時 2000/6/30(金)18:30〜
所 名古屋白川ホール
コンサートプログラム
<第1部>
うみへ 詩曲/及川恒平
ひきしお 詩曲/及川恒平
雨が空から降れば 詩/別役実 曲/小室等
あつまれ光 詩曲/及川恒平
面影橋から 詩/田中伸彦・詩曲/及川恒平
戯曲「大塩平八郎の乱」より
世界が完全に晴れた日 詩曲/及川恒平
大雪の日 詩曲/及川恒平
いのちかえす日 詩曲/及川恒平
この世花の日 詩曲/及川恒平
平原にて 詩曲/及川恒平
<休憩>
<第2部>
さみだれ川 詩曲/及川恒平
ふたつの水たまり 詩曲/及川恒平
靴を繕う 詩曲/及川恒平
ジェルソミーナ イタリア映画主題曲 詩翻案−及川恒平
海の子守歌 詩/及川恒平 曲/すぎやまこういち
「ドラゴンクエストVより」
私の青空 訳詞/堀内敬三 外国曲
なつのあさ 詩曲/及川恒平
星の界 賛美歌312番 詩/杉谷代水
いちにちのすべて 詩曲/及川恒平
アンコール
天の川 詩曲/及川恒平
6時30分を少し過ぎた頃、恒平さんはチューニングメーターを持って登場。まず、2本のギターのチューニングから。
舞台中央には録音用のマイクと譜面台がセッティングされている。
今回のコンサートはレコーディングも兼ねているので、恒平さんも、見ている私たちもとても緊張していた。咳が出ないように、物音を立てないように、でも拍手は力いっぱいになどと。
音を増幅させる物は何も無いのに、恒平さんの静かな声も、小さなささやくような声もとてもよく響き渡る。こんなに深い声だったんだろうか、こんなに暖かい声だったんだろうか、詩が情景が目の前に浮かんでは消えていく。
恒平さんが歌う事を再開してから何年間かは全く知らなくて、悔しい思いをしたこともあるが、そういった時期を経て今という時間があることを納得する。だからよけいに思い入れが深いのかもしれない。 今を共有できることのスゴさを改めて痛感する。次回のコンサートには参加できないかもしれないし、それはそれでまたいいなどど思う。いつもいろんな人の音楽を聴いても、やっぱり帰って行くのは恒平さんだから・・・。
「ほろほろと」の詩の中に、「誰かをひとりじめに 誰かがしたところで たださりげなく時がたつ」とあるが、本当にそうだと思う。
人の心も移ろっていくし、子どもは成長していつかは離れて行く。
何ひとつとして変わらないものはないのだから。自分自身さえもいつかはこの世から去っていかなければならない・・・。
「ひき潮」は1976年4月に出た「Live in Jean Jean」に入っている曲。1994年に発売された「みどりの蝉」の中にも納められている。20年近く経って今歌ってもちっとも古くさくなくて、深い内容を持っている曲だということに最近やっと気が付いた。20年も前に恒平さんはいったいどんな気持ちでこの曲を作ったのだろうか、ちょっと知りたい気がする。
このコンサートで、「雨が空から降れば」と「面影橋から」を聞けるとは思わなかった。2曲とも、レコードのアレンジが染みついてしまっていて、アレンジが違うので違和感があったが、でも恒平さんの声は懐かしい耳になじんだ声のままだった。
今回のコンサートは、前奏もなくていきなり歌が始まるという曲が多かった。演奏はもちろん一人でされた訳だが、たとえば昔の六文銭の曲のように、間奏の展開があってそれも楽しみだったりするのだが、サポートメンバーもなくご自分一人で演奏するということで、色んな工夫がしてあった。たとへば「あつまれ光」はアカペラだったし、「平原にて」は後半は太鼓のバチでギターを叩いて音を出したり、また違う曲では鈴を使ったり・・・。この太鼓の音は心臓の鼓動を思わせて、「真言のように君の名」をつぶやく恒平さんの鼓動のようにも聞こえる。
「世界が完全に晴れた日」
は8月6日をイメージしてしまう。朝から蝉が激しく鳴いていたその日、私たちはまだ生まれていなかった。この曲は聴いていて、自然に涙が出てきそうになって困った。詩が頭の中で勝手にイメージを作って行ってしまうのだが、今回選ばれた曲のイメージは共通するものがあって、大いなる物への畏怖・祈り・輪廻・天空・光・宇宙・海などと言う言葉が連想される。こんな詩を作るまで、恒平さんにどんな事があったのだろうとつい想像したくなるような・・・。これまでの恒平さんの生きてきた軌跡が、幸せなものであってほしいと祈らずにはいられない。
だが今は歌を歌うことで、恒平さんは幸せそうなのだから、よけいな斟酌は無用かもしれないが。
「いのちかえす日」
とは、自分が黄泉の国へ旅立つ日のイメージの詩ととればいいのだろうか。そう考えると納得できる気がする。
ひっそりと、この世に生を受けた事を感謝しながら、暖かな手に触れながら、心の中には大好きだった歌の一節を感じながら旅だって行けたら、それでいいと思う。栄光も名誉も富にも興味はなく、ささやかな平安があればいいと思うこの頃。若い頃にはこんなに深い詩は理解できなかっただろうと思う。年を重ねて、色んな経験をし、悲しみも喜びも寂しさも孤独感も味わって、たどり着けたのだと思う。詩を書くことは自分の内面と向き合っていくこと、自分の内面を見つめることだと思うのだが、自分を超越して自然と一体になる瞬間があると思う。山を登っている時、ブナの林の薄緑色の海の中で、白いまだら模様のある樹皮に手を置いて、ブナの木肌を感じる時だとか、蜜蜂が野草の花の蜜を無心に吸っているのを見ている瞬間だとか、ウグイスの鳴く声に耳を傾けている瞬間だとか・・・。そんなイメージの曲。
「平原にて」
は、目の前に、山道を歩いている自分が見える。土の道を木漏れ日の下を歩いている。いかるの鳴く声が聞こえる。しばらく川のせせらぎを聞きながらぶなや水ならの林を歩いて行くと、谷の奥に滝が見えてくる。滝は清冽な冷たさに満ちている。その清冽な水でのどを潤す。道はいつしか登りになって、全身から汗が噴き出し、呼吸が荒くなり心臓の鼓動が聞こえるようになる。そんなひとときを思い起こさせる曲。
休 憩
休憩時間になってグチさんが大きなため息をついた。物音を立てないようにというプレッシャーは結構大変なものがある。会場がしばらくほっとした時間だった。
「さみだれ川」
は、1975年に出た「懐かしいくらし」の中の曲。
昔の恒平さんの曲は、恋愛や愛についての曲も多かったが、今考えてみると「冬の音」や「忘れたお話」のような曲もあり、「ひき潮」や「さみだれ川」のように今、その詩を読んでも曲興味深い詩があったりしていいと思う。
「ふたつの水たまり」
この曲も聴いて、情景がすぐに目に浮かんできた。
昨日登った赤兎山に赤池という小さな湿原の池があるのだが、その池の真ん中に浮島のような小さな島があって、そこにニッコウキスゲが咲いていた。その池には、青空と雲とニッコウキスゲが写っていた。それよりももっとサイズの小さな水たまりなんだろうけれど。
ちょっとお天気が続けば、その水たまりも蒸発してなくなってしまう。浮かんでいる雲も水たまりそのものも、蒸発して形を変えてしまう。何ひとつとしてとどまっているものはない。地球上の大陸でさえ何億年という時間単位の中で形を変えていくのだから。
「なつのあさ」
コンサートの時には歌や演奏があって、あまり感じなかったのだが、改めてこうやって詩を何度も読み返してみると、無常観が感じられて、詩をどのようにでも深読みできてびっくりしてしまう。