藤沢周平さんについて

 藤沢周平さんは,「暗殺の年輪」で昭和48年上半期の直木賞を46才で受賞された。私が作品を読み始めたのは「用心棒日月抄」からで,以来一番好きな作家となり,文庫本化された作品はほとんど手にしている。 

 作品には江戸時代の名もない庶民を描いた世話物の「橋ものがたり」「時雨のあと」や,下級武士を描いた武家物の「竹光始末」「風の果て」などがあり,その主人公たちに向ける作者の暖かい視線が感じられて,作者の人柄が作品に現れているようで,井上ひさし氏に言わせれば,”読み終えてしばらくは,人を信じてみよう”というような作品が多い。

 また,歴史上の実在人物を描いた「密謀」や「一茶」,新井白石の生涯を描いた「市塵」などの歴史物もあり,第20回吉川英治文学賞を受賞した「白き瓶」では歌人の長塚節を主人公に,世俗的な伊藤左千夫と対比させることで節の清潔な生き方を書いている。

 若い頃,結核を患い5年ほどの闘病生活を送った藤沢周平さんには,やはり,同じ病気で亡くなった節の生涯が近しいものに思われたのではないだろうか。節は清僧のおもかげがあると言われているが,作品に登場する主人公の幾人かからは似たような印象を受ける。

 ある時エッセイにこんなことが書いてあり,”おや!”と思ったことがある。それは,雑誌に書斎の写真を載せることになり,書斎がおよそ作家のものらしくなく,何も無いことで恐縮したとも,また,「私は所有する物は少なければ少ないほどいいと考えているのである。物をふやさずむしろ,少しずつ減らして生きている痕跡をだんだん消しながら,やがてふっと消えるように生涯を終わることが出来たらしあわせだろうと時どき夢想する」とも書いておられる。物に執着しない,所有欲が希薄なところがあり,それが作品の中の清潔な主人公の生き方に現れているような気がする。

 嫌いな作品は殆どない。どの作品からも作者の人間,特に市井の名もない人々を見る目の温かさが感じられる。エッセイでは,適度なユーモアもあって,久しぶりに読み返した「周平独り言」や「小説の周辺」は面白く,何度読んでも飽きることがない。また,小説を通して私が想像していた藤沢周平という人と,エッセイを通しての藤沢周平という人がピッタリ重なる気がする。

 地味な作風,人柄ながら,描く作品はわずかな情景描写にまで,目が行き届き,ほんの1行にすぎない文章に胸を突かれることもたびたびある。
 小名木川,福井町,海辺大工町といった江戸の街の地名がよく登場するが,情景が鮮やかに目に浮かび,橋を渡る女房の下駄の音まで聞こえてくるような気がする。また,身を持ち崩した職人ややくざも登場するが,冷たく突き放して見るのではなく,そういう人間が生きていくことの悲しさへの深い思いがあって書かれている。

 駒田信二さんが,「藤沢さんの作品が読者の心を打ち,読後に余韻を残すのは作者の自己投影の深さゆえにすぐれている」と書かれているが,小学校5・6年生頃,教室外では普通に話せるのに,教室の中で先生に指されると声が出なくなって本が読めなかったという体験があったり,結核により中学校の教師という職業をあきらめなければならなかったり,生家の破産や馴れない東京での生活,奥様の死と自分の思うままの人生を生きられなかったたために,弱者の気持ちや痛みがよくわかる人であるからだと思う。

 どんな人も生きていくための悲しみや,様々なしがらみを身にまとっている。けれど,どんなに苦しくても,悲しくても人間は命のある限り生きて行くことをやめることはできない。そんな,弱い,名もない人間の姿を借りて,それらの人々を代弁しているのだと思う。

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