地方分権と行政評価
 
1999年11月18日   国際交流会館第3会議室
 
 
はじめに
 7月8日に地方分権一括法が成立した。参議院の委員会に参考人として呼ばれたとき、一括法の中身は不十分だが、今後の取り組みに期待したいとの意見陳述を行った。たしかに長年の懸案事項であった機関委任事務の廃止は大きな成果だが、しかし、税財源の移譲を抜きにした地方分権はありえない。委員会では一括法は地方分権の第一段階に過ぎないと強調させて頂いた。しかし、実際には地方分権の前途が厳しいことも事実。
 分権委員会・税財源ワーキンググループ座長の東京大学の神野直彦氏と話しをする機会があったが、「地方団体からの支持がない」、「委員の多くは東京を中心に物事を考えている」、「税率を自由に決める権限を地方に」とか、「補助金を税に振り替えろ」といったことに地方の強い支持が見られない。「孤立して闘っている」という話しだった。地方がこうしたことを勝ち取るということをしていかない限り、真の地方分権の実現はなかなか難しい。
 機関委任事務が「自治事務」と「法定受託事務」に変わるが、地方財政に影響がないというわけではない。国庫負担金という形でこれまで国から地方に補助金が流れてきたが、自治事務となると国が負担する理屈がなくなってくる。法律では国と地方の負担区分が定められているが、それは機関委任事務だから国が負担することになっていたのである。国の財政状況をみると、今後徐々に補助金=いわゆる紐付き補助金の額が減ってくるということは十分に予想される。
 それでは、地方としてどうするかだが、「自治事務なのだから、やるもやらないも地方の自由だ」と国は言うだろう。しかし、地方としては完全に根付いている事務をやめることは難しく、今まで通り仕事はしていかなければならない可能性が大きい。ところが国からはお金が出てこない、こういった状況に追い込まれることがないとは言えない。
 財政構造改革が完了するまでは先送りされることになっているが、地方債の「許可」制が「協議」制に変わる。これで、地方は同意が得られなかった地方債でも自由に発行できるようになる。同意の得られたものは今まで通り公的資金を投入するが、同意の得られないものは地方が自ら資金を集めてこなければならなくなる。今までの許可制度の問題点を改善しようという表われではあるが、一方、高齢化社会が進むにしたがって貯蓄率が下がってくると、今までのような形で、公的資金を潤沢に集められなくなってしまう。それを先取りした形になっているのではないか。また、地方が自ら資金の貸出先を探してこなくてはいけなくなると、地方団体の格付けも進だろう。
 このように、分権一括法は地方の財政運営の自由度を高めるだけでなく、地方財政を厳しい状況にも置くことになる。これまでのような微調整では対応できなくなる。
 
T 地方財政支出の膨張図1
 1960年代:高度経済成長期:プラス・サムの社会
 1970年代:福祉国家の建設期:ゼロ・サムの社会
 1980年代前半:財政再建期
 1980年代後半:バブルによる膨張期
 1990年代:経済低迷期:マイナス・サムの社会
図1 地方財政の膨張
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 地方財政が膨張してきている。過去の地方行政を振り返る中で今後の評価の仕方が見つかるはずである。
 1960年代は高度経済成長期ということで、税の大幅な自然増収があり、新しい仕事に果実を振り向けることができた。役所に働く者には非常にいい時代であった。70年代に入り、第一次石油ショック以降、わが国の経済は安定性長期に入る。60年代をプラス・サム社会とするなら、70年代はゼロ・サム社会である。つまり、マージャンと同じで、誰かが浮けば誰かが沈む社会である。あるいは、公債費などの義務的経費でどんどんお金が使われてしまうので、悪くすれば、マイナス・サム社会になるかもしれない。どこかを増やすためには、それ以上に減らさなければならない部分が出てくるのがマイナス・サム社会である。このような社会で、新しい試みを行おうとすれば、誰かが痛みを負うことは避けられない。
 70年代を通じて、日本の社会は福祉国家の建設ということで行政の守備範囲を広げてきた。地方財政が絶対額で膨張していくのは当たり前であり、地方財政の膨張といった場合、それを支える国民経済に対して財政規模が大きくなっているかどうかが問題となる。図1は「国と地方の歳出純計の対GDP比率」を見たものだが、60年代は横ばいである。国民経済も大きくなっていたから、財政支出の対GDP比率は変わらなかった。ところが、70年代に入ると、この比率は急激に上がってきた。一つは経済基調が高度成長から安定成長に変わったためである。つまり、分母のGDPが大きく伸びない一方、財政支出が増えてきたことで比率が上昇したのである。
 しかし、70年代の比率上昇の原因はそれだけではない。一人当たりの地方歳出額も70年代に急激に上昇しているのである。70年代の最初のもくろみは、経済成長の果実を使って福祉をはじめ様々な行政サービスを拡充していくというものであった。73年は「福祉元年」と呼ばれ、老人医療費の支給制度ができたり、年金の物価スライドができたりした。こうして70年代に1人当たり財政支出が大きく伸びたのである。
 「ナショナル・ミニマム」という言葉が頻繁に使われだすのもこの時期である。国が「ナショナル・ミニマム」を設定すると、地方自治体はそれに上乗せをして、例えば、国が70歳以上の医療費を見るのなら、自治体は65歳以上にしよう、ということになった。国と地方の差の5歳部分は自治体の費用で賄われる。このように、「シビル・ミニマム」という言葉が出てきた。
 このミニマムが真のミニマムであればよいが、本当にミニマムかどうかが問題である。当時、「すぐやる課」ということで、自治体に電話すれば、すぐ飛んで来て、住民の要求に応える。住民の要求にことごとく応えることが“いい行政なんだ”ということでいろんなことやってきた。鳴き声のうるさい“食用ガエル釣り”とか、“猫の避妊手術”なども行政の守備範囲だとしてやってきた。第一次石油ショック以降、景気の低迷もあって、特に国の財政が悪くなった。国は1980年を財政再建元年と位置付け、どんどん財政削減をしてきた。その結果、1人当たり地方歳出額の伸びが緩くなる。隠れ借金やバブルによる税収増、国の負担を地方に肩代わりさせることでなどもあって、1990年度に赤字国債の発行をゼロにすることができるようになった。すると、再び国の財政の紐が緩み、国から地方への補助金が増加すると、1人あたりの地方歳出額も増加した。そして、バブル崩壊後の不況によって、財政がまた大変だということで伸びが止まる。このように景気に応じて財政支出を抑えたり、緩めたりの財政運営になっているのが現状である。
 行政改革が行われようとしているが、一番多いのは人件費のカットであり、事業の先送りである。「いまのところは何とか凌ごう」、「財政が良くなったときにもう事業を再開すればよい」という行革をやっている。地方行政として何をやらなければならないのか、という行革ではない。今後、構造的に地方財政が苦しくなっていく中で、これではやっていけない。
 地方財政の膨張に関しては、住民が行政に様々な要求をするという、住民側の要因も非常に大きい。所得水準が上がると、消費が高度化・多様化する。それは私的な消費だけに起こるのではなく、公的消費も高度化・多様化してくる。生活する上で必需的なものは、所得水準が上がったからといって、需要はそれほど大きくなるわけではない。つまり、所得水準が2倍になったからといって、米の消費が2倍になることはない。ところが、行政サービスの中身が、必需的なものからそうでないものに変わってきた。これは、所得の伸びと同時に需要も伸びる行政サービスにウエイトが変わってきたということである。
 
U 地方財政膨張の原因
1 需要側の要因
 なぜ、行政サービスの質が変わったのか。
 これまでは個人・家族・地域社会で問題を解決していたものが、環境の変化によって個人では無理だということになり、社会的に解決していかねばならない問題が沢山出てきた。
 たとえば、寝たきり老人の介護は、昔は家族の誰かが行っていた。昔は今ほど平均寿命が長くなかったので、介護の期間も短かく家族介護が出来たのである。ところが、平均寿命が長くなり介護の期間が長くなったり、核家族化が進んで、子供の数も減ってくると、親の面倒を誰が見るのかということになる。それで、介護という問題は社会化に解決していかなければならないことになってくる。
 都市化も問題の社会化の要因である。
 駅前の自転車駐輪場だが、昔は民間経営の駐輪場があった。ところが、都市化が進むと駅前の地価が上がり、効率の悪い土地利用では採算がとれないし、固定資産税も払えない。こうしたことから、どんどん民間の駐輪場が駅前から消えることになる。しかし、ますます駅から遠いところで住宅地が開発されると、自転車の利用者は増えてくる。駅前の道路に自転車があふれ危険だ、行政対して「なんとかしろ」という要望が出てくる。こうして、駅前自転車の保管問題を社会的に解決しなければならないということで、行政が出て行かざるを得なくなる。
 デモンストレーション効果もある。横並びとか、情報化社会の中で東京・大阪の様々な生活ぶりがリアルタイムで地方に流れてくるので、いろんな施設が欲しくなってくる。日本人のほとんどが都市的な生活を求めている、ということもデモンストレーション効果を大きくしている。
 福祉サービスの質も変わった。
 もともと福祉サービスは救貧対策から始まった。保育所も、高齢者に対する施策もそうだが、福祉は措置制度の枠組みの中で行われてきた。「措置」は「行政処分」なのである。放っておくと生きていけない子供を保護することは行政の責任である。こうして、子供をどこかに預けなければ生活が出来ない人の為に福祉サービスが存在した。
 しかし、その後、経済成長とともに福祉サービスは「救貧」から「防貧」に替わり、対象が広くなる。ぎりぎりで貧困生活を免れている人たちが貧困に落ち込まないようにしようということである。こうして福祉サービスは救貧から防貧へと、その範囲を拡大させていった。
 こうしている内に福祉に次の段階がやってくる。女性が社会に進出するようになり、働きにでかける場合に子供をどうするかとなってくる。救貧・防貧とは関わりなくそうしたサービスが出てくるのである。 
 図2であるが、1960年には、「所得税非課税未満世帯」が保育所に子供を預けていた世帯の大部分を占めていたが、この比率はどんどん低下し、1994年には3/4が「所得税課税世帯」になった。これとともに、保育サービスが質的に、また、その目的も変わってきている。
 こうなると、いままで「措置制度」であったものが、本当に「措置制度」のままででいいのかという問題が起こってくる。税金で財源を賄うと、サービスはどうしても画一的にならざるを得ない。保育所の目的が生活支援にそのウェイトを移してくるから、ニーズも多様化してくる。画一的サービスでは働く女性に十分なサービスを提供することができない。「延長保育」・「早朝保育」・「O歳児保育」等、様々な要求が出てくる。そうした要求にどのように応えていくか。サービスの提供の仕方、同時にサービスの財源調達の在り方が60年代の保育所とは違った形で考えていかなければならない時代に来ている。
 高所得者から低所得者へという所得の再分配を目的としていたものから、社会的に解決をしていかなければならない問題への対応として、つまり、資源配分を変えていく政策に福祉が移ってきた。
 
図2 保育所入所児童世帯の課税区分別構成比の推移
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2 供給側の要因
 地方財政の膨張には供給側の要因も存在する。
図3 地方税が伸びると歳出も伸びる
     歳出(除く公債費・積立金)               普通建設事業費
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 図3の横軸には地方税の対前年度伸び率が、縦軸には歳出の対前年度伸び率がとられている(歳出からは公債費・積立金は除いている)。地方税が大きく伸びると歳出も伸びる傾向が明確に見て取れる。普通建設事業費も歳出全体に比べれば相関関係は薄れるが、地方税が伸びれば、伸びている。国の歳出が伸びれば、補助金に影響するので、それを受けて地方も伸びているわけである。このように、国も地方も「ミニマム」で仕事をしているのではなく、「マキシマム」型の財政運営をしている。
 経済成長によって行政サービスの効率も低下している。交通渋滞が起るとゴミの収集にも時間がかかり、同じサービスが維持できなくなるため、収集車の数を増やさなければならない。この結果、供給コストだけが上がる。人件費も増加する。行政サービスはマンパワーがあって始めてサービスが提供できる、いわゆる、労働集約的なものが多い。民間企業は機械化により労働生産性を上げることができるから、生産性の向上によって物価上昇をある程度防ぐことができる。これに対して行政サービスは労働集約的だから労働生産性を上げにくい。人件費が上がると、財政支出が増えるのは公共部門の宿命である。
 
3 行政サービスの変質
 時代とともに、行政サービスの質が変化している。便益の広がりが変わってきた。かつての行政サービスは、社会全体に利益を与えるものが大部分だった。しかし、今日では、特定の地域・グループ・個人に利益を与えるものにまで行政サービスの領域は広がっている。
 従来型の行政サービスは、安全とか生命とか、生きていく為には絶対に使わなければなららない基礎的・必需的なものが大部分であった。ところが、行政ニーズそのものが高次で選択的なものに広がってきている。生活上必ずしも必要だというわけではない、使う人も使わない人も出てくる。例えば、美術館等の文化施設は生活を豊かにするものである。美術館を利用するかしないかは個人の判断に委ねられている。
 先に述べたように、保育所も生活支援の比重を高めている。社会に出て働きたいと考える女性もいれば、家庭で自分で子供を育てたいと思う女性もいる。子供を保育所に預けるか預けないかはそれぞれの選択の結果なのである。このように福祉サービスも選択的なものに変わってきている。
 ニーズが基礎的で必需的なのであるから、かつての行政サービスについての住民選好は画一的であった。消防は必要だが贅沢な消防というのは考えられない。警察も必要だが贅沢な警察も考えられない。住民によって選好が大きく異なるというものではない。ところが、今日では、「美術館よりはもっと公園を」・「図書館がいい」・「40人学級を30人学級にしてほしい」とか多様ニーズが出てきている。これは住民選好が多様になっている証拠である。
 行政サービスの一つと考えられている学校給食だが、なぜ、学校給食が必要なのか、その理由は大きく変化している。戦後の食糧難のとき、せめて学校では栄養のあるものを子供に食べさせてやりたいという国の温情主義(パターナリズム)から学校給食を説明できた。むしろ学校給食は強制の要素を含むものであった。だから、財源は税金でまかなうのが適当であった。
 現在では、中学では学校給食を実施しているところと、実施していないとこころがあるように、小学校の昼食も学校給食でなくてもかまわない。しかし、いま、給食をやめるというと大半の人が反対する。なぜか。戦後直後の学校給食の必要性の理由と、今の理由とは大きく変わっている。今やめることに反対するのは、給食がまさに生活支援だからである。つまり、子供の登校前に弁当を作るのが大変だからである。
 しかし、このように学校給食の存在理由が変わった今日、学校給食の在り方・財源調達の在り方を再検討しなければならない。英国では1週間単位で給食を食べるかどうかを子供にアンケートする。そして、給食を希望する者からはきっちりと実費徴収する。そうでなければ弁当持参の子と不公平が生まれるからだ。わが国でも、学校給食に対する考え方が多様になっているのに、これを税金で強制的に食べさせて、というのはおかしいのではないか。
 学校給食に限らず、行政サービスの目的なり役割なりが変わってきている中では、市民に多様な選択肢を提供していかねばならない。選択の自由が認められる中で、行政サービスを在り方を考えていかなければならない。福祉サービスもニーズが多様化しているのであるから、多様なサービスを提供すべきである。しかし、費用負担は「措置制度」の財源調達を踏襲して公費をできる限り投入して欲しいというのは通らない。多様なサービスは費用負担との連動で実現すべきである。
 
4 行政サービスの負担のあり方、運営のあり方の変更
 「実費を徴収しようとすると経済的に大変な人がいるではないか」という批判が出てくるだろう。しかし、負担能力がない方々には個人的給付でいくべきだ。サービスそのものに補助金を出して一律に下げてしまう方法は、経済力がある人びとにも便益がおよび、効率が悪い。真に援助を必要とする人に個人給付を行うことがこれからは必要である。
 公営住宅もそうである。公営住宅は施設そのものに公費が入っているが、住宅政策としては、むしろ必要な個人にターゲットを絞って、給付するほうがこれからの時代にふさわしい。
 社会保障も効率性を追求していかなければならない。「社会保障に効率性を持ち込むのはけしからん」という声もあるが、ほんとうに必要な人に厚く給付するには、必要でないところは財源を充当しないようにすることが必要である。いままでのように、使う人には全て補助金・公費を充当するという余裕はない。福祉を切り捨てるのではなく、必要なところに重点的にお金を投入する為に、できるだけ無駄は省こうということである。これを「ターゲット効率性」と呼ぶ。公費・税金を使ってサービスを提供しているからこそ、効率的でなければならないのである。
 
V 地方分権時代の自治体運営
1 ポスト福祉国家の政策パラダイム
 現在の社会は価値が多元化している。大学では以前は必須科目が沢山ありました。教師が学生を信頼していない。自分たちの判断で何を取ったらよいかを選択させなかった。今は出来るだけ必須科目をはずし、選択科目にして、自立的にどのような筋道で勉強していけばいいかを考えさせようとしている。
 ナショナル・ミニマムという形で、国が地方の行政サービスに対して、「これはどの地方であってもこれだけ提供すべきだ」と法律で決めて提供させるといった時代ではない。地方分権というのは地方の住民がどれだけサービスを提供してもらいたいかを選択し、それを行政にぶつけていく社会である。同じことは地方と住民との間にも言えるのではないか。つまり、行政サービスとして税金を使って提供するのではなく、マーケット・メカニズムを使って提供した方がよいものもあるはずである。国から地方へ、地方から民間へを同時に行っていく必要がある。
 
2 自治体は「生産主体」である
@地方自治法
 公共主体は「生産主体」か「消費主体」か不明確なままに今日までやってきた。しかし公共部門は明確に生産主体である。地方自治法には「地方公共団体はその事務をするに当たっては福祉の増進に努めるとともに『最小の経費で最大の効果』を上げなければならない」と書いてある。経済的センスをもった数少ない規定である。これは、最少の費用で最大の売上をあげる企業と全く同じように地方団体は行動すべきことを言っている。企業の行動原理は売上から費用を引いた利潤を最大化することであり、利潤を増やすには売上を増やす一方、出来る限り費用を少なくする(コストを安くする)ために努力している。
A自治体は「生産主体」であり「消費主体」ではない
 いままでの自治体の運営はどちらかといえば「消費主体」であり、家計と同じ財政運営をしてきた。予算制度や会計制度にも問題があり、これらが大福帳方式であったことも、地方団体が消費主体方式を取らざるを得なかった理由の一つである。予算の形式を変えることも地方団体を生産主体に向かわせるには必要だと考えられる。
B2つの効率性
 住民と自治体の関係は企業と顧客の関係である。そのためには2つの効率性を満たさなければならない。1つは「生産の効率性」である。限られた資源を有効に利用して、アウトプットを最大にする。アウトプットが一定ならば出来るだけ少ない資源で生み出す。行革といえば、この生産の効率性が問題になる。しかし、生産の効率性が達成できても生産主体としては不十分である。企業が売上を大きくする為に情報収集など様々な工夫をしているのと同様、地方団体も顧客である住民のニーズを予算にいかさなければならない。これが「配分の効率性」(ある一定の予算をサービス間にどのように配分していくのかということ)である。
 住民ニーズにしたがって予算は編成されなくてはならない。地方によって住民のニーズが違うにもかかわらず、国が画一的なサービスの提供を押付け、ニーズに合ったサービスになっていない可能性がある。地方分権を進めることによって、住民は何を望んでいるのか、どのような配分を望んでいるのかをきっちり把握して予算編成をすることが必要である。配分の効率性を、どのようにして満たしていくのかが地方分権時代の地方団体にとって大きな課題である。
 
W 地方行政はどこまでを守備範囲とすべきか
1 行政の守備範囲への3つの関門
 行政の目的が変わってきているなかで、行政の守備範囲を見直していかねばならない。財政は市場メカニズムがうまく働かないもの、市場にまかせていたのでは望ましい結果が得られないものを補完するのが本来の役割である。行政の守備範囲と考えられているものを問い直すところから行革がはじまる。行政評価も、本当に行政の守備範囲なのかがまず問われなくてはいけない。行政の守備範囲を越えているものをいくら事業効果が上がっているといっても、民間がやればもっと効果が上がるかもしれないのである。行政でやる必要のないものであれば、行政でどれだけの効果が上がっているかを計測する必要もない。
@個人ニーズが社会のニーズに転化しているか
 行政がその守備範囲とするには3つの関門を通過しなければならない。1つは、個人のニーズが社会のニーズに転化しているか、つまり、社会的に解決しなければならない問題かどうかである。自動車と道路は補完財である。自動車は自動車メーカーで生産され、市場で供給されるが、道路は自動車メーカーに作ってくれといってもできない。当然、税金でとなる。公共財には「非排除性」と「非競合性」という物理的属性が備わっている。「非排除性」とは、料金を支払わないものをその消費から排除できないという性格である。打ち上げ花火のように、料金を払わなくても見られるものが公共財である。もう1つが「非競合性」である。同じものを複数の人が使っても消費量が減らない。道路を1台の車が走っても2台の車が走っても、追加的コストがかからない。この場合、料金を取って利用者を排除するよりも、無料にして利用するほうがよい。「非排除性」と「非競合性」をもったものが行政の守備範囲になる。
 米と花火、どちらが行政の守備範囲として適当かと質問すると、米という答が多い。それでは、住宅・公園・道路はどうかと問うと住宅という答が多い。しかし、米よりも花火、住宅よりも公園・道路が行政の守備範囲として適当である。衣食住は全ての人にとって必要だから行政の守備範囲になりやすいと思われるかも知れないが、生活必需品というのは行政が提供しなければならない理由にはならない。これは所得分配の問題なのである。所得が低く、衣食住を手に入れることが出来ない人たちに対して、行政が所得保障をする必要はあるが、米を税金で提供するとか、住宅を公的に提供する理由にはならない。住宅に対しては、家賃を払えない人には所得を保障した上で民間住宅に入ってもらっても良いのである。住宅困窮者には所得を保障し、家賃を補助するという住宅政策をとるべきではないか。ヨーロッパではこれが主流である。
A社会のニーズがすべて「行政需要」となるわけではない
 私たちの欲求は無限である。一方、欲求を満たすために必要な資源は有限である。民間のニーズを満たすのにもっとも効率的なのは「マーケット・メカニズム」である。経済学は「需要と欲求はイコールではない」と考えている。「需要」とは支払う意思をもった欲求のことであって、ただ単に欲しいと思うものは需要ではない。ペットボトルの水が200円だとすると、この水が欲しいというのは需要ではない。200円支払ってでも欲しいというのが需要である。住民があれも欲しいこれも欲しいというのは需要ではない。それが行政需要になる為には、「これだけ税金を払っても良い」というように、負担と受益が連動してはじめて行政需要になる。
B行政需要のすべてが「行政の守備範囲」となるわけではない
 地方分権がなぜ必要かというと、地域住民のニーズにあった行政ができるということであるが、補助金に頼った地方行政の場合には受益と負担の連動が断ち切られてしまう。受益と負担の連動をつけ、その中で住民が行政需要を表明する。これが地方分権である。そのような環境を整えた上で、行政需要に優先順位をつけていかねばならない。つまり、行政需要全てが行政の守備範囲になるわけではない。
 米国では地方税率を自由に変えられる。サービス水準が低ければ税率も低くなるというように、住民に税を「価格」として提示できる社会なら、全ての行政需要を守備範囲としていけばよい。しかし、わが国では地方税は標準税率で決まっているなかで、行政の守備範囲だといって全てを取り込むことはできない。
 逆に声なき大多数の欲求がある。それを自治体がきっちりと汲み取っていかなければならない。社会全体に利益が及ぶものは切り易い。ところが、ある特定のところに交付される補助金は切りにくい。全ての人に利益が及んだり、福祉サービスなら救貧対策・防貧対策には税金を使っても良いが、特定の個人・グループのみに利益が及ぶものに税金を投入するのは、利用者と非利用者、受益者と非受益者間でさまざまな不公平が生まれる。
 行政評価を行うとき、福祉サービスはできるだけ受益者が少ない方がよい。それ以外のサービスは、全市民に対してどれだけの受益者がいるかがまず問われなければならない。全市民の数に近い分子になるような受益者があるようにしないと不公平な税金の使い方になる。
 行政需要として顕在化しないニーズをどのように情報収集するか。住民は何を望んでいるのかに対してつねにアンテナを張りめぐらせておく必要がある。しかし、住民が望んでいることに対しては「これだけのコストがかかっています」というコスト情報をきっちりと流すことが必要である。
2 守備範囲といっても丸抱えではない
 行政が「やる」といった場合、サービスの生産主体が行政なのか民間なのか、その費用を行政が税金で負担するのか、受益者から負担をとるのかというように、2×2の4つの区分が必要である。今までは、行政で負担するのだから、サービスも直営で提供しなければならないという考え方が根強かった。
 学校もどうして公立でなければならないか。国立大学もエイジェンシー化で揺れているが、私立の経済学部と国立の経済学部とはどこが違うか。幼稚園にも私立・公立がある。T市では、公立は1年保育、私立は2年保育をやっていた。公立の幼稚園の統廃合問題が持ち上がり、そこで統廃合の条件として公立での2年保育が実現した。すると、私立は3年保育にすることで対抗した。公立幼稚園は料金が安い。これではイーコール・フッティングの競争にはならない。幼稚園を私立化して、補助金を出すとか低所得世帯には奨励金を出すとかしてもいい。
 バス事業も公営バスと民間バスがあるが、何も公営交通でなければならないことはない。民営バスに路線を継続して運行するのに補助金をだしてもよい。公営交通の赤字補てんに税金を投入することは、バスを利用しない人から利用者への補助金となる。サービスを誰が提供するかと、費用をだれが負担するかを分けて考えねばならない。
 英国ではやりすぎではないかと思えるほどに民間活力が使われている。強制競争入札ということで、特定の行政サービスには必ず入札制度を適用する。直営を維持したい思ったら、その入札に行政部門が参加し、安いコストで出来るということになって始めて行政が直営でサービスを提供できる。これを強制的にやらせている。
 
X 地方行政の効果をあげるために
@行政評価の必要性
 大阪府は財政難である。横山知事は頑張っていると思うが、もうひと押しがほしい。既存の行政サービスをそのままにしてほしいというのは住民の要求としては当然である。しかし、府民に対して「これだけのコストがかかっている」ということを提示する必要がある。ベネフィット(便益)の計測はなかなか難しい。建設省でもコスト・ベネフィット分析というのをやっているが、ベネフィットはいくらでも大きくしようと思えば出来る。
 しかし、コストは明確に出てくる。ただし、今までのような収支バランスを改善する形式ではコストは出てこない。企業会計方式をとって、年々これだけのコストがかかっているということを、資本コストや間接部門の人件費を含めて出すことが必要である。そして、これだけのコストがかかっているということを情報として提示し、それでもサービスを提供しましょうか、ということを負担と受益の連動の中で住民に投げかける。
 これまでは、いろんな要求を行政内部で全て解決してしまわなければならないという思いが行政の中にあった。しかし、行政にはこれだけコストがかかっているということを提示し、住民に判断してもらうというくらいの気持ちが必要ではないか。
 公営交通の場合も、どれだけのコストがかかっているのか利用者に知らせる必要がある。200円で経費が全て賄われていると思っている利用者も多い。乗客1人当たりいくらの税金を注ぎ込んでいます、という情報を流す。それに対し、バスに乗らない人が文句をいうかも知れないが、それも行政参加の一つの形態である。
 英国の自治体では、「こういうサービスをしようと思う。国から補助金をもらうが、それでもこれだけの金が足りない。そこで住民の皆さんにはこれだけ払って欲しい」という情報が提供される。独では行政サービス・カタログを作って、1つ1つのサービスのコストを提示している自治体もある。
 これまでは、標準税率を下回って課税しようとすると地方債を発行できなかった。地方分権一括法では、標準税率未満団体も地方債を発行することが出来るようになる。これまでは、どこへ行っても個人住民税は一定だった。そこで、サービスの要求競争が起る。
 しかし、サービスの受益は見えにくい。今後は、税率を引き下げて欲しいという要求が出てくるかもしれない。税率を引き下げることは可処分所得が増えることだから、確実に目に見える。隣の自治体で税率を下げると、税率引下げの要求が出てくるだろう。このような税率引き下げ競争は自治体にとっては大変だから、課税自主権を強化して、税率を自由に変える権利を与えて欲しいという大きな声にはならなかったのだろう。しかし、税率引き下げの環境が整えば、アメリカのように納税者の反乱が起ってくるかもしれない。
 税率の引き下げ競争がおこると、行政サービスが低下していくから、生活に支障がでてくることになる。「これ以上下げてもらうと困る」という税率水準が本当の意味でのミニマムである。それを決めるのは住民である。行政サービスの適正な供給のためには、受益と負担を連動させながら住民が要求していく必要がある。それが行政需要になり、守備範囲として取り上げられる。
 自治体はコスト情報を分かりやすく提供しなければならない。説明責任・アカウタビリティとは不正をしていないということを説明できればいいというものではない。税金をもっとも効率的かつ有効に納税者の為に使っていることが説明できてはじめて、アカウンタビリティーなのである。
 
質問
A::分かりやすく説明する責任があるといいいますが、こうした自治体の具体例があれば教えてほしい。
A事業によっては企業会計方式のバックデーターを整備
林:実際には、コスト情報を流しているところはない。行政評価というが、ベネフィットの評価は難しい。このサービスにはこれだけのコストがかかっている、このサービスの受益者はこれだけであるといったことを一覧表にして、事業評価の資料にする。これをまずやる。行政内部で事業評価をやっているだけではだめである。住民に分かりやすく提示しなければならない。事業評価表を、事業の存続を考える際に住民に提示する(大混乱を起こす可能性があるが)。本当にこれでいいのか、という問題のある事業は行政内部でも分かっている。企業会計方式で(全て企業会計方式で予算を組めといっている訳ではない。それは無駄である。)、受益者負担を取るべきものは、毎年のコストがこれだけかかっているということを明確にしたうえで、受益者負担のルール作りが必要である。公共料金を上げるときには、上げ幅が問題なのではなく、「これだけのコストがかかっていて、この内のどの部分を受益者負担で貰うことが適正でしょうか」という形で受益者負担のルールを作らなければならない。そのためにも、コスト・データが必要である。
 
B:コストといいますが、行政のような法的枠内で行なわれる事業のコストと民間企業の枠の無いコストとの区別まで住民の意識が高まるのでしょうか。
林:公民のコスト比較はできる。地方経営学会などでも計算を出しているが、民間委託をするとコストは安上がりになる。これを、行政サービス水準が低いからだと見るのかどうかである。公営の幼稚園と私立の幼稚園では確かにコストが違うが、しかしながら、コストが違うのはサービスが違うからだと明確にいえるかどうかは疑問である。
保育所サービスのコスト計算をしたデータを頂いたことがある。そのとき自治体の名前を出さないで欲しいと言われた。それは、これだけ公営にコストを掛けているのなら、民間の方から補助金を上げて欲しいという要求が出てくるかもしれないので、というのがその理由であった。また、コストがかかっている公営の方がサービスがよいのかというと、延長保育・0歳児保育などを積極的にやっているのは民間保育所であり、公立の方がサービスがよいとは決して言えない。
 
 
 
 
 
 
講師紹介
林 宜嗣(はやし よしつぐ)
1951 大阪市生まれ
1988 関西学院大学経済学部教授 
1994〜96 経済企画庁経済研究所客員主任研究官を兼任
 専門は財政学・都市経済論で、「国と地方の財政関係」「都市の再生と活性化」「税負担の公平性」などを研究テーマとしている。
■著書
『都市問題の経済学』(日本経済新聞社) 
『地方分権の経済学』(日本評論社)
『地方財政』(有斐閣)など多数
 
 
 
 
 
 
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
「ちょっといって講座」実行委員会
福井市松本3−16−10(松本合庁) 自治労内    п@0776−27−2442
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