第五章 信ずるということ
◇ 信によって成り立つ
「人は信によって支えられている」
「人生は信によって成り立っている」
このようにいうと、ずいぶんおおげさに聞こえます。しかし何かを、あるいはだれかを信じていなければ、そもそも人間の生活は成り立ちません。
親を信じて生きる。子の成長を信じて生きる。友人を信じて生きる。学校の先生を信じて生きる、先輩を信じて生きる。恋人を信じて生きる、仕事でいえば相手が自分との契約を実行することを信じて生きる・・・・。信じる対象はさまざまですが、何かを信じないで生きているという人がいるとしたらじつにおかしなことになってしまします。
それでも、「いや、自分はとくに何も信じてはいないし、だれも信じようとは思わない」という人がいるかもしれません。しかし、そう主張する人でも、ちょっと考えれば、かならず何かを信じて生きていることがわかります。
たとえば夜、床について寝ようとするとき、無意識のなかにも、「かならず明日がくる。そして自分は明日も生きている」と信じていなければ、とても安心して眠れません。町の中を歩いていて、向こうから来る人が自分を殺そうと思っているかもしれない、と疑っていたら、とても安心して道を歩くことはできません。
食事をするとき、もし食べ物の中に毒がもられているかもしれないと疑えば、食べることができませんし、者を買おうとするとき、売る人の言葉がまったく信じられなければ、その品物を買うことすらできません。
このように、人間がさしたる不安もなく生きていくことができるのは、ひとびとの意識のなかに、共通して「信ずる」という心の働きあるからです。この「信」がなければ、私たちは一瞬たりとも生きていくことができません。
たとえ、自分だけしか信じられないといっても、人間はそれほど完全でもなければ、強くもありません。健康なときならまだしも、病気になれば、医師をたよりますし、あたたかいはげましの声や、思いやりのある行為に接すれば、自然に涙がこぼれます。信頼できる友人、先輩、師匠を求め、自分の人生にに自信を持ちたい・・・・だれもが心の底で、そのように願っているのです。また、自分が信頼されていると思えば、相手から寄せられている信頼に応えようと思うのが、人の自然な情ではないでしょうか。
私たちは、お金が泣ければ、とたんにさびしい気持ちになりますし、あればあったで、今度は自分がずいぶん立派になったような気がします。恋人ができて、その思いが相手に通じれば、世の中はバラ色にかがやき、失恋でもしようものなら、絶望感におそわれ、信頼していた相手に裏切られたときには、世の中が真っ暗に思えてしまします。
多少なりとも権力をにぎれば、世界は自分を中心に回っているように錯覚し、その権力が自分から離れてしまうと、今度は自分の無力さに愕然としてしまいます。
このように、人というものは、自分とその周囲の状況の変化とによって、強くも弱くもなる存在です。ですから「自分しか信じない」と主張しても、結局はその「自分」が何を基盤として生きているかを知らなければ、肝心の自分すら信じようがありません。信じているはずの自分の知能も理解力も学歴も、そして経済的手段も人脈も、みな相対的なものです。それらは、どれをとっても、たしかな「信」の対象とはなり得ません。
周囲からの影響を受け、環境に左右される私たちの人間の心を、しっかりと落ち着かせるためには、本当の「信」の対象となるものを見いだすことが必要なのです。世の中の変化がどうあれ、生涯にわたって、自分の心の中に貫くことのできる「信」の対象を見いだすことができたならば、私たちは、どれほど素晴らしい人生を送ることができるでしょうか。私たちはその「信」の対象を仏法のなかに見いだしています。
◇ 信仰は人生そのもの
私たちは、人間として生まれてきた以上、共通の願いをもっています。それは「幸福になりたい」という願いです。幸福になりたい、幸福に生きたい、そしてその幸福を得るという大きな目標のために、さまざまに願い、さまざまに希望をいだくのです。
病気に苦しむ人が、健康を願うのは自然な心情です。貧しければ裕福を願い、争いが絶えなければ平和を願います。
しかし、人には、いくら求めても得られない苦しみがあると前に述べました。たとえ求めて得られたとしても、やがて失わなければなりません。愛するもの、惜しむものと別れなければならない苦しみも、人間の苦悩のひとつとして仏法では説いています。私たちの命にかぎりがあるように、私たちがこの世界に求められるものは、例外なく「無常」の法則を免れないと仏法では説いています。
新しい家も、新車も、新調の服も、労してそれを得たばかりのときには喜びに満たされますが、ときとともにその喜びはうすれ、数年もすれば古いものになってしまします。そしてまた、新しいものを欲するようになりますから、絶えず新しいものを求め、手に入れつづけなければ、その「幸福感」もつづきません。
私たちがよりよく生きるためには、健康が大切です。だからといって、それが幸福の絶対条件となるでしょうか。その健康な体を、どのように使うかによって、健康の価値も大きく二分されてしまいます。健康であるがゆえに大きな悪事を働き、結果的に自分や周囲の人たちを傷つけ、不幸におとしいれてしまうという事件も、よく耳にします。
裕福でありたいと願うのも、私たちの自然な心情です。裕福に越したことはありません。しかし、そのような願いが、いとも簡単に「犯罪」に結びつき、またお金をもっていることが、自分を害する結果御をまねくことだってあるのです。
私たちが幸福の条件としてあげるものは、どれをとってみても、本当の幸福を得ることを保証してはくれません。むしろそれを得てしばらくすれば、その幸福感は朝日の前の露のように、跡形もなく消えさってしまうものです。
だからこそ仏法では、幸福の条件を外に求めず、自分の命のなかに見いだしなさいと教えているのです。病に苦しむ人であっても、貧しさに苦しむ人であっても、そのような苦悩から逃避せず、むしろそれを超越したところに、たしかな幸福を等しくうち立てることができる、万人がまことの幸福を見いだすことができる可能性を秘めていると説くのです。そして、そのような真実の自己を発見しなさいと説いているのです。
◇ 社会現象は心の投影
かぎりのあるものを、外に求めている間は、真の幸福をまねくことにはならないと述べました。そうした欲求を野放しにしている状態を、私たちはむしろ、幸福の絶対条件であると考えます。
広く社会に目を向けるとき、その社会の一員として生活する私たちは、いま、あまりにも多くの問題につきあたっています。公害の問題もそうです。人口の増加も世界的な危機をまねくといわれています。今後、はたして人口増加に見あうだけの食糧を確保できるのかという問題も深刻です。食糧問題はまた、公害問題ともからんで、より複雑になっています。私たちが口にする食糧がさまざまな農薬によって汚され、それが人のからだに与える環境についても論議されています。このままの状態がつづけば、農薬汚染はさらに広がり、将来の子どもたちのからだにおよぼす影響も心配でなりません。
人間の経済活動を支えているエネルギーの問題にしてもそうです。日本では、交通事故も深刻ですし、医療をめぐるトラブルもあとを絶たず、ひんぱんに事件・事故・犯罪で新聞がにぎわっています。国際社会への日本の対応も論議されている昨今ですし、政治の腐敗も嘆かわしいものがあります。さらには、地球の温暖化によってもたらされる異常気象が、こうした問題をいっそう深刻にしています。このように述べていけば、私たちのかかえている問題は尽きるところがありません。
こうした問題がひき起こされる原因を、さまざまな分野で解明しようと試みていますが、科学・化学の力をもってしても、法律・制度の改革をもってしても、いっこうに改まる気配がありません。迷路は広がるばかりで、まさにもつれにもつれた糸のような状態です。
では、私たちをとりまく、種々の問題の原因は、いったいどこにあるのでしょうか。
◇ 人の心を治療する
いま、社会問題とされているものは、すべて人によってもたらされるものばかりです。けっして自然界のなかから、人の営みと無関係に発生した問題ではありません。人の営みは、その人がいだいている信条や思想、また宗教に対する考えや「幸福」のとらえ方、大きく左右されています。そうであるならば、人を動かしている「心」に、問題の原因があるといえないでしょうか。どんな社会現象も、集団行為も、もとをたどるならば、かならず、「心」のあり方によって決定していくものです。
だからといって、「心が先で肉体があと」「人間が先で環境があと」と主張しているわけではありません。しかし、少なくとも、現代の私たちが、他の動物たちと同じように自然界の摂理にしたがい、生存本能のみによって生きているのではない以上、「いかに生きるべきか」という思想・信条が、自分の行動の骨格となっていることは否定でません。
しかしじっさい、「進歩した時代」に生きていると思われている今日ほど、人間が人間としてのあり方に迷い、よりよく生きていくための方途を見失っている時代は、これまでになかったように思います。
仏法では、私たちの命が「むさぼり」「いかり」「おろか」の状態に支配され、例外なく心に病をもっていると説いています。そしてこのような私たちの命を治療する方法と薬を示しています。
私たちはその治療法をもちい、薬をもちいることによって真実の自己にめざめることができると教えているのですから、まずは仏法に説かれている「処方箋」にまかせて、心身の治療をしてみてはいかがでしょうか。ここにおいて私たちは、仏法への「信」をもっとも肝要なものとして訴えたいのです。