沖へ運んで海に流します。
お盆に来ていた先祖の魂を、沖まで送るという行事です。

宮参り
昔は、伊勢神宮、愛宕神社(京都市)、金刀比羅宮(香川県)へ、毎年集落の代表者による、お参り(代参)をしていました。