法華浄土問答抄
法華浄土問答抄の概要 【文永九年正月十七日、聖寿、真筆−断存】
弁成の立。我が身叶ひ難きが故に且く聖道の行を捨閉し閣抛し浄土に帰し、浄土に往生して法華を聞て無生を悟ることを得べきなり。 日蓮難じて云く、我が身叶ひ難ければ穢土に於て法華経等・教主釈尊等を捨閉し閣抛し、浄土に至て之を悟るべし等云云。何れの経文に依て此くの如き義を立つるや。 又天台宗の報土は分真即・究竟即、浄土宗の報土は名字即乃至究竟即等とは、何れの経論釈に出でたるや。 又穢土に於ては法華経等・教主釈尊等を捨閉し閣抛し、浄土に至て法華経を悟るべしとは、何れの経文に出でたるや。 弁成の立に。余の法華等の諸行等を捨閉し閣抛して念仏を用ゆる文は、観経に云く「仏阿難に告ぐ、汝好く是の語を持て。是の語を持つ者は即ち是れ無量寿仏の名を持つ」文。 浄土に往生して法華を聞くと云ふ事は、文に云く「観世音・大勢至大悲の音声を以て其れが為に広く諸法実相除滅罪法を説く、聞き已て歓喜し時に応じて即菩提の心を発す」文。余は繁き故に且く之を置く。 又日蓮難じて云く、観無量寿経は如来成道四十余年の内なり。法華経は後八箇年の説なり。如何んが已説の観経に兼ねて未説の法華経の名を載せて捨閉閣抛の可説と為すべきや。 随て「仏告阿難」等の文に至ては、只弥陀念仏を勧進する文なり。未だ法華経を捨閉し閣抛することを聞かず。 何に況や無量義経に法華経を説かんが為に、先ず四十余年の已説の経経を挙げて、 又云く「久しく此の要を黙して務めて速かに説かず」等云云。既に教主釈尊四十余年の間法華の名字を説かず。何ぞ已説の観経の念仏に対して此の法華経を抛たんや。 次ぎに「下品下生 諸法実相 除滅罪法等」云云。夫れ法華経已前の実相其の数一に非ず。先ず外道の内の長爪の実相、内道の内の小乗乃至爾前の四教、皆所詮の理は実相なり。 何ぞ必ずしも已説の観経に載する所の実相のみ法華経に同じと意得べきや。今度慥なる証文を出して法然上人の無間の苦を救はるべきか。 又弁成の立に。観経は已説の経なりと雖も、未来を面とする故に、未来の衆生は未来に有る所の経巻之を読誦して浄土に往生すべし。 既に法華等の諸経、未来流布の故に之れを読誦して往生すべきか。其の法華を捨閉閣抛し、観経の持無量寿仏の文に依て法然是くの如く行じ給ふか。 観経の持無量寿仏の文の上に諸善を説き、一向に無量寿仏を勧持せる故に申せしめ候。 実相に於ても多く有りと云ふ難、彼は浄土の故に此の難来るべからず。 法然上人、聖道の行機堪へ難き故に未来流布の法華を捨閉閣抛す。故に是れ慈悲の至進なれば、此の慈悲を以て浄土に往生し全く地獄に堕すべからざるか。 日蓮難じて云く、観経を已説の経なりと云云。已説に於ては承伏か。 観経の時未だ法華経を説かずと雖も、未来を鑑て捨閉閣抛すべしと法然上人は意得給ふか云云。 仏未来を鑑て已説の経に未来の経を載せて之を制止すと云はば、已説の小乗経に未説の大乗経を載せて之を制止すべきか。 又已説の権大乗経に未説の実大乗経を載せて未来流布の法華経を制止せば、何が故に仏爾前経に於て法華の名を載せざる由之を説きたまうや。 法然上人慈悲の事。慈悲の故に法華経と教主釈尊とを抛つなりと云はば、所詮上に出す所の証文は未だ分明ならず。慥なる証文を出して法然上人の極苦を救はるべきか。 上の六品の諸行往生を下の三品の念仏に対して諸行を捨つ。豈法華を捨つるに非ずや等云云。 観無量寿経の上六品の諸行は法華已前の諸行なり。設ひ下の三品の念仏に対して上六品の諸行之を抛つとも、但法華経は諸行に入らず、何ぞ之を閣かんや。 又法華の意は、爾前の諸行と観経の念仏と共に之を捨て畢て如来出世の本懐を遂げ給ふなり。 日蓮管見を以て一代聖教並に法華経の文を勘ふるに、未だ之を見ず、法華経の名を挙げて或は之を抛ち、或は其の門を閉ずる等と云ふ事を。 若し爾らば法然上人の憑む所の弥陀本願の誓文並に法華経の入阿鼻獄の釈尊の誡文、如何ぞ之を免るべけんや。 法然上人無間獄に堕せば、所化の弟子並に諸檀那等共に阿鼻大城に堕ちんか。今度分明なる証文を出して法然上人の阿鼻の炎を消さるべし云云。 文永九年〈太歳壬申〉正月十七日 日蓮花押 弁成花押 |