通幻禅師にまつわるエピソード

1、通幻禅師と梅干し
 
通幻禅師は亡くなって埋葬された母堂から出生されたせいか、独特の口臭があり、非常に気になさっておられました。あるとき、お師匠さまの峨山禅師にそのことをご相談したところ、「それなら、あなたは毎朝梅干しを食しなさい」と言われました。その通り実行すると、通幻禅師の口臭が消えたと伝えられます。当寺ではこの伝説を重んじ、梅干しを作ることが代々の住職の大切な仕事の一つとなっており、禅師没後600年経った現在も毎朝真前にお供えをいたしております。また、前日に供えた梅干しは、下げてきて朝食時に住職が美味しくいただいております。
左写真は本堂にある欄間で、弟子の了庵慧明禅師(小田原の大雄山最乗寺開祖)が膝まづいて通幻禅師に梅干しを差し上げている場面が彫刻されております。


2、白鬼女(しらきじょ)を救われた通幻禅師

 武生を流れる日野川は、その名の通り日の山から流れ出てくるのに由来するのですが、万葉集で大伴家持が詠んでいるように古来、叔羅川(しくらがわ)とか信露貴川(しろきがわ)、白鬼女川とも呼ばれていた川です。古い書物に次のような話が載っています。
ある日、日野川のほとりで通幻禅師が坐禅をされていると、風波がざわざわと起こり、やがて白衣姿の鬼女が目の前に現れました。そして禅師に「私は嫉妬のあまりこの川に身を投げて鬼と化し、80年以上もの間相手を怨み一族ことごとくとり殺しました。しかしその為に、私自身が苦しくて仕方がありません。どうか禅師の法力によって私を救って下さい」と訴えたのでした。それを聞いた禅師は仏戒を授け、心性無性の道理を示しました。すると鬼女は成仏し、喜んで消え去ったのでした。この故に、日野川を白鬼女川という。という内容の話です。
日野川が鯖江に入ると今も白鬼女橋という橋があり、昔は渡し場が橋のたもとにありました。橋の近くには樹齢数百年の老柳があり、ここから白鬼女が出没したと伝えられておりましたが、残念なことに枯れてしまい、近年切り倒されました。

3、通幻禅師に帰依した辰左衛門

 禅師が龍泉寺の開山として丹波の永澤寺から府中(武生)に向かう途上,若狭国熊川郷(福井県遠敷郡上中町熊川区)で宿をとられました。熊川郷は若狭鯖街道の拠点として、また宿場町として栄えたところです。ここを取り仕切っていたのが、辰左衛門という人物でした。辰左衛門は通幻禅師に出会って深く信仰心をおこし、禅師に帰依してそのまま府中までついてきました。そして龍泉寺門前に居を構え、禅師の片腕としてお寺の経営に物心両面から尽力したのでした。やがて、禅師が亡くなられると、その跡を追うように翌年、辰左衛門も亡くなりました。その後も、辰左衛門の子孫は出身地・熊川の姓を名乗り、龍泉寺名代として輪番住職の補佐をし、江戸時代になると本多公が龍泉寺を菩提所に定めた後は遠慮して龍泉寺檀家の立場を離れました。しかし、その後も「本多家名代」として明治時代に入るまで寺門の興隆に尽くしました。そして現在もご子孫が門前に住まわれております。この500年間にも及ぶ功績に報いるために、当寺第348世(独住25世)満岡慈舟和尚は特に大本山総持寺貫首・石川素童禅師に撰文を依頼して「熊川辰左衛門の碑」を建立しました。

4、うしろ向きに建つお墓(村国山の不見禅師)

通幻十哲の一人、不見明見(ふけんみょうけん)禅師のお墓はちょっと変わっております。それは、遺言によって自分の寺(村国山の興禅寺)にそっぽを向いて、うしろ向きに建てられていることです。では何処を向いているのかと申しますと、そこから3kmほど離れた龍泉寺に建つ通幻禅師のお墓の方を向いているのです。不見禅師は十哲の中でも特に師匠に対する孝心が深く、その為に死んだ後も師匠のお墓の方を向いて建っているということです。
その理由を考えますに、通幻禅師が亡くなられたとき不見禅師は遠く出雲の地(島根県)にいて師匠の死に目にも葬儀にも駆けつけることができませんでした。ですから、後に龍泉寺の近くに興禅寺を開き、死後も師匠のお墓を見守ろうとしたのも、あるいは死に目に会えなかったことと関係があるかもしれません。

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