中野重治没後二十年が経過し研究成果が多く発表されている。本書とほぼ同時期に小田切秀雄氏『中野重治―文学の根源から』松下裕氏『評伝中野重治』などが出版されたが、小田切・松下の両氏が「同時代人」であるに対し、著者は「同時代人としての中野重治を実際に知らない、残された文章からしか中野を知り得ない私」であり、それ故に中野作品を読むことに誠実に取り組んでいる。題名からも伺われるように、本書の中野に立ち向かう眼目の一つは、〈書く〉である。本書では、単に中野が書くことに誠実だったことを述べるのではなく、中野自身が倫理として〈書く〉を捉えていたことを浮かび上がらせる。それは、著者が中野の方法として〈視る〉に注目し、中野の〈写生〉を追究していく本書の大きな特徴だろう。中野が〈写生〉を論じるのは『斎藤茂吉ノート』だが、著者は他の作品群にも丹念に〈写生〉を見いだしていく。
「第一章 〈写生〉前史」では、犀星的な〈頼子〉詩篇から〈ぽろぽ〉詩篇への脱却の過程に「外界を意識しないほどの没我的な対象への肉薄とそれによって生じる内的世界の力強さ」としての〈写生〉の方法の萌芽を認める。「第二章 一九三七年の言説空間」は『汽車の罐焚き』を〈小説を書こうとすることを書いた小説〉とし、中野の執筆禁止前になにをどのように書くかという問の答えを明らかにし、そこに〈写生〉に繋がるものを見る。「第三章 〈写生〉への道のり」では『歌のわかれ』を分析する。安吉のモノローグにより作品が詩的様態となり、それが〈写生〉に繋がることを述べる。「第四章 無限への飛躍」では、『空想家とシナリオ』に現れた内部活動としての〈思考〉=空想の展開のあることを述べ、〈写生〉への繋がりを指摘する。「第五章 〈視る〉こと、そして『人間の恢復』」は、『斎藤茂吉論ノート』の特に〈写生〉に関する考察である。これまで述べられてきた〈写生〉について「〈視る〉ことに徹して生じる存在の呈示」とし、当時の中野の唯一の方法であったと述べる。「第六章 『鴎外その側面』の一側面」では、中野の鴎外への批判点、鴎外への批判と畏敬という二面的評価を中心に考察し、中野が〈写生〉の再評価と方法としての〈写生〉の獲得を目指したとする。このように〈視る〉=〈写生〉を軸として、中野文学を考察していくのだが、中野の先人に対するまなざしを論じた第七・八章及び『五尺の酒』『批評の人間性』を扱う第九章も、この軸に沿ったものである。「『敗戦前日記』の読書」は注釈の産物だが、この膨大なリストからも伺えるように著者の徹底した調査ぶりは各論に確かな手応えをもたらしている。著者の音楽趣味を伺わせる「インテルメッツォ」は論文に現れない研究余滴として興味深い。
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(一九九八年十一月二〇日 A5判三〇四頁
定価三、五〇〇円[有]エディトリアルデザイン研究所)
「国文学 解釈と鑑賞」(第64巻9号 1999.9)に掲載