上野殿御返事
上野殿御返事弘安二年の概要 弘安二年 五十八歳御作 唐土(もろこし)に竜門と申すたきあり・たかき事十丈・水の下ることがつひやうが・やをいをとすよりもはやし、このたきにををくのふなあつまりて・のぼらむと申す、ふなと申すいをののぼりぬれば・りうとなり候、百に一千に一万に一十年二十年に 一ものぼる事なし、或ははやきせにかへり・或ははし・たかとびふくろうにくらわれ、或は十丁のたきの左右に漁人どもつらなりゐて或はあみをかけ或はくみとり或はいてとるものもあり、いを(魚)のりう(竜)となる事かくのごとし。 日本国の武士の中に源平二家と申して門守の犬二疋候、二家ともに王を守りたてまつる事やまかつが八月十五夜のみねよりいづるをあいするがごとし、でんじやうのなんによのあそぶをみては月と星とのひかりをあわせたるを木の上にてさるのあいする がごとし、かかる身にてはあれどもいかんがして我等でんじやうのまじわりをなさんとねがいし程に平氏の中に貞盛と申せし者将門を打ちてありしかども昇でんをゆるされず、其の子正盛又かなわず其の子忠盛が時始めて昇でんをゆるさる、其の後清盛重盛 等でんじやうにあそぶのみならず、月をうみ日をいだくみとなりにき、仏になるみちこれにをとるべからず、いををの竜門をのぼり地下の者のでんじやうへまいるがごとし。 身子と申せし人は仏にならむとて六十劫が間菩薩の行をみてしかども、こらへかねて二乗の道に入りにき、大通結縁の者は三千塵点劫久遠下種の人の五百塵点劫生死にしづみし此等は法華経を行ぜし程に第六天の魔王国主等の身に入りてとかうわづらわせし かばたいしてすてしゆへにそこばくの劫に六道にはめぐりしぞかし。 かれは人の上とこそみしかども今は我等がみにかかれり、願くは我が弟子等大願ををこせ、去年去去年のやくびやうに死にし人人のかずにも入らず、又当時蒙古のせめにまぬかるべしともみへず、とにかくに死は一定なり、其の時のなげきはたうじのごとし、をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへちりを大地にうづむとをもへ、法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云、恐恐謹言。 十一月六日 日蓮花押 上野賢人殿御返事 此れはあつわらの事のありがたさに申す御返事なり。 |