an opinion オリンピックにまつわるエトセトラ
絵はここからもらいました。
'98.2.28
長野オリンピックが終わりました。熱狂的に過熱していたオリンピックムードも、一時の熱病のように過ぎ去って、みんな「さあ、祭りも終わったし、また仕事に頑張ろう」などとやる気を取り戻していることでしょう。 たいへんに感動を味わったオリンピックでした。やはり国内で開催されるオリンピックをほぼ同時的にテレビで観戦するのは初めてのことですし。札幌オリンピックで日の丸飛行体(この呼び方きらいですが)が金銀銅を独占するのをテレビで見て、幼心に、自国での開催にあつらえたようにメダルを独占するなどという奇跡のようなことが起こって良いものだろうかと感嘆したことはかなり鮮明に覚えていますが、それ以来、海外でのゲームを時間差で見ることや、注目の種目を深夜の生中継を見ることはありましたが、リアルタイムに、しかも手の届くところで実際に行われているということを実感しながらの観戦は初めてなわけです。これにはやはり違いがありますね。いつもより(個人的に)盛り上がる理由があります。 1)自分も行ったことのある場所で、壮大なイベントが繰り広げられている、”みんな”が見に行っている、という感覚 2)時間的にリアルタイムなので昼間から生中継が行われ、夜になっても深夜になってもやってる(ある意味メディアの加熱) 2)日本の選手も自国開催ということでいつにも増して頑張っている(お約束通り良い成績だ) 3)たまたま私、今年ヒマな身の上だったのでしばしば一日中、リアルタイムで競技を見続けていた といった理由でしょうか、今回のオリンピック観戦はいつになくほんとうにおもしろかった。データによればオリンピックのテレビを見ていた人の4割が泣いてたらしいですが。まあ自国開催で選手がこの年に合わせて調整していることもあって成績がいいので、そこに内包されたドラマだとか、家族の涙などが非常に象徴的に映し出されるので(それが演出過剰などという気は毛頭なくて真実の側面として受け取っています)とても感動し、たくさんのもらい泣きの涙を流しました。大切な人が喜んでくれる、大切な人を喜ばせる、という姿はほんとうに美しいと思いました。 |
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近年、ボーダーレスの時代等言われ、21世紀は国境のない時代、と私も考えていました。先日私の愛読するマンガ、村上もとかの「龍-RON-」の扉に「国境 それは地理、歴史、ましてや政治にあるのではない。それは人心の中に存在する。」とあるのを見てまたまた感動してしまいました。 ここのところ日本がメダルを取ると嬉しくて応援したくなるし(ワールドカップ予選でも全く熱狂しましたし)、ナショナリズムとボーダーレスの狭間で、どうも頭の中が歯切れの悪い生活をしていたもので、たいへんに考える機会となりました。 感動したオリンピックでしたが、しかし、まあ一応こういうことも押さえておくと、オリンピックの開催に関しては様々な意見があります。ナショナリズムを支えるきわめて国家的な、国威発揚イベントであるわけで、体制側にとっては国家体制を確認する良い契機になるわけです。選手個人としての競技の戦いよりもなぜか国家間の獲得メダルがクローズアップされてしまいます。そしてやはり自国選手が勝利すると嬉しいし、自分たちの民族が世界一になることを誇りに感じるのでしょう。それを責めることはどうも私にはできません。この点だけについて言えばなんら悪いことなどないのかも知れません。日本人としてそこに何かしら罪悪感らしきものを感じるのはやはり過去の(ほんの50年ほど前の)歴史によるものなのでしょう。 しかし、戦争を知らない子供達の第一世代後半くらいの私たちからしてももうすっかり世代が違うと感じる、いわば「知らない第二世代」の若い選手たちにしてみれば、国を代表して競技会に出て、勝利して、無心に国の旗をはためかせて走ることに何を悪びれることがあろうか、という感じでしょうね。普段日の丸も君が代も好きじゃないこの私でさえ、勝った選手がウイニングランで国旗を持って走るとジーんとしてしまい、君が代の吹奏のときには”君が代って音楽的に聞けばいいメロディーだよなぁ”などと感じ入ったりしてしまったものでした(不覚にも、と思いたいような、でも純粋にそう感じたのだからそれで良いじゃないか、とか複雑な感情に襲われながら、よく「オリンピックには魔物が住んでいる」と言われるけどこれこそ魔物の仕業かも?とか思いながら!)。 しかし一つだけ押さえておきたいことがあるとしたら、以前在日韓国・朝鮮人の人たちの話を聞く機会があったときに聞いたことは、”日の丸を振りかざす”ことは、単に”日本人が国旗を振っている”だけにとどまらない、ということです。右よりの方々が誇りに感じて、あるいは他意なき一般国民が国民の祝日に慣習的に日の丸を揚げることが、時に他民族の人たちを傷つけているかも知れないということでした。その昔日の丸は殺戮の果てに占領を果たした土地にその証として立てられ燦然と翻った、日本にとっては勝利の印であり、占領地の人たちにとっては理不尽に襲いかかってきた悪魔の印でした。その印を彼らは一生忘れることのない忌まわしいアイコンとして脳裏に焼き付けたのです。この事実を抜きにして日の丸を振ることはありえない。そういった感情を抱く人々が(体験した人々が)少なくなってきたとはいえ、やはりこの”歴史”は十分知ったうえで”振る”ほうがいいんじゃないか、と押さえておきたいわけです。 また鍛え上げられた人間の姿を競う場なので当たり前ですが、”できる”ことを称えるイベントであるという点も取りざたされます。これは「努力すればできるんだ」ということを信奉するものであると同時に、「努力してもできないひと」のことは考えられていなかったりするということです。そのフォローのためにオリンピックのあとにパラリンピックというのも開かれますが、これも受け取る人によっては二重差別だと言われたりもします。結局”できる”ことを賞賛するものに違いないからでしょう。 人間が感動するのはおそらく人間そのものの独自性=アイデンティティーに対してなのだと思います。優れたミュージシャンやアーチストが一見してその人だとわかる個性を表出させていることは誰しも知っています。卓越したミュージシャンはかならず自分だけの、他人に真似できない”音”を、画家は”筆致”を持っています。スポーツマンも人を感動させられる人はきっと彼だけのやりかたを持っているでしょう。速く滑れる、点をたくさん取れるということが、彼らの独自性の上に立脚したものである故に見る者を魅了するのです。そこさえ忘れなければ二つのオリンピックは良さを失うことはないと思うのですが。 |
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開会式、閉会式もたいへんおもしろかった。地味だとか、いかにも”日本”らしいとかいろいろな意見が出ましたが、まあ誰がやってもかならずなにか言われるので、総合的には素晴らしいものだったと思います。世界的に見ても今時景気がいいのはアメリカくらい(しかしちょっと影が見え始めたとか)でアジアはぜんぜんダメ、環境問題は世界中でかなり議論が活発になっている、地元長野の財政もなんとか..と伝えられる中、そうそうエネルギーや経費の無駄遣いと見えるようなド派手なことはやれないでしょうから、少々地味めで良かったでしょう。 長野の祭りといえば、やはり出てきたのでした、御柱(おんばしら)。これって会場にでっかい柱立てただけだったけど、実際には山から木を切り倒して持ってくるところから全てが祭りなんですよね。で、山の急斜面を巨大な丸太(直径が確か人の背に近いくらいある)を縦に滑らせて山から降ろすのですが、その際に滑り落ちる丸太に人が大勢またがって降りるという荒技の祭りです。十数人が並んで丸太にまたがったまま丸太を斜面から滑り落とすのです。丸太から人がころげ落ちて、そりゃそうですね、丸太って丸いから、横方向に回ります、すると当然乗ってた人は転げ落ちてしまいます。丸太の下敷きで巻き込まれる人も多くて、毎年死者が出るそうです。毎年は大げさですが、死なないまでも骨折くらいは並です。落ちても平気だった人はまた丸太に飛び乗るのですから、ケガするまで乗っかってるって感じでしょう。諏訪に伝わるたいへん豪気な祭りです。だから、実はこの部分がなければ「御柱祭」とは言えないところがあるのです。ですから開会式には会場のスタンドの客席の一角を全部土で埋め立てて、上からの丸太落としで式を始めるべきだったと思うんですが。できませんね、そんなこと!! そして技術立国日本と、なぜか世界中で一番”第九”を聴く国日本(そして名コンダクターを輩出している日本)を同時にアピールする世紀のイベント、世界6ヶ所同時生中継第九演奏!スバラシイの一言ですね。世界中で同時に、異なる民族が「人類はみな兄弟」と歌うのです。素晴らしすぎます。この瞬間地球という星が「歓びの歌」のメロディーに共振したことでしょう。惜しむらくは、それをまた同時に見てもらうのに、世界同時中継でン十億人が見るという国際映像のスイッチングが良くなかったことです。何か事情があったのか知らないけど、下手すぎました。世界各地の合唱団の絵の切り替えが、チョーへた。会場のステージで踊っているダンサーの絵ももう少し見たかったし。テレビの前で感動してるのに、映像見ててイライラしてしまいました。世界同時生演奏生中継なんて、イベント(コンセプト)の演出もさることながら、放送として作られた映像と音声も全て含めてイベントの演出です。あー、それだけが残念。それにしても、衛星回線で繋いでいるのになぜ時間がずれずに演奏タイミングが合うのかなぁ?わかりませんね。最新技術だそうですが。 閉会式は、欽チャンでしたねぇ。 「聖火が.....、消えます」なんて、カッコ付けすぎでもなく抜きすぎでもなく言えるのはあの人だけでしょうね。花火は花火ですごいし。いくらかかってるんでしょうね?しかしあんなに上げたら今年の夏祭りは長野の人たちものたりないだろうなぁ。 そして最高の演出は、フィナーレにする「輪になって踊ろ」を、競技中に選手の試合待ち時間に延々BGMで鳴らし続けて選手の耳に焼き付けておいた上で閉会式のフィナーレに持ってくるという大技です。おかげでフィナーレで生演奏のこの曲を聴いた選手達は、たちまち踊り出してしまいましたねぇ。いやあすばらしい仕掛けでした。やっぱ、ライブでみんなが踊り狂うってのはいいです!!リオのカーニバルか阿波踊りかって感じでした。曲が良いしね。あの曲は詩といいメロディーといい名曲ですね。あれを演奏してた聞いたことのないミュージシャンが角松敏生に見えたのはぼくだけでしょうか? |
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まあ、さすがに劇団四季、浅利慶太さんの総合プロデュースでした。 ちょっと前の「気まぐれコンセプト」(ビッグコミックスピリッツ)にあった4コマのネタ・・・ 来るべき2000年を前に、2000年の1月1日を祝おうという動きに対して、実は祝うべきは2001年の1月1日ではないのかってことで2001年1月1日を祝おうという動きとに、今経済界は二分されつつあると言う、どっちが良いのか考えてもわからないので、こういうことはきっと電通が一番よく知っているはずなので電通に聞いてみようと電話したところ、「どっちかわからないけど、両方やった方が儲かるのでどっちもやりましょう」と言われ、聞いたのがマチガイだった!というオチ。事実かどうかは別にして、マンガのネタの話ですので念のため。 で、何かというと、昨今、政治家は権力を失って久しく、官僚も今やコテンパンに叩かれつつあり、マスコミ=テレビが、それも報道じゃなくバラエティーが若者にコビを売って力をなんとか維持する時代にあって、実は一番我々の生活に関係のある領域で力というか決定権を持ってたのは一部の巨大広告代理店だった?っていう状況がけっこう冗談じゃなくて、周りにあるイベントや、テレビ番組とか、じゃなくても何らかの社会との接点に置いて、例えば、役所に何かの制度を訪ねたときに出てくるパンフレットから、新しい電化製品(パソコン及び最近のハイテク製品)を使おうと思ったときのその使い方(これは最小のシステム)に至るまで、なにか、画一的な広告代理店の感性が浸透しているように思えてならないのですが、まあ演出の話に戻すと、イベントにしてもテレビにしても、どこか奇をてらう、より新しい刺激を次々に加速的に求めるやり方が横行していると思うのですが、そのような流れに対して、久しぶりに、かの日本国おかかえ演出家(その昔、中曽根元首相時代にブレーンの一人に選ばれ、中曽根さんがレーガンをもてなしたときに、お茶の心でと茶室へ連れてったのが彼の演出だったのは有名?)の浅利慶太さんが、王道中の王道というものを披露して下さり、「たまにはこういうのがいいね」、「ワールドワイドに見ればやっぱこうなるのね」と思わせてくれたのが、まあ良かったということです。 いや、簡単に言うと、いまやテレビもイベントもましてや生活全体がフジテレビだけど、オリンピックはNHKだったねってことです。 そして数々の感動を残して長野冬季オリンピックは去っていきました。国威発揚イベントたるオリンピックはその役割を完璧に果たして、その期間中にも開催前と全く変わることなく(どうにか戦争勃発だけは回避されましたが)”不況”、”汚職”、”少年+ナイフ”の全く殺伐としたニュースが依然として流されるのを横目に、国民に感動を与え続け、すさみきった人々の心を癒し、すっかりガス抜きをしてしまいました。祭りが終わってまたみんな、ガンバリはじめることでしょう。若者達と違っておじさんたちはなかなかキレずに辛抱してしまうので、不満も生活苦ももっともっと極限まで蓄積されて爆発しないと、やはり社会は改善されませんね。そのころにはまたうまいことガス抜きされて矛盾も不条理も「まあまあ」の「ナーナー」で終わっていくことでしょう。(だって怒りをぶつけるどころか簡単に死んじゃうんですもんね(会社社長3人保険金目当てで自殺?)。ってことは、もはやいくら蓄積してもキレて爆発はできないのか。)ちなみに2/27発表の失業率は3.6%だそうで(ぼくも入ってるはずですけど)、たしかイギリスとかドイツは10数%かそれ以上だったと思いますので、ま、死んでも革命なんかは起きませんね。(あ、でも今の若者が大人になったときには期待できるかもしれませんね。キレてキレまくって何かが変わる!?)ちなみに革命と言えば、TMレボリューションの西川君が歌っているときに、必ず前から風が吹いているのはなぜなのか疑問だったのですが、友だちのTMフリークによると、あれは革命が起こっているのだそうです。びっくりしましたね。 ('98.2.28) |