寿量品得意抄
寿量品得意抄の概要 【文永八年四月十七日、聖寿五十歳】 教主釈尊 此の文の意は、初め華厳経より終り法華経安楽行品に至るまで、一切の仏の御弟子大菩薩等の知る処の思ひの心中をあげたり。 爾前の経に二つの失あり。一には「行布を存する故に仍未だ権を開せず」と申して、迹門方便品の十如是の一念三千・開権顕実・ 二には「始成を言ふ故に尚未だ迹を発はず」と申して、 迹門には 然りと雖も未だ 又云く「然るに善男子我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫」等云云。 此の文の心は、華厳経の始成正覚と申して、始て仏になると説き給ふ、阿含経の初成道、浄名経の始坐仏樹、大集経の始十六年、大日経の我昔坐道場、仁王経の二十九年、無量義経の我先道場、法華経方便品の我始坐道場等を、一言に大虚妄なりと打破る文なり。 本門 爾前迹門の因果を打破て、本門の十界因果をときあらはす。是れ則ち本因本果の法門なり。 九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界にそなへて、実の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。 かうしてかへてみるときは、華厳経の台上盧舎那、阿含経の丈六の小釈迦、方等・般若・ 此の 水中の月に実月のおもひをなして、或は入て取らんとおもひ、或は縄をつけてつなぎとどめんとす。 此れを天台大師釈して云く「天月を識らずして但池月を観ず」と。心は爾前迹門に執着する者は、そら(天)の月をしらずして、但池の月をのぞみ見るが如くなりと釈せられたり。 又僧祇律の文に、五百の■山より出でて、水にやどれる月をみて入てとらんとしけるが、実には無き水月なれば、月とられずして水に落ち入て■は死にけり。■とは今の提婆達多・六群比丘等なりとあかし給へり。 一切経の中に此の 根無き草はひさしからず、みなもとなき河は遠からず、親無き子は人にいやしまる。 所詮 四月十七日 日蓮花押 |