このページは、先の神奈川教区僧侶によって出された、「正信会破折」に対しての正信会一僧侶の反論である。如何に、現在の阿部宗門の事実関係の捏造、すり替えに苦労したかじっくりと比較しながら読んでいただきたい。
(継命新聞そのまま転載。)
富士の清流を問う −「正信会破折」を糾す−(1)
正信会神奈川教区有志
富士門混乱の元凶は 認識を誤った阿部師
法主の思いつきさえも ご仏智と言われる宗門
はじめに
阿部宗門の神奈川布教区から「正信会破折」という文書が出された。今までにも正信会に対して悪口・中傷・非難がなされてはきたが、ただ“血脈が切れている”“登山ができない”というだけで、まとまった形での批判にはお目にかかっていなかった。
今回も、熟慮の上に整理されたとは思えない内容ではあるが、「正信会破折」と銘打って、阿部宗門の僧俗が共に学習したわけであり、真正面から正信会を謗法と批判しているのであるから、その内容の是非を問い、彼らの論難に応えるとともに、彼らの信仰観をうかがいたいと思う。
その上で、彼らが求めているという「富士の清流」が、阿部宗門と正信会のいずれに流れているかを問い糾したい。
彼らがこの文書を作成学習する目的は、正信会問題を阿部宗門に都合よく整理し、破折のポイントをしぼって、正信会所属の信徒を獲得することにある。学会との醜い争いの上に、平成14年に向け様々なノルマを課せられている阿部宗門。ノルマ達成の要となる信徒獲得のために、正信会法華講の切り崩しを狙っての工作であることは文書の結びを見ても容易に分かる。
この程度の内容に踊らされる正信会法華講員もいないであろうが、その誤りを糾すことは、正法を見失った宗門を覚醒する一助となり、自らの正信を確認するために有益であると考え、紙面を割いていただいた。
欺瞞に満ちた正信会破折
平成11年7月26日に開催された阿部宗門の神奈川布教区僧俗協議会において、正信会対策のテキストとして発表された資料「正信会破折」は、宗務院による作成ではなく、神奈川布教区のオリジナルらしい。心意気は評価したいが、相も変わらぬすり替えと欺瞞に満ちており、阿部宗門特有の事実誤認と歪曲の上に展開される独善の主張には失笑を禁じ得ない。
排他独善の宗風に慣れ、物事の真実を求めてやまない求道者の情熱を失い、一旦は矛盾に首を傾げても、いつの間にか諦めてしまう阿部宗門の僧侶や法華講員には、説得力の無いこのような稚拙な論でも通用するのかも知れないが、識者を持ち出すまでもなく、一般世間の公平公正な批判に耐えられる代物ではない。まして正信会批判としては何一つ目新しい物はない。
我々正信会が、客観的事実の上からも信仰的にも、阿部師への相承は認められないと主張すると、血脈相承そのものを否定しているとしか理解できず、また、戒壇本尊の直拝に見られるような唯物的に偏重した本尊観に同調しないというだけで、戒壇本尊を否定していると言う。
また、教団組織を守ることが法を守ることであるかのように錯覚している阿部宗門は、正信会の、教団の存続維持よりも、宗開両祖の仰せの通り、依法不依人の精神を根本にご法門を明らかにし、一切衆生成仏への道を求めようとの主張に対して、法の正邪を糾すこともせず、信仰の根本である富士大石寺を見失った者として謗法者のレッテルをはり、自己満足してしまうのであるから始末に悪い。
富士の清流が蘇り、志を有する一切の人々に妙法の潤いを与えてこその大石寺である。法主絶対という歪んだ血脈観を押しつけ、戒壇本尊と大石寺を管領し、すべては我がものであるとの慢心に溺れる阿部師。広大無辺・平等大慧の妙法が説かれず、阿部師の我見・濁流に覆われているところに宗開両祖の清流が流れることなど決して有り得ないことを知るべきである。
ただ、今回の「正信会破折」を通して、阿部宗門の僧俗がいかなる信仰観に立っているかは再確認することができた。そこには近世創価学会の都合によって改変・強調されてきた日蓮正宗の信仰・思想をうかがうことができる。言葉を代え、表現を巧みに凝らしても、創価学会と同様の体質が濃厚に漂ってくるばかりである。宗教的深み、精神的崇高さという富士日興門流の香りは毫末も感じることができないのは残念であるが、「正信会破折」と銘打って、我々との信仰観の相違を明らかにしてきたことは、富士門流の信仰の在処を尋ねるためには意義があると言えよう。
前述の通り、彼らの正信会批判は今までとほぼ変わらぬものなので、当方も特別な反論となったわけではない。しかし、たった20年前のことでありながらも、当事者も時の流れにその事実を忘失してしまったり、不埒な者が事実を改竄したりということはよくあることなので、普遍的道理と良識、そして客観的事実をもって「正信会破折」に応え、求めるべき富士の有り様を示したい。
「正信会批判」のあらまし この文書の全体の構成と内容を見ると、はじめに、正信会問題の発端を52年路線と称される前回の「創価学会の教義逸脱」であったとし、 一、創価学会の「52年路線」と称せられる教義逸脱問題とその経過 二、正信会問題の発生と経緯 三、根本的二つの誤り 四、相承を否定・三宝を破壊・戒壇の大御本尊を蔑如の大謗法、そして異流義へ おわりに という5章からなっている。 一章の「教義逸脱問題とその経過」では、 @学会の教義逸脱と背景 A日達上人の大慈悲と52年路線の収束 B日達上人のあとを受けられた日顕上人とご決意 の三項目を設け、@項で、昭和52年の創価学会の教義逸脱の事実を揚げ、「教義逸脱に至った本質は、当時の池田の大きな慢心と野望による」と指摘する。 A項では、日達上人の善導により学会首脳は深く反省懺悔し、6・30、11・7によって三原則の遵守をご宝前に誓い、池田氏の会長・総講頭の引責辞任、信徒団体の基本を守ることを条件に、昭和54年5月、日達上人は「ひとまず混乱に終止符を打ち、学会の今後の方向性を暖かくも、また厳しく見守っていく旨を決定」したと述べる。 B項では、阿部師は日達上人が最後に示された方針を引き継いだとして院達や発言を示し、池田氏の「恩師の23回忌に思う」を懺悔と評価している。 さらに阿部師の“現在において謗法をあげつらうことは大きな誤り”との発言を示し、最後に、学会執行部の懺悔が本心からのものか否かは仏智によらなければ分からないとして、阿部師の“仏智を信じるように”との発言を提示している。 二章ではこのような認識をベースに、正信会は当初の目的である「創価学会の逸脱・謗法を改めさせ、日蓮正宗を護りぬくこと」を見失い、学会を責めることを目的化して、日達上人の教導にも阿部師の指示にも従うことなく暴走。遂には阿部師への相承を否定して裁判に訴えるという「大聖人様の仏法の根幹を破失する重大な謗法」を犯して破門されたと断定している。 さらに三章で、正信会の根本的な誤りとして二つ挙げる。一つは「手段と目的を取り違えて本末転倒した」とする。全国の僧俗が学会の謗法を攻めたのは根本の大御本尊と三宝を護り、総本山を護るためであったが、正信会は学会を責めること自体に固執して総本山・御法主上人をも誹謗し、「大御本尊・三秘・三宝を根本と仰ぎ奉る絶対信が希薄だった」と結論づける。 もう一つは「慈悲心に欠けていた」として、堀上人の化儀抄註解を引き、宗内に身を置く人に対しては、その人の信心を守り育てる慈悲心を根底に、寛容を表に異体同心の実をあげるべきなのに、学会を厳しく責め続ける正信会は「慈悲を隠れ蓑に瞋恚・怨念の振舞い」であったと断じる。そして、日達上人と阿部師の大慈悲が拝せず、あたかも「学会の権力・財力に屈したかのごときとんでもない思い違いをした」と批判している。 四章では、正信会による4つの発言を取り上げ、阿部宗門の信仰観の上から論難する。 その主張は、「僧宝の座に連なる御法主上人を否定せんとした正信会」は師敵対・大謗法の者と成り果てたとし、「大御本尊を唯物呼ばわりする正信会の妄説」は身延派日蓮宗の邪義と変わらないとするものである。 「おわりに」では、『守護国家論』『三三蔵祈雨事』を引用し、仏法は正邪を分別することが肝要であり、正邪の分別のために道理と証文が大切と述べるが、最後には「『現証』に照らし合わせ、正邪を決判する」と主張する。 そして正信会の立てる教義は、道理と証文に照らして邪義であるから、「『現証』として仏罰の相が現れることは必然」であると、結論づけている。 |
「正信会批判」本文 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 正信会の問題の発端は、「五十二年路線」と称せられる、前回の「創価学会の教義逸脱」でした。よってまず、前回の創価学会問題とその経過について述べることに致します。 一、創価学会の「五十二年路線」と称せられる教義逸脱問題とその経過 @学会の教義逸脱と背景 日蓮正宗が、創価学会を信徒団体として認容してきたのは、学会が昭和二十六年の宗教法人設立申請時において、宗門に対して確約した、 一、折伏した人は末寺の信徒として所属せしめること 二、当宗の教義を守ること 三、当宗の三宝を守ること との「三原則」の遵守を前提条件としたものでした。ところが学会は、前回の創価問題、すなわち昭和五十二年路線において、この三原則を無視したのみならず、大聖人様の仏法の法義から大きく逸脱したのです。 この時の教義逸脱は、以下の如くです。 一、御本尊模刻という前代未聞の大謗法 二、教義的逸脱(池田並に学会首脳の指導や著述などの中に) イ、小説『人間革命』を「現代の御書」と称した ロ、大聖人様の仏法を「創価仏法」という新語に変造した ハ、仏法の原点を戸田会長の獄中の悟達にあるとした ニ、池田に対して、主師親の三徳を備えている、久遠の師である、本門弘通の大導師であると表現 ホ、仏法の師弟と人生の師弟を意図的に混同させて歴代の御法主上人を蔑如した ヘ、血脈相承を蔑ろにし、大聖人直結、御書直結を主張 三、化儀の逸脱 イ、学会独自の経本まで作成し、五座の観念文の中に歴代会長の名前を加え、仏祖三宝尊とご歴代上人にしか用いない「御報恩謝徳」の語を使用 ロ、池田は「広宣流布血脈の本弟子(または新弟子)たるを証す」などという傲慢な証書まで作製し、学会幹部に授与 ハ、僧俗対等の意識を持ち、寺院軽視、僧侶軽視をして寺院と会館とを同一視、さらに現在の真の道場は会館であると主張 ニ、会館で幹部が導師となってお盆の法要や結婚式などを行ない、在家も供養を受ける資格があると主張 そのほか、寺院への参詣はしてはならないとか、学会員こそ僧宝であるとして下種三宝を破壊し、学会員こそ現在における出家であるなどとも言いました。 こうした教義逸脱に至った本質は、当時の池田の大きな慢心と野望によるもので、その根底に「学会は主、宗門は従」とする考えがあったからです。それは、「北条文書」や「山崎・八尋文書」などの学会機密文書にも明らかです。しかもこの文書によって、学会には、実は、「学会は主、宗門は従」という考えをさらに推し進めた「宗門を創価学会の外郭団体とするか、もしくは日蓮正宗から独立しよう」とする謀略まで存在していたことが明らかとなったのです。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ |
【「正信会破折」本文】 A日達上人の大慈悲と五十二年路線の収束 しかしご先師日達上人の善導等によって、創価学会首脳はそれら教義逸脱に対して反省懺悔を示し、さらに昭和五十四年四月に池田が学会会長・法華講総講頭を引責辞任すること、及び同年五月三日、創価学会が今後、信徒団体としての基本を忠実に守ることを条件とし、ようやく日達上人によって昭和五十二年路線は収束されたのです。 その間にも、昭和五十三年の「六・三〇」(教学上の基本問題について)では、法義上の逸脱が是正され、また通称「お詫び登山」といわれる同年の「十一・七」では、当時の北条理事長が、 「宗門と学会との三十年余りに及ぶ関係を顧みたうえで、創価学会は昭和二十七年の宗教法人設立時の三原則を遵守し、 日蓮正宗の信徒団体としての性格を、いっそう明確にしてま いる方針であります」 と述べ、また辻副会長は、「教学の基本について」と題して、 「この戒壇の大御本尊を厳護するためにこそ、日蓮正宗の厳 粛なる化儀、伝統があるのであり、その点われわれ信徒は、 よく認識していかねばなりません」 と、創価学会の昭和五十二年路線における数々の逸脱を深く反省し、法人設立時の三原則に立ち返り、それを遵守することを仏祖三宝尊のご宝前に誓ったのです。 よって、総本山第六十六世日達上人は、 「新しい学会の執行部ができたことに準じて、学会がどういうふうに宗門と仲良く、僧俗和合していくか、ということを 見なければならないと思います。学会が正しく日蓮正宗の教 義を守り、正しい信心をして、また世間の人を折伏していくのならば、我々はそれに準じて、どこまでも学会を守り、学 会を信徒団体として受け入れていかなければならないのであ りますから、ここはしばらく様子を見なければならないと思うのであります」 (要旨・昭和五十四年五月二十九日) 等、ひとまず混乱に終止符を打ち、学会の今後の方向性を暖かくも、また厳しく見守っていく旨を決定あそばされ、宗内全僧俗に命ぜられました。 |
【宗門が呈している正信会への疑難「正信会破折」】 B日達上人のあとを受けられた日顕上人とご決意 こうして、学会の教義逸脱問題にいちおうの収束を見た直後の昭和五十四年七月、日達上人は安祥としてご遷化あそばされ、六十七世日顕上人猊下がご登座されました。そして、日達上人が最後に示された方針を引き継がれ、次のような「院達」及びご指南を発せられたのです。 「僧侶にあっては、上求菩提下化衆生の誓願に徹して慈悲の精神に立ち、法主上人のもと一結して僧俗和合協調の右基本路線に添い奉るべきである。(中略) もちろん、もし眼前に同信の人々の謗法行為を見聞した場合においては、即座に厳然と破折し善導すべきであり、またそこに何らかの複雑な問題を含むときには、宗務院に報告して善処を委ねるなり、あるいは地方協議会等の機関に諮る等を講ずべきである。 創価学会にあっては、六・三〇、十一・七につき、さらに全会員が充分その経緯と意義内容を理解し納得するよう、意を尽くして説明徹底することを怠ってはならない。 すなわち、そのためには、過去において正宗の化儀化法から逸脱していた部分を明確にし、またそのような指導を行なったことについて卒直に反省懺悔し、再び過ちを繰り返さぬことを誓う姿勢を忘れてはならない」(院達第十八号) 「私は言うのですが、『もしも信仰的に創価学会が独立するというのならば、独立してもらえばよい』ということです。そのときには我々は、法主が陣頭に立って、徹底的に創価学会の全体を折伏して、あらためて大折伏戦を日蓮正宗から展開すればよい。そのときは多くの人が、直ちに、あらためて日蓮正宗に入ってくるでしょう。(中略) もしも、そのようなことが本当にあったならば、そのときは徹底的にやればよいでしょう。しかし、そうすると『その間に準備をされてしまう』と言う。準備ぐらいされてもよいではないか。(中略)誤りを改めると云っている以上、容認してやるべきではないか、と思います」 このように、御法主日顕上人猊下も、ご先師日達上人がそうであられたように、学会が「誤りを改めていく」と誓っている以上は、ひとまず容認して今後を見守っていく、という方針を示されたのです。 池田大作も、翌昭和五十五年四月二日、「恩師の二十三回忌に思う」と題する所感の中で、 「私が、恩師の『創価学会の歴史と確信』の理念、方向性を実践した延長とはいえ、その深き意志も解せず、僧侶、寺院の役割を軽視し、その結果、御宗門に対し、主客転倒の風潮を生んだことは、我が身の信心未熟ゆえの慢と、大御本尊に心より懺悔申し上げるものであります」 「御書の拡大解釈や逸脱については、すでに『六・三〇』(教学上の基本問題について)に指摘されております。ここで反省し、確認された事項は、今後とも絶対に踏み違えてはならない重要な規範であります」 と、昭和五十二年路線における創価学会の逸脱は、すべて池田自身の慢心に基づくものとして懺悔し、また「六・三〇」は創価学会として、万代にわたって絶対に破るべからざる規範と明記したのです。 さらに、御法主日顕上人猊下は 、 「大聖人の御書の精神に照らすとき、一時の誤りはあっても懺悔があればその罪が消えることは明らかであり、まして現に正法を受持信行する人達に根本的な謗法はありえないのであります。創価学会の逸脱は、それを改めなければ謗法に帰する意味はあっても、すでに改めんと決意し、行ないつつある以上、現在において謗法をあげつらうことは大きな誤りであります」(要旨・昭和五十五年四月六日) とご指南されて、ここに、あとは学会執行部の懺悔の志が本心からのものであるか否か、という問題だけを残すこととなったのです。 もとより、人の心の中のことを凡夫が確答できよう筈もなく、真実をお見通しなのは御本尊のご仏智だけであります。ゆえに、日顕上人猊下は、 「私は、皆さんに、仏智ということを信じていただきたいと思います。(中略)この仏智ということは、凡智・凡見で伺い知れないのが仏智なのであり、そこに仏法における、信解の難しさがあるのであります。(中略)日蓮正宗の歴史において、そこにさまざまの形はあったとしても、一貫して流れる仏智というものを、お互いに信ずることが信仰の根本であると思います。それを忘れたならば、宗門の僧侶ではありません」(要旨・昭和五十五年七月四日) とも仰せられているのです。 |
【宗門が呈している正信会への疑難「正信会破折」】 二、正信会問題の発生と経緯 このような創価学会の教義逸脱を発端として起こったのが、「正信会」を自称する本宗の元僧侶および檀徒等の異流義問題でした。 当初彼らは、創価学会の逸脱・謗法を改めさせ、日蓮正宗を護りぬくことを標榜していました。実際、日達上人のご指南に沿って学会の誤りを糺しているかのように見えたのです。しかし実際には、昭和五十四年のいわゆる「五・三」に際して、日達上人が「学会の反省懺悔を受け容れ、しばらく学会の様子を見守っていく」旨を決定あそばされるや、彼らは総本山の日達上人に公然と反抗しはじめたのです。 表面に出た具体例を一、二挙げてみますと、当時の彼らの機関紙には、 「あくまでも学会は謗法の団体、無慙集団であり、この期に及んで学会を責めぬ日和見主義者は大聖人の弟子にあらず。また学会を責める者を咎めることは、謗法者を庇い立てることであるから、かえって謗法になる」(要旨・「継命」第二号) 等、日達上人のご指南に背反する檄が掲載され、また、これを注意すべく日達上人が彼らに宛てられた通告(院達第三〇四七号)に対しては、ただ「拝見しました」と書いただけの無礼きわまりない返書を送り付ける、といった具合でした。 同年七月、日達上人のご遷化により六十七世日顕上人がご登座されると、彼らは、一時、状況分析のためか静まっておりましたが、新御法主の方針が日達上人と少しも変わらぬことを知るや、いよいよ正面きって御法主日顕上人猊下を誹謗攻撃しはじめたのであります。 御法主上人猊下はたいへん御心を痛められ、再三にわたって彼らを説得されましたが頑として随おうとせず、かえって彼らに随う多数の檀徒を巧みに煽動して、活動を激化させてきました。 これでは大聖人様の法義の乱れを誘発し、一宗の統制と秩序が破壊されるため、やむなく昭和五十五年九月、宗門は彼らを懲戒するなどして事態を鎮めようとしました。しかしそれに対して彼らは、同年末から翌五十六年初めにかけ、ご先師日達上人から日顕上人への継承には疑義がある。日顕上人は正当な六十七世御法主ではない。ゆえに、日顕上人のなした懲戒は無効である等、とんでもない言い掛かりをつけ、あろうことか御法主日顕上人猊下を裁判所に告訴するという、およそ宗門人としては考えられぬ暴挙に出たのです。 これは大聖人様の仏法の根幹を破失する重大な謗法であり、ここに至って彼らは本宗から擯斥(破門)されるところとなったのです。 この経緯を概観すると、彼ら、正信会と称する人々には二つの大きな根本的誤りがありました。 三、根本的二つの誤り まず第一は、手段と目的を取り違えて本末転倒した、ということです。そもそも全国の僧俗が学会の謗法を責めたのは、あくまでも根本の大御本尊と三宝を護り、総本山を護るためであった筈です。しかるに、いかに学会許しがたしの想いが昂じたからとて、学会を責めること自体が最重要目的であるかのごとき錯覚に陥り、そのためには総本山・御法主上人をも誹謗攻撃するというのでは、日蓮正宗の宗徒として本末顛倒の謗りを免れません。 要するに彼らには、大御本尊・三秘・三宝を根本と仰ぎ奉る絶対信が稀薄だったのです。 第二は、正法を正しく信仰しておれば自ずと具わるべき慈悲心に欠けていた、ということです。正信会の人々は、ことあるごとに「真の慈悲は相手の謗法を責めてあげることであり、我々は、慈悲心に立つが故に学会の謗法を責めるのだ」と主張しておりました。しかし、五十九世日亨上人のご指南には、 「宗祖聖人も、阿仏房尼に告げて、『謗法にも、浅深軽重の次第ありて、あながちに悉く取り返しのつかぬ重罪にあらず。軽き浅き謗法を知らず知らず行なうといえども、その人が色心相応の強信者ならば、強い信心のために弱い謗法は打ち消されて罪とはなるべからず』というふうの仰せがありしは、まったく門外折伏、門内摂受の意もありて、信徒を将護し給う大慈なるべし。いわんや、末輩にありては、自他互いに警策し勧奨して、寛厳宜しきを得て異体同心の実を挙ぐべきなり。厳にも寛にも、折にも摂にも、根底に大慈大悲の溢るるあらずんば、万行いたずらに虚戯に帰せんのみ」(有師化儀抄註解・富要一|一四九) と仰せられ、すでに入信せる門内の人々に対しては、何よりも、その人の信心を守り育てる大慈悲心を根底に、寛容を表として(さらに必要に応じては寛容と厳格を適宜に用い)、異体同心の実を挙げるべきこと等を示されています。 このご指南に照らすならば、いかに不審な点は残るにせよ、いちおう誤りを反省して改めていくと表明している者を、とことん謗法であるとして責め続ける正信会のごとき行き方は、どう考えてみても慈悲と呼べるようなものではなく、とうてい大聖人の御意に適うものではありません。むしろ、それは慈悲を隠れ蓑にした瞋恚・怨念の振舞いと言うべきであります。 このような心根であるから、正信会の人々には、ご信徒お一人おひとりに対する日達上人と日顕上人の大慈悲が拝しきれず、あたかも両猊下が学会の権力・財力に屈したかのごとき、とんでもない思い違いをしたのです。 ともあれ、この二つの基本的誤りが元となって、ついに正信会の者たちは、ご相承を否定し、三宝を破壊し、戒壇の大御本尊を蔑ろにする等の数々の大謗法を犯すに至ったのです。ここでは、その主なものを挙げて破折することにします。 「日蓮正宗を護る」の意味を考えよう |