消えた少年たち オーソン・スコット・カード
その家族は5人家族だった。コンピュータープログラマーの父、母には4人目の子供がもうすぐ生まれる、長男のスティーヴィは8才、次男のロビーは保育園前、長女のベッツィはまだおむつが離れない。
時は1980年代前半、父のステップはコンピューターゲームの大当たりを出したもののその後運が向かず、負債を抱えてアメリカのノースカロライナの片田舎へ引っ越すことになった。当地の小さなIT会社に転職したのだった。
後戻りはできない。新しい嫌みな上司、行動を制限する契約、たった一つのゲームの著作権までかすめ取られそうになりながら家族のために働き続ける。よき父、よき夫。
母のディアンヌ、子供たちの世話を楽しみながら明るく家庭を切り盛りする。まだ手のかかる小さな子供の大騒ぎにもたじろがない。子供の安全については過度なほどに気を遣うが神経質ではない。
二人ともモルモン教徒である。 ただし、私たちが外から想像するほどモルモン教徒の生活は奇異なものではない。教区の人々との教会を通じての宗教心を深める活動、仲間内の助け合いの仕事など、地域のコミュニティ活動と大きく変わりはない。
新しく越した家は狭くてお世辞にもいい家とはいえないけれど、子供たちはくったくなく適応している。教区の隣人も親愛の情あふれる裏表のないざっくばらんな人たち。新しい子供が生まれて家族が増えるのは何よりも喜ばしいこと。経済的に苦しいことも慣れない環境も、家族が健康でこころが健全なら全てが喜びに変わる。
でも一つ、心配なのが長男のスティーヴィ。新しい学校に慣れないか登校をいやがる。ステップとディアンヌがそれぞれゆっくり話を聞いて、真剣にスティーヴィにとって何が一番大切なのか話し合いをする。
スティーヴィは聡明で感性豊かな子供。 実は学校では筆舌に尽くせないいじめを受けているのだけれど、自分の問題は自分で解決する、そういう信念を持っているので両親にその実態を告げないでいる。 父の仕事を背中から見ているのか、スティーヴィも大のコンピューター・ゲーム好きである。家にいるときは弟妹の面倒もよく見るけれども一人でゲームに没頭することも往々にしてある。
そのうちに彼に友人ができる。母に名前を教えるがディアンヌは友人の姿を見たことがない。 徐々に友人の数が増える。一緒にゲームをやっているのだ。名前を呼びながら楽しげに。 しかし父にもその友人の姿が見えない。
両親は悩む。息子の精神状態の変化の原因が見つからない。
偶然からステップは息子が学校で正当に評価されていないどころか教師ぐるみ学級ぐるみのいじめを受けていることを知り、息子のために敢然と闘う。 教師と対決して理をもって相手の非を暴く。家族を守るために命をかける開拓時代からの伝統の父親の行動である。
ステップとディアンヌの間には信頼がある。互いに本音をぶつけ合い言い争いは常の事ながら、取り決めをきちんと守る。けんかをしても根底には強い絆があるから結局は「雨降って地固まる」が続いていく。
些細な日常生活が綴られ、ゆっくりと時間が過ぎていく。 ステップは今の会社を出て新境地を開拓すべく秘密裏に努力する。ディアンヌは教会活動に精進しながらますます近づく出産に備える。 そして、相変わらずスティヴィは見えない友達と遊んでいる。
大量の家族の会話。 大変さに投げ出してしまいたくなるような事態にも、冗談で自らを救い出し、なに、こんな事よくあること、だいじょうぶと笑い飛ばしてしまう精神の健全さ。
それを胡散臭いと評する人もいるけれど、わたしにはそれがここちよかった。
家族をあだなで呼ぶ開放的なところもある反面、何事も隠さずに、たとえ子供といえど一人前の家族の一員として徹底的に話をする。こういった日本の家族関係とはやや違った姿には興味を感じる。
延々と日常生活が続いていき、物語の背景に見え隠れする複数の少年の行方不明事件が、この家族とどのように関わってくるのか、うっかりすると忘れてしまいそうなくらいである。
しかし影が差すような事態もいくつか起きる。 ステップの同僚が小児愛好癖があるらしい。彼には金輪際子供を近づけまい・・・。 家に虫が異常発生する。両親が夜中に死にものぐるいで虫退治を演じる。 新しくモルモン教徒になった青年が誇大妄想の気味があるようだ。しかもその青年の母親がスティヴィが通っているカウンセラーだ。
些細な出来事が積み重なって物語は徐々に容赦なく終盤に押し流されていく。
ぎりぎりの線まで踏みとどまったステップが会社に辞表を叩きつけてから2週間後、つまり会社の保険が利かなくなってからディアンヌが4番目の子供を出産する。 しかしその子供は普通ではなかった。原因は特定できないが何か障害を抱えていた。 長い入院の後帰ってきた赤ん坊は泣かず動くこともない。それでも一家は新しい家族ザップの帰宅を心から喜ぶ。これからはザップがこの家の中心だ。
そして・・・・・・クリスマスがやってくる。
クリスマス・イブの夜、それは起こる。
なんという家族愛だろう、世の中にこれほど信じ合い愛し合う両親、親子、兄弟姉妹があるのだろうか。 信じられないような最終章。
この章を読むために、長い長い物語が必要だったのだ。
彼らの人となり、考え方を自分のもののように感じられるようになるために多大のページを費やして来たに違いない。
世の配偶者を持っている人にこの本を読むことを勧めたい。世の子供を持っている人にこの本を薦めたい。世の親を持っている子供にこの本を薦めたい。そして最終章の感動を共有したいと真に思うのである。
デセプション・ポイント ダン・ブラウン
ダン・ブラウンの長編第3作目にあたります。ご存じラングドンシリーズの「天使と悪魔」と「ダ・ヴィンチ・コード」の中間に書かれたものです。 前掲2冊を読み上げてまたもや図書館の待ちリストで待つこと2ヶ月、土曜日に借りてほぼ一日で上下巻読み切りました。
3冊目ともなるとダン・ブラウンのスタイルがおおよそわかってきて楽しめるようになりました。最初の2作はかなり翻弄されていましたから。
今回は歴史的秘密結社も宗教的秘事も出てこない代わりに、アメリカ大統領選の最有力候補と現職大統領、NASA局長、NOR(国家偵察局)局長など政府要人が入り乱れます。
更に候補者の娘でありながらNORの分析官である主人公と 候補者の秘書でえある明晰な頭脳と行動力溢れる二人の女性が国家的陰謀(?)に巻き込まれて、タイムリミットをにらみながら今世紀最大の科学的発見をめぐって、そして大統領選挙の行方を左右する事実を握って、 ジェットで飛び、ヘリで回り、氷原を滑空し、潜水艦に拾われ、暗殺者に付け狙われ、サメの海に投げ出され深海艇に閉じこめられ、ミサイルは飛んでくるわ大渦に呑まれそうになるわ・・・・・・ ちゃっかりその間にラブロマンスも芽生え、親子の葛藤あり、忠誠心と自己犠牲あり、いやもう、ありとあらゆるアクションの道具立てで徹夜請け合いのページターナーです。
ラングドンのシリーズと違ってコンテンポラリー物です。歴史考証がない分だけ速く読めるようです。
前述のダン・ブラウンのスタイル──つまり短い章、速い展開、複数登場人物が入れ替わり立ち替わり同時進行でいくつかの事件が展開して、最後に見事に一つに関連づけられて、 どれもがジグソーパズルのピースのようにしっかり組み合って意外の上に意外を重ねていく書き方で、読者はめくるめく様な興奮と先を読みたい焦燥に駆られながら、結局最終ページまで一気に読み通す事になるのです。 もう一人のお気に入りジェフェリー・ディーヴァと一脈通じるところがあります。
解題;Deception Point 虚偽・欺瞞の極点、
権力と利権、金脈の渾然とした政界の虚偽で塗り固められた人間たちの思惑と、一見まったくそういった世俗の騒ぎとは無関係のような、北極の氷の下から発見された隕石に関する大発見、 しかしそれもまた欺瞞の塊であった・・・・・・
相変わらず意表を突くボスキャラ、「天使と悪魔」ではかなり早くに推理できたのに今回は、あっと驚かされました。実に巧妙に読者をミスリードするように書かれている、 その箇所を見つけるべくもう一度ゆっくりと筋の展開に翻弄されずに読み返すのが、また極上の楽しみになっています。
(以下は英語版を読んでのレビュー)
順序が逆になりましたが英語版も読みました。
日本語で先に読んでしまうといいこともあります。ストーリーが頭に入っているので読みやすい──とばし読みも可です。
もちろん原文で読むといいこともたくさん──日本語で何となく違和感を覚えたところが解決。しかも訳者さんの苦心も何となくわかってきます。
たとえば── 最後の133章で主人公レイチェルがトーランドという男性に呼びかけます。
"Well, nature boy, I suggest you learn fast."
これがこうなります。「それなら、自然の申し子さん、今すぐ学んだらどう?」(越前敏弥;訳)
nature boy ──直訳なら"自然の少年"、"自然児"まさか野生児とは訳す人はいないと思うんですが、意味が変わちゃいますしね。 でも"自然の…"としても、語感はやっぱり大自然の中で人間の文明にあまり接触しないで育った少年、となってしまうでしょう?
実際はトーランドはカール・ゼーガンの海洋版、TVで海洋調査の結果解明されたこと発見されたことなどをわかりやすく解説する番組の司会を務める有名な学者。 健康的に日焼けしてあたたかさと情熱が感じられる嫌みのないイケメンの45歳の男性。 ですからね、野生児じゃないわけですよ。
しかも nature には生来の、とか生まれながらのという意味もあって、 生まれながらに持っている少年のみずみずしい好奇心や純朴さをいつまでも保っている好男児という意味も含まれているかと推察するのですが。
「自然の申し子さん」というのは日本語の語感からしたら、確かに変。こんな風に呼びかける人も呼びかけられる人もないと思うのですが、英語では 確かにあり! なのです。 だからいろいろ考えてのぎりぎりの訳だと思います。苦心苦心ですね。この人知れぬ苦労に頭の下がる思いです。 (たぶん日本語だけしか読まなければ読み飛ばすか、変な訳と思って終わりになってしまうかもしれないですよね)
The Last of the Jedi Jude Watson
また新たなシリーズが刊行になりました。題して "The Last of the Jedi" ──最後に残ったジェダイ、
著者はJA、JQその他SWジュビナルを一手に引き受けている Jude Watsonです。
最後のジェダイ、もうおわかりですね。
タトゥイーンへ引き籠もったオビ=ワンのその後のエピソードです。
オーウェン夫妻にルークを託して、陰からその成長を見守りつつも、過去の悔恨に傷心の日々を送り時には孤独を呪い時には己の至らなさをかこつ。 そんな繰り返しの続くある日、情報を求めに立ち寄ったモス・アイズリーで妙な噂を耳にします。どこかに粛正を逃れたジェダイが生き残っているらしい・・・・・・ 現在第1・2巻が発売中、3巻も近日中に発売になります。
ジュビナルですからストーリーはシンプルになることは予測できますが、それを差し引いてもオビ=ワンの別のエピソードを読んでみたいという○け○根性は止まるところを知りません(笑
以下は本の裏表紙のプロモの紹介です。
最後に残るジェダイたちとは何者か? 帝国が勃興した。ジェダイオーダーは壊滅した。皇帝が知る限りジェダイはすべて死に絶えたはずであった。しかし、辺境の地、タトゥイーンに一人のジェダイマスターが生き延びていた。オビ=ワン・ケノービである。朋友のジェダイの喪失に打ちひしがれ、そして弟子であったアナキンの裏切りにあって、オビ=ワンに残された使命はただ一つだけだった。幼子ルークを見守り保護すること、それだけだった。 しかしあるジェダイの元候補生の生存を知ったとき、オビ=ワンは難しい決断を迫られた。このままタトウィーンに留まるか、それとも最後の決死の使命に赴くか、それもまさに帝国の懐深くに飛び込んで・・・
Harry Potter and the Half-Blood Prince J.K.Rowling
Harry Potter and the Half-Blood Prince(ハリー・ポッターと混血の王子) レビューはまた後に書く予定です。TIME7月25日号の特集記事 "J.K.Rowling Hogwarts and All" の中に囲み記事で"The Unanswered Questions"(未だ解決されてない疑問)というのがありました。
おお、面白そうと読み出したのですが、あらら、これはなんと立派なネタバレ記事、気が付いたときは時既に遅く、今更引き返せないPoint of No Returnを越えていました。 よく見れば一番上にはイラストで"Spoiler Alert"の文字が。
もっと一目でわかるように書いてくださいな、と後になって文句を言っても始まりません。 とどのつまり本を半分読んでいたために質問がつぼを押さえているのにすっかり同調してしまって、うんうん、そうそう、そうだよね──だからどうなるのさ、と野次馬根性、怖い物見たさ、見たし聞きたし知りたしゆかし・・・・・・結局全部読んでしまいました。
もちろん既刊の6巻まででは答えを出しにくい疑問も多く、6巻までに明らかになった既知の情報と(What we know)と推測(Our guess)を箇条書きにしてあります。 たとえば
「ハリーは最後にはガールフレンドができるか?」 まあこれは序の口、
「ハーマイオニーとロンの関係進展は?」なんていうお気楽な物から
「ハリーの卒業後の進路は」マグル界同様就職難か?
「ネビル・ロングボトムの今後に何が待ち受けているか」? おお、なかなか踏み込んできました
「ハリーとヴォルデモートの間には正確にはどんな関連があるのか?」
「スネープは結局どちら側だ?」 これも気になります。6の第1章で正面から取り上げていますが。
「○○○○○○の残る余地はどこに?」(質問そのものがネタバレになります)
最終の7巻までその解答はお預けになるものがほとんどですが、思わず溜息が出てしまいそうな箇所もあります。ネタバレにならないよう気をつけてその「溜息の」あたりを少し。
But look at the precedents. Aslan died and came back in The Lion, the Witch and the Wardrobe. Gandalf snuffed it in The Fellowship of the Ring, and he was up and about in no time. We'll meet again, ○○○○○.
──しかし前例を見て頂きたい。アスランは死して「ライオンと魔女」で戻ってきた。ガンダルフは「旅の仲間」で逝ったが、時を経ずして復活した。だからわれわれも遠からず○○○○○と再会できるだろう。──(○はアルファベットです)
他に楽しい箇所も見つけました。(Star Warsネタです)
You wiggle the wand, you say the words--"Lumos! Expelliarmus! Accio Car Keys!"--and if you're not a Muggle or a Squib, if you've got the right stuff or the midichlorians or whatever, you're in business.
──魔法の杖をぴくぴくっと動かしてこう唱える
「ルーモス! エクスペリアーマス! アッチョ カー キー!」(最後のは車のキーの物品引き寄せw) そうすれば、マグルやスクィブでない限り、そして魔法を使うための資質、というかミディクロリアンというかとにかくそのたぐいの物を持っていれば、あなたの言った呪文は見事働くのだ。
「ハーマイオニーとロンの関係はどうなるの?」の質問に対する編者の推測
Done deal. Unless it's one of those icky Star Wars brother and sister things ...
うまくいく。ただし甘ったるくてださいSWの兄妹的なものでない限りは・・・・
何となく書いた人の気分がわかります。にんまり。
蒲公英草紙 恩田 陸
書物そのものの持つテンポがあることを、とてもよくわからせてくれた一冊。「光の帝国──常野物語」の続編。発刊後即購入したものの、ちょうどブラウンの「天使と悪魔」を読んでいる途中だったので、我慢に我慢を重ねて、「天使・・・」読了後満を持して読み出しました。 第1ページから、自分の読むスピードが自然に遅くなるという珍しい現象を体験しました。
今までも恩田陸のいくつかの作品を読みながら、
──ああ、この人と感覚が同じだ
──この人のテンポが心地よい
こう感じたことが何度かありましたが、今回ほど強く感じたことはありませんでした。
特別に新奇な人目を引く実験的表現があるわけでもないし、ことさら小難しい理屈をこねたり、読者に「深遠なる黙考」を要求するわけでもありません。
しかし、とろとろ流れるような言葉の繋がり、思わずはっとするような何気ない景色や空の模様の表現に心引かれるのは、つまりそういう表現を知っている、 感じているのに忘れていた、そんな懐かしさを思い出す気分にさせてくれるからなのです。
「光の帝国」第一話「大きな引き出し」に登場した花田一家が登場しますが、あくまでも他の登場人物の中に混じって、話し手である少女の一夏にやってきて去っていく人々のなかの 何人かとして描かれていきます。
時代は明治の末、東北の素封家のお抱え医師の娘峰子は、病弱な屋敷の末娘聡子の遊び相手として屋敷に出入りする。蒲公英草紙とは峰子の防備録の名前。
お屋敷の主人夫婦、書生、掛かり人の画家、流浪の仏師、発明家、悪い人は一人もいない。それぞれが自分の生き様の重荷を背負い、あるいは自負を引きずり、 あるいは責務を感じながら、時は均等にすぎてゆく。
少女の目を通してそれらの人々の姿が描かれるのが、おもわずはっとさせられるほど真摯な姿である。
自分の薄命を達観しているような聡子、一見粗暴磊落な態度に峰子に対する淡い思いを隠す聡子の兄と峰子の周囲の人々の姿も、風が吹いていくように自然に語られる。
そこへ花田一家が現れる。おいおいわかってくるのだが彼らは普通の人にはない力があり、その力を使って彼らには生涯やらねばならない仕事がある。それは人々の生き様を記憶の中にとどめていくこと。
彼らと日々をともに送るにつれて、語られずとも峰子にも彼らの特異性と献身が理解されてくる。
時代は日露戦争前夜。 怪しい者は「露西亜の間諜」と陰口を叩かれる時代である。
花田一家の真の姿を垣間見ることができた「天聴会」の夜の体験は、峰子と聡子の心に深く彼らの思い出を残すことになる。
流れるように時は移ろい、夏が過ぎ運命の秋がやってくる。
豪雨と山崩れ、村の子供を守って奔流の中に姿を消した聡子。物語はすべてが巻物を繰るように滑らかに進んでいく。悲嘆にくれる両親の前に究極の救いをもたらす者が進み出た。
最初にも書いたように、この物語は筋を追って疾く疾くと読み進めるたぐいの本ではありません。
むしろ、言葉が心にひびいて波紋を起こし、その波紋がたゆたいながら最後には消えていく、その過程をじっと楽しみながら読む本だと思われるのです。
従って最後に近づくに連れて速度はますます遅くなり、意識は行きつ戻りつしながら最終のページへと導かれて行きます。
そして最後のあの問いかけに万感がこみ上げてきてあつい涙がこぼれるのを感じるのです。
単行本としては短いものですが、その短さが心地よく、途切れることなく読み通しながらこの本のテンポにしっかり絡め取られている自分を発見するのでした。
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