オリンピック奮戦記

9月10日夜、車で京都の息子のところで泊まる.翌朝8;40に福井放送の元気一番にインタビュゥを受ける.

グアム空港にて3時間ほど在ったので、空港の外にでて歩いてみた.

バンコクのように蒸し暑いので草木がよく茂っている.

横井さんらがジャングルに隠れていたのも頷ける、しかし大変な思いをした事だろう.

ケアンズに夜着いたのでそのまま空港で仮眠を取る.耳栓や寝袋があるのでよく眠れた.

グアム以上に暑い町である.翌日キャンベラまで飛ぶが、どうしてもシドニーまでは辿りつけない.

キャンベラは寒いのでホテルに泊まりバスでシドニーへ急ぐが、初日の会合には間に会わない.

パスを入手して、ホッケーセンターに着いた時は3時頃だったと思う.

メデイア用のアクレデイテイション.センターから歩いたりしたせいで足を痛めた.

チーフは賢そうな女性であり、とても綺麗な声を人で、皆優しそうな人達である.服を配給する

所へそのまま移動して帰った.安宿をなんとか見つけて到着した頃は大分暗くなっていた.

p5;30頃にはもう真っ暗になる.

買い物をして、ご飯を炊いたり、オカズを買ったりして、遅くなったがすぐ寝られた.

 初日は8;30から始まったが、オリンピック駅からメデイア バスを待っていたら三十分遅れてしまった.

 宿舎が無いと言ったので心配していたと気遣ってくれた.

暫く朝の朝礼で話が有ったが、分からなかった. 私には個人的に話をすると言った.

同僚に色々教えてもらった.皆がばりばりの女学生に見えた.

確かに、警備のボランテイアや案内係りのボランテイアとは明らかに皆優秀に見えた.

 コピーを取ったり,ファックスを打ったり,記録を教えたり,日程を教えたりするのが、主な仕事であった.

パソコンを良く勉強したのが、今は生きたように思った.情報は殆どパソコンから得るからである.

他の競技の結果も自由に取り出せたので、日本チームのメダルの獲得状況を逐次知る事が出来たので

とても嬉かった. 後日野球とかを見に行く時には全ての選手の情報を予め入手出来たので、とても助かった、

 卓球の予選が始まるを日本チームの取材にも記者が来た.

中には東北学院大学の教授で大リーグの佐々木を教えたという解説者が、色々バッチをくれた.

共同通信,時事プレス,NHK, AP共同,....福井新聞社も来ているよと言っていた.

解説席に元世界チャンピオンの前原さん,伊藤さん,達が来ていた.

練習時間に日本チャンピオンの松下弘治が練習していたので、記者席から”日本がんば”と声を掛けたら、

有難うと丁寧に答えてくれた.

小山チレさんはやはり年を取って切れが無いように見えた.

しかしながら,20年のブランクは大きく,私には捕れる玉は無いのではと思うほど、玉は早いし,良く切れていた.

サーブも殆どが投げ上げサーブでよく切れているように見えた。

スエーデンや、スイスなどヨーロッパ勢も腕を挙げて来ているのが、感じられた。

 一度スイスでチャンピオンを手合わせをした時は何とかゲームが出来たように思ったが、

世界のレベルは相当上がっているようだ。

日本チームは皆2回戦で破れたので、記者達もセンターへ出入りしなくなった。

 試合が進むと記者達の数が減ってきたので、折り紙を教えたりマッサージをしたあげたら、とても喜ばれた.

相棒が毎日変わるので、毎日折ってあげたり、折り方のメモを書いてあげたりした。

会場に歓迎の絵をオペラハウスやハーバーブリッジの背景に描いて張り出したら、とても誉められた.

3日目の昼休みに日本野球チームの練習を見に行って見た。

始めはゲートで断られたが、役員室に頼んだら、

”野球の人気は日本で支えられているので、是非見て行ってくれ”とパスを態々発行してくれたので、

係員ともども感激した。中では松坂や、松中、中村、など有名な選手がパラパラと練習しているばかりで、

大久保、や川口などの解説者のすぐ近くで見ることが出来たので、とても思いでになった。 

結局日本チームの野球はこの時だけしか見れなかったので、よいタイミングだった。

あとで、キユーバ=南アフリカ戦、USA-韓国戦、を見に行った.

あとボクシング、バスケット、陸上、を見た。

後半は韓国のお家芸のテコンドーが今大会から採用され、卓球会場を片付けた後に催うされた。

 地元の女子選手が優勝し、おめでとうと言って、

握手をしたらボランテイアは禁止されているのだと後でいわれたが、君は良いよと笑ってくれた。 

その選手が次の日に45セントの切手になっていたので嬉しくなって買ってきた。

 やはり遠くに居ると日本選手の事が気になる、柔ちゃんの一本勝ちには

プレスセンターにいた記者達も一斉に歓声が上がったし、シドニー在住のきつそうな女通訳の目にも涙が浮かんでいた.

キューちゃんのゴールインには掛けつけられなかったが、

福井新聞の記者は感激して一遍に疲れが飛んでしまったと言われた. 

あまり日本人と接しなかったので、駅前で会った日本人に道を聞いたらシンクロの小谷さんに、

似ていたが、そうですと言った.意外に小さかった.

例によって、ピンを集めるのが流行っていた。今回は長野より長く滞在したので、50個程集まった.

ホッケー会場前で体操の笠松さんに会った.福井から来ましたと言ったらニッコリ笑った.

体操の綺麗なピンを交換してくれた.スタッフとピン2個とボランテイア帽子を交換した。

サングラスをピンとよく交換した。オリンピックピンは10ドルするので、サングラスよりもはるかに高い.

 後半になると身体も仕事も慣れたので、テントを買ってシドニー大学の庭で現地人のアボリジニーの隣に張った.

警官が見まわっていて安全であった。ケアンズでは禁止されていた.

何度かご飯も炊いたし、梅干や朝げスープも美味しかった.

25日に偶然会場で福井新聞記者に会った.幾日も探したらしかった。

写真をメイルで送ったのだろう次の日に記事になったようで、友達から連絡があった。

28日は遅出番勤務だったが、p8;30にお別れしバスでキャンベラへ向かった。

途中見えたオリンピック公園を何度も見送った.おそらく再び見る事は無いだろう.

バス停からキャンベラ空港まで、荷物カートも買ったし時間があったので歩いた.

途中日本人をホームステイしたという人が態々ユーターンしてまで送ってくれたのは嬉しかった。

多分その日本人はとても良い人だったものと思う.お別れにピンを2本くれた。 

オーストラリアの人は優しいし、勇気もあり、素晴らしい人達ばかりだった。

 私のフライトが無くなっていて、一日早くケアンズに到着した。何度も帰国便をリクエストしていたが、

どうしてもシドニーから直接のフライトが取れなかった.

もっとも私の切符は一機に一枚ぐらいのフリー券だから、やむをえなかったとは思う.

9/30はスカイダイビングに挑戦した.

2400mまで15分かけてプロペラ機で上がって、そこから、4分ほどでパラシュウトで下で待つバスに飛び降りた.

あまり「緊張は無く、眠くなってきた。”緊張するのは私で君は楽しめば良いよ”といわれた. 

始め2回転程しながら前向きに先生と繋がって飛び降りた、15秒ほどフリー落下は最も快適だった。

1200m辺りでパラシュウトを開くと2−3回転した。やや気持ち悪い、色々チェックをしているようだ。

その後はゆっくりと4分ほどで見事に定点に着地した。すぐ隣りに高圧線が走っているのが怖かった.

日本人が一番多く、シンガポール人、HK人、イギリス人、韓国人、...皆一様に素晴らしいとメモを残している。

 翌日は乗馬に挑戦した。

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