【文永十二年二月、四条頼基、聖寿五十三歳、真筆曽存】 夫れ天変は衆人をおどろかし、地夭は諸人をうごかす。仏、法華経をとかんとし給ふ時、五瑞六瑞をげんじ給ふ。其の中に地動瑞と申すは大地六種に震動す。 六種と申すは天台大師文句の三に釈して云く「東涌西没とは、東方は青・肝を主どる、肝は眼を主どる、西方は白・肺を主どる、肺は鼻を主どる。 此れ眼根の功徳生じて鼻根の煩悩互に滅するを表するなり。鼻根の功徳生じて眼の中の煩悩互に滅す。余方の涌没して余根の生滅を表するも亦復」云云。 妙楽大師之を承けて云く「表根と言ふは、眼鼻已に東西を表す。耳舌理として南北に対す。中央は心なり。四方は身なり。身四根を具す、心遍く四を縁す。故に心を以て身に対して涌没を為す」云云。 夫れ十方は依報なり、衆生は正報なり。譬へば依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。 又正報をば依報をもつて此れをつくる。眼根をば東方をもつてこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央等、これを・もつて・しんぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば、四方中央をどろうべし。 されば国土やぶれんと・するしるし(兆)には、まづ山くづれ、草木かれ、江河つくるしるしあり。 人の眼耳等驚そうすれば天変あり。人の心をうごかせば地動す。 抑何の経経にか六種動これなき。一切経を仏とかせ給ひしみなこれあり。 しかれども、仏、法華経をとかせ給はんとて六種震動ありしかば、衆も・ことにをどろき、弥勒菩薩も疑ひ、文殊師利菩薩もこたへしは、諸経よりも瑞も大に久しくありしかば、疑も大に決しがたかりしなり。 故に妙楽の云く「何れの大乗経にか集衆・放光・雨花・動地あらざらん。但大疑を生ずること無し」等云云。此の釈の心はいかなる経経にも、序は候へども此れほど大なるはなし、となり。 されば天台大師の云く「世人以、蜘蛛掛れば喜び来り、■鵲鳴けば行人至ると。小すら尚徴有り、大焉ぞ瑞無からん。近きを以て遠きを表す」等云云。 夫れ一代四十余年が間なかりし大瑞を現じて、法華経の迹門を・とかせ給ひぬ。 其の上本門と申すは、又爾前の経経の瑞に迹門を対するよりも大なる大瑞なり。 大宝塔の地より・をどりいでし、地涌千界・大地よりならび出でし大震動は、大風の大海を吹けば、大山のごとくなる大波の、あし(蘆)のは(葉)のごとくなる小船のをひほ(追帆)につくが・ごとくなりしなり。 されば序品の瑞をば弥勒は文殊に問ひ、涌出品の大瑞をば慈氏は仏に問ひたてまつる。 これを妙楽釈して云く「迹事は浅近、文殊に寄すべし。久本は裁り難し、故に唯仏に託す」云云。 迹門のことは仏説き給はざりしかども文殊ほぼこれをしれり。本門の事は妙徳すこしもはからず。此の大瑞は在世の事にて候。 仏、神力品にいたつて十神力を現ず。此れは又さきの二瑞には・にるべくもなき神力なり。 序品の放光は東方・万八千土、神力品の大放光は十方世界。序品の地動は但三千界、神力品の大地動は諸仏の世界、地皆六種に震動す。此の瑞も又又かくのごとし。 此の神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて末法に入て、法華経の肝要のひろまらせ給ふべき大瑞なり。 経文に云く「仏の滅度の後に能く是の経を持つを以ての故に、諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云。又云く「悪世末法の時」等云云。 疑て云く、夫れ瑞は吉凶につけて或は一時・二時、或は一日・二日、或は一年・二年、或は七年十二年か。如何ぞ二千余年已後の瑞あるべきや。 答て云く、周の昭王の瑞は一千十五年に始めてあえり。訖利季王の夢は二万二千年に始めてあいぬ。豈二千余年の事の前にあらはるるを疑ふべきや。 問て云く、在世よりも滅後の瑞・大なる如何。答て云く、大地の動ずる事は人の六根の動くによる。人の六根の動きの大小によつて大地の六種も高下あり。 爾前の経経には一切衆生・煩悩をやぶるやう・なれども実にはやぶらず。今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり。 末代は又在世よりも悪人多多なり。かるがゆへに在世の瑞にも・すぐれて・あるべきよしを示現し給ふ。 疑て云く、証文如何。答て云く「而かも此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」等云云。 去る正嘉・文永の大地震・大天変は、天神七代・地神五代はさておきぬ。人王九十代、二千余年が間、日本国にいまだなき天変地夭なり。 人の悦び多多なれば、天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の動あり。人の悪心盛なれば、天に凶変、地に凶夭出来す。瞋恚の大小に随て天変の大小あり。地夭も又かくのごとし。 今日本国・上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり。此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり。 守護国界経と申す経あり、法華経以後の経なり。阿闍世王、仏にまいりて云く、我国に大旱魃・大風・大水・飢饉・疫病、年年に起る上他国より我が国をせむ。 而るに仏の出現し給へる国なり、いかん、と問ひまいらせ候しかば仏答て云く、善き哉善き哉、大王能く此の問をなせり。 汝には多くの逆罪あり。其の中に父を殺し、提婆を師として我を害せしむ。この二罪大なる故かかる大難来ることかくのごとく無量なり。 其の中に我が滅後に末法に入て、提婆がやうなる僧・国中に充満せば、正法の僧一人あるべし。 彼の悪僧等正法の人を流罪・死罪に行て、王の后・乃至万民の女を犯して謗法者の種子の国に充満せば、国中に種種の大難をこり、後には他国にせめらるべしと・とかれて候。 今の世の念仏者かくのごとく候上、真言師等が大慢、提婆達多に百千万億倍すぎて候。 真言宗の不思議あらあら申すべし。胎蔵界の八葉の九尊を画にかきて、其の上にのぼりて、諸仏の御面をふみて灌頂と申す事を行ふなり。 父母の面をふみ、天子の頂をふむがごとくなる者・国中に充満して上下の師となれり。いかでか国ほろびざるべき。 此の事余が一大事の法門なり。又又申すべし。さきにすこしかきて候。いたう人におほせあるべからず。 びん(便)ごとの心ざし一度・二度ならねば、いかにとも |