たけふ発:まちづくり夢会議 

   1999.10.21

              武生商工会議所

●コーディネーター

 大森 彌 東京大学教授

 (地方分権推進委員会・くらしづくり部会長)

 

●プレゼンテーター

 河端芳江  武生市連合青年団

 大久保裕介 福井県立足羽高校教諭

 石川浩  (社)武生青年会議所・直前理事長

 牧野勲  武生市国際交流協会幹事長

 大沼清仁  武生市林政室

 

司会 伊原尚子(夢会議実行委員)

 本日の夢会議は「いよいよ地方分権・私たちは」と題しみなさまの活発な議論をお願いしたと思います。今年の夏には地方分権一括法が成立し、来年4月より施行されます。地方分権といいましても、私たちにはピンとこないものがありますが、これまで以上に私たちの住んでいる町を私たち自身でつくることが求められているということです。そのため、私たちが何をしなければならないかを、この討論に参加される皆さまと一緒に考えたいと思います。

 

プレゼンテーターからの問題提起

大森彌(東京大学教授)

 秋田県鷹ノ巣町という町で、ケアタウン鷹ノ巣という新しい高齢者用の施設の開所が行なわれました。映画監督の羽田澄子さんが映画に撮られて、新しい映画ができました。「町民が選んだ福祉の町」の続編です。「問題はこれからです」という映画です。羽田さんはが撮り続けた住民の風景があります。それが「鷹ノ巣町のワーキンググループ」という冊子になっています。その中に名文があります『住民参加をちゃんとやるとこのように物事の意識が変わる』というものです。63歳の民生児童委員の方の文章です。

 「この活動を始めるまでは、政治とか行政とかは別世界のことだ。御上のなさることは、自分たちにとって不利益なことでも黙っているしかないと、諦めに似た気持ちを持っていた。しかし、活動し、行政に提案したことが徐々に実現していくにつれ、ひょっとして、これは諦めてはいけない、最初は不可能でもやっていくうちに可能になるのではないかと思えるようになった」と。

 住民は変わるのです。変わる仕掛けを役所がつくるかどうか。役所は住民を信頼し、住民が参加する以外に住民は絶対に変わらない。そのことを何よりも大事に考えていきたい。町は役所だけではつくれない。役所と住民の共同の作品です。どちらか一方に片寄っていてはいい町にならない。これは鷹ノ巣町で実際に起った変化です。そのように町長と議会と役場が変わることではないか。

 

大沼清仁(武生市林政室)

 林野庁から出向しています。国の仕事も知っている。武生の外から転入してきた一市民として話しをしてみたい。なぜ、できない地方分権というテーマです。

 地方分権一括法が来年4月に施行されます。これに向かって条例を整備しようと枠組み作りの整備が進められています。それで地方分権が終わりかといえば、まだ入口に過ぎない。魂が入っていない。魂を入れるにはどうするか。

 国で仕事をしていたとき、権限の委譲について議論をしていました。権限を中央官庁は離したくない。権限にまつわる利権を離したくないからです。天下り先の関系団体の仕事を少しでも確保しようとする。また、これまで自分のやってきた仕事は何かを問われることになるので、出来るだけ現状を維持したい。

 省庁の再編という問題がありました。省庁内部の圧力、関係団体、族議員からの圧力などがあり、適切な省庁再編だったかについては議論のあるところです。改革の中では自分自身の身を切ることが出来ないということもあったかと思います。

 地方分権は、いまのままでは失敗とか、実効性が無いという結果が待ち受けているのではないかと思っています。私が国からこちらに来たとき、市町村は地元に密着しているので、地元のニーズに基づいて仕事が行われているのではと思っていました(霞ヶ関は縦割りです)。横との連携が確保されることを期待していましたが、実態は縦割りのままでした。住民本位とはいえないのでは。市町村は県しかみていない。横の連絡が無い。県は国の方を見て市町村に伝え、管理する。住民がいない。思っていた以上に軽視されている。この体制が100年以上も続いている。「県のいうことを聞かなければならない。反論してはいけない。」と根底に根付いている。県は市町村という「よき手足」を得て、それを管理している中間管理職です。この制度の下でお金も流れてくる。

 これからの地方分権の制度では、国・県・市町村が対等の関係で協力していくという意識を持たなければならない。自分で企画し・計画して実行する。創造的な仕事が出来るということで、遣り甲斐がある反面、責任を持たなければならない。霞ヶ関では「市町村は責任を取れるのか」「市町村は企画立案をできるのか」という議論を聞きます。そういう能力が必要なら能力の養成を行えばよい。研究開発費を充当する。人材育成費を増やす。努力すればある程度のところまでいきます。個人の能力を伸ばすことは必要不可欠です。地方分権によって、仕事の量は確実に増える。金も流れては来るが、職員の量を増やすことができるかどうかというと、一般の市民が認めるかどうかですが、たぶん難しい。仕事をこなせるように能力を開発する必要がある。役所が人に投資して能力を磨かせることも必要になってくる。

 仕事を減らすに当たって民間に委託するという議論もある。市町村の仕事を委譲することは勇気が必要なことかもしれない。民間に委託する場合、自分の市がどう行く方向に進もうとしているかを伝えないと民間主導型の計画になってしまう。市の方針が明確でなければならない。だが、政策論議が市役所の内部で行われているのかどうか。

 役所自身の問題点も多々ある。組織の変革、組織としての方針決定の手順、任用、人材登用等。組織の変革は地方分権の実施とあわせて行うべきです。方針決定の手順は役所の説明責任が求められる中で、明確さ、迅速さ、統一性が求められます。一つの課や係、市の全体の方針をつかさどる階級(レベル)、部局についても同じことがいえます。任用も能力重視で差をつけることも活性化につながる。

 組織に働きかけることは時間がかかる。そこで、3つを提案したい。まず1つ、住民が主体であるという意識を市の職員も持つ。2つ、自分の町はすばらしい町だといえる自信・意識を持つことです。3つ目、対話ができることです。

 役所には大勢の人が働いています。能力を100%生かして働いている人はいないのではないでしょうか。それを80%、90%にしていけば行政の活性化につながるのではないでしょうか。

 

 大森彌(東京大学教授)

 大沼さんは林野庁出身ですが、国の役人でも現場にくるとこのように変わるわけです。その点で、国の役人が来ることは悪いことではない。身分を切り替えて来るわけです。県庁などの主だった部署は国から来ています。自治省・大蔵省・建設省が御三家といわれています。土木部長などは建設省から来ています。だから土木部は体質が直らない。この人事交流のあり方も分権委員会で議論した一つでした。国や県庁の人が持続的に一定のポジションを占め続けてはならない。固有で採用された人たちが経験できませんから、人材養成などできません。

 分権改革に則して、地方自治体にボールが投げ返された状態にあります。

 大学で学部長をしたとき勤勉手当ての配分について議論しました。職員の方は勤勉手当てを均等に分けています。これは違法です。みんなに渡るように分けている。大学の教授会で「これからは、勤勉手当てを勤勉な人に配布します」と提案しました。大学では助手を含め教官は300人います。学問もやり、講義もやり、いろんな仕事もやっている人は勤勉です。学問やらないで、もっか準備中という看板を掲げ20年も論文も書かない人もいます。講義もそこそこ、雑用もやらない。そんな人に勤勉手当てを出すことは絶対まかりならない。5段階表に合わせて配分をきちっとやるといいました。教授会で言ったおかげで誰からも苦情を受けませんでした。その程度のことは自治体でもやらなければなりません。住民にとっては、このことについて、ものを言えるチャンスはほとんどないのです。

 

 河端芳江(武生市連合青年団)

 武生市連合青年団の河端です。少子高齢社会が進む中、私たちの支払う税金がどのように有効利用されているのでしょうか。新幹線の整備計画ですが、南越駅まで十数年後に整備されるといいますが、一方で、建設に伴う費用負担の問題が隠されています。本当に街のためになるのか、いまより便利になるのか、論議と情報公開が必要です。新幹線が開通すれば、東京まで10分程度短縮されるそうですが、南越駅には何本の列車が停車するのでしょうか。福井駅にはほとんどの列車が停車するでしょうが、福井・南越間は5分程度であり、高速交通体系にとって、両駅停車のメリットはありません。丹南地区の住民は福井か敦賀で乗り換えたほうが便利になってしまいます。新幹線が整備されるとJRは在来線の運営を行わなくなります。在来線は第三セクターの運営になり、第三セクターの設立や毎年の赤字の穴埋めのために沢山の税金が必要になります。しかも武生駅は朝夕の通勤列車しか走らないため、再開発を進めている駅前は閑散としてしまいます。南越駅と武生駅を結ぶアクセスも必要となります。1000億円以上といわれる地元負担の財源の問題も考えられます。メリット以上のデメリットがあります。

 貴重な税金をどのように使うのか。限られた予算を本当に有効に使っていくには事業評価が必要です。

 

 大森彌(東京大学教授)

 政治家は年寄りが多いわけですが、色々なことを決めている。これからそのことを背負って立つ若者から見て、納得できないことは言うべきだと思います。ある事業を行うときは、その事業が誰にとって利益があるか、誰が負担するのか、どのくらいの時間をかけて、どのくらいの費用をかけて行うのかといったことを「事務事業評価」といって、三重県庁などでは大々的に始めています。

 

会場から(青年団)

 得る情報が非常に少ない。公の情報がほしい。

 大森彌(東京大学教授)

 新幹線の問題をどうするかは、この土地の将来をかなり決めていきます。そこに暮らす人たちが無関心だと、ある考え方だけでどんどん進むことになります。一定規模以上のお金を使い出すと後戻りができなくなってしまう。人任せをせずに自分たちで議論することが必要です。

 東京のある自治体で、「早朝にごみ収集をやれ」という要求が出た。一斉に全市でやるとどういう状況になるのか分からないので、まず、モデル的にやりどれくらいのコストがかかるか事前評価をやってみよう、やった情報を住民に返して、本当に早朝のごみ収集がいいかどうか決めようとしました。結果、やっぱり早朝のごみ収集はやめようということになりました。住民が物事を判断するには、きちっとした事実が示されないと判断ができない。データーを隠したままで、大きなことを決めてしまって、後から騒動になる。それでまたお金がかかる。成田新国際空港などもそうです。

 一部の政治家たちだけに、この意思決定を委ねてはいけません。

 

大久保裕介 (福井県立足羽高校教諭)

 小・中・高校が子供たちにうまく適合できなくなってきています。小中学校では不登校ということで、学校へ行かない生徒がどんどん増えています。高校では中退する生徒が年々増えています。小中学校では全国で12万人が不登校になっています。高校では12万人の生徒が高校を中退しています。我が県では不登校の生徒は700人を超えています。中学校では1クラスに1人という数字です。高校では500人が中退しています。大変な数字です。

 経験したことのない教育受難の時代です。原因はいろいろあり、社会的変化、家庭、学校の対応等が複合されているのでしょう。私の子供の時代と比較して、生の体験をしなくなったのではないか。私の子供のころは、ほとんど夜暗くなるまで「鬼ごっこ」や、「かくれんぼ」をして人との付き合い方を学んでいた。自然体験も、毎日木に登ったり、魚釣りをしたり、日常的に遊びながらしていました。生活体験も農村では農繁期には手伝いをしていました。そうした、体験で感動したり、喜んだり、辛さが分かったりして、興味、関心、知的好奇心を作りだし、学ぶ意欲、生きる力が出来てきました。今の子供たちは、映像などはありますが、言葉だけで物事を覚えるという意味では、どうしても関心を引き起こすことができなくて、無関心、無気力、無感動な子供たちに育ってきたのではないでしょうか。

 学校だけでは子供を育てられない時代です。学校から出て、社会の現場で職業体験をしたり、見学をしたり、地域の文化活動、スポーツ活動、子供会活動を活発にして、学校以外の場で、みんなで子供たちを育てていかなければ、子供を育てられません。学校自身も開かれた学校にして、保護者や地域の人が学校に来て実社会の話をしていただくこともよい。保護者や地域の立場で学校の運営にも意見を出していただくのがいいのではないか。

 しかし、財政的な問題、学級定数の問題もありますが、地方独自の取り組みやシステムが必要です。地方分権を越えて教育分権というか、中央の統制ではなく子供たちの成長に責任を持った親の意見、地域の住民の意見を反映できるシステムが必要です。

 地方分権で、県や市に権力が移るわけですが、その移った先の権力が強くなり、学校の管理体制を強化しようというのではだめです。私は「子供分権」という言葉を使いますが、学校の主人公は子供ですから、子供の意見によく耳を傾けて学校を運営していくべきです。

 ところで、教育分権によって教育の分野でどのような変化と工夫ができるのか。一方、地方分権という大きなうねりの中で、教育分権が取り残されているのではないでしょうか。

 

 大森彌(東京大学教授)

 今回の地方分権の中で文部省とやり取りをしました。もともと教育委員会の仕組みは分権的なわけですが、体質が集権的なものですから、集権的に運営がされてきました。今回7点ぐらいの改革をしました。

 小中学校の義務教育では、学期はいつからいつまでというのは、これまで県の教育委員会でしたが、市町村の教育委員会に権限が移ります。学期は地域性を反映し、寒いところも暑いところもありますから、必ずしも、4月1日からでなくともいいということです。

 通学区域、修学校の指定ですが、学校は何処へ行くかですが、これが従来は悪名高い「機関委任事務」でしたが、今回「自治事務」となりました。いくつかの自治体では学校区域をばらそうという動きがありますが、保護者との関係で微妙な問題を生み出します。非常に大きなアンバランスを生み出す恐れはありますが、どうしても、この学校から別の学校に変えさせてほしいと教育委員会に相談した場合、十分変えうることになりました。

 学級編成の問題ですが、学校の先生の給料の半分は国が負担しています。半分は都道府県が持っています。そこで、都道府県が、人事を一貫して行う仕組みになっています。本来は市町村でやってもいいのですが、市町村長に聞くと、「あの先生が欲しい」、「あの先生がいやだ」とずいぶんはっきりしていて、いいところはいい、悪いところは履きだまりのようになってしまいます。そこで、今は都道府県が全体を見回して人事をやっています。

 この先生の給料の負担分の基準が1学級当たり40人ということです。今回の分権改革で大蔵省がうんと言わないので悩ましいのですが、40人学級を基盤にして、もし都道府県・市町村が40人を35人にするなら、お金は都道府県・市町村が持てばいいということで、弾力化の方向に向かいました。 

 カリキュラムは硬いのですが、従来のように、つついっぱい授業をやるという体制は崩しました。ゆとりをもたらす科目については、教育委員会の裁量にゆだねようということになりました。カリキュラムの編成に自治の力が入ることになりました。

 学校管理ですが、教育委員会は学校管理規則を定めています。全国画一的、中央集権的です。これを全面的に変えるべきではないかという交渉をしました。今後は学校管理規則をそれぞれの市町村が決めればよい、柔軟にしてもよいことになりました。この学校管理のあり方については、文部省と議論したとき、小学校は学校教育のためにだけあるのではなく、地域の施設ではないか、施設を使うのも弾力化の方向に向かいつつあります。児童が少なくなり、小学校が廃校直前になったので、それを介護保険対応の住宅に変えるようなところもあります。公共施設を多目的に使える余地が拡大している。「学校評議会」のように地域の人たちが参加して運営できる仕掛けが許容されている。

 制度的には、従前、教育長が承認制でした。国の役所が自治体の人事権に介入する異例のやり方でした。都道府県教育長は文部大臣の承認制、市町村教育長は都道府県教育委員会の承認を待って人事を行うことになっていました。こんな人事に介入することはけしからんということで廃止になりました。しかし、教育の領域にあまり党派が持ち込まれることは問題です。中立性を担保し、教育長に然るべき人を選んでいただくことは自治の観点からは大事です。

 最大の難関は、文部行政だけに限って、一般的に都道府県・市町村を縛っている法律があります。地方教育行政の組織及び運営に関する特別法です。私は廃止を目指しましたが、廃止には至りませんでした。この法律の最大の欠点は、文部大臣は都道府県教育委員会、市町村教育委員会の所管しているあらゆる事項に対して文部大臣が直接、指導、援助、助言するものとするとい立て方です。みんな上を向くことになります。法律を全部撤廃することは、文教族と呼ばれる政治家の強い抵抗でできませんでした。今回直したのは、「するものとする」を「することができる」に変えてもらいました。今後都道府県、市町村教育委員会の方は、従来の考えを脱却してもらわないと、この可能性は生きてきません。都道府県教育委員会が大問題です。非常に中央集権的な思考です。指導主事が問題です。市町村がびびる。システムそのものは分権的でしたが、いろんな集権的体質を持ちつづけてきたわけです。集権的な意識とやり方の弊害が現れています。学校を地域が取り戻すことが重要です。今度は皆さんががんばってください。学校協議会、運営委員会をつくっていただいて、本当に子供たちの事柄について地域でがんばっていただきたい。

 最近、学生の学力が衰えてどうしようかと思っています。もともと、小中学生の子供は学校へ行く理由はないのです。人生展望を持っているわけではないわけですから、学校に必ず行かせる必要はない。憲法上は両親は子供を教育する義務を負っています。しかし、学校という施設に行かせる必要はありません。教育委員会に届け出て、自分で教育してもいいのですが、そんな暇はありませんから、学校を行くべきものと考えて学校へ押し出します。その嫌がっている子供たちを学校が引きつけなければならない。

 先生と子供の関係です。学校の先生が私的に優れていて、人間的に魅力的でない限り、引き付けることはできません。この点で学校の先生に反省点がないわけではない。小中学校の先生が悪いのは、それを育てている大学=我々の問題です。一番困る先生は先生意識の強い先生です。教育委員会が目指すべきものは、この魅力ある先生をいかに育てるかです。小中学校は先生が引っ張る以外にはない(高校・大学では自分がやるべきですが)。

 私の長男はできが悪かったので、先生に算数の問題を聞いた。そうしたらその先生は「それは塾の先生に聞きなさい」といったのです。そこで、このクラスの子供たちはこの先生を一切信じなくなりました。この先生は人柄はとてもいいのですが、人柄がいいだけでは困るわけです。

 小学校に入ると親の影響力を急速に失います。子供たち同士と先生の影響下に入ります。致命的に重要です。都道府県教育委員会はなにをしてきたかです。学校建設1つろくな施設をつくってこなかった。

 

会場の質問(女性A

 学校の先生は忙しすぎる。ゆとりを持って授業ができない。行くのが早く、帰りが遅い、土日は仕事を持って帰っている。子供のことはタッチできない状況で、いい子供が育つのか。

 

大久保裕介教諭

 昔は午後3時ごろになると、囲碁を子供たちとしていましたが、そんな時間がなくなってしまいました。子供たちに手がかかるようになった。中学校が一番大変です。教員を増やしてもらわないと。

 大森彌(東京大学教授)

 小学校は、国民教育と称してあらゆるところで詰め込んでいる。日本ほど教えているところははない。音楽・図工・体育等々。他の国では小学校は午前中で終わるのが普通です。日本は沢山の授業を担任の先生に持たせている。これでも昔と比べると小学校の先生の雑務は少なくなっている。それでも先生に手がかかるのはしつけを親が先生に期待しているからです。しつけ=調教ですが、調教費を払わずに、自分たちがやるべきことを学校の先生にやらそうとしている。いろんな人たちがいろんな形で負担をかけていて、能力のある先生はなんとかこなしていますが、大変です。先生を増やせないのなら、その分だけ地域と家庭に戻してやる。学校が何から何まで引き受けすぎている。

 

会場から(武生青年会議所・山口氏)

 生きた社会教育を子供たちにという大久保先生の提起がありましたが、私たち自身が教壇に立たなければならないのかなという感想を持ちました。それから学校評議会の話をされましたが、どうやったら地域が開かれた学校に入っていけるのか、そして運営までできるのか。

 

 大森彌(東京大学教授)

 楽しいことからやったらよい。運動会、文化祭はもともと地域の楽しい行事の一つでしたが、それを排除しました。運動会からちょっと荒っぽいものを全部取り除いた。昔は「棒倒し」「騎馬戦」もありました。みんな学校の責任にするから先生たちは嫌がり始めたわけです。学校だけでしようとすることになります。そうして、学校が地域から離れてきたわけです。問題は地域の方にもある。学校施設は最初の段階からコミュニティー施設としても使える設計にする。自分たちの手の方に取り戻す。従来の父母会を取り合えず拡大していって、地域の代表者も入っていけるようにする。先生たちは父母会が嫌いなのです。あの暗い雰囲気をどう変えていくかです。住民は見たいときにいつでも授業参観できる仕組みをつくっていく。先生が手が大変だったら、普通の住民が背負いうるようなことはどんどん住民に開いていく。

 子供たちが急速に自然と離れ始めています。地域の樹木について詳しいのは地元の植木屋さんです。建築について詳しいのは大工さんです。地域の教育を受けることは重要です。料理についても地域の食の技がある。それを学校給食に反映させる。素材も地域の素材をできるだけ使い、毎回米を食べさせる。そのとき農家の人たちが、米作りについて語りうる場を設ける。プラスチックで食べさせないことも重要です。

 

 石川浩(武生青年会議所・直前理事長)

 みんなの参加で町づくりするには、私たち市民が自立することが重要です。武生市で市民が積極的に町づくりに参加している事例として、市内O町の「市民の森ワークショップ」ですが、行政・企業ととともに自分たちの山をなんとかしようということで、グランドワーク運動を進めています。身近な環境改善をしようという運動です。住民のメリットとしては、自分で計画できる、行政としては少ない補助金で出来上がっていく、住民の意思と関係のないものが出来上がるのではなく、ニーズに合ったものが出来る。企業としても重機とかを貸すことによって目に見える社会貢献が出来る。スキー場の跡地は花壇とか、ビオトープの池とかですばらしい公園に生まれ変わりつつあります。

 しかしグランドワーク運動は、県内・全国ではまだまだ広がりを持っていません。自発的に参加を仕切れていないのが問題です。動きたくてもどうしていいのかわからない、どこに相談に行ったらよいのかわからない。そのために動きづらい。企業も税制的な優遇とかの明確なメリットがあればよい。行政も縦割りのシステムが問題です。どの部署で伺うかわからない。

 行政の壁があるのではと考えています。一昨年の日本海重油流失事故のとき、ボランティアを経験しましたが、行政の人は全ての人に平等ということを認識していますし、そのために動けない。手続きがあり、こういう手順で、こういうことでといわれているうちに現場がどんどん変わっていって、手続きを終えた時点では、お願いしたことが不要になってしまっている事例がありました。行政の方はボランティアを信用していないのではと思います。そうした、壁が住民の動きを止めてしまっているのではと思います。

 地方分権により、市民の視点での条例が出来てくるのではと考えています。

 

 大森彌(東京大学教授)

 今回の改革の一番の改革は、住民から直接選ばれる首長と議会が住民の立場に立ち尽すことが可能となります。いままでは仕組み上できなかった。都道府県庁はろくなものではありません。知事職は国の仕事をやっている代行機関です。

 いままでは、国の機関の立場と住民の代表機関の立場にあり、とっても悩んできた。国の仕事は通達があり違反したことができない。産廃問題は厚生省がみんな決めており、知事にはほとんど権限がない。県民から選ばれている知事が、県民の立場に立ち尽くして判断しようにも出来ない。これからは、こうしたことが突破われます。

 住民の方は必ず役所に言って来るようになる。それに耳を傾けざるを得なくなる。住民参加は進めざるを得なくなる。そうしなければそうした自治体は住民に見捨てられます。

 この1点でどんどん自治体間の差が開く。これを格差だとはいいません。意欲を持って取り組んで出てくる差を格差だとはいいません。その自治体の責任に帰省せしめることができないほどの不利な条件がある場合だけが格差です。

 役所の側も、民間活動を役所が手が届かないことを補完するようなものだと思い込んでいるうちはだめです。民間活動には独自の存在理由と価値がある。行政が出来ないことを伸びやかにおおらかにできる。役所の従来の考え方を見直していただく。そして、NPOは非営利的民間活動団体が法人の資格を持って公共的サービスを行うことです。公共サービスを行う最も重要な主体は行政です。そこにライバルが現れてきました。NPO法の12項目の領域は市町村がやっている領域とほとんど重なってきます。医療福祉・環境・町づくり等。免税資格を持つようになると、もっと活動が活発になります。税金で払うと行政の活動を通じてサービスを受けることになります。民間活動に寄付で出せば、それだけ免税措置が得られます。そうした時代がまもなくやってきます。

 私もリバプールのグランドワークを見てきました。産業革命後打ち廃られた街角を、生きがえさせる活動をやっていました。こうした民間の活動を条例にしている自治体があります。静岡県の大井川町です。地域住民参加のまちづく条例というもので、団体を3重にしたまちづくり委員会を置いています。ここへ運営費と事業費を交付しています。これが一番難しかった。蛍の里を生きがえさせる活動やポケットパーク、看板を書き換える活動など自分たちの意思決定で行える活動が広がっています。住民の方が、少々身銭を切ってもいいと考えるかです。一般的には役所に注文はしても自分で地域を担うつもりがない住民の方が多い。これでは町はよくなりません。受益者のままでいる町は悪い町です。みんな意地汚くなる。

 雨水溝に蓋をせず、子供たちに掃除をさせる。そうすると、子供たちは雨水溝にごみや空缶を捨てなくなります。公共施設はそれ以外に住民のものになりません。そのように仕込むことです。町内会は何をしているのか。

 住民参加をやればやるほど、住民の目は役所にとって厳しくなります。今までのようなやり方では、決して住民は許さなくなります。

 

 牧野勲(武生市国際交流会幹事長)

 武生の町は日系ブラジル人が目に付きます。1990年に出入国管理法の改正により、若年労働力の不足していた武生に日系ブラジル人や中国人研修生が瞬く間に増え、今年の9月には2000人を超えています。少子高齢化に伴い、外国人労働力の需要は高まる一方です。2.8%・35人に1人が外国人ということになります。

 それだけに住民間のトラブルも数多く出てきています。個人主義の中で育ってきた彼らには生活・習慣・言語・文化の違いの中で当然出てくる問題ではないかと思います。ごみの出し方、清掃当番、町内会の行事など後を絶ちません。外国人への偏見・差別もあります。スーパー、デパートでは店員が後を付回すことや、学校でのいじめ、職場での仕事の差別、病院での軽視扱い、公共施設にも差別があり、郊外の遠い施設しか使わせてもらえないということです。

 彼らの多くは、日本への出稼ぎに来ており、無駄な金を使いたくないと思っています。元気なときはいいのですが、保険にも入っていませんので、体を悪くして、市役所へ駆け込んだり、私たちボランティアに相談を持ちかけてきます。

 夫婦で日本で2、3年働くとブラジルでは家が買えるといいます。そこで、日本人のいやがる残業も好んでやっています。コントラチスタという人材派遣業の紹介により武生で働く人がほとんどです。会社の生産体制に合わせ人材の派遣が行われ、その都度首になります。そうすると、新しい仕事探し、寮を追われての家探しでも「保証人」がいるということで、大変なことです。古くから外国人を受け入れてきた川崎市・群馬の大泉市などでは、一住民として養成が行われています。コントラチスタ自身を市が運営している場合もあります。企業・派遣会社・行政が一体となった形作りができないかと思っています。

 共生時代を手を取り合って町づくりに貢献できればと考えています。

 

 大森彌(東京大学教授)

 一番問題は、住宅です。大家さんが保証人になれといってきます。

 日系ブラジル人は特別の枠がありますが、一般的には日本は人に付いては「鎖国」をしています。外国人が日本で生まれても日本人にはなれません。属人主義を取っています。私たちがアメリカに行って、アメリカで子供が生まれると、子供はアメリカの国籍を取得できます。

 日本人は外から仕事で来る人たちを入れません。厳格な運用がされています。一方、若者が不足して社会の下支えの人が足りなくなっていますが、それでも人を入れません。この元締めは法務省の入国管理です。

 日本人には日本人同士で不得意な人間関係があります。比較的心が通って遠慮が要らないのが、「身内」です。その外にいるのが親しい他人です。これが狭い「世間」を構成します。世間を騒がせてごめんなさいというのはこの親しい他人に謝っているわけです。その外に「赤の他人」がいます。心も通わないし遠慮も要りません。急速に紛争が起こりやすくなります。都市において「赤の他人」が接触すると紛争が起こりやすくなります。この「赤の他人」と上手に付き合うコツがとっても下手です。地域社会で心持ちのいい人は非常に閉鎖的なコミュニティーをつくる。そこに入ると暖かいが、その外の人たちには本当にだめなのです。その外に外国人がいる。外国人は人間じゃないのです。「赤の他人」との付き合いのトレーニングをせず、そのさらに外の外国人との付き合いはうまく出来ません。

 同じ者同士、似たもの同士から学ぶことはとても少ない。自分と違う人からはるかに学ぶことが多い。外国から来ている人たちが公園でしゃべっているのをうるさいといって警察に通報するような住民がいる限りその地域は良くなりません。違う人間は簡単には理解できません。そのことを分かり合えるようにしないとだめです。日本人は「同一民族」だという幻想を持っています。しかし、同一民族ではありません。複数の民族から成り立っています。これを、開けるかどうか。過疎地域ではお金で嫁さんを連れてきました。地域社会から法務省を乗り越える試みをやる以外にない。治安問題と考える限りはだめです。

 

会場から(男性B

 地域住民の意識を引き上げるには議会の責任が重要です。調査権・議案提案等も1/8から1/12でも提案できるということになると、小さな村の議会では一人でも議案が提案できることになります。そのような権利がありながらそれが実行できないようではだめです。住民は議会の議員をどのように見守っていったらいいのか。

 

会場から(女性C

 介護保険制度についてですが、自治体の方で制度についての説明を町内ごとにして回っていますが、この制度が本当に生きたものになるかどうか。

 

 大森彌(東京大学教授)

 議会の評価は芳しくありません。私の著書「分権改革と地方議会」で書いていますが、「議員の顔ぶれから議会の構成を見るとサラリーマンや女性が少なく、その代表性が偏っているのではないか」「議会は執行部への質問や批判に終始し、自ら条例を作成するほどの政策立案機能を積極的には果たしていないのではないか」ほとんど果たしていません。「議会は執行部と馴れ合って、あるいは遠慮して、行政の監視機関としての役割を適確に遂行していないのではないか」「議員は執行部への型どおりの質問・質疑にとらわれ、議員同士の討論をほとんどしていないのではないか」事実していません。「重要な事実は密室の駆け引きや談合で決め、住民に肝心なことを知らせていないのではないか」知らせていないと思います。「議員の数が多くて、しかも報酬は高すぎるのではないか」と住民は思っている。「視察や研修と称して、実は観光旅行をしているのではないか」しています。「政策調査研修費は使い勝手も、領収書がないなど不明瞭ではないか」「一度当選するとバッチの人となって住民の生の声にあまり耳を傾けないのではないか」等々これは私がいっているのではなく、世間で言っていることです。

 こうではない議員もいます。金権体質を持たない議員、法制度や政策について自分たちで熱心に議論している議員、地元利益だけでなく地域全体の利益も考えて発言する議員、議会で討議するための情報を集め準備している議員、不明朗・不正な行政を正す議員、新たな問題提起をする議員もいます。そういう議員をみなさんが選んでいただく。そうではない議員を選挙で落とすことです。身内だから、地域から出ているからという理由で票を入れないでください。

 私は、議会は大事だと思っています。執行部が優位で、執行部がいろんなことが出来やすいシステムが問題点を多く作っていると思っています。

 介護保険は制度設計の座長でした。当初私たちの目指したものからはだいぶぐちゃぐちゃになりました。保険制度という名前で呼ぶには恥ずかしいほどぐちゃぐちゃになりました。公的介護保険方式です。税金が半分ほど入ってしまいましたし、20歳以上の人に保険料を納めてもらうことを後退しました。でも、世界の何処にもないものですし、高齢者の保健福祉のあり方について、21世紀の日本を示してみたいという大きな野望に燃えてこれに携わってきました。これから、世界からわが国に視察にきます。どこでもやっていませんからやってみないと分かりません。ドイツなんか学べません。ドイツは家族手当を出してしまいました。家族手当を出したらどういう状態になるのか、行って調べてみてください。どんなに悲劇が起こるかです。軽々にだしてはいけません、市町村中心でやりぬく。

 10年前から高齢者保健福祉計画を全市町村に義務付けた、ゴールドプラン、新ゴールドプランを市町村で実施する体制を引いてもらった。このとき以来、在宅ケアは基本的に市町村の事業に変わったわけです。この認識をお持ちにならないまま、この計画も民間に丸投げしたところがあります。この体たらく。介護保険で困っているのは、当初からちゃんとやらなかった自治体です。小さいところでも当初から計画したところはちゃんとやれます。

 今回、保険料を定めますので条例を制定する必要があります。必ず住民参加のシステムを作って、介護保険事業計画を策定していただく。住民参加なしで決めてはいけません。あの厚生省でさえも、公募委員制度をはじめ、住民参加で事業計画を策定していただきたいといっているわけです。市町村がやるべきことを国に言わせているわけです。なぜいわせているかというと、首長も議会も「公募委員なんか入れるとうるさくてたまらない」と思っている自治体が多いと見ているからです。

 私の市では推進会議は公募委員を含め20人ですが、毎回50人の人が傍聴に来ています。その傍聴にきた人に委員と同じ資料を渡しています。保険があって介護なしというのは絶対になりません。保険料というのはサービスの量に応じて払われるものですから、必ずサービスは行われます。市町村でどの程度のサービスをど程度の範囲にというのは決めます。それで保険料が決められます。財政的に弱体な市町村にはお金が来る仕掛けになっています。設計では保険料を支払われない人はいないということになっています。保険料には減免はありません。所得で5段階の処置をとってあります。生活保護を受けている人は生活保護制度の中で介護扶助という仕組みを導入しています。一番所得の高い人は平均の1.5倍を払っていただきます。必ずこの仕組みの意味と内容を知っていなければなりません。3年過ぎると改定があります。繰り返し事業計画を見直して、高齢者が安心してサービスを受けられる仕組みを、どうやって自治体で実現できるかというのは、役所だけでは出来ません。介護保険の制度と運用は今回の分権改革で仕込まれている、新しい自治の姿を実験することが可能なように仕組んであります。私は「国営を体を張って阻止する」と宣言したのですから。ぐちをこぼさないでいただきたい。市町村はやりぬく。自治は住民にとってどれほど大切かを身をもって知らしていただきたい。ちゃんとやらない首長と議員は次の選挙で落としてください。

 都市計画はどうなるのか、農地転用については今回なぜ市町村にこなかったのかなど、小さいグループでけっこうですから勉強会をやっていただきたい。自分たちの手に分権を寄せていただきたい。

 

  奈良俊幸(夢会議座長)

 本日はシンポジュムにご出席いただきありがとうございました。来年春からは国と自治体が対等の関係に規定しなおされます。本物の地方自治を確立するために夢会議を企画しました。一部の人たちだけが企画してはだめだということで、7月の新聞折込で実行委員を募るチラシを同封しました。11名の方が公募で入って頂き、合計29名で12回にわたる準備で本日のシンポジュウムを行いました。また、ごいっしょに地方自治確立のため、汗をかいていただきたいと思います。