About me コンタクト〜AKIRA
絵はここからもらいました。
少し前にWOWOWでやってた映画「コンタクト」が友人の間で少し話題になっていた。地球外生命とのコンタクトを試みるという話であるが、テーマもテーマであるし、カール・セーガン原作、とか、主演ジョディー・フォスターはけっこう社会派的作品が多い、ということでなかなか期待させるものがある。(だったら劇場見に行けって感じもするが!) SFに造詣の深い友人がおもしろかったというので期待してみてみた。 以下はちょっぴり期待はずれだった感想だが、この手の宇宙モノはフィクションであることが当然わかっていながら、いかにリアリティーを感じさせるかが大きなポイントとなると思うのだけれども、その点では「2001年」が常に脳裏につきまとう。 で、「コンタクト」だが、なんか崇高なテーマなので映画も重厚な造りかと思っていると、描写というかCGの感じとかがいかにもハリウッドエンターテイメントなところがあったりして、その辺のバランスがむずかしい感じがした。重く受けとめたい気持ちだけが先行するのだが、なんか、いわゆる”ハリウッド”を感じさせる映像に一瞬冷めそうになりかけてしまった。 また「宇宙を往く」という感じ、宇宙体験のイメージは、やっぱりああなのかなぁ...「2001年」と基本的に変わってないような...スタートレックも含めて、従来の表現の概念を抜けるモノではなかったように思いました。「2001年」はやっぱり偉大なんだなぁ...などと感じました。(そういえばキューブリックって今年3月に死んじゃってたんですね。こないだまで知らなかった。) で、話は変わるが、先日「美術手帳」の98年12月号を(なぜか今頃)読んだのだが、特集は「マンガ」。ここで大友克洋のインタビューがあり、彼の仕事を懐古的に一覧できる。これをみて久々に「アキラ」が読みたくなって全6巻を二日間約10時間かけて一気に読んでみた(僕は読むのが遅い)。いやぁ、おもしろかった。これのおもしろさは70年代的猥雑の風景の中で近未来的ストーリーが展開されるところだ!。超能力者同士の戦い=サイキックウォーズはいろんなマンガや映画でお目にかかるが、ネオ東京が無法地帯化した後では新興宗教や呪術的なキャラ、妖怪的なキャラなど、従来のいかがわしそうなものは全てが超能力を獲得した末の姿として描かれて、それらの闘いは各自の独特な手法によるものであり非常に滑稽に描かれる。こんなサイキックウォーズを描いた物語は他にない!(なにしろ笑える) ここに「コンタクト」の話と同時に書いた理由だが、鉄雄が二度目の「覚醒」を果たすあたりから能力によって宇宙をもさまようことができるようになるのだが、このときの様子とか(能力を完全にはコントロールできないように映る)、アキラの頭の中を覗こうとしたときの描写が、上述したいわゆる「宇宙を往く」ときの描写と共通性があると感じたからなのだ。具体的に言うと、空間をさまようということが”時空をさまよう”ということに置き換えられ、自分の過去の姿や未来の姿を目撃したり、あるいは自分がトラウマ的に引きずっているような過去の場面に突然遭遇したりするというわけだ。 「広大な宇宙を往く」という現象を、「自分の記憶=自分の脳という小宇宙を往く」ということへ置き換えて描写する方法は良くある、というよりも半ば当然の、確立された表現様式のようにも思える。(だってそれ以外にどのような表現の仕方があるのか思いつかない。)現実にそこに、考える主体としての自分(の脳)が存在するところで、「往く」という一種の極限的行為がもたらす現象をどのように自分が知覚するかという問題は、そのとき惹き起こされる様々な感情を加味した上で、ほかでもない独自の経験や知識を携えた自分という主体が独自に知覚する心象風景と言うことができるだろう。(どのような行為の知覚も人それぞれと言えばその通りだが、その差異が極限に至った場合と考えられるということ。)とすればそのとき見る景色は、究極の独自性、すなわち自分自身ということになるような気がするからだ。 しかし、映画における表現の可能性みたいな観点で言えばもっとビックリするような表現が登場して欲しいと思う。ちょっと似たような場面でこれほど特異な表現がという例がある。たとえば「ツインピークス」のクライマックスで出てくる異次元空間だ!言ってみれば”善悪の彼岸”とでも言うべき空間は、なぜか赤いカーテンに囲まれてチェスの盤のようなチェックの床にベルベットのソファーが置かれ、小人が不敵な笑みを浮かべながら変調された音声で語りかける、といったものだった。こんな表現はデヴィッド・リンチにしかできないけど(いや、2001年のボーマンが見た真っ白な部屋というのもあった!)、今後、なにか斬新な映像表現の登場を期待したいものだ。 ('99.6.30) |