真言天台勝劣事
真言天台勝劣事の概要 【文永七年、聖寿四十九歳】 問ふ、何なる経論に依て真言宗を立つるや。答ふ、大日経・金剛頂経・蘇悉地経・並に菩提心論、此の三経一論に依て真言宗を立つるなり。 問ふ、大日経と法華経と何れか勝れたるや。答ふ、法華経は或は七重或いは八重の勝なり。大日経は七八重の劣なり。 難じて云く、驚て云く、古より今に至るまで法華より真言劣ると云ふ義都て之無し。 之に依て、弘法大師は十住心を立てて法華は真言より三重の劣と釈し給へり。覚鑁は法華は真言の履取に及ばずと釈せり。 打ち任せては密教勝れ顕教劣るなりと世挙て此を許す。七重の劣と云ふ義は甚珍しき者をや。 答ふ、真言は七重の劣と云ふ事珍しき義なりと驚かるるは理なり。 所以に法師品に云く「已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経は最も為れ 次に無量義経に云く「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く」云云。又云く「真実甚深甚深甚深なり」云云。 此の文の心は、無量義経は諸経の中に勝れて甚深の中にも猶甚深なり。然れども法華の序文にして機もいまだなましき故に正説の法華には劣るなり〈此其二〉。 次に涅槃経の九に云く「是の経の世に出ずるは、彼の果実の利益する所多く一切を安楽ならしむるが如く、能く衆生をして仏性を見せしむ。法華の中の八千の声聞記tを得授するが如く、大果実を成じ秋収冬蔵して更に所作無きが如し」云云。 籤の一に云く「一家の義意謂く二部同味なれども然も涅槃尚劣る」云云。 此の文の心は涅槃経も醍醐味、法華経も醍醐味。同じ醍醐味なれども涅槃経は尚劣るなり、法華経は勝れたりと云へり。 涅槃経は既に法華の序分の無量義経よりも劣り、醍醐味なるが故に華厳経には勝たり〈此其三〉。 次に華厳経は最初頓説なるが故に般若には勝れ、涅槃経の醍醐味には劣れり〈此其四〉。 次に蘇悉地経に云く「猶成ぜざらん者は或は復大般若経を転読すること七遍」云云。此の文の心は大般若経は華厳経には劣り、蘇悉地経には勝ると見えたり〈此其五〉。 次に蘇悉地経に云く「三部の中に於て此の経を王と為す」云云。此の文の心は蘇悉地経は大般若経には劣り、大日経・金剛頂経には勝ると見えたり〈此其六〉。 此の義を以て大日経は法華経より七重の劣とは申すなり。法華の本門に望むれば八重の劣とも申すなり。 次に弘法大師の十住心を立てて法華は三重劣ると云ふ事は、安然の教時義と云ふ文に十住心の立様を破して云く、五つの失有り。 謂く、一には大日経の義釈に違する失。二には金剛頂経に違する失。三には守護経に違する失。四には菩提心論に違する失。五には衆師に違する失なり。此の五つの失を陳ずる事無くしてつまり給へり。 然る間、法華は真言より三重の劣と釈し給へるが大なる僻事なり。謗法に成りぬと覚ゆ。 次に覚鑁の法華は真言の履取に及ばずと舎利講の式に書かれたるは舌に任せたる言なり。証拠無き故に専ら謗法なるべし。 次に世を挙げて密教勝れ顕教劣ると此を許すと云ふ事、是れ偏に弘法を信じて法を信ぜざるなり。 所以に弘法をば安然和尚五失有りと云て、用ひざる時は世間の人は何様に密教勝ると思ふべき。 抑密教勝れ顕教劣るとは何れの経に説きたるや。是又証拠無き事を世を挙げて申すなり。 猶難じて云く、大日経等は是中央大日法身無始無終の如来、法界宮或は色究竟天、他化自在天にして、菩薩の為に真言を説き給へり。 法華は釈迦応身、霊山にして二乗の為に説き給へり。或は釈迦は大日の化身なりとも云へり。 成道の時は、大日の印可を蒙て唵字の観を教へられ、後夜に仏になるなり。大日如来だにもましまさずば、争か釈迦仏も仏に成り給ふべき。 此等の道理を以て案ずるに、法華より真言勝れたる事は云ふに及ばざるなり。 答て云く、依法不依人の故に、いかやうにも経説のやうに依るべきなり。 大日経は釈迦の大日となつて説き給へる経なり。故に金光明と最勝王経との第一には中央釈迦牟尼と云へり。 又金剛頂経の第一にも中央釈迦牟尼仏と云へり。大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に、大日経をば釈迦の説とも云ふべし、大日の説とも云ふべし。 又毘盧遮那と云ふは天竺の語、大日と云ふは此の土の語なり。釈迦牟尼を毘盧遮那と名づくと云ふ時は大日は釈迦の異名なり。 加之、旧訳の経に盧舎那と云ふをば、新訳の経には毘盧遮那と云ふ。然る間、新訳の経の毘盧遮那法身と云ふは、旧訳の経の盧舎那他受用身なり。 故に大日法身と云ふは法華経の自受用報身にも及ばず。況や法華経の法身如来にはまして及ぶべからず。 法華経の自受用身と法身とは真言には分絶えて知らざるなり。法報不分二三莫弁と天台宗にもきらはるるなり。 随て華厳経の新訳には或は釈迦と称づけ、或は毘盧遮那と称くと説けり。故に大日は只是釈迦の異名なり。なにしに別の仏とは意得べきや。 次に法身の説法と云ふ事、何れの経の説ぞや。弘法大師の二教論には楞伽経に依て法身の説法を立て給へり。 其の楞伽経と云ふは釈迦の説にして、 此の上に法は定て説かず、報は二義に通ずるの二身の有るをば一向知らざるなり。故に大日法身の説法と云ふは定て法華の他受用身に当るなり。 次に大日無始無終と云ふ事、既に「我昔道場に坐して四魔を降伏す」とも宣べ、又「四魔を降伏し六趣を解脱し一切智智の明を満足す」等云云。 此等の文は大日は始て四魔を降伏して、始て仏に成るとこそ見えたれ。全く無始の仏とは見えず。 又仏に成て何程を経ると説かざる事は権経の故なり。実経にこそ五百塵点等をも説きたれ。 次に法界宮とは、色究竟天か。又何れの処ぞや。色究竟天、或は他化自在天は、法華宗には別教の仏の説処と云ていみじからぬ事に申すなり。 又菩薩の為に説くとも高名もなし。例せば華厳経は一向菩薩の為なれども、尚法華の方便とこそ云はるれ。 只仏出世の本意は仏に成り難き二乗の仏に成るを一大事とし給へり。 されば大論には二乗の仏に成るを密教と云ひ、 此の趣ならば真言の三部経は 随て諸仏秘密の蔵と説けば子細なし。世間の人密教勝ると云ふはいかやうに意得たるや。 但し「若し顕教に於て修行する者は久く三大無数劫を経」等と云へるは、既に三大無数劫と云ふ故に、是三蔵四阿含経を指して顕教と云て、権大乗までは云はず。況や法華実大乗までは都て云はざるなり。 次に釈迦は大日の化身、唵字を教へられてこそ仏には成りたれと云ふ事。此は偏に六波羅蜜経の説なり。 彼の経一部十巻は是れ釈迦の説なり。大日の説には非ず。 随て成道の相も三蔵教の教主の相なり。六年苦行の後の儀式なるをや。 彼の経説の五味を天台は盗み取て己が宗に立つると云ふ無実を云ひ付けらるるは、弘法大師の大なる僻事なり。 所以に天台は涅槃経に依て立て絵へり。全く六波羅蜜経には依らず。 況や天台死去の後百九十年あつて貞元四年に渡る経なり。何として天台は見給ふべき。不実の過、弘法大師にあり。 凡そ彼の経説は皆 猶難じて云く、如何に云ふとも印・真言・三摩耶尊形を説く事は、大日経程法華経には之無し。事理倶密の談は真言ひとりすぐれたり。 其の上、真言の三部経は釈迦一代五時の摂属に非ず。されば弘法大師の宝鑰には、釈摩訶衍論を証拠として、法華は無明の辺域、戯論の法と釈し給へり。爰を以て法華劣り真言勝ると申すなり。 答ふ、凡そ印相・尊形は是れ権経の説にして実教の談に非ず。設ひ之を説くとも権実大小の差別浅深有るべし。 所以に阿含経等にも印相有るが故に、必ず法華に印相・尊形を説くことを得ずして之を説かざるに非ず。説くまじければ是を説かぬにこそ有れ。 法華は只三世十方の仏の本意を説て、其形がとある、かうあるとは云ふべからず。 例せば世界建立の相を説かねばとて、法華は倶舎より劣るとは云ふべからざるが如し。 次に事理倶密の事。法華は理秘密、真言は事理倶密なれば勝るとは何れの経に説けるや。 抑法華の理秘密とは何様の事ぞや。法華の理とは、迹門開権顕実の理か。其の理は真言には分絶えて知らざる理なり。 法華の事とは、又 次に一代五時の摂属に非ずと云ふ事、是れ往古より諍なり。唐決には、四教有るが故に方等部に摂すと云へり。教時義には、一切智智一味の開会を説くが故に、法華の摂と云へり。二義の中に方等の摂と云ふは吉き義なり。 所以に一切智智一味の文を以て、法華の摂と云ふ事、甚だいはれなし。 彼は法開会の文にして、全く人開会なし。争か法華の摂と云はるべき。 法開会の文は、方等般若にも盛んに談ずれども、法華に等き事なし。 彼の大日経の始終を見るに、四教の旨具にあり。尤も方等の摂と云ふべし。 所以に開権顕実の旨有らざれば法華と云ふまじ。一向小乗三蔵の義無ければ阿含の部とも云ふべからず。般若畢竟空を説かねば般若部とも云ふべからず。 大小四教の旨を説くが故に方等部と云はずんば何れの部とか云はん。 又一代五時を離れて外に仏法有りと云ふべからず。若し有らば二仏並出の失あらん。又其の法を釈迦統領の国土にきたして弘むべからず。 次に弘法大師、釈摩訶衍論を証拠と為て、法華を無明の辺域、戯論の法と云ふ事、是れ以ての外の事なり。 釈摩訶衍論は、 随て彼の論の法門は別教の法門なり。権経の法門なり。是円教に及ばず。又実教に非ず。何にしてか法華を下すべき。 其の上、彼の論に幾の経をか引くらん。されども法華経を引く事は都て之無し。権論の故なり。 地体、弘法大師の華厳より法華を下されたるは、遥に仏意にはくひ違ひたる心地なり。用ゆべからず、用ゆべからず。 日蓮花押 |