第4回   ちょっといって講座

「デモクラシーと天皇制」  札幌大学教授 鷲田小弥太氏   

1990年10月22日  於:福井県民会館

 

講演 デモクラシーと天皇制  鷲田小弥太札幌大学教授

T.戦後天皇の本質

1.きわめて特殊な存在としての昭和天皇

 今日は現憲法下における天皇制について、日頃、考えていることをお話したい。

 私の三一書房から出した「天皇制」という本は、右の方にも評判が良くないわけですが、左の方にもずいぶん評判が良くなくて、全ての書評は「読むに耐えない」とうのでずいぶん売れなかった本です。天皇とか天皇制を純粋な議論の対象にして、討論したり深めたりすることが大変難しい国民感情の下に置かれているわけです。

 天皇制を考えるきっかけは、「昭和思想史60年」という、昭和史を彩る62人の思想家を扱った本を書いてからです。ところが、そこに天皇制が少しも考えられていない、それでは昭和思想史にはならないといわれました。しかし、私は本質的に臆病なものですから、天皇制に触れると、とことん言いたいことを言ってしまうんではないか、そうすると、多くの仲良くしていた友人たちを失うんではないかという危険を感じていたわけです。しかし、昭和天皇が死んだというという契機もあって、その日から「天皇論」を書いたわけです。

 天皇制を考える場合、一番困難なのは、昭和天皇というのが大変特異な存在であったということを、頭に置いておかなければなりません。逆に言えば、昭和天皇はいかなる歴代の天皇とも異なるような、極めて特殊な存在であったということです。

@歴史上はじめて、生まれながらにして天皇たるべく生まれた唯一の存在だということです。生まれたのも1901年で20世紀の最初の年に生まれているし、一世一元の法のもとで天皇になったのは昭和天皇が始めてです。もちろん、大正天皇もその法律のもとで天皇になりましたが、彼は第二夫人の子供で、第一夫人に子供ができたら天皇にはなれなかったわけです。大日本帝国憲法の第一条は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」第四条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統率ス」第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ」という歴史的存在として、彼は生まれ育てられたということです。

A昭和天皇は個体としては戦前戦後を通じ連続した存在でしたが、昭和20年8月15日をもっていわば断絶した存在を生きたということです。ここれも特殊まれな存在です。現憲法の第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」第三条「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う。」政治的存在としては、彼は戦前と戦後では全く違う存在者としていたということです。

B第二次世界大戦の敗戦国において、政治的軍事的な最高責任者が、一遍の戦争責任を問われず、また自ら問いもしなかった、まれな存在です。これはいかなる国にも存在しません。いろんな形で天皇は責任を感じていたのだとか、天皇は自ら国民に対して恥じることがあったのだとか、遺憾の意があったのだとかいわれていますが、そのことを明言したことは一度もありません。自分に都合の悪いことをしたときに、「私は心の中で悔ているんだ。だから言う必要ないんだ。」というのを居直りというわけですが、そういう居直りとして存在したわけです。政治的な軍事的な最高責任者が一遍の責任をもとらなかった。軍人は責任をとったわけです。私の祖父なども戦時中に村長をやっていたので、4年間ほど公職追放になりました。国の末端まで政治的な軍事的な責任を問われた人々がいるにもかかわらず、天皇は一遍の責任をも問われなかった。そのことは、私たち日本国民が自らの戦争責任を問わなかったし、問いかけられなかった象徴的存在を天皇が生き抜いたということです。日本人はものが忘れ易いとか、戦争責任を悔いていないとかいういろんな意見がありますが、ある意味ではトップが責任をとらなければ、私たちは何をしてもいいんだという意識になりますが、日本国民はそのことを上手に実行したわけです。

C天皇は戦争責任を免罪された(自ら免罪した)だけではなく、戦後はむしろ平和憲法の象徴としてみごとに変身をとげて生きたわけです。かっては、軍刀を下げた存在が、平和の象徴として振舞った。チャーチル、ルーズベルト、スターリン、毛沢東など戦前から戦後にかけて世界史を賑わした政治的な巨人達よりも、さらにみごとに生き抜いた、とてつもない政治的存在者であったといえます。

2.天皇制の本質

 天皇制を考える場合、一人の人間が全然別の歴史的な存在を生き抜いたということです。天皇制の実体は何なのか。

 それについての統一的な見解はありません。歴史家の意見には大きく2つの意見があって、天皇制を@政治権力の掌握と実行に見る、オーソドックスな考えです。古代天皇制と近代天皇制、いわゆる天皇親政だけが、本来の天皇制であるとする。これに対してA歴史的に一貫してきたものは「祭司王」、宗教的な対象としての存在にあり、政治的権力を持った天皇制は異例(異形)のものであるという考えです。これは網野善彦氏がいわれたことです。昭和天皇はこの二つのどちらをも演じきったといえます。これが、私たちに灘らかに理解できない理由となっています。昭和天皇は天皇制の「極大形式」と「極小形式」を生き抜いたということです。

 天皇制の本質を政治権力の掌握と実行に見るのか、それとも「祭司王」に見るのか、その違いはどこにあるのか。哲学的には「本質は必ず現象する」わけです。今の天皇制は政治権力をほとんどもっていないわけですが、天皇制が政治権力の掌握を本質とするならば、必ずその本質が現れて復活して、また戦前のような天皇制になるということです。それに対して、天皇制の本質は、歴史的に見ても「祭司王」であって、現在の天皇制は「極小」の権力、権力といえるかどうかもわからないような象徴的存在の中に天皇制を意味づけて言えば、政治権力と切り放した天皇制、天皇存在を考えることができます。そうすると、後者が天皇制を賛美しているという意見に聞こえるわけですが、そうではありません。

 戦前型の天皇制を天皇制の本質と見るならば、現在の天皇制は天皇制の仮装形態になり、天皇制の息の根を止めるまで闘い続けなければならないんだということになります。これは現在の天皇制論の主流を占めています。

 それに対し、天皇制は政治権力の1つの側面として存在し続けてきたというものです。天皇制の危機的状況はは沢山あったわけですが、その1つは後醍醐天皇のときに、南北朝に分裂しています。次に、豊織政権のときです。織田信長は天皇を将棋の駒に例えた最初の人だともいわれています。それから、敗戦の時に「天皇退位」を天皇家自身から要求している。しかし、そうした危機にもかかわらず、天皇は歴史上一貫して存在しつづけてきた。それを明らかにしなければ天皇の本質はわからないという意見です。

3.デモクラシーと天皇をどう繋げるか

 平和憲法の原理はデモクラシーである。第一章は天皇である。天皇はいかなる人格も持っていないわけです。これはデモクラシーではない。日本の憲法はデモクラシーを原理としながら、その第一章に非デモクラテックな存在をいただいた奇妙きてれつな憲法である、天皇の第一章を削除しなければならないというのが、ものを原理的に考える人間の常道であり、多くの人が現在もそれを主張しています。

 いまの平和憲法の中に天皇制がどういう意味で存在しているのかということを、今日の意味で考えてみる必要がある。現在の憲法が43年たって、空洞化されたとかいわれますが、空洞化と定着は矛盾しない。平和の象徴として振舞ってきた天皇存在が、原理的に違うものが共存できるのかということを考えてみる必要がある。さらに、現在、社会主義の問題がいろいろ起こっているが、デモクラシーがなかったことに大きな原因がある。基本的人権を単純にいえば、「個人の生命と財産を守る」これは他のいかなる権力(国家権力、社会集団)であれ、これが第一番であるということです。実はエゴイズムなわけです。それを共同社会、国家の目標・原理とするということです。それを、社会主義国はほとんど承認してこなかった。あるいは、文言としては存在したが、社会的実体としては認めなかった。そういう実態の中で、デモクラシーでなければならない、デモクラシーを基礎としない社会主義は恐ろしい専制政治なんだということです。

 日本の社会主義はどういう形態があるのかですが、戦前は悪名高い天皇制社会主義、北一輝の国家社会主義などもありましたが、そういうものではなく、デモクラシー(社会主義)と天皇制をどうつなげるか、つなげることができるのかを考えてみる必要がある。

4.現代天皇制への転換

 天皇制の「極大形式」から「極小形式」への歴史的な経緯は案外知られていません。日本の軍事的な敗戦が愁眉の問題になったとき、米国・英国・中国(国民党將介石政府)はポツダム宣言を発しました。これは1945年7月20日です。無条件降伏を勧告するわけです。この中には天皇制の問題については一言も触れていない。つまり、天皇とその政府を相手にするという態度をとっていないわけです。それに対して日本政府は全くの無回答で応えました。一方、国民に対しては「国体護持かそれとも一億玉砕か」を掲げて、国体を護持しなければ日本国はなくなる、国体護持が受け入れられなければ日本民族が玉砕して、滅びさってもいいんだ、国体のない日本国は考えられないのだからという声明文を発表しました。それへの連合国側の回答は、原爆の投下とソ連軍の参戦の要請でした。

 これはとてつもないことになったということで、8月11日に第1回目の天皇の聖断が下されるわけです。これは天皇が直接断を下したかどうかではなく、御前会議を開いて断が下されたということです。無条件降伏ではなく、有条件降伏の初めての回答をしたわけです。その回答は天皇の国家統治の大権、つまり天皇が国家を統治する大権を持つということを変えないということを連合国側が認めない限り降伏をしないということです。それに対して米英ソ中の回答が直ちに同じ日の11日に出されます。日本の要求には直接応えず、「最終的の日本国の形態は、ポツダム宣言に従い日本国民の自由に表明するの意志により決定されるべきものとする。」したがって、天皇制を護持するとか、天皇大権を承認するとかいうことなどは、敗戦国の政府・天皇にいう権利はないのだという厳しい回答をするわけです。

 ところが、8月14日、第2回目の御前会議が開かれて、聖断が下ります。「日本国民の自由な意志」というのは国体護持以外にははないのだから、これは暗黙のうちに国体護持を認めた回答なんだという解釈をし、「国体護持の感触を得た」として、ポツダム宣言を受諾するわけです。このときも軍部の強い要求により、「国体護持がかなわなければ、本土決戦、一億玉砕やむなし」という国内的条件が付けられたわけです。ということで、8月15日に終戦の詔書が下りるわけです。

 天皇もその政府も敗戦に到る経過の中で、唯一「天皇制を堅持する」という線で一致して交渉に当たり、敗戦の弁を述べるにも、「国体を護持する」んだ、これは民族の悲願である、明日の日本を再建する場合の基づえであるといういいかたで連合国に対応したわけです。

GHQは一連の民主化政策を実施する中で、日本政府が自主的に憲法を改正するという指導をします。ところが、日本政府はもとより自由党、進歩党をはじめ社会党までが、天皇に統治権があるという見解を彼れきするわけです。社会党はさすがに統治権を総覧するとはいいませんでしたが、統治権の一部は天皇にあるという表現でした。天皇制廃止を掲げたのは政治団体では、唯一、共産党だけでした。ただし、野坂参三が1945年4月に中国共産党大会で「民主的日本の建設」という報告をしました。その中では、天皇制は廃止しなければならないが、天皇個人は半ば宗教的な存在であり、その存否は国民投票で決めればよいとし、天皇を退位に追い込まないという表現でした。それで、GHQは憲法草案要綱をたまりかねて1946年2月12日に起草し、直ちに日本政府草案として公          表することを要求したわけです。これに日本政府代表は驚愕し、ものすごい抵抗をしました。しかし、46年3月6日、改正案が要綱として発表されました。敗戦処理          から敗戦直後まで、天皇とその政府ばかりでなく、与野党こぞって疑われなかった「国体」は完全に「護持」されなかった。GHQ原案による憲法の天皇規定は、共産          党の天皇政策と対立しない性格を持っていたということです。いっさいの政治的な権利、政治的な機能というものを天皇から奪って、半宗教的な存在にするという案だったわけです。これを見たとき、あらゆる人は驚愕しましたが、石橋湛山はこれでいいんだと表明しています。

「国体」は何なのかというと、THA NATIONAL CONSTITUTION(国の形)憲法ということです。@万世一系 A天皇統治です。ところが、この二つとも、新憲法により否定されたわけです。万世一系については否定されたかどうかは違う理解があり、天皇の「人間宣言」といわれるものの中でも、万世一系を否定していない。「日本国は綿々と天皇と共に生きてきた。それをやたらと神格化するものがいて、天皇を現人神などといって奉った、これは間違いだが、日本は天皇と共にあったし、天皇も日本国民と共にあった、そうしたきわめていい関係が、いままで続いてきた。しかし、今般の戦争ではそれが幾分歪んでしまった」という中身です。万世一系と天皇大権という形で表現されていた明治憲法下の天皇制から、天皇統治が完全に消滅したわけです。

 しかも、いかなる時代の、その存在が全く消え入りそうな時代の天皇制にも、天皇には2つの機能だけはあったわけです。それは、@年号を決めることA官位を授けることだったわけです。この一番最小の政治的機能を巧みに操って天皇は生き抜いたと言っていいでしょう。

 昭和天皇が死んだとき、小渕官房長官がTVにでてきて、「平成」と見せたわけです。江藤淳が「平成」という年号を天皇に奏上したのかと激しくかかっていましたが、そんなことは関係なく決められたわけです。だから、民主的だというのではなくて、そういうものとして、現在の天皇に政治的な権力がないんだ(あるいは、そういう形であるんだ)ということです。如何なる権力者であれ、将軍であれ、天皇に官位をもらい、そして年号を決めるということさえも今の天皇にはないわけです。

U.象徴天皇制の政治的役割

1.純形式的存在としての天皇

 天皇家は何千億円も使っているし、今、東京にいたら「即位の礼」「大嘗祭」ということで警備が厳しくてたまらないわけです。しかし、いろんなことを引き剥してみると、歴代の天皇とは随分違うということです。もちろん、天皇はどんな場合にでも政治的に利用されたし、自ら利用しようとしました。

 戦後の天皇の「国事行為」は署名だけの純形式的な行為です。それと、りっぱな子供を生むということだけです。ヘーゲルはプロシアの御用哲学者といわれましたが、「法の哲学」という本で「プロシアは世界最高の理想国である」という書き方をしているわけです。「プロシアの皇帝はプロシア国家の象徴であり、鏡である、意志である」と言っています。皇帝は何をするかというと、「@署名をすることと A生殖行為 だ」と露骨に言っています。「それ以上のことをやると、皇帝に政治的責任がかぶさるから、皇帝は純象徴的な存在として君臨すればよい、これが、プロシア皇帝の皇帝たる由縁だ」といっています。ヘーゲルはこれを哲学的用語にまぶしていったから、死ぬまで皇帝の信任が厚かったわけです。

 純形式的だから政治的に無意味だというのではもちろんありません。政治的な形態をとらないからこそ、天皇はきわめて大きな政治的な統合の役割を果たすということです。これが、現在の天皇の天皇たる由縁です。政治権力に対して、半ば独立な存在を保ちながら、しかし、政治的存在者(シンボル)として生き続けてきた、これが、天皇が長く生き続けてきた本質的意味ではないかと思います。

 天皇が弾圧し、天皇が政治権力を握り、軍隊を動かす、その最高責任者であるという、そういう天皇には反対できるが、今の天皇制に対しては、昔がそうだったから今も悪いんだという意識ぐらいではないか。

 戦後の天皇制は「極小」ではあるが、純粋の形式に近い、菅孝行氏の言葉を借りれば「現在の天皇制は天皇制の最高形態」といえます。マルクスは「ブルジョア民主主義をブルジョア国家の最高形態である」といっていますが、それと同じ様な意味です。

 綿々と歴史的にたどれば1300年続いてきた天皇制の本質を、いわば、純化した形態で、天皇制があるといえます。

2.象徴天皇制の定着

1960年以前は、天皇が日本各地を回って巡幸してあるく「庶民に親しまれる天皇」とか「ミッチーブーム」とかで、あまり天皇復活の動きはありませんでした。ところが、1960を過ぎたあたりから、「期待される人間像」が出され、天皇復権の動きが台頭してくるわけです。国旗、君が代強制、学習指導要領への組み込みなどです。しかし、これをすごく恐ろしいんだと考えると、いくぶん歴史の動きと違う判断をしてしまうのではないかと思うわけです。60年までは、日本の政府並びに戦前の天皇制を復活させたいという人は、何らかの形で憲法改正し、天皇制を復活しようと意図し策動したわけです。ところが、60年以降、憲法改正とか、天皇に別な政治的権限を与えることなどは、政治的な行動・政策としては不可能であるから、現憲法下においてなしうるあらゆることをしようとしたわけです。天皇制を意義付け、強化し、存在を美化しようとしたわけです。

 三島由起夫は1970年に自殺したわけですが、「憲法改正を日本のあらゆる政治勢力があきらめてしまった」という絶望感からです。彼が実際に唱えたのは「文化防衛論」です。日本の天皇制は文化の象徴である。そういう古代天皇制を近代に復活しなければならないんだという、戦前の軍事的の統帥の天皇としてではなく、文化の象徴としての天皇制をもっと国民の柱にして日本がやっていかなければ、エコミックアニマルに成り下がってしまうんだ、こういう意見です。

 戦後天皇制は1960年を境にして、戦後デモクラシーの中に純化した形で残そう、デモクラシーの中に最大限天皇を位置づけるというのが、天皇を評価しようとする場合の基本的視点であるといえます。

 今の自由民主党は政治綱領として2つのことを持っています。@憲法改正とA軍事的な自立(安保改正)です。しかし、自民党はこれを表面に出さず、憲法護持と安保条約堅持を全面に立てています。そういう絶対矛盾の自己同一的存在です。政治綱領と実際の政策とが異なっています。昨年、自由民主党の綱領検討委員会をつくった時、「こんな時代遅れの政治綱領を持った政党はない、憲法改正を言う前に、私たちの政治綱領を検討しよう」という議論が起こったので、あわてて委員会を解散してしまったということです。実際、真面目に議論すれば、そういう状態に今の政権政党はあるといえます。

V.日本特殊性論と天皇制

1.天皇は「万世一系」か

 天皇制論は日本特殊性論とワンセットで語られてきました。その第一は万世一系です。日本天皇家と日本国家と言うのは、同時的に発生し、現在に到っているというものです。これに対しては、デタラメであるというのを証明することはそんなに難しくはない。福井出身ともいわれる継体天皇は、大王家を継ぐ人が誰もいなくなったので、よそのくに(福井)からもってきたということです。しかし、万世一系とうい概念は綿々と1300年は続いてきたわけです。王朝が1300年なんであれ日本の政治権力の一角を占めて、明治以来、近代国家の中で復活したということです。これは世界にとってはまさしく驚異なわけです。

 万世一系が国民の感情の中にどういう形で含まれているかわかりませんが、1300年続いたということが、「ちょっと壊すには惜しい」と思う存在なのです。私の住んでいる町は、かっては5千人の人口でしたが、いまは11万人です。そうすると、昔の住人など誰も相手にしないわけです。しかし、神社があると、これはおれのじいさんが建てたのだとか言えるわけです。そういうものは馬鹿にしてはいけない存在なのです。

2.天皇制は「アジア的専制」か

 天皇制は「アジア的な専制」(遅れた近代)であるといういいかたがあります。つまり、天皇制は獰猛な反動であるといういいかたです。中国などはアジア的な専制の典型であり、どんな政体がきても弾圧されるといういいかたです。しかし、「アジア的専制」というのは、マルクスの完全な間違いだと思います。それは、ヨーロッパ近代が生み出した差別語です。「アジア的専制」とマルクスがいっているのは、インドとかロシアの共同体のことですが、神島二郎氏によれば、この共同体は近代資本主義が生み出したものです。古くからあったものではなくて、近代的な生産が生み出したものなのです。日本の寄生地主制も「アジア的専制」と天皇制を結び付けるものですが、これは封建的遺制ではなくて、近代的生産が生み出した産物なわけです。こうした理解の仕方は、アジアというものを文化の遅れた政治形態の遅れた国々として見ていた、ヨーロッパの偏見をマルクスが受け継いたわけです。

 丸山真男氏は、西欧近代の成立は君主制を打ち倒して生まれる。ところが、日本の近代は天皇制を引っ張り出した。前近代を引き継いだ野蛮の象徴が天皇制であり、天皇制がなくならないかぎり近代は来ないという論文を発表し、戦後思想家のチャンピオンになるわけです。しかし、日本の近代天皇制は近代以前にはなかった天皇制です。日本の民主主義が天皇を引っ張り出したのです。ヨーロッパは君主制を打ち倒してデモクラシーを実現したが、日本はデモクラシーを実現するために天皇を引っ張り出したわけです。天皇が存在するかぎり政教分離はないから、あいかわらず日本は前近代的国家なのだというのが丸山氏の主張ですが、世界の国で政教を分離している国は、フランスと米国ぐらいです。政教分離をしていないから非近代的だという議論は余り説得力を持たないといえます。

3.「単一民族論」と「閉鎖社会論」

 天皇制と結び付いて議論されるのに、単一民族論と閉鎖社会論があります。梶山法相が最近、とんでもない発言(本心)をいいましたが、これは、実態とは違います。日本は単一社会ではなく、確実に複合社会です。古田武彦氏も主張するように、沢山の王朝もありました。日本が近代になったときには、日本のものをみんな捨てて、外国のものを取り入れました。日本の近代以前は鎖国であったといいますが、鎖国とは国を開く一つの方法であったわけです。日本が政治的な統一と軍事的な統一をしていない分裂国家であったからです。その江戸時代に、二つの国とは貿易をしています。一つはオランダです。一つは清国です。17世紀のオランダという国は、世界最強の国で、いっさいの富がアムステルダムに集中したといわれます。スペインから独立しましたが、そこから始めて近代的なデモクラシーと自由貿易が生まれました。また自由思想家建ちもぞくぞくと出てくるわけです。私の好きなスピノザもオランダから出てくるわけです。オランダと貿易しているというのは、世界と貿易しているということです。幕府が貿易を独占していただけです。

4.「一木一草に天皇制がある」

 一木一草に天皇制があると竹内好氏はいっています。「細胞の隅々までに天皇制が染み渡っていると」いっているわけです。その根拠は村落共同体です。しかし、現在、村はありますが、村落共同体は存在しません。大嘗祭では稲を植えたものを刈り取ってきて儀式に使う、それは日本国民の象徴である、日本国民の基底に稲作文化がにある。稲作の豊穣を祝う、その頂点に天皇がいる。網野善彦氏によれば、日本の古代社会は水稲が主食ではありませんでした。また、非農業民がとてつもなく多かったわけです。非民・遊芸人といわれた人々(技術者)と天皇家とが自由に結び付いていたということです。だから、農村共同体がなくなったから、天皇制の根拠はなくなったのだということではないわけです。

W.天皇(一者)の使用価値

1.平等と嫉妬、万人に対する万人の闘争と国家の調停

 天皇の使用価値は絶大なものがあるといえます。天皇が政治的な存在としては、政治から完全に切り離された形で、象徴として君臨して、シンボル的な意味をもって支配する、利用される存在というのは、現在の社会でも掛け値無しで重要ではないかと思うわけです。デモクラシーはとてつもなく難しいものです。デモクラシーを近代社会で最初にいった人はホッブズです。「人間は平等である」といいました。力の総体においてはそんなに差はない。人間は平等だから、ある人が成功して、ある人が失敗すれば、失敗者は成功者を恨むわけです。「あいつは成功したこすいやつだ」「わたしは失敗した不幸な者だ」と。人の最も自然的な観念は「嫉妬」だあるといいました。嫉妬心を出さずにやっていけるかということは非常に大きいわけです。本来は平等だと思うから嫉妬心が起こるわけです。

 デモクラシーではだれがチャンピオンとなるかは決まらない。みんなでやって、大体、力の強い人が勝ちますが、しかし、その人は次の人と力の差はあまりないから、必ず落ちるわけです。絶対に勝つという保証ははなにもないわけです。全ての人が「自分」「自分」と主張すると、自分の利益と他人の利益がぶつかって、「万人に対する万人の闘い」になってしまいます。これは社会的危機の状態です。それでは困るので、私の利害を引っ込めるから、おまえの利害も引っ込めなさいということになる。個人個人が喧嘩をする場合には武器を使わないでやる。判定権を国家に預ける。これが民主国家の始めだということてす。次に、国家を握ろうと闘争するわけです。国家を握る人間が一番うまくやるわけです。それでも決着はつかない。デモクラシーとは常に個人と個人とが、個人と国家とが、国家と国家の間で不断の闘いがある社会、それをうまく調整していく社会、その中で、不変的な価値、不変的な位置とかは存在しない社会なわけです。

2.デモクラシーに君主を継足す ヘーゲル

 こうした、デモクラシーの欠陥を理論的に乗り越えようとしたのがヘーゲルです。「万人に対する万人の闘い」を最終的に調停し、共同体が生きていくためには、国家を代表する一者がいる。象徴です。訳の分からない漠然としたもので、人々がまとまっていくという最低限の取り決めなわけです。象徴的な存在によって、国家の中で、第一番目になろうとする者の野望を砕くわけです。象徴的存在の次の人にはなれますが、一番にはなれないわけですから。競争ではないわけです。社会からはじき出された者が象徴として君臨するわけです。それは国家の意志を代表し、社会全体の意志を代表する、しかし、どんな意志決定権ももっていないわけです。こういう漠然とした存在があるからこそ、社会はいくぶんまとまる。

 天皇制は日本国民が望んだ訳ではないし、天皇自身も望んだ訳ではないし、米国も望んだ訳ではないが、デモクラシーの安全弁として、ガス抜きをしていく存在としてなってしまったわけです。、独裁者もその下で独裁をしなければならない、つまり独裁者を独裁者と認めない存在を前提としているわけです。

3.「真理」を独裁的に押しつけるよりは、間違ってもデモクラシーの方がいい

 デモクラシーとは手段だといえます。最後は評決するわけです。ルソーは全体意志と多数意志ということをいっていますが、多数意志は真理を代弁していません。各々の利害の調整で、多数を占めた者が勝つわけです。全体のことを考える意志がなければならない。それは理性的な存在者、あらゆる条件であらゆることを答えることができる存在者、つまりルソー自身なわけです。ルソーのいうことをみんなが聞くことが民主主義だということになります。こういう考えはものすごく恐いことです。ペレストロイカで恐いことは、権力がゴルバチョフに集中していきながら、ゴルバチョフは民主主義をやっていることです。出来るかどうか難しいことです。今までしたひとは一人もいませんから。内容がいいから独裁的手法でやるのがいいんだということほど危険なことはありません。間違ってもいいから、多数意見のほうがいいというのがデモクラシーです。一人の人に権力が集中し、一人の人の意見がどんなに正しくとも、それを全体に下ろして実現しようとした場合、社会は悲惨になります。「マルクスの思想はいい」という言い方ですが、「マルクスが言ったからいい」という意見なのです。そういう思想を受け入れながら社会主義を実現していこうというのはとんでもな思想です。

4.天皇制はデモクラシーの補完物たりうる?

 国家がなくなれば、一者など存在しなくてもいいわけです。「内乱を革命に転化する」というのではなく、一つの社会がいくぶん同心円的に形成して、変わっていくということを前提にすれば、一者という存在をデモクラシーを補完するものとして、利用価値的に考えていくことができます。もちろん、根底にデモクラシーがなければなりません。ないときにゆうことはとんでもない間違いです。しかし、現在の日本の社会にはデモクラシーがあると考えています。

 

質問

T氏 中曽根元首相が天皇は「天空にさんぜんと輝いている太陽の如きもの」といったそうですが、先生のデモクラシーを補完する第一者とは同じことではないのか。集会アピールに「新天皇の即位は憲法にふさわしいものでなければならず、憲法の信仰の自由や政教分離の原則からすれば、非宗教的なものでなければなりません」と書いてありますが、わたしは、天皇制そのものが、宗教性を抜きにしては存在し得ないと思うわけで、アピールに矛盾があるのではないかと思います。遊芸人と天皇制の結び付きについても聞きたい。天皇制の反対極に部落差別とか外国人を排斥する思想があるのではないか。基本的人権を掲げながら、憲法の中に天皇制を内抱しているのは内部矛盾ではないのか。

 

鷲田  天皇は宗教的な存在者ですが、宗教だけで存在しているわけではありません。政治的な国家を私たちが作って、それがいくぶん長く存在しているということを前提としたうえで、なるべく政治的に無害なものが、国民的な統合をするというのは、大変危険を伴うけれども、どういう形にするかを選びとる必要があるわけです。天皇制とはもういえないと思うわけですが、天皇のこういう政治的利用の仕方はあるといえます。

 政教分離の問題では、原理的に正しいものを政治的な仕組みの中で求めて行くことは、理念としては正しいことですが、間違うのではないかと思います。原理的にいうということは重要です。しかし、原理的に純化したことは何かをつかまえることは非常に困難です。たとえば、共産主義ですが、国家もないし、自由人たちの連合ということですが純粋民主主義とどこが違うのか、私有財産制もないということですが、私有財産制が成熟して捨てようというならいいですが、持ったこともない人が土地をみんな捨てようと言われると恐い気がします。

 天皇制に反対するという場合、こっち側と全く違うことをぶつけ合うということは非常に有効です。それをしなければなりません。私の好きな作家である大西巨人は、相手方と絶対に原理的な同一をしません。反対に、中野重治はこっちの原理みたいなことをゆうわけですが、相手の中に取り込まれていってしまいます。私も中野重治のような性格です。私は私なりに天皇制批判をやって行きたいと思っていますが、去年やった天皇制の集会では「おまえは天皇制大擁護だ、非国民だ」といわれましたが、そういういいかたは非常に天皇的だと思います。特に、社会主義者とか左翼といわれる人たちは自分たちと違う意見を持つと仲間はずしするわけです。赤(革命)と黒(教会)という差はあります。しかし、近づいて行くと、どこが差かわからない。おまえの意見は結果的に天皇制擁護だと言われれば、そうだとしか答えようがないが、結果的におまえはこうなんだということは、すごく恐いと思います。昨年3月に学習会に行ったとき、わたしの上の世代の尊敬する先輩は横を向かれました。天皇制のために「18年間監獄にいたんだと」いわれました。しかし、過去の歴史的な意識をいくぶん整理して現在の問題に立ち向かわないとだめであろうというのが私の意見です。

 

・・・・講師の紹介・・・・

鷲田小彌太  1942年、札幌市生れ、大阪大学文学部卒業後、1975年から三重短大講師、80年・同教授を経て、1983年から札幌大学教養学部教授(哲学・倫理学担当)、主な著書に「昭和思想史60年」「脳死論」「天皇論」「スピノザの方へ」「書評の同時代史」「何をよんだらいいのか」「書物の戦場」「吉本ばなな論」「吉本隆明論」など多数。曽祖父は福井市黒丸城町の出身。

 

・・・・・編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 1990年11月12日に「即位の礼」、11月22・23日に「大嘗祭」が81億円の巨費を使って行なわれます。「即位の礼」については、憲法への配慮があるものの、旧「登極令」の諸儀式を踏襲し、天孫降臨神話に基づく内容もあり、憲法が禁止する宗教的色彩の濃い行事も行なわれることが予想されます。また、「大嘗祭」は、宗教儀式そのものであり、政府も国事行為とすることはできないとしていますが、皇室関係の私費である内廷費ではなく、公費である宮廷費で賄われることになっており、このような高度に宗教的な行事が公費を使って行なわれる事は、憲法上許されることではありません。しかし、ある人は、「大嘗祭」への内廷費の支出も認められないとか、「即位の礼」についても反対であるとかの議論も見られます。

 今回の「ちょっといって講座」では、こうした「即位の礼」「大嘗祭」をめぐる、さまざまな議論を、天皇制そのものの存在意義にまで遡って考えてみようと企画したものです。昭和天皇は戦前の「極大」と戦後の「極小」の天皇制を同一者が生きたということで、理論的にも、感情的にもは分かりにくい存在であったともいえます。明仁新天皇は「日本国憲法を守る」としており、昭和天皇と同一視することはできず、理論的、感情的に改めて整理し直す必要があるといえます。

 天皇制について様々な意見があることは当然であり、正常なことです。個人的には「天皇制の廃止」も一つの意見といえます。憲法の第一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」としています。これは、天皇の地位は、憲法制定当時の日本国民大多数の意志であるということです。ルソーのいう「多数意志」といえます。だから、「国民は天皇を象徴と思うべきであり、思わない者は非国民である」というのは、きわめて危険であるといえます。まして、刑事罰によって、天皇が象徴であることを強制していくことは許されるものではありません。しかし、「天皇制の廃止」は正論だ、「そう思わないおまえはおかしい」という意見も、また、危険だといえます。また、憲法の第一章は矛盾があるが、第九条は擁護しなければならないという議論にも「矛盾」があるといえます。「多数意志」は自分の思いの様には「純化」はできないともいえます。

 今回の「ちょっといって講座」を聞いて、「反対の集会に来たのに、あの講演はなんだ」とか、「話はわかるが、あまりにもあぶない」という意見もありました。しかし、今回の企画の趣旨は、一方的に「反対」という立場ではなく、「こうした考えもある」ということを含め、もう一度、この機会に(雲上人・財閥から3LDKに降りてきたことでもあり)、天皇制というものを改めて考えてみよう、憲法と天皇について整理してみようというもので、私たちの価値観の軸を、ちょっとぞらせて議論していこうというものです。したがって、講師もいっているように、強固な反対の意志、運動があることを前提とするものです(たとえば、「神聖喜劇」の大西巨人氏のような)し、そうした、多様な意見、意志はいかなる社会体制においても十分に必要だということを前提にして議論していこうというものです。

 大嘗祭と憲法の問題については、東北大学の遠藤比呂通助教授が雑誌「世界」11月号に「大嘗祭と象徴天皇制」ということで、整理して書いているので合せて読まれては如何がでしょうか。