第18回ちょっといって講座
「地方財政と市町村合併」 小西砂千夫 関西学院大学教授
2001年5月12日(土)午後1時 福井県職員会館101号室
主催者を代表して:福井地区平和センター 田辺議長
小西先生には昨年10月にも「地方財政危機と公共事業のあり方」ということで来ていただきました。さいたま市とかの合併が話題となっていますが、県内では市町村同士が協議に入ったところはなく、話は進んでいません。今後の市町村合併がどうなっていくのかを本日は勉強していただきたい。
はじめに
日本の国は衰退期に入ったと思います。その症状は一番悪い問題について見ないことです。「年金が崩壊した。」というと皆さんシラーとする。そう薄々思っていても、なぜそんな話を今するのかというわけです。成長する国はものすごい危機感を持っています。
衰退期に入ると危機感がなくなってきます。1973年10月にオイルショックがあったとき、私は中学生でしたが、朝礼で「オイルショックです。みなさんは今までのようにはいかないので、厳しい時代になるが、がんばるように」と数学の先生がいいました。当時は何のことかわかりませんでした。当時の雰囲気はオイルショックに日本の全員が危機感をおぼえて何とかしなければということでした。
オイルショックのときに石油がなくなるといけないということで技術的な対応をしなければならないということで、排ガス規制にクリアしながら省エネをめざすエンジンを遮二無に作った。そのあたりがあってこそ、日本の輝く80年代があるわけです。オイルショックに対してものすごい危機感を持って対応したということです。『プロジェクトX』という「くさい」番組があります。追いつめられた窓際の開発陣が液晶を作るとかですが、「くさい」番組が許されるかというと、日本人よ、危機感を若かりしころの志を思い起こせということです。
問題は成功したプロジェクトだけなのです。窓際で終わった人も沢山いるわけです。それが実態なのです。10年前に放映されていれば下らない番組で終わっていたでしょうが、今、あの「くさい」演出が必要なのです。
「地方財政と市町村合併」が今日のテーマですが、ともかく現実を見ましょう。現実は惨澹たるものです。福井は市町村合併をあまりやる気のない県です。現実を見たら腹をくくらなければなりません。その上で合併する、あるいは合併しないということを決めるべきです。それを直視しないで「住民から声が上がってこない」「自主的合併の枠組みの中では時期尚早だ」というわけです。
市町村長と議員は地方自治のプロとして、「合併をする」、あるいは「しないけれども、これだけは確保する」というならいいのですが、何も考えずにその責任を果たしているかと思うわけです。「思考停止」なのです。本当に何も考えずにでは許さんぞ。みすみす見送ることはやってはいけない。日本は衰退しつつありますが、日本人は現実をまともに見ない。現実を直視すれば衰退は止めることができます。
小泉内閣が成立しました。80数%の支持率です。自民党総裁候補者4人の中で、小泉さんだけが他の人とスタンスが違いました。他の3人はよく似ていました。小泉さんは経済政策も外交政策もないと思います。経済政策は竹中平蔵にまかせっきりです。副総理格で入っています。本来はあのポスト、経済財政諮問会議の担当大臣に限っては学者を持ってくるというのはおかしい、党人を持ってくるべきです。田中真紀子は外交をするための大臣ではない。外務省という伏魔殿を改革するための内政をする担当大臣のような感じです。
小泉内閣は経済政策とか外交をするのではなく、自民党の旧竹下派を中心とする利権構造をつぶすことを最大目標とした内閣です。日本の構造改革は政治的利権構造を潰すことであって、具体的な経済政策をすることではない。「仕事をしない内閣」です。内なる敵と戦う内閣です。政治家ならではの発想です。私ならどんな経済政策をするかと考えるわけですが、そうではない。
郵政の片山さんは橋本派です。国対族です。片山さんは留任です。3年変えないというわけです。郵政の民営化をさせ、姿焼きにしようというわけです。
小泉さんの支持率は今後落ちますが、支持率が30%になればやめなければなりません。30%に下がるまで3年かかるか、半年かです。半年では何もできない。今はブームです。ブームは変えて欲しいという国民感情が出ています。国民は現実を見ない傾向があるのですが、一方では見ないことに後ろめたい気分があります。公共事業には明らかな無駄があります。大阪では、オリンピックは無駄ですが、大阪で反対すると“市街追放”です。大阪のサラリーマンは何らかの形で自分の会社と関係がある。個人的には賛成していなくてもそれはいわない、いえない。なんとなく後ろめたい。年金もいまの制度が維持できるわけがない。しかし、具体的に利権つぶしをはじめたときにどこまで世論はついてくるかです。千葉県の堂本さんが知事になりましたが同じような理由です。長野県の田中康夫知事もそうです。総論としては改革ということに関して、自分の利権を手放してでも改革したいと気持ちがぼやっとした気持ちとしてあるわけです。
オイルショックのとき危機感が強すぎてトイレットペーパー騒ぎがありました。あまりにも大きなプレッシャーがかかったことで精神のバランスを崩したわけです。
1.地方財政は地方交付税制度が全て
地方財政は地方交付税が全てです。
本当にお金がある自治体は関係がありません。豊田市とかのような団体は5%ぐらいしかない。交付税をもらっている95%の団体の中では財政力の違いはあるものの団体間の差は「ちょぼちょぼ」です。交付税は差額補助金です。「なんぼたらんのか」その分「うめたろか」ということです。「最初なんぼあったのか」というのとは結果的にはほとんどかわらない。『留保財源』の違いの問題はありますが、交付団体であれば、一番貧しいところを1とすれば、一番豊かなところは1.25です(豊田市なら2に近いのですが)。せいぜい1割しか違いません。そこで、財政力指数が0.3のところと、0.8のところがいっしょになるのがいやだといっても関係ありません。本当にいい制度です。地方交付税は一種の思想です。何を守っているかというと、ポイントは
1 住民に提供されているサービスを年々少しずつでも増やしていく。(下げない。)
(少なくとも維持する。)
2 どんな規模どんな財政力でも国が定めたワンセットのサービスは保証する。
3 全国一律の提供形態(サービス水準)を保証する。
この自治体はこれだけしかやりませんというのではない。人口が二百数十人という自治体がありますが、その小さな自治体でもワンセットのサービスをする。全国一律のサービス水準を維持するということです。これが戦後的思想です。しかし、税収が好調ならサービス水準を上げるし、好調でなければ水準を下げるべきです。2番目の問題ですが、人口200人の自治体が小学校も中学校も下水もやって、福祉も窓口行政もできるのかです。15〜16人の職員でどうしても市町村行政として分かっていなければならない百本もの法律を理解できるかです。全員弁護士なら可能かもしれませんが。弁護士もめしの種になるような法律か知りません。それが10数人の職員で運用できるのかです。
自治体の規模が小さかったらワンセットをする必要はない。そのために県があるわけです。「市町村がやれることをまずやって」というときに、どんな市町村でもそうかということです。それは1つの解釈です。ワンセットにこだわる国とワンセットにこだわらない国があります。日本はワンセットにこだわってきました。アメリカは全然こだわっていない。ワンセットにこだわるならどんな規模でもというのは本来無理です。小さい自治体は本来無理なのです。現実を見れば、十数人の職員で市町村として、専門家としてノウハウをもっているかです。
そのために県があるわけです。その市町村と県との“なんとも言えない関係”を、だれもハッピーとは思っていません。「県職員がなんぼのもんや。」ということですが、それでは現場は回らないわけです。
本当にワンセットしなければいかんのかです。ワンセットしなければその自治体で担える機能だけを担えばよいわけです。ワンセットするならある程度の規模がいります。サービスを維持しようとすると、交付税がいります。これは戦後的思想ですが、それは1つの考えであって、別の発想もありうるわけです。
全国一律である部分はごくわずかで、一律でない部分が沢山あってもよい。95%が交付団体だといいますが、つまり95%の自治体はサービス水準は変わらないということです。福井県の嶺南地域は原発で金が来る部分がありますが、あるだけに合併という話にはなりにくい。プラスアルファはありがたいが、それは本当の意思決定を歪める。諸刃の剣です。
2.地方交付税は制度として破綻
地方交付税がうまくまわっていれば、このシステムでいけばいい。何も格好をつけることはないわけです。『地方分権』よりも銭が有るほうがいい。ところが、地方交付税は制度として破綻しました。破綻していないように取り繕っていますが、破綻したのです。国の総務省財政局の岡本交付税課長だったらそういいます。ところが、マスコミが報道しない。なぜ報道しなかというと、いやな話は出さない。レートのとれない話はニュースにならない。TVはレートの取れないニュースは出さない。すぐ野球中継に変えられてしまいます。破綻したことを直視すればどれかを諦めなければならない。諦めなければ666兆円の借金がどんどん増えます。国の財政が破綻します。破綻したらみなさんの円建てで持っている財産は紙屑です。国に信用力がなくなればその国の発行している通貨は紙屑になるのは当然です。閉鎖経済ならもうちょっと延命できます。米国の格付け会社は、日本の国債の格付けをどんどん下げています。
小泉さんは借金を30兆円に抑えますといっていますが、まだ手ぬるい。25兆円に抑えられるかです。そうすると666兆円の増え方がそうとう減ります。借金は返さなくてもよい。増えなければいいわけです。30兆円ではまだだめです。地方交付税特別会計では毎年8兆円づつ赤字をだしてきました。今年も6兆円赤字を出しています。だから破綻しているのです。
破綻したのなら、住民のサービス水準を下げたらいいわけです。サービスをカットすればよい。交付税を4割りカットすれば、サービス水準は2割りカットになります。バブルのときの方が異常だったわけです。
今、中小企業ではバブルの時のボーナスの2割りカットです。しかし、誰も「プロミス」に行ってはいません。なぜ、個人は2割りカットできて、国はできないかです。まともに意思決定できるシステムになってないからです。本当は削ることがなんぼでもあるのに、よう削らんわけです。ほんまは削らなければならないのに予算編成のやり方を変えられないから削られない。
交付税をやめて地方税に振り替えることは、全国一律をやめることです。東京以外は福井県も含め全部損をします。過疎の自治体の首長が「地方税に振り替えてくれ」といっているのですが、どうかしています。東京都民に過疎自治体が税金をかけれればいいですけれども。石原都知事は東京モンロー主義です。
交付税の3つの思想のどれか1つあきらめるしかない。どれをあきらめるかです。サービス水準を下げるしかない。現在はバブルの時に設定された最高のサービス水準に維持されているわけです。
3.市町村合併と財政問題の関係
市町村合併は財政問題とは直接関係ない。
国は交付税を減らそうとしているのではというが、二つの意味でウソです。まず、技術論として、県に配る交付税は1円も減りません。『段階補正』してもどれくらい減るかといってもせいぜい1割りです。市町村は合併が進もうと進まないであろうと、交付税カットは別の論理でやらなければなりません。タイムスケジュールが違う。交付税カットは16年にやるということはほぼ決定です。合併特例法は17年3月31日までです。合併は行政局です。交付税は財政局です。総務省内ですが、お互いに連絡なんてしません。行政局は内務省の流れです。財政局は地方財政委員会の流れで、戦後にできました。この二者の緊張関係で動いています(あまり両者が緊張するので間に税務局を入れてある)。税務局は技術屋集団というところです。
市町村合併をなぜやるかというと、人口10万人規模の自治体は合併をやらなくていい。1000人の職員がいれば、しなければならない法律の運用を、がんばれば獲得できる規模です。10万人の自治体は、周辺自治体が合併したいといったときには嫌がらずに受けるべきです。合併には受け身です。周辺の自治体の住民は10万人の都市の商店街に物を買いにきている。生活圏がいっしょです。自治体というのは生活行政をするわけですから、生活圏がいっしょならば生活行政をする義務があるわけです。「自治体としての利権がある」などという発想はすべきでありません。
「50万人都市を作ろう」とか「政令市を作ろう」ということではありません。1万人未満の自治体は、行政職員は100人未満です。100人未満ではワンセットができません。ワンセットをやらなければよいわけです。
人口1000人の自治体で簡単な計算をすると、平均で税が1億円、補助金とその他を合わせて2億円の歳入があるとして、人件費比率30%で計算すると行政職員を7〜8人雇えます。7〜8人の職員でできる仕事はどんなものがあるかですが、窓口行政はできます。コンピューターの維持はできない。消防団が実体の防災はできる。広域消防で担えば組合に1〜2名出すことはできます。福祉行政の中のごく一部ができます。国保事務などはできません(保険なのですから小さい自治体でやることはそもそも間違っています。加入数が沢山あるからこそ、保険として収支構造が安定するわけです)。対面福祉はできる。衛生は無理です。下水は不可能です。技術屋がいります。ゴミは委託すればいい。それで住民は何かこまるかです。道路や学校は県がやればいい。あるいは一部事務組合がやればいい。
人口1万人の自治体の首長は、自分で集められる税金と補助金でやれる仕事の範囲を自治を守るためにやる。それ以外のできないことはできない。首長も議長も一人前の給料は貰えない。しかし、やっている仕事が少ないわけですから議会で決める仕事も少ない。議会も夜議会をやればよい。昭和30年代は議会は夜やっていました。議員に給料を払われないからです。
4.ワンセットをやるなら合併しかない
合併したくないのなら、「我々は担えるだけを担う、あとは県でやってくれと」というのでもよい。これが危機に直面したときの発想です。 ところが誰もそうはいわない。みんなワンセットをやりた。ワンセットやりたければ合併しかない。ワンセットをやるには職員がいります。人口10万人はいる。それが県の合併要綱のパターンです。原発で金があるか無いかとは関係無い。いくら金があっても行政職員1000人を雇うのは無理でしょ。現実を直視したときに何をしなければならないかです。スモール・イズ・ビュウティフルならそれでもよい。スモールだけで担える仕事で住民が困らないか計算してみることです。
ところがそういわない。市町村行政に自分で何とかしようという発想が無いからです。身を守るとということで迫力を出して、合併を跳ね除けるか、ワンセットをやりたいということで「合併」といういやなことを飲むかです。
議員と首長が清貧の思想でいくかです。しかし、普通ならば合併してワンセットです。スウェーデンはワンセットにこだわったので強制合併しました。ワンセットにこだわるなら自主的合併は無理です。自主的合併は「自分で自分の腹を切れ」ということですからかわいそうです。国が区割りを決めて強制合併することが親切です。「あなたは糖尿病です。節制しなさい」といわれても節制できるくらいなら糖尿病になりません。入院しかない。アメリカでは「麻薬離脱プログラム」というのがありますが、“強制”されなかったらやらないわけです。ワンセットをやるかどうか腹を決めるべきです。「自主的合併」といっている国も市町村も“あまい”のです。合併したらお土産をつけようというのは「大アマ」です。
質問
Y議員
福井県は35市町村ありますが、昭和の大合併のときにかなり合併し17町村が1万人以下です。山村で過疎です。生活圏的な合併といっても課題があります。
首長、議員、自治体の職員の問題もある。どこをどうつつければ進のか、誰がイニシアチブをとればいいのかです。小浜・上中では合併推進の音頭をとっているのは経済界の人が中心ではと思っています。
デンマークは県と市町村の役割もきっちんと整理され、合併も進んでいますが日本に参考になるとすればどうした国がモデルになるか教えていただきたい。
小西
人口1万人未満の町村が自治を守るという発想に立たなければならないということは、県が伝えないとだめです。合併のターゲットは1万人未満の町村です。しかし、県はなかなかいわない。特例法の期間の範囲内で間に合うのかどうかです。総務省が法改正をして厳しくいわないとだめです。
小泉内閣の構造改革という中で、小泉さんはほとんど市町村合併に興味が無い。自民党改革だけです。総務省が小泉を説得できるか。平成17年度以降どうするかということをはっきりさせることです。
誰がリーダーシップをとるかですが、首長です。べたべたの利権構造を抱えた首長がそんなに沢山いるとは思いません。説得可能とは思います。議員が本気になるのは世論です。キーマンがいないから動かないわけです。
ヨーロッパでは強制合併をはっきりとやったのはスウェーデンです。福祉を市町村の事務にして、市町村民からとる所得税を財源にして介護をやっています。強制合併です。強制合併が地方分権と相反するものではないということを勉強しようと思ったらスウェーデンがいいと思います。
I議員
福井市では商工会議所が中心に関わってきていますが、市民中心の立場でかかわって頂きたいと思っているわけですが、わたしの地元は福井市の郊外にあり、昭和30年代に福井市と合併したのですが、30年代の合併でメリットがどうあったのかというのが年配の人を中心に根強くある。30年代の合併を検証すべきではないか。メリットはどうか・デメリットはどうかということを市民に提供すべきだと思っています。
財政問題ですが、地方分権でいろんなものが委譲されてくるが財源がついてこない。
一般市民としてはある日突然これだけの借金があるでは困る。必要なものは借金をしてでもやっていかなければならない。また、交付税制度がいつまでも続くというわけではない。財源を求めて新税の動きもあるが。
小西
30年代の大合併ですが、合併して端っこになったという話は良く聞きますが、合併と経済は関係がありません。合併することによってある種の経済効果ができて地域の経済が高まることはありません。自治体が産業育成してもなにほどのことはない。
30年代の話ではなく、経済成長が終わった日本の現状から行きましょう。福井市としては合併はどうでもいいわけです。周辺市町村が入れてくれといえば入れてあげるべきです。周辺が入れてくれといわなければどうでもいいわけです。飲み込むも飲み込まれるもありません。しかし、県全体を見たときには1万人未満の町村をどうするかということはあります。
財源の移譲が無いのは実質的に権限が移っていないからです。今の分権一括法の権限委譲は、ほとんど県のレベルで止まっています。判断を県でしなさいというところで止まっています。仕事は物理的に市町村に移っていません。「仕事は増えたが財源の移譲が無い」というのは、理事者の妙な議会答弁でだまされています。仕事が移ったときは財政は増やしますと地方財政法に書いてあります。地方交付税はそのようになっています。交付税が健在の間はそうです。自分で判断しようとすると、自分で法律を読まなければなりません。いまなら県に電話して「どうしましょうか」とか、「要綱どおりに条例を作ったらいい」とかいうことですから、まだそこまできていません。
借金してもやるべきもの そんなものはありません。お金の範囲でやるべきです。借金してもやるべきものがあると考えるからこんな状態になっているわけです。滅びつつある国の怠惰な姿です。
F商工会議所役員
福井市を新たな県都として金沢に負けない都市をつくろうとしていますが、国がワンセットをするなら合併をということですが、住民は理解がしにくい。地方では借金が10年後どうなるのかの姿が無い。財源の問題は大事だと思います。そこを国も県も分かりやすく説明することが必要だと思います。総論賛成、各論はという問題です。
T市職員
ワンセットと交付税の制度の破綻とリンクは 2割りカットの覚悟との関係は。
小西
政令指定都市=経済政策としての合併とはちょっと違います。特例法はチャンスの話ではありますが、小規模市町村の生き残りの話とはちょっと違うわけです。プラスアルファの話なのです。さいたま市のような話は打算です。埼玉に政令指定都市がないのは意気が上がらない。たまたまさいたま新都心といして人が住んでいない土地があるからどうにかしようという、“筋悪”の話です。大福井市を経済政策としてやるというのは私はあんまり興味はない。特例法のチャンスにしかけるということですが、小規模自治体の腹が決まらなければなりません。福井市が一生懸命になっても自分の身を守らなければならないところがやる気が無い。これが問題です。福井市としてすべきことは福井市が生き残るために合併ということではない。
10年後という話がありましたが、それは戦後的思想です。明日どうなるかわからない。自分で情報を集めて、自分で保険をかけながら自分の身の処し方を考えましょうということです。10年後どうしてくれるという、その雰囲気があるから合併が進まない。
ワンセットというのはどんな自治体でもこなしているメニューが同じですが、交付税改革はメニューを落とすということです。今まで交付税をこれだけ配っていました。この交付税に匹敵するメニューはこれだけですというものです。その交付税を減額しましょうというのは、やらなければならない仕事をこれだけ落としますということです。100やらければならなかったことを80にしますということです。それは大規模自治体も小規模自治体も同じです。ワンセットだけれども減額されましたということです。ワンセットをしないというのは大規模自治体と小規模自治体とでは仕事のメニューが違うということです。
そもそも交付税はワンセットだがそのワンセットを下げないと持たないということです。単独事業はゼロベースにしようとか給付水準を下げようとかという話です。
F市職員
小規模自治体がワンセットをやめて県にやってもらうとなると、その分の交付税は県にいくだけではないのですか。
メニューを圧縮するということは、総務省がもう自治体の仕事はこれだけでいいですよと、サービス水準は下げてもいいということを明言することか。
今日の市町村の仕事からいうと、ざっと1000人の職員がいると先生はいいますがどういう根拠からでてきたのか。
小西
県に交付税がいくというのはその通りです。合併は交付税を減額するものではありません。市町村は自分の税収でやれるところだけやる。県はその残りを自分の仕事としてやるが、財源減った分だけ薄くなる。道路などは県で一元的にやったほうが財源が減っても仕事は可能かもしれません。県レベルでやれば少しは経済性は働く。
交付税を落とすことはメニューを落とすことです。しかし、交付税の減額はメニューを落とさなくてもできます。交付税は国税5税の範囲内でしか交付税は配りませんということです。交付税は本来目的税なのです。本当はこれだけやりたいが、これに当てる財源はこれだけしかないので、“後は泣いてくれ”というものです。この目的税の思想は、給料の「本給は奥さんのもの」だが、「残業手当はおれのもの」と
いうようなものです。金に色をつけてこれで“痛み分け”という発想です。
今、交付税は本来配るべき金は20兆円だが、12兆円しか入ってこない。本来の交付税の発想からは12兆円しか配れない。自治体としてどうするかというと、メニューはこれだけあるが「12兆円分しかやりません」といえばよい。「必須科目」と「選択科目」に分けて、選択科目はもうやらなくてもよいとすることです。交付税の中に入っている科目の中に選択科目がたくさんあるという考えです。交付税減額をこの2つのどっちの方向でやるのかこれから議論が始まります。
10万人は自治省の中で作った研究会に「市町村合併研究会」というのがありますが、女性問題担当職員は人口どれくらいになれば置かれるのかといった、自治体の規模で行政レベルが上がってくることを、10万人くらいまでは上がってきますが、それからはあまり変わらないということが経験的にわかっています。また10万人くらいなら条例を作れるだろうといったものです。条例を作るというのが一番大きな目的ですから。
Aさん
資料(「市町村合併−市町村長と議会議員のための1章」)の5Pの 「したがって首長と議員は、住民が見えない小規模自治体の行政能力の不足を住民に対して説明をし、行政部門の強化のために合併が必要であるということを説明する義務がある。」という個所ですが、合併というのは一番影響があるのは首長と議員です。5人の首長が1人になるわけですから、説明が期待できるのかどうか。第三者的機関がしないとだめなのでは。
小西
みなさんが各論でついてくるならそのようなことは起きない。利権つぶしを正義としていくならです。しかし、本当は強制合併が親切です。お酒を節制しなさいと医者に言われて、節制できる人は極一部の人で後の人は入院しないと自己節制できない。奇麗事ではいかないから、いまおっしゃったような第三者機関のような中途半端なものではだめです。自分で決めるか、強制かしかありません。
M町民
私はM町で市町村合併を考える懇話会の会長を受けました。
M町のような1万人の町は合併せざるを得ないと思います。総論・各論で困ったなと思っています。そうした認識無しに突っ走った場合の怖さがあります。この先、地域住民に伝える作戦はどのようなものがあるのでしょうか。
小西
今の日本では“素人”にはわからないことがたくさんあります。みながみんな“玄人”みたいであれば、本日のような講演する必要もないわけです。悪い伝え方は、「特例債でなんぼ得する」というのが一番わかりやすいのですが、それが一番危ないわけです。合併したらこのような得がありますといって住民を引っ張っていくと、会長はだましたと後から言われる。禁じ手です。
住民全員を説得するのは難しい。住民に影響力のある人を説得する。婦人会の会長とかです。全員に周知することはあきらめることです。運動論で考えることです。
B市民
福井市を中心とした経済優先で、周辺の小規模自治体のことは考えていない。私の自治体も首長も議員も考えていない。
先日、ある自民党の議員が「3000の自治体を1000にするといっているが、2000になれば上等だ」とおっしゃっておられましたが、どうお考えですか。
小西
小規模自治体が本当に危機感をもって考えるかです。大福井市に飲み込まれるという発想なら志が低い。福井と合併しなくても良い。同じ痛みがわかる同士のところでもいい。小規模自治体が行政能力があるというのならいいですが。1万人の町だが「条例も書けるし、法律にも通じている」のだというのならそれでいいのですが、現状ではそこに問題があるわけですから、「福井はいやだ」、「武生ならいい」というのなら、飛び地でもいいわけです。
市町村を全国いくつにするというのは興味ありません。生き残ろう、自治を守ろう、フルセット型を選択するのか、パーツで行くか、パーツならどういう絵を描くかです。
<第18回ちょっといって講座資料>
市町村合併−市町村長と議会議員のための1章
関西学院大学教授 小西砂千夫
市民社会という言葉がすっかり定着したように、いまや住民の声をいかに行政に反映させるかが重要課題となっている。確かにこれまでの役所の仕事の仕方では、結果的に役所や議会のなかでの組織論理が優先されて、結果として住民不在の意思決定をしてきたという側面は否定できないものがある。しかしながら、行政と議会には素朴な住民感情にべったりではなく、住民自らはいますぐには気がつかないが、将来必要となる事項を先回りして取り組み、実現させていくという側面も重要である。「お客様は神様である」というのは、客の目線に立って考えるという意味であって、プロが自らの仕事を放棄するという意味ではない。
市町村合併についても同じことがいえる。住民から見れば現状で何も困っていない。合併すると自治体の名前が変わるかもしれないし、役所の位置も変わる。あまり嬉しいことではない。税金が安くなるわけでもない。したがって合併についての世論は高まらない。首長や議員が合併話を持ち出せば逆に住民の政治的支持を失う可能性もある。そこで合併が進まないという現状がある。しかし、本当にそれでいいのか。首長や議員は行政のプロとして、市町村合併に対してどのような姿勢をとるべきか、本稿ではそれを説いてみたい。
1.「誰かが何とかしてくれるだろう」の終わり
安心・安全な社会の構築は、わが国においては大きな目標であった。あるいはそれはすでに達成されたことであって、何ごとか事件が起きたときに、住民の安心・安全が守られていなければ、行政は批判の的になる。しかしながら、近年の日本経済のうごきは、銀行が破綻をし強いはずの企業が倒産をし、治安は乱れ災害が脅威を振るい、安心・安全な社会はとてもではないが実現されていない。
安心・安全は、国・地方を問わず政府の任務である。しかしながら、いま国・地方の長期債務は、666兆円に達するとされる。巨額の財政赤字を抱え、安心・安全な社会は実現が不可能になってきている。おもえば、地方財政こそ、安心・安全がいちばん当てはまる世界であった。国は省庁ごとに政策を立件し、その多くは地方自治体を通じて実施される。そのときに必要な税源は、まず地方財政計画に盛り込まれ、次に地方交付税制度を通じて自治体に配分される。国が作ったメニューはしたがって基本的に実施可能な水準の財源が保証される。不交付団体になろうものなら、追加サービスも提供できる。それでも現場的には財源が足らないと嘆く声は出るであろうが、好不況によってどんなに税収が変動しても。地方交付税と地方税をあわせて、一般財源があるロットにまで確保されるのは、たいへん望ましいことである。
地方交付税の制度改革は、平成13年度から始まってはいるが、将来的には自治体が赤字地方債を発行したり、交付税特会で新たな借入をしなくてすむようにしなければならない。これは、予算の動きや制度の変化を見聞きしている首長や議員には、ある意味で容易に想像できることである。交付税が縮減すれば、行財政サービス水準は下げなければならない。しかしそれが見えているはずの首長や議員の方で。サービス水準の低下の必要性をはっきり住民の前で明言できる方は本当にまれであろう。いよいよ困ったら「誰かが何とかしてくれるだろう」とどこかで思っているからだ。安心・安全な社会は終わった、誰も何もしてくれない世の中に変わった(本当は最初からそうだった)のだから、自分の身は自分で守らなければならない。そのことが、政治家にも住民にも強く自覚されておれば、市町村合併の議論はもっと熱のこもったものになるであろう。首長・議員としては、先行き不透明な時代にあって、合併が小規模自治体にとっては合併は生き残りの策の1つになりうるということを、住民に対して説明しなければならない。
2.合併は火災保険
火災保険に加入するのは火事が起きる可能性があると考えるからだ。保険料を払うことに喜びを感じるはずがない。嫌々ながら保険料を払うのは、火事が起きたときに保険金を受け取れば損失のある部分が補填されるからである。
市町村合併は火災保険に譬えるとちょうどいい。市町村行政を取り巻く環境が何も変わらなければ、つまり分権社会がかけ声倒れに終わり、権限委譲も進まず、地方交付税を中心とする財政制度も今のままであるとするならば、合併をするのは損である。火事が起こらないと予見しながら、火災保険に加入する者はいないのと同じである。
先に述べたように、戦後の地方自治は、日本の民主化を実現するために、GHQが未成熟の地方自治制度を無理矢理に整備しようとしたという歴史からスタートし、基本的にその思想を今も引きずっている。シャウプ博士は日本の税制や地方財政制度に論評をしなかったが、地方交付税という制度はもっと早い時期になくなるはずのものと考えていた節がある。しかし交付税は今での厳然と地方財政制度の柱であり、地方税も地方債もそれのお添えものにすぎない。
今の制度がそのまま続けば、極論をすれば政府の長期債務はとどまるところを知らずに積み上がっていくことになり、早晩、日本国は破綻する。それは個別自治体の倒産などどは比べもののないほどのショックである。どこかで制度が変わり、市町村行政を取り巻く環境は激変せざるを得なくなるであろう。そう予想する方が普通である。しかし、それがいつどのような形で訪れるかについては誰にも分からない(安心・安全ではないとはそういうことでもある)。
市町村合併に踏み切れば、あるいは制度変更が起きたときに損をするかもしれない。しかし、たいていは合併をしておいたおかげで、よかったということにもなるだろう。保険として、合併をする価値があるかどうか、ここは首長・議員としては考えどころである。合併の講演会で市町村議員から「あんたの話には夢がない、夢のない話を住民にもちかけるわけにはいかない」との論評を受けた。火災保険にはいるべきかどうかと話すのだから、当然のことだ。自衛のための危機管理に夢があるはずがない。夢のない話を住民できないというのは、住民は何か得になる耳障りのいい話しか受け付けないということでもある。住民の方はもっと賢いように思うのだが、いかがであろうか。
3.取り違えてはいけない自主的合併の意味
自主的合併という言葉も、首長や議員にとっても合併を決断を先送りする盾になっている感がある。自主的に合併するという意味と、好き勝手に、悪し様にいえば狭い利害関係のなかで合併を進めるということは大きな違いがある。
昭和の大合併は、強制合併であったといわれる。それは戦後の民主化政策のなかで、基礎的自治体に大きな仕事を負わせる分権改革が断行され、仕事ができる人員と財源が整わないままに先に制度改革が進んだということが背景にある。当時の小規模町村は合併せざるを得ないような状況に追い込まれたのであって、その意味で行政体制整備が先ではなかった。これを強制的と表現することはできる。昭和28年の町村合併促進法は、議員立法であった。そこには合併せざるを得ない状況に追い込まれた町村の背中を、国会が押す意味があった。
しかし、法制度的にいえば、市町村議会が議決したり住民投票の結果、合併が断行されたのであって、その意味では自主的である。つまり強制合併とは、国会が個々の自治体についての設置法を無理矢理作れば、衆議院選挙の選挙区のように国会が区割りを引き直すことは理論的にはできる。まず国があって、国が地方団体を設置しているというわが国の法制度のもとでは、それはできる。それが連邦制との違いである。したがって、合併を自主的に進めるというのは政策運用上の問題であって、強制合併という選択肢は理論的には残っている。
市町村に大きな権限をもたせる。しかも、当然ながら経済力も自然環境も人口規模も違う市町村に対して、全国一律の制度で実にさまざまなサービスを提供する役割を負わせるという立場を堅持するならば、自主的合併という枠内で行政体制整備を行うのは、かえって無責任ではないかということもできる。市町村の役割を真に重視するならば、国が責任を持ってそれに耐えうる規模に自治体の区割りを定める方が、むしろ一貫性がある。
市町村自治の自主性をあくまで重視するならば、むしろ全国一律のサービス提供は考えない方がよい。公共サービス提供における補完性の原則からすれば、市町村でできることはまずみずからやって、できないことを府県、さらに国に任せるという発想になる。さまざまな規模と経済力を持った基礎自治体があるとすれば、その中で受益と負担の一致という発想でできることをまずやることになる。そのときに、過疎地では必然的に規模の小さな自治体にならざるを得ないので、そこで担える機能は都市部の大規模自治体よりも小さくなるはずである。防災、福祉、衛生の基礎的部分は、自治体としての最低の機能であるが、国民健康保険や介護保険などの保険機能を別とすれば、それくらいのサービスならば人口が数千人でも、自前の税で雇える職員(20人必要としても、2億円の税収があれば足りる)でできる。経済力の乏しい地域では、事業費部分については補助金などの財源保障は必要であろうが、それでも自治体としての独立の精神は保たれるであろう。
現在、自治体の規模によって権能の違いが設けられているのは、町村、普通市、特例市、中核市、政令市の違いであって、小規模自治体については、人口が1000人未満であっても同じである。人口1万人未満の町村は約半分に達している。そこでは権能の違いはない。しかし本来はそこにこそ違いを設けて、どんな町村でもすべてワンセットの行政を行うという発想は放棄すべきである。戦前は権能の低い二級自治体というものがあって、北海道などではどこまで本気かどうかは別としても、合併をするくらいならば二級自治体に甘んじてもいいという声もある。
自主的合併という発想は、規模の小さな自治体でとどまり権能の小さい二級自治体になるか、規模を合併によって拡大して大きな権能を獲得するか、という選択肢を設定してこそ成り立つ問いである。わがまちの自治は守るべきことである、と自信を持っておられる市町村長や議員は多いであろう。もっともなことである。しかし過疎地で経済力が弱い場合、自治を守るためには権能は小さくてもよいといいきれるならば、それは誠に見識というべきものであって、尊重されるべきものである。小規模自治体であって、合併反対というのは、二級自治体はむしろ歓迎すべきこという腹があってこそいいきれるものである。
権能に大きな違いは認めないという原則論に戻るならば、小規模自治体は合併するか清貧に甘んじるかの覚悟をしなければならない。そのときの「自主的」の意味は、首長や議員がわがまちが担うべき権能に対してどの行政区画が必要であるかということを自主的に判断するということになる。つまり、市町村合併とは国家形成の基礎作業であって、首長や議員がこの国のかたちの理念型を深く自覚して行政区画のあり方について決断するということになる。そのときに、地域の狭い利害関係は克服すべき課題になることはあっても、合併できない理由にしてはならない。
国を担うという意思を首長と議員がもたなければ、自主的合併はうまくいかない。しかしそれは合併に限らず政治というもの全般にいえる。利益誘導こそ地方政治と言い切る政治家は、市町村合併に限らずあるべき意思決定をゆがめる原因となる。
4.住民には見えない合併のメリット
合併のメリットとはいくつかあるようであるが、本質的には一つである。それは役所の行政能力を高めることである。人口10万人の普通市の一般行政職員は概数で1000人、5000人の町だと90人くらいである。普通市と町であれば、行っている事務の種類は生活保護や障害者福祉などがはずれるので、普通市が100に対して、町は90ないしは95というところであろう。すなわち、10万人の普通市では1つの仕事を10人で分担しているに対して、5000人の町では同じ仕事を1人でしている計算になる。例を挙げると、普通市では財政課があって職員が10人いるが、町では総務課財政係が1人いるだけということになる。
役所の仕事はいわば弁護士さんと同じであって、法律を運用するノウハウがもっとも重要な能力である。市町村の事務量が飛躍的に増えた今日にあって、法律を読みその運用のあり方を勉強するには相当量の人的スタッフが必要になる。しかるに、小規模町村ではその余裕はほとんどない。国や県からの調査ものに記入するだけで日が暮れるという実状もある。
本当に地方分権が進むならば、市町村は自ら条例を作って規制強化や緩和を行い、その運用を厳しく管理しなければならない。しかし、小規模町村で独自の条例を書くノウハウをもっているところは、ごく例外的なところしかない。そのような機能はこれまでほとんど都道府県におんぶしてきたからである。都道府県でさえ、法定外目的税の条例を書くに際しては苦戦を強いられている。
役所の行政能力は単に職員の人数だけで決まるものではなく、その役所の組織がどれほどしまっているかにもよるが、今日の市町村の事務の密度からいえば、ざっと1000人はほしいところである。そのためには10万人をめざして合併しなければならない。そこで、自治省の市町村合併研究会の報告書では、合併によってめざすべき規模について、市街地の連携があるところでは10万人、中核都市の周りに山間部が広がっているところは5万人、山間部で市街地の連たんが全くないところでも1〜2万人という数値を示している。また、10万人を超える規模の合併は、役所の行政能力という意味ではなく、まったく別の政策目標(たとえば空港や港湾を核とした都市整備など)を達成するといった意味で推進すべきであると考えている。
合併してもメリットが見えないという声がある。これは小規模自治体の行政運営において、現状に置いては都道府県がさまざま支援することで何とかまわっているように見えるが、本当に分権時代になれば自立は望むことはできない、あるいは現状でも町村が本当に発想して企画して独自に行政展開するということがほとんどできていないという実態が、住民からは見えない、いや見えるはずがないことの裏返しである。それが見えるのは住民ではなく、役所と一緒に仕事をしている首長や議員だけである。
したがって首長と議員は、住民が見えない小規模自治体の行政能力の不足を住民に対して説明をし、行政部門の強化のために合併が必要であるということを説明する義務がある。一般の住民は役所もリストラすべきであるといった直観論だけで合併を論じる傾向がある。それを巧みに補うのが政治家の役割である。
5.合併協議会を作って民意を問う必要性
特例法の期限が平成17年3月末に迫っている。特例法の延長はないと総務省は何度も表明している限り、延長することを前提に意思決定することは危険きわまりない。そうなると、合併についてじっくり議論をする時間はごくわずかしか残されていない。
国は都道府県に合併の要綱を作るように指示をし、その結果、ほぼ全都道府県で合併パターンが出そろった。市町村としては、いまは、その区割りに沿って何らかの合併協議を進めるべきである。もっとも合併パターンは参考であるから、その区割りとは別の組み合わせで協議するのでもいっこうに構わない。
かつては法定の合併協議会を作るのは、合併に関しての事前交渉がすんでからのステップであったので、法定協議会はすなわち合併に関する強い意思表明と考えられていた。たとえていうと、かつては合併は本人同士の意思が先行する恋愛結婚であるから、両親に引き合わせたときには結婚が大前提であった。しかし、今後は見合い結婚のように、先に県が組み合わせの案を作った。それに沿った法定協議会は、当然、そこで合併するかどうかを決める場となる。法定協議会の意味合いが違うことになる。それでも法定協議会を作る意味がある。
なぜなら、法定協議会を作って、それぞれの市町村の内部的な情報を出し合わないと、合併後の新自治体がどのような姿になるかはまったくわからないからである。新市建設計画を書いてみて、新市の姿が見えたときに、合併に関する是非を判断する材料が住民にも見える。ここで住民アンケートなりの方法ではっきりと民意を問うことができる。またそれは必要不可欠なステップである。
合併すれば相当額の合併特例債が認められるが、将来の起債の償還を考え財政の長期計画をつくってみると、特例債を限度いっぱい発行することは適当ではないケースも多い。特例債はどれだけ無理なく出せるか、その範囲でできるハードの意味での都市整備はどれだけか。役所の組織はどのように変化し、これまで置けなかった専門職員はどれくらい置けるようになるか。公共料金はどれくらいに設定できるか。それらを明らかにしたときに、新市に魅力があるかが見えてくる。首長と議員はそれらをもとに、勇気を持って民意を問わなければならない。
市町村合併という問題は、首長や議員にとっても扱うに難物である。加えて合併協議会を運営し合併を実現させることはさらに難題である。しかし考えようによっては、この時期に首長や議員をしていることを、大きな役割が与えられたと喜ぶべきである。いまこそその職責を十分に果たしていただきたい。
講師プロフィール
氏
2000年10月13日の第17回ちょっといって講座「地方財政危機と公共事業のあり方」の講師として、お願いしている。関西弁の歯切れのよい主張が大変評判が良く、今回も「市町村合併」の講演で全国各地を“転戦”されている中、再度お呼びした。当日は、早朝徳島から駆けつけて頂き、夕方からまた滋賀県でご講演というハードな日程の中、「また、福井での講演に来ます」という10月13日夜の“甘い”お約束におすがりした次第である。
1960年 大阪市生れ
1983年 関西学院大学経済学部卒業
1992年 関西学院大学助教授
1998年 関西学院大学教授
2000年 第17回ちょっといって講座「地方財政危機と公共事業のあり方」講師として来県
研究テーマ
国と地方の行政改革、発生主義会計、地方自治体の予算決算制度、震災復興、税金、財政投融資、地方行財政、関西経済、東南アジア・東アジアの財政・脱税・腐敗問題、過疎問題、市町村合併、消防団・自治会・町内会・ボランティア、介護保険
主な著作
「転換期の財政投融資」「財政システム」「日本の税制改革」等多数