中野重治「街あるき」は昭和十五年六月・七月号「新潮」に発表きれた小説であり、いわゆる「自伝的連作」のうちの「歌のわかれ」に続くものであ
る。
「街あるき」という題名は、「自伝的連作」とされる「歌のわかれ」・「むらぎも」にくらべて、ずいぶんわかりやすい題名だと言えるだろう。「歌のわか
れ」の意味は多くの論者がそれぞれに追究しているところであり、「むらぎも」も一般的なことばだとは言えない。この「街あるき」はこの二作にくらべて
非常に短い作品で、注目されることも少ない。「歌のわかれ」と「むらぎも」の間を埋める自伝として、ようやくその存在感が認められているのにすぎな
いようにも見える。しかし、この「街あるき」という題名は、「自伝的連作」のモチーフを鋭く言い表しているようにも思えるのである。前田愛(註)は漱石
の「三四郎」と同様に「むらぎも」が本郷界隈の街あるきが重要なモチーフであると指摘している。言うまでもなく「街あるき」も本郷界隈の街あるきをモ
チーフとしており、「歌のわかれ」も金沢と東京での街あるきを描いた作品である。このように、自伝小説において、中野は街あるきを通して自己の青
春を描いているのである。
このようなことに気付いたとき、「街あるき」というわかりやすい題名の短篇小説が、なにか意義深く思われてくるのである。
註 「中野重治「むらぎも」−谷中・本郷・小石川」(『幻景の街』小学館 S61)
【一】
中野研究において「街あるき」を取り上げたものはあまり多くはない。その中で古江研也(注)は安吉像に言及している。それは「歌のわかれ」の峻
厳な安吉像がへし析られたところから「街あるき」が始まるという見解である。<彼は凶暴なものに立ちむかって行きたいと思いはじめていた。>とい
う結びを持ち、<たたかい> への志向を明確にしている「歌のわかれ」を読み終えた後に「街あるき」に眼を向ければ、ぼんやりした安吉が登場して
く るのであるから、この見解も当然であるかもしれない。しかし、<ぼんやりとつかみどころがなく、中途半端な状態で終始一貫している>
(傍線 引
用者)という断言をされるのには、多少の疑念を持つのである。
この見解を全面的に肯定するのであれば、「歌のわかれ」と「街あるき」の安吉の間には、人物像としてつながりが無いということになりはすまいか。
少なくとも、「街あるき」の安吉は、「歌のわかれ」の安吉から後退したと考えざるを得ない。
同じ「自伝」という命脈を持つ二つの小説の同名の主人公が、本質的に何らかのつながりを持つと考えることは自然なことと思われる。また、「歌
のわかれ」は昭和十四年四月〜八月号「革新」に発表後、翌年八月の単行本発行の際に章立ての変更や結末の付け加えがなされており、この時間
はおそらく「街あるき」執筆の時期に重なっている。この事情を考え合わせれば、先の疑念はいっそう強くなるのである。そして、安吉は「歌のわかれ」
から何かを引き継ぎ、「街あるき」でなんらかの新しい展開があるのではないか、と考えてみたくなるのである。
注 「中野重治「街あるき」論」(「方位」s55・9)
【二】
「街あるき」の安吉は「歌のわかれ」の安吉から何を引き継いできたのか。このことを考える前提として、「歌のわかれ」の安吉像についてふり返っ
ておきたい。
先に「街あるき」の安吉が「歌のわかれ」の峻厳な安吉像のへし折られた人物像だという見解を紹介したが、ここで問題としたいのは「歌のわかれ」
の安吉は終始一貫して峻厳であったかということである。結論から述べれば、峻厳な安吉は最終章「歌のわかれ」において初めて出現しているので
あり、それ以前の安吉はぼんやりとした中途半端な状態なのである。
では、「歌のわかれ」の安吉像を簡単に素描しておこう。
安吉は自分が心をこめてやってきた短歌を<einmaligなもの>< はかないもの>としてとらえ、<自分に営み>が無いと考え、自分が<窮地>を
体験せずに人間として低い水準をずるずると滑つて行くのではなかろうか>という不安を持つ。このような人物を峻厳と言うことは出来まい。私たち
が安富を峻厳と感じるのは、「歌のわかれ」の章の歌会の場面においてなのである。
また、中野自身が峻厳な安吉を「街あるき」で描く意志を全く持っていなかったことも念頭に置いておかねばならない。中野は「街あるき」執筆の事
情について、次のように述べている。
その手のものと当時どこまでもたたかわなかつた記憶は、それの前身のようなものが高等学校の時期から私のなかにあつたことを思い出させた。
それが、いわば出直しの問題として「歌のわかれ」に取りかかった時の私にあった一つの事がらだつた。またそれに続いて目あてのきまらぬ、何に
も満足できぬままだらだらした日を送つている一人の大学生が、ある種の生活者の、わけてもそれは女だつたが、その力いつばいの、力いつばい
ということがそのまま美であるようなところへ全身的に引かれる瞬間を持つことになる「街あるき」に取りかかつた時の私の問題でもあった。
(新版全集第五巷「著者うしろ書」)
ここにはまず「歌のわかれ」執筆当時、中野に<どこまでもたたかわなかった記憶>が<出直しの問題>として意識されていたことが述べられてい
る。そして、この記憶はまた「街あるき」執筆時においても中野に充分意識され、問題とされているのである。中野は「歌のわかれ」で峻厳な安吉像を
形象したのだが、そのことで<出直しの問題>は解決され得ず、この問題は連綿として意識され続け、「街あるき」においても<たたかい>に対する
中野の思いが、執筆動機として重要な位置を占めているのである。このように考えを進めていくと、「街あるき」の安吉が、<目あてのきまらぬ、何に
も満足できぬままだらだらした日を送つている>ぼんやりとした安吉像が、何らかの意義を持っているように思えるのである。
「街あるき」は「歌のわかれ」の<たたかい>の問題を問い直し、深化させようという意図を持って中野が執筆したものだと考えたい。言いかえれば
「歌のわかれ」の世界を通り抜け、その問題を引き継ぎつつ、<たたかい>
に村する新たな意志を内包する安吉を描き出したのが、「街あるき」では
ないかと考えるのである。
【三】
<たたかい>にこだわりつつ、「歌のわかれ」と「街あるき」との関係について述べてきたが、ここで「歌のわかれ」をふり返りつつ、「街あるき」にお
ける<たたかい>を見ておきたい。
私見(注)をまとめて言えば、「歌のわかれ」の意味は次のようである。
<歌>は<営み>を求めるものであり、<歌>を歌うことは<営み>を求める<たたかい>なのである。
先に引用した「著者うしろ書」では「街あるき」について、<ある種の生活者>の<カいつばい>である様子に<全身的に引かれる瞬間を持つ>も
のと説明している。
この二つのことを考え合わせれば、安吾が引かれている<ある種の生活者>とは<営み>を持つ者を指していると考えられよう。つまり、安吉は
<たたかい>の中に身を置く者を実しいと感じ、引かれていると言えるのである。「歌のわかれ」の中では<営み>と言われてはいるものの、それは
風景などの中で描かれていただけで、必ずしも明確な形をとっているわけではないが、本来<営み>は人間が体現しているものでなくてはならない
し、
安吉白身、自分に<営み>がないことを苦にしているのであるから、<営み>は右のように生活者が体現しているはずである。とすると、「歌のわか
れ」の安吉は、<ある種の生活者>の<営み>がどのようなものであるかを知る手がかりを充分に持つていないように思われる。<ある種の生活
者>の<営み>に<全身的に引かれる瞬間をもつ>という体験を経た「街あるき」の安吉にして初めて<たたかい>を充分に認識できるのではな
いだろうか。
では、「街あるき」において、安吉は<たたかい>をどのように認識していったのだろうか。
注 拙稿「『歌のわかれ」をめぐって」(「中野重治研究会報?3 '87)
【四】
中野は、<ある種の生活者>の代表として女を挙げているのだが、この「街あるき」において、女性は重要な役割を果たしているように思わ
れる。この作品には、<ある種の生活者>である女性とそうでない女性が登場し、前者は安吉に強烈な刺激を与えることになるのだが、まず
手がかりとして、<ある種の生活者>ではない女性に対する安吉の意識について考えておきたい。
<ある種の生活者>でない女性は冒頭近くに羅列的に描かれているが、それぞれについてまとめておこう。
1勇造の細君
関西なまりを下手な東京弁でごまかし、安吉を隣の娘に近づかそうとする俗物的な女性であり、安吉は彼女の思わせぶりをいやな気持ちで
無言ではね返していた。
2小さい女学生
安吉は彼女に対してロマンチックな振舞いに出た。すれ遠いざまに非常に美しいと思い、再び出違うことを願い、待ち伏せするが駄目だっ
た。
3玉の井の女
安吉は友人達と玉の井の昼見物に行く。 <ひる玉の井を歩いて女たちに侮辱にならぬだろうかという懸念>を彼らが抱いているところをみ
ると、遊女かそれに近い女であろう。彼らはこの女が男と言い合いをしている場面に出会うが、<映画の一コマを見るような見物だったが、か
といってその女を訪ねて行く気には安吉はなれなかった。>
4省線電車の女
この女の姿に<安吉自身欲情的なものを感じた>のだが、<それは彼に無関係の、将来もずっと無関係の、そして今だけ彼をつらくさせるも
のだつた。>
5たばこ屋の娘
一年前とは別人と思われるほど顔が荒れており、その理由は<たばこを買う男どもが、たばこを買うたんびじろりと目で一撫でしてきた結果>と安吉
は考える。
勇造の細君を連想のきっかけとして、右のような女性像が挙げられているのだが、彼女達は<女といえば、どんな女にでも引かれてよかりそうに思
われるのに、また事実引かれもするのに、どの女にもいつこう興が起こらなかつた>女性像なのである。先に示したことからもわかるように、安吉が
彼女達に引かれるのは、いずれも性的関心のためなのである。女学生の目づかい、玉の井の女の上半身をひねる姿、省線電車の女の袖からはみ
出した手首。これらは直接的に安吉の性的関心を引くものであろう。また、勇造の細君の、娘に近づかせようという思わせぶりやたばこ屋の娘の容
貌への意識にも性的関心を伺わせるものがある。しかし、安吉は彼女達に興は起こらない。その理由として、安吉と彼女達との関係が一回限りのも
のであることに注目しておきたい。この関係の一回性は、「歌のわかれ」で<einmaligなもの>
<はかないもの>として指摘され、<短歌的なもの>
とも言われていた、「歌のわかれ」において別れてきたものなのであった。
「歌のわかれ」で、安吉の女性に村する意識は大きく変化している。安吉は女学生の接吻を目撃した直後に女学生の群れを追い越すが、<いま
いましい癖>であった虫が湧き出すような感覚は起こらなかった。そして<今後絶対に虫は出ないぞという自信のようなものが一つの化学変化のよ
うなものとして安吉のなかに出来たらしかつた>。この体験で、安吉は、青春期にありがちないたずらな性への恐れから脱却しているのである。<女
性にたいして復讐する力が肚に出来た感じであつた。>とも書かれており、安吉自身が性的関心の対象としての女性からの脱却を充分意識してい
るのである。
右のような体験を経た安吉にとって、性的関心のためだけで女性に引かれることはなさそうである。このことを如実に物語るのが、藤堂に春画を見
せられる場面であろう。安吉は、藤堂に春画を見せられて、一分間勃起せずに賭けに勝つのだが、性生活が荒(すさ)んでいるというなにげない言葉
は安吉にはこたえた。この場面の安吉には、さめた自信とあきらめが感しられるが、これは安吉が性的関心のみでは女性に興が起こらないことを示
していよう。
では、安吾が女性に求めているものは何であろうか。先述の春画の場面の次に、まとめとして次のように書かれている。
彼は彼を慰めるもの、柔らかいものを求めて女を求めていたが見だきなかつた。斎藤にしても松本にしても磯村にしてもそんなものは持つていなか
つた。そんなものは、安吉にも安吉のどの友達のまわりにも存在しなかつた。やはり彼は、酒を飲んだり、街を歩いたり、本を読んだりするほかは
な つた。
安吉が女性に求めた<彼を慰めるもの、美しいもの、柔らかいもの>は彼のまわりには見あたらない。街あるきは、いわば安吉が求め得ないもの
の代用なのであるが、この街あるきによって安吉はより広い視野を得るのである。
【五】
大都会として合理的に出来上がっている東京に、安吉は安息を見い出すことはできない。しかし、東京にも安吉が安息できる<営み>を所有する
者もあるのである。街あるきはこの東京の二つの面を安吉に体験きせることになる。そして、後者に安吉の志向は向かうのであるが、このことを述べ
る前に、前者を決定的に安吉に意識させる場面があるので、触れておきたい。
安吉は飯倉に友人を訪ねるが留守であった。方向音痴の安吉は電車みちを通り、神田に出る.その間ベンチを探すが見つからず、次のようなこと
を頭に浮かべる。
とうとう神田へ来たからにはベンチがあつてもよかりそうに思えた。披は、ここまでの道で探したのとは違つた気持ちで探したがやはりここにも一つ
のベンチも見つからなかつた。彼にとつてはそれは大都市の冷酷さだつた。彼はじくじくした復讐心を感じて日暮里の斎藤のところへ行こうと思い
な おした。
「歌のわかれ」の共同便所の糞のかたまり=<大都会の亡霊>に脅迫された場面を想起させる場面である。この共同便所も神田にあることには
注意しておきたい。「「歌のわかれ」では、神田や本郷は<たたかい> の場として安吉の前にあったが、この場面はそれほど攻撃性を持たないよう
に見える。しかし、このベンチのないイメージは<大都市の冷厳さ>として安吉に意識され、また安吉は<じくじくした復讐心>を感じてもいる。
ところで、ベンチはこの作品の中で、どのような役割を果たしているのだろうか。実は他の箇所では、ベンチは安息の場として描かれているのであ
る。浅草の公園ではベンチで眠り、浦和ではベンチにかけて見世物小屋の組立を<新鮮なようなうらぶれたような光景>と見たり、昼寝をしたりして
いるのである。
安息の場としてのベンチの有無はその土地柄によるのではないだろうか。先に触れたように、神田は<大都市の残酷さ>を具現しており、神田に
近接する大学前=本郷は太田と逢った際の復立たしいイメージをまとって、安吉の意識の中にある。「歌のわかれ」で描かれた東京はほぼこの神
田・本郷に限られており、東京は<大都市>の面からしか描かれていないのである。一方、「街あるき」では、浅草・浦和などの土地が<大都市>と
は違った性質のものとして描かれており、安吉の視野も広がっているのである。そして、これらの土地は、安吉にプラス・イメージでとらえられ、生活
者の臭いを持ち合わせているのである。
先述の神田の場面の後、上野で自転車の群れに出会うが、その様子について見ておきたい。
まず、上野の山の様子を次のように書いている。
道路は暗くなつていた。上野の山の側には店屋がまだ出来あがらず、そのため、それだけ立派に出来あがつたコンクリート新道が野つ原のなかの
道路のように茫漠としていた。その向うにぼやあつとした光があり、深さがだだつ広いとでもいうような街の音響がそこから聞こえていた。
安吉は道路や空間に対して鋭い感覚を持っているのだが、雑司ヶ谷の<夢に出てきた一郭かのような気味悪い窪地>とこの上野の様子は対照的
である。雑司ヶ谷の窪地とは湿地を埋め立てたものらしい、平屋が直角でも平行でもない関係で立っている<不整形の窪地>なのであるが、これは
浅薄な人為の象徴と言えるだろう。このことは、すぐ後に安吉が<垣根に挟まれた路地のパースベクチヴ>に<悲しさ自身が無気力なような悲しさ
>を感じていることからも証拠づけられよう。それに対して、上野は<店屋がまだ出来あがら>ない<野つばらのなかの道路>であり、いわば人為
を排除した風景なのである。その向うには<ぼやあつとした光があり、深さがだだつ広いとでもいうような街の音響がそこから聞こえていた>という生
活者の街が具現化されているのである.ここで安吉は<何百とも何千とも知れぬ自転車の灯>に出会うのであるが、彼ら職工の帰る先を安吉は日
暮里や三河島であろうと考えるのだが、これは安吉が電車の中で客だねが変わる境と考える<一方は御徒町へんから向う、一方は柳原へんから向
う> に合致することは注目しておきたい。安吉はこの自転車の群れとの出会いで<朝と晩との、人間とある群団の自転車での移動がぼんやりとわ
かるだけ>ではあるが、安吉にとっては初めての生活者との出会いであり、換言すれば<営み>との出会いなのである。
【六】
先述したように、この作品において生活者の代表として重要な役割を果たしているのは<ある種の生活者>としての女性である。
雑司ヶ谷の家で磯村の話した上野の森の話に、安吉は<こわいような興味>を覚えるのだが、この話の主人公は女である。産気づいた女を女が
集団となって取り囲み、男を近づけなかったという内容の話であるが、ここには本能的な女性の<
営み>があるのではないだろうか。それゆえに、
安吉は強い興味を示すのであると考える。ここではすでに性的関心を離れて女を見る安吉の志向があらわれている。
安吉が決定的に女性に眼を向けるのは、両国橋で女に出会う場面である。
女は二十七、八くらいの年配だった。あらい絣の筒抽を着て同じ絣の前掛けをかけ、脚絆をして草履をはいていた。頭には笠をかぶつていた。肩
に は天秤棒をかついで、その両方にそれぞれ重ねになつた竹かごようのものを提げていた。かごをつるした三、四本の縄はぴんと張っていた。女
は 両手を、一方は上から、他方は下から天秤棒にあてがつていた。披女はそのかつこうのままでからだを一揺りしたのだつた。女は笠の下が照
るよう な顔いろをしていた。
安吉の前にあらわれたのはこのような女であるが、労働をする、まきしくある種の生活者>というべき女である。この女は安吉に非常に強い感動を
もたらす。この女性の登場以後、安吉はぼんやりした印象を払拭し、峻厳さを身につけたように見える。安吉は、ここで中野の言う<ある種の生活者
> である女に <全身的に引かれる瞬間>を体験しているのであり、この女の登場は中野がこの作品の眼目とするところなのである。
この女は<営み>を体現しており、その<営み>を安吉は感覚的につかみとっているのである。
女は小娘と言葉を交わす。安吉は充分に聞きわけたわけでないが、<たぶん彼らは、一つの在所のものか近在のものかだつた。>と推断をする。
女と小娘とは<在所>もしくは<近在>という<大都市>を離れたところに<生活>を有していた者なのであり、共通した<生活>=<営み>を持
っているのである。
ここで、この女と出会った両国について見ておきたい。先述したが、安吉は御徒町と柳原とを<大都市>の境界として意識している。この意識から
すると、両国は<大都市> の範囲となる。この女との出会いは、いわば<大都市>
の中での<営み>との出会いであり、<大都市> に受け入れ
られない安吉にとって新しい<営み> の発見とも言えるのである。この<大都市>
の中での<営み> の発見こそ、安吉の明確に捉え得ない<根
本的な何か> であろう。
先に安吉は<営み>を感覚的につかみとっていると書いたが、それは次の記述から証拠づけることができよう。
女は厚い肩をして盛り上がつた胸をしていた。それをぴつしり包んだ布はそのまま皮膚であるかのようにぴんと張つていた。あざやかな紺耕の残像
はそのままこりこりした脂肪の層を手さぐりするのと違わなかつた。
(傍線
引用者)
女の身体は、労働をする身体であり、<ある種の生活者>の身体にほかならない。傍線を付した部分からもわかるように、安吉は触覚としてこの
身体をとらえているのだが、このことは、安吉が充分に<営み>を体得したことを示していよう。
【七】
安吉は<営み>を体得したのであるが、この後の安吉の考えに注目しておきたい。
安吉は橋を戻って再び街の中へ入り、とりとめもない考えをめぐらすが、森本に会うことに考えが行き着く。森本は新人会会員で大学生であり、両
国の女や自転車の群れといった<ある種の生活者>とは無縁の<大都市>
側の人物なのであるが、安吉は彼との会見について<武芸者がよそ
の道場を訪問するようなものでなければならなかつた。>と考えている。<大都市>の中に<営み>を見出した安吉は、受け入れられぬことを知り
ながらも<大都市>との<たたかい>を余儀なくされているのである。そして「街あるき」の安吉の<たたかい>は「歌のわかれ」のそれのような攻
撃的なものではなく、道を飽くなきまでに求めていく<武芸者>のごとく静的なものへと変容せねばならないのである。「街あるき」の最後の部分は、
静かな<たたかい>を持続させていかねばならぬことを言いあらわしているのではないだろうか。
その思いつきはそのため格別彼を昂奮させはしなかつた。彼はじつさい労(つか)れきつていた。それでも彼は、不意に自然に出てきたこの思いつ
きを無理に捨てようという気にはやはり自然にならなかつた。
(「中野重治研究会会報'90・?6」平成二年四月発行 に掲載)
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ウェブ上の夏目漱石(暫定版) 『野分』論−冒頭をめぐって−
「街あるき」論 藤 堂 尚 夫
中野重治「街あるき」は昭和十五年六月・七月号「新潮」に発表きれた小説であり、いわゆる「自伝的連作」のうちの「歌のわかれ」に続くものであ
る。
「街あるき」という題名は、「自伝的連作」とされる「歌のわかれ」・「むらぎも」にくらべて、ずいぶんわかりやすい題名だと言えるだろう。「歌のわか
れ」の意味は多くの論者がそれぞれに追究しているところであり、「むらぎも」も一般的なことばだとは言えない。この「街あるき」はこの二作にくらべて
非常に短い作品で、注目されることも少ない。「歌のわかれ」と「むらぎも」の間を埋める自伝として、ようやくその存在感が認められているのにすぎな
いようにも見える。しかし、この「街あるき」という題名は、「自伝的連作」のモチーフを鋭く言い表しているようにも思えるのである。前田愛(註)は漱石
の「三四郎」と同様に「むらぎも」が本郷界隈の街あるきが重要なモチーフであると指摘している。言うまでもなく「街あるき」も本郷界隈の街あるきをモ
チーフとしており、「歌のわかれ」も金沢と東京での街あるきを描いた作品である。このように、自伝小説において、中野は街あるきを通して自己の青
春を描いているのである。
このようなことに気付いたとき、「街あるき」というわかりやすい題名の短篇小説が、なにか意義深く思われてくるのである。
註 「中野重治「むらぎも」−谷中・本郷・小石川」(『幻景の街』小学館 S61)
【一】
中野研究において「街あるき」を取り上げたものはあまり多くはない。その中で古江研也(注)は安吉像に言及している。それは「歌のわかれ」の峻
厳な安吉像がへし析られたところから「街あるき」が始まるという見解である。<彼は凶暴なものに立ちむかって行きたいと思いはじめていた。>とい
う結びを持ち、<たたかい> への志向を明確にしている「歌のわかれ」を読み終えた後に「街あるき」に眼を向ければ、ぼんやりした安吉が登場して
く るのであるから、この見解も当然であるかもしれない。しかし、<ぼんやりとつかみどころがなく、中途半端な状態で終始一貫している>
(傍線 引
用者)という断言をされるのには、多少の疑念を持つのである。
この見解を全面的に肯定するのであれば、「歌のわかれ」と「街あるき」の安吉の間には、人物像としてつながりが無いということになりはすまいか。
少なくとも、「街あるき」の安吉は、「歌のわかれ」の安吉から後退したと考えざるを得ない。
同じ「自伝」という命脈を持つ二つの小説の同名の主人公が、本質的に何らかのつながりを持つと考えることは自然なことと思われる。また、「歌
のわかれ」は昭和十四年四月〜八月号「革新」に発表後、翌年八月の単行本発行の際に章立ての変更や結末の付け加えがなされており、この時間
はおそらく「街あるき」執筆の時期に重なっている。この事情を考え合わせれば、先の疑念はいっそう強くなるのである。そして、安吉は「歌のわかれ」
から何かを引き継ぎ、「街あるき」でなんらかの新しい展開があるのではないか、と考えてみたくなるのである。
注 「中野重治「街あるき」論」(「方位」s55・9)
【二】
「街あるき」の安吉は「歌のわかれ」の安吉から何を引き継いできたのか。このことを考える前提として、「歌のわかれ」の安吉像についてふり返っ
ておきたい。
先に「街あるき」の安吉が「歌のわかれ」の峻厳な安吉像のへし折られた人物像だという見解を紹介したが、ここで問題としたいのは「歌のわかれ」
の安吉は終始一貫して峻厳であったかということである。結論から述べれば、峻厳な安吉は最終章「歌のわかれ」において初めて出現しているので
あり、それ以前の安吉はぼんやりとした中途半端な状態なのである。
では、「歌のわかれ」の安吉像を簡単に素描しておこう。
安吉は自分が心をこめてやってきた短歌を<einmaligなもの>< はかないもの>としてとらえ、<自分に営み>が無いと考え、自分が<窮地>を
体験せずに人間として低い水準をずるずると滑つて行くのではなかろうか>という不安を持つ。このような人物を峻厳と言うことは出来まい。私たち
が安富を峻厳と感じるのは、「歌のわかれ」の章の歌会の場面においてなのである。
また、中野自身が峻厳な安吉を「街あるき」で描く意志を全く持っていなかったことも念頭に置いておかねばならない。中野は「街あるき」執筆の事
情について、次のように述べている。
その手のものと当時どこまでもたたかわなかつた記憶は、それの前身のようなものが高等学校の時期から私のなかにあつたことを思い出させた。
それが、いわば出直しの問題として「歌のわかれ」に取りかかった時の私にあった一つの事がらだつた。またそれに続いて目あてのきまらぬ、何に
も満足できぬままだらだらした日を送つている一人の大学生が、ある種の生活者の、わけてもそれは女だつたが、その力いつばいの、力いつばい
ということがそのまま美であるようなところへ全身的に引かれる瞬間を持つことになる「街あるき」に取りかかつた時の私の問題でもあった。
(新版全集第五巷「著者うしろ書」)
ここにはまず「歌のわかれ」執筆当時、中野に<どこまでもたたかわなかった記憶>が<出直しの問題>として意識されていたことが述べられてい
る。そして、この記憶はまた「街あるき」執筆時においても中野に充分意識され、問題とされているのである。中野は「歌のわかれ」で峻厳な安吉像を
形象したのだが、そのことで<出直しの問題>は解決され得ず、この問題は連綿として意識され続け、「街あるき」においても<たたかい>に対する
中野の思いが、執筆動機として重要な位置を占めているのである。このように考えを進めていくと、「街あるき」の安吉が、<目あてのきまらぬ、何に
も満足できぬままだらだらした日を送つている>ぼんやりとした安吉像が、何らかの意義を持っているように思えるのである。
「街あるき」は「歌のわかれ」の<たたかい>の問題を問い直し、深化させようという意図を持って中野が執筆したものだと考えたい。言いかえれば
「歌のわかれ」の世界を通り抜け、その問題を引き継ぎつつ、<たたかい>
に村する新たな意志を内包する安吉を描き出したのが、「街あるき」では
ないかと考えるのである。
【三】
<たたかい>にこだわりつつ、「歌のわかれ」と「街あるき」との関係について述べてきたが、ここで「歌のわかれ」をふり返りつつ、「街あるき」にお
ける<たたかい>を見ておきたい。
私見(注)をまとめて言えば、「歌のわかれ」の意味は次のようである。
<歌>は<営み>を求めるものであり、<歌>を歌うことは<営み>を求める<たたかい>なのである。
先に引用した「著者うしろ書」では「街あるき」について、<ある種の生活者>の<カいつばい>である様子に<全身的に引かれる瞬間を持つ>も
のと説明している。
この二つのことを考え合わせれば、安吾が引かれている<ある種の生活者>とは<営み>を持つ者を指していると考えられよう。つまり、安吉は
<たたかい>の中に身を置く者を実しいと感じ、引かれていると言えるのである。「歌のわかれ」の中では<営み>と言われてはいるものの、それは
風景などの中で描かれていただけで、必ずしも明確な形をとっているわけではないが、本来<営み>は人間が体現しているものでなくてはならない
し、
安吉白身、自分に<営み>がないことを苦にしているのであるから、<営み>は右のように生活者が体現しているはずである。とすると、「歌のわか
れ」の安吉は、<ある種の生活者>の<営み>がどのようなものであるかを知る手がかりを充分に持つていないように思われる。<ある種の生活
者>の<営み>に<全身的に引かれる瞬間をもつ>という体験を経た「街あるき」の安吉にして初めて<たたかい>を充分に認識できるのではな
いだろうか。
では、「街あるき」において、安吉は<たたかい>をどのように認識していったのだろうか。
注 拙稿「『歌のわかれ」をめぐって」(「中野重治研究会報?3 '87)
【四】
中野は、<ある種の生活者>の代表として女を挙げているのだが、この「街あるき」において、女性は重要な役割を果たしているように思わ
れる。この作品には、<ある種の生活者>である女性とそうでない女性が登場し、前者は安吉に強烈な刺激を与えることになるのだが、まず
手がかりとして、<ある種の生活者>ではない女性に対する安吉の意識について考えておきたい。
<ある種の生活者>でない女性は冒頭近くに羅列的に描かれているが、それぞれについてまとめておこう。
1勇造の細君
関西なまりを下手な東京弁でごまかし、安吉を隣の娘に近づかそうとする俗物的な女性であり、安吉は彼女の思わせぶりをいやな気持ちで
無言ではね返していた。
2小さい女学生
安吉は彼女に対してロマンチックな振舞いに出た。すれ遠いざまに非常に美しいと思い、再び出違うことを願い、待ち伏せするが駄目だっ
た。
3玉の井の女
安吉は友人達と玉の井の昼見物に行く。 <ひる玉の井を歩いて女たちに侮辱にならぬだろうかという懸念>を彼らが抱いているところをみ
ると、遊女かそれに近い女であろう。彼らはこの女が男と言い合いをしている場面に出会うが、<映画の一コマを見るような見物だったが、か
といってその女を訪ねて行く気には安吉はなれなかった。>
4省線電車の女
この女の姿に<安吉自身欲情的なものを感じた>のだが、<それは彼に無関係の、将来もずっと無関係の、そして今だけ彼をつらくさせるも
のだつた。>
5たばこ屋の娘
一年前とは別人と思われるほど顔が荒れており、その理由は<たばこを買う男どもが、たばこを買うたんびじろりと目で一撫でしてきた結果>と安吉
は考える。
勇造の細君を連想のきっかけとして、右のような女性像が挙げられているのだが、彼女達は<女といえば、どんな女にでも引かれてよかりそうに思
われるのに、また事実引かれもするのに、どの女にもいつこう興が起こらなかつた>女性像なのである。先に示したことからもわかるように、安吉が
彼女達に引かれるのは、いずれも性的関心のためなのである。女学生の目づかい、玉の井の女の上半身をひねる姿、省線電車の女の袖からはみ
出した手首。これらは直接的に安吉の性的関心を引くものであろう。また、勇造の細君の、娘に近づかせようという思わせぶりやたばこ屋の娘の容
貌への意識にも性的関心を伺わせるものがある。しかし、安吉は彼女達に興は起こらない。その理由として、安吉と彼女達との関係が一回限りのも
のであることに注目しておきたい。この関係の一回性は、「歌のわかれ」で<einmaligなもの>
<はかないもの>として指摘され、<短歌的なもの>
とも言われていた、「歌のわかれ」において別れてきたものなのであった。
「歌のわかれ」で、安吉の女性に村する意識は大きく変化している。安吉は女学生の接吻を目撃した直後に女学生の群れを追い越すが、<いま
いましい癖>であった虫が湧き出すような感覚は起こらなかった。そして<今後絶対に虫は出ないぞという自信のようなものが一つの化学変化のよ
うなものとして安吉のなかに出来たらしかつた>。この体験で、安吉は、青春期にありがちないたずらな性への恐れから脱却しているのである。<女
性にたいして復讐する力が肚に出来た感じであつた。>とも書かれており、安吉自身が性的関心の対象としての女性からの脱却を充分意識してい
るのである。
右のような体験を経た安吉にとって、性的関心のためだけで女性に引かれることはなさそうである。このことを如実に物語るのが、藤堂に春画を見
せられる場面であろう。安吉は、藤堂に春画を見せられて、一分間勃起せずに賭けに勝つのだが、性生活が荒(すさ)んでいるというなにげない言葉
は安吉にはこたえた。この場面の安吉には、さめた自信とあきらめが感しられるが、これは安吉が性的関心のみでは女性に興が起こらないことを示
していよう。
では、安吾が女性に求めているものは何であろうか。先述の春画の場面の次に、まとめとして次のように書かれている。
彼は彼を慰めるもの、柔らかいものを求めて女を求めていたが見だきなかつた。斎藤にしても松本にしても磯村にしてもそんなものは持つていなか
つた。そんなものは、安吉にも安吉のどの友達のまわりにも存在しなかつた。やはり彼は、酒を飲んだり、街を歩いたり、本を読んだりするほかは
な つた。
安吉が女性に求めた<彼を慰めるもの、美しいもの、柔らかいもの>は彼のまわりには見あたらない。街あるきは、いわば安吉が求め得ないもの
の代用なのであるが、この街あるきによって安吉はより広い視野を得るのである。
【五】
大都会として合理的に出来上がっている東京に、安吉は安息を見い出すことはできない。しかし、東京にも安吉が安息できる<営み>を所有する
者もあるのである。街あるきはこの東京の二つの面を安吉に体験きせることになる。そして、後者に安吉の志向は向かうのであるが、このことを述べ
る前に、前者を決定的に安吉に意識させる場面があるので、触れておきたい。
安吉は飯倉に友人を訪ねるが留守であった。方向音痴の安吉は電車みちを通り、神田に出る.その間ベンチを探すが見つからず、次のようなこと
を頭に浮かべる。
とうとう神田へ来たからにはベンチがあつてもよかりそうに思えた。披は、ここまでの道で探したのとは違つた気持ちで探したがやはりここにも一つ
のベンチも見つからなかつた。彼にとつてはそれは大都市の冷酷さだつた。彼はじくじくした復讐心を感じて日暮里の斎藤のところへ行こうと思い
な おした。
「歌のわかれ」の共同便所の糞のかたまり=<大都会の亡霊>に脅迫された場面を想起させる場面である。この共同便所も神田にあることには
注意しておきたい。「「歌のわかれ」では、神田や本郷は<たたかい> の場として安吉の前にあったが、この場面はそれほど攻撃性を持たないよう
に見える。しかし、このベンチのないイメージは<大都市の冷厳さ>として安吉に意識され、また安吉は<じくじくした復讐心>を感じてもいる。
ところで、ベンチはこの作品の中で、どのような役割を果たしているのだろうか。実は他の箇所では、ベンチは安息の場として描かれているのであ
る。浅草の公園ではベンチで眠り、浦和ではベンチにかけて見世物小屋の組立を<新鮮なようなうらぶれたような光景>と見たり、昼寝をしたりして
いるのである。
安息の場としてのベンチの有無はその土地柄によるのではないだろうか。先に触れたように、神田は<大都市の残酷さ>を具現しており、神田に
近接する大学前=本郷は太田と逢った際の復立たしいイメージをまとって、安吉の意識の中にある。「歌のわかれ」で描かれた東京はほぼこの神
田・本郷に限られており、東京は<大都市>の面からしか描かれていないのである。一方、「街あるき」では、浅草・浦和などの土地が<大都市>と
は違った性質のものとして描かれており、安吉の視野も広がっているのである。そして、これらの土地は、安吉にプラス・イメージでとらえられ、生活
者の臭いを持ち合わせているのである。
先述の神田の場面の後、上野で自転車の群れに出会うが、その様子について見ておきたい。
まず、上野の山の様子を次のように書いている。
道路は暗くなつていた。上野の山の側には店屋がまだ出来あがらず、そのため、それだけ立派に出来あがつたコンクリート新道が野つ原のなかの
道路のように茫漠としていた。その向うにぼやあつとした光があり、深さがだだつ広いとでもいうような街の音響がそこから聞こえていた。
安吉は道路や空間に対して鋭い感覚を持っているのだが、雑司ヶ谷の<夢に出てきた一郭かのような気味悪い窪地>とこの上野の様子は対照的
である。雑司ヶ谷の窪地とは湿地を埋め立てたものらしい、平屋が直角でも平行でもない関係で立っている<不整形の窪地>なのであるが、これは
浅薄な人為の象徴と言えるだろう。このことは、すぐ後に安吉が<垣根に挟まれた路地のパースベクチヴ>に<悲しさ自身が無気力なような悲しさ
>を感じていることからも証拠づけられよう。それに対して、上野は<店屋がまだ出来あがら>ない<野つばらのなかの道路>であり、いわば人為
を排除した風景なのである。その向うには<ぼやあつとした光があり、深さがだだつ広いとでもいうような街の音響がそこから聞こえていた>という生
活者の街が具現化されているのである.ここで安吉は<何百とも何千とも知れぬ自転車の灯>に出会うのであるが、彼ら職工の帰る先を安吉は日
暮里や三河島であろうと考えるのだが、これは安吉が電車の中で客だねが変わる境と考える<一方は御徒町へんから向う、一方は柳原へんから向
う> に合致することは注目しておきたい。安吉はこの自転車の群れとの出会いで<朝と晩との、人間とある群団の自転車での移動がぼんやりとわ
かるだけ>ではあるが、安吉にとっては初めての生活者との出会いであり、換言すれば<営み>との出会いなのである。
【六】
先述したように、この作品において生活者の代表として重要な役割を果たしているのは<ある種の生活者>としての女性である。
雑司ヶ谷の家で磯村の話した上野の森の話に、安吉は<こわいような興味>を覚えるのだが、この話の主人公は女である。産気づいた女を女が
集団となって取り囲み、男を近づけなかったという内容の話であるが、ここには本能的な女性の<
営み>があるのではないだろうか。それゆえに、
安吉は強い興味を示すのであると考える。ここではすでに性的関心を離れて女を見る安吉の志向があらわれている。
安吉が決定的に女性に眼を向けるのは、両国橋で女に出会う場面である。
女は二十七、八くらいの年配だった。あらい絣の筒抽を着て同じ絣の前掛けをかけ、脚絆をして草履をはいていた。頭には笠をかぶつていた。肩
に は天秤棒をかついで、その両方にそれぞれ重ねになつた竹かごようのものを提げていた。かごをつるした三、四本の縄はぴんと張っていた。女
は 両手を、一方は上から、他方は下から天秤棒にあてがつていた。披女はそのかつこうのままでからだを一揺りしたのだつた。女は笠の下が照
るよう な顔いろをしていた。
安吉の前にあらわれたのはこのような女であるが、労働をする、まきしくある種の生活者>というべき女である。この女は安吉に非常に強い感動を
もたらす。この女性の登場以後、安吉はぼんやりした印象を払拭し、峻厳さを身につけたように見える。安吉は、ここで中野の言う<ある種の生活者
> である女に <全身的に引かれる瞬間>を体験しているのであり、この女の登場は中野がこの作品の眼目とするところなのである。
この女は<営み>を体現しており、その<営み>を安吉は感覚的につかみとっているのである。
女は小娘と言葉を交わす。安吉は充分に聞きわけたわけでないが、<たぶん彼らは、一つの在所のものか近在のものかだつた。>と推断をする。
女と小娘とは<在所>もしくは<近在>という<大都市>を離れたところに<生活>を有していた者なのであり、共通した<生活>=<営み>を持
っているのである。
ここで、この女と出会った両国について見ておきたい。先述したが、安吉は御徒町と柳原とを<大都市>の境界として意識している。この意識から
すると、両国は<大都市> の範囲となる。この女との出会いは、いわば<大都市>
の中での<営み>との出会いであり、<大都市> に受け入れ
られない安吉にとって新しい<営み> の発見とも言えるのである。この<大都市>
の中での<営み> の発見こそ、安吉の明確に捉え得ない<根
本的な何か> であろう。
先に安吉は<営み>を感覚的につかみとっていると書いたが、それは次の記述から証拠づけることができよう。
女は厚い肩をして盛り上がつた胸をしていた。それをぴつしり包んだ布はそのまま皮膚であるかのようにぴんと張つていた。あざやかな紺耕の残像
はそのままこりこりした脂肪の層を手さぐりするのと違わなかつた。
(傍線
引用者)
女の身体は、労働をする身体であり、<ある種の生活者>の身体にほかならない。傍線を付した部分からもわかるように、安吉は触覚としてこの
身体をとらえているのだが、このことは、安吉が充分に<営み>を体得したことを示していよう。
【七】
安吉は<営み>を体得したのであるが、この後の安吉の考えに注目しておきたい。
安吉は橋を戻って再び街の中へ入り、とりとめもない考えをめぐらすが、森本に会うことに考えが行き着く。森本は新人会会員で大学生であり、両
国の女や自転車の群れといった<ある種の生活者>とは無縁の<大都市>
側の人物なのであるが、安吉は彼との会見について<武芸者がよそ
の道場を訪問するようなものでなければならなかつた。>と考えている。<大都市>の中に<営み>を見出した安吉は、受け入れられぬことを知り
ながらも<大都市>との<たたかい>を余儀なくされているのである。そして「街あるき」の安吉の<たたかい>は「歌のわかれ」のそれのような攻
撃的なものではなく、道を飽くなきまでに求めていく<武芸者>のごとく静的なものへと変容せねばならないのである。「街あるき」の最後の部分は、
静かな<たたかい>を持続させていかねばならぬことを言いあらわしているのではないだろうか。
その思いつきはそのため格別彼を昂奮させはしなかつた。彼はじつさい労(つか)れきつていた。それでも彼は、不意に自然に出てきたこの思いつ
きを無理に捨てようという気にはやはり自然にならなかつた。
(「中野重治研究会会報'90・?6」平成二年四月発行 に掲載)