化儀抄2
日有上人化儀抄略解より
日有上人化儀抄
一、事の即身成仏の法華宗を建立の時は信謗を堅く分かちて身口意の三業に少しも他宗に同ずべからず云云、信業謗法に同ぜざる姿は、法華宗の僧は、必ず十徳の上に五帖の袈裟をかくべきなり、是れ即ち誹謗法華の人に軈て法華宗と見えて結縁せしめん為なり、若し十徳計りにて真俗の差異なき時は身業が謗法に同ずるにて有るべきなり、念仏無間、禅天魔、真言亡国等の折伏を少しも油断すれば口業が謗法に同ずる姿なり、彼の折伏を心中に油断すれば心業に同ずるなり云云。
一、仏の行躰をなす人には師範たりとも礼儀を致すべし本寺住持の前に於ては我が取り立ての弟子たりとも等輩の様に申し振舞うなり、信は公物なるが故なり云云。
一、法華宗の僧は天下の師範たるべき望み有るが故に、我が弟子門徒の中にて公家の振舞いに身を持つなり、夫れとは盃を別にし、しきのさかなの躰にする事も有り、又はなげしの上下の如く敷居をへだてて座席を構うる事も有り、此くの如く振舞うは我が宗、我が門徒にての心得なり、他宗他門に向かって努努有るべからざる事なり云云。
一、法華宗は何なる名筆たりとも、観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為すべからず、只十界所具の遊ばされたる所の所図の本尊を用うべきなり、是れ則ち法華経なり、今の時の諸人は愚迷なるが故にあまた事を並べては信心が取り難き故に只法華経計りに限りて本尊とするなり云云。
一、他宗初めて法華経を持つ時、御酒を持たせ酒直等を持参する時、未だ法華経を持たざる已前なるが故に世事にして仁義に用うるなり、仍って此の方よりも紙扇のさたあり云云。
一、他宗の法華宗に成る時、本所持の絵像木造並に神座其の外他宗の守なんどを法華堂に納むるなり、其の故は一切の法は法華経より出でたるが故に此経を持つ時又本の如く妙法蓮華経の内証に事収まる姿なり、総じて一生涯の間大小権実の仏法に於て成す所の所作、皆妙法蓮華経を持つとき、妙法蓮華経の功徳と成るなり、この時実の功徳なり云云。
一、法華宗は能所共に一文不通の愚人の上に建立有るが故に、地蔵、観音、弥陀、薬師等の諸仏菩薩を各拝する時は信があまたになりて法華経の信が取られざるが故に諸仏菩薩を信ずる事を堅く誡めて、妙法蓮華経の一法を即身成仏の法ぞと信を一定に取り定むる時は諸仏諸氏所以法也と釈して、妙法蓮華経は諸仏如来の師匠なる故に受持の人は自ら諸仏如来の内証に相叶うなり、されば四巻宝塔品には我即歓喜諸仏亦然と説けり云云。
一、本寺直の弘通所にて経を持つ真俗の衆は数代を経れども本寺の直弟たるべし、其の所の代官の私の弟子には有るべからず、既に代官と云う故に所従此仏菩薩結縁の道理爾らざる故なり云云。
一、他宗の神社に参詣し一礼もなし散供をも参らする時は、謗法の人の勧請に同ずるが故に謗法の人なり、就中正直の頭を栖と召さん垂迹の、謗法の人の勧請の所には垂迹有るべからず、還って諸神の本意に背くべきなり云云、但し見物遊山なんどには神社へ参らせん事禁ずべからず、誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり云云。
一、謗法の人の所に勧請の神社に垂迹有るべからず、と云う義は爾なり、我が正法の人として正法に神社を修造せん事は如何と云云。
是れは道理然かなれども、惣じて、此の国は国王将軍謗法の人にて在す故に、謗法の国には垂迹の義有るべからず、という法門の大綱なるが故に小社などを建立しては法門の大綱混乱する故に謗法ならん間は神社を必ず建立なきなり、此の国正法の国ともならば垂迹を勧請して法華宗参詣せんに子細有るべからず云云。
一、末寺に於て弟子檀那を持つ人は守りをば書くべし、但し判形は有るべからず末寺住持の所作に限るべし云云。
一、漫荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず云云、但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるる事も之有り、希なる義なり云云。
一、日蓮聖人の御書を披見申す事、他門となどの御書をも書写しこい取りつつなどして見るべからず、末寺の免許を蒙るべし、其の故は当宗は信の上の智解なるが故なり云云。
一、田舎より児にて登山して本寺に出家するは、本寺のをいたちに同ずるなり、田舎にて児なれども田舎にて出家すれば爾るべからざるなり云云。
一、霊供を備うるには、仏供二つ、日蓮聖人より代々の御霊供を備えて今日の亡者の霊供に備うるなり、皆大儀なれば日蓮聖人の台計り備え申して、余の代々を御さんば計り備え申して、さて其の日の亡者の霊供を備うべし代々上人の御台をしたてぬは略儀なり云云、又亡者俗人なんどならば其の霊供をば少し下く備うべし云云。
一、茶湯有るべからず、唐土の法なるが故に霊供の時も後に酒を供すべし云云、此の世界の風俗は酒を以て志を顕わす故に仏法の志をも酒を以て顕わすべしと云う心なり云云。
一、門徒の僧俗の謗法を見隠し、聞き隠すべからず、与同罪遁れ難き故なり内々教訓して用いずんば師範に披露すべきなり云云。
一、親類縁者一向に一人も無き他宗他門の僧俗近所に於て自然と死去の事有らば念此に訪ろうべし、死去の後は謗法の執情有るべからざる故なり、若し一人も縁者有って見次かば自ら其の所に謗法の執情を次ぐ故に然るべからず云云。
一、他宗他門等の人死せば知人ならば訪ろうべし、但し他宗他門の本尊神座に向かって題目を唱え経を読まず、死去の亡者に向かって之を読むべし、惣じて法界の衆生の死去の由を、聞き受けて之を訪ろうべし云云。
一、縦い禅、念仏の寺、道場の内なりとも法華宗の檀那施主等が之れ有らば仏事を受くべきなり云云。
一、縦い昨日まで法華宗の家なりとも孝子施主が無くんば仏事を受くべからず、但取骨までは訪ろうべし云云。
一、法華宗の法師は他宗他門の人に交わる時は我が人体の分程と振舞ふべし、懈怠すべからず、又卑劣すべからず、俗姓程になるべし、我が法華宗の中にては貴賤上下を云わず仏法の信者なる故に卑劣すべからず云云、但し檀那に依り不肖の身たりと雖も上座に居する事有り云云。
一、本寺に於て小師を持ちたる僧をば小師に届けて仏の使いなんどにも、檀方へも遣わし其の外の行体をも仰せ付けらるるなり云云。
一、本寺へ登山の諸国門徒僧衆は三日の間は仏の客人たる間賞翫之れ有り云云。
一、釈迦の末法なる故に在世正像の摂受の行は爾るべからず、一向折伏の行なるべし、世、嶮なるが故なり云云。仍て刀杖を帯するなり、之れを難ずべからず云云。
一、法華宗は折伏修行の時なる故に、断酒、定斎、夏に入るなんどといい、又断酒なんどと、云う事有るべからず云云。
一、法華宗は大乗の宗にて信心無二なる時は即身成仏なるが故に戒の持戒をも云わず、又有智無智をも云わず、信心無二なる時は即身成仏なり、只し出家の本意なるが故に何にも持戒清浄ならん事は然るべし、但し破戒無智にて已上すべからず云云。
一、法華宗は他宗の仏事作善をば合力せざるが功徳なり、其の故はかたきの太刀、刀をばとぎて出すべきか、敵のようがいをこしらえて無用なるが如し、仍て他宗の仏事を為すべからず云云、但し、公事なんどの義は別の子細なり云云。
一、他宗の親兄弟の中に病災について祈靤を為すべき子細あらば我が信ずる正法の法華宗の出家を以って、我が所にて祈祷せば尤も仰せに随うべし、既に兄弟が正法の檀那なるが故に彼の仰せに子細なしと云云。
一、他宗の親、師匠の仏事を其の子、其の弟子、信者にて成さば子細有るべからず。
一、末寺の事は我が建立なるが故に付弟を我と定めて此の由を本寺に披露する計りなり云云。
一、日興上人の事、八幡の社壇を重須に建立あり、内には本尊を懸けらる、是れは本門寺の朽木書と云云、今の義にあらず、天下一同に法華経信仰の時は当宗の鎮守は八幡にて在すべし云云、大隅の八幡宮の石の文には昔は霊山にありて法華経を説き、今は正宮に有りて大菩薩と現すと八幡の御自筆有り、釈迦仏の垂迹にて在すが故なり云云、所詮朽木書とは手本という意なり。
一、他宗の仏事善根の座へ法華宗の出家、世間の所用にて行く時、彼の点心を備うには食すべきなり、既に請せず、又ロサイにも行かざる故に態とも用意して翫なすべき客人なれば備うるなり、又受くるも世事なり、されば同座なれども経をも読まず布施をも引かざるなり、又法華宗の仏事作善の所へも禅宗念仏宗の出家を請せず、又ロサイの義もなくして、世事の用にて風渡。来たらるるには、有りあえたる時、点心を備なうるなり、是れ又謗法の人を供養するにはならざるなり、世間の仁義なり云云。
一、法華宗の仏事作善に縁者親類の中に合力の子細之れ有り。是れは法華宗の人を能開とするが故に世事を於いて他宗の合力有りとも世事は自他宗同時なり、法華宗能開と成れば所開の世事は自他同時なるが故に子細なきか云云。
一、他宗の親を其の子法華宗を持ち申すべく候、訪って給わる可き由申さば訪うべし、子は親の姿の残りたる故に子が持つは親の法華経を持つ全躰なり云云。
一、師匠の法理を一部分ちたる弟子が正法に帰する時は謗法の師匠に正法を信ずる姿なるが故に弟子の望みに依って謗法の師匠を訪うべきなり云云。
一、親師匠は正法の人なれども、其の子、其の弟子謗法たらば彼の弟子、子に同じては訪うべからず、但し謗法の弟子、子はイロハずして正法の方へ任さば彼の亡者を訪うべし但し孝子なくんば取骨までは其の家にて訪うべし、其の親の姿が残りたる故に、其の後は謗法の弟子、子の供養受くべからず云云。
一、師範の時、世間の義によって所領等を知行あらば、その後を続ぐ弟子縦い他人たりとも、真俗の跡を続ぐに子細有るべからず、謗法の所領を領するには成るべからず、其の地頭のそ子に当るなり云云。
一、謗法の人、子を法華宗に成して彼の子の供養と号して法華経を供養する事有り、子が能開と成る上は子細なく之れを納むべし云云。
一、所にて仏事作善を広大になす時、其の所の謗法の地頭など方へ、酒の初ほを進らする事一向世事仁義なり、又其所などに他宗他門の仏事、法会を成す時、其所の然るべき法華宗なんどの所へ酒の初穂をつかわす事有り是は世事の仁義なり、受け取る人も世事仁義と心得、請取るべきなり云云。
一、法華宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して参供まいらせ花を捧ぐる事有り之れを制すべからず、既に順縁なるが故なり、但し大小の供養に付いて出家の方へ取り次ぎ申して仏聖人へ供養し申せと有らば一向取り次ぐべからず、謗法の供養なるが故に、与同罪の人たるべし云云。
一、非情は有情に随う故に他宗他門の法華経をば正法の人には之を読ますべからず、謗法の経なる故に、但し稽古のため又は文字を見ん為めなどには之を読むべし子細有るべからず、現世後世の為めに仏法の方にては之を読むべからず云云。
一、袈裟衣等惣じて仏供道具等の事、一向他宗に借すべからず、又他宗の仏供道具等をも法華経の法会に借るべからず、既に有情は非常に随うが故に謗法の有情の道具は自ら謗法の道具なり、但し世事の志にて謗法の道具を正法の方へ取り切り乃至料足などにてかい切っては正法の方に成しては子細有るべからず云云。
一、仏聖人の御使に檀方門徒に行きて仁義にても引き出物を得、布施なども得たる時は本寺の住持の前にて披露するなり、其まま我が所へは置くべからず云云。
一、世間病なんどの有る檀方の方へ御仏の御使いに行きて帰りたる時は、水をあびて本堂に参りて其の後上人の御前へ参りて後に小児などのそばへも行くなり。
一、法華宗は人の円寂の所をばいまず、只今荼毘のにわより来る禁忌の人なれども一向に忌まざるなり、只産屋月水等をば堅く是れをいむなり云云。
一、法華宗の御堂なんどをば日本様に作るべし、唐様には作るべからず、坊なんども結構ならんは、中門車寄なんどもすべし云云。
一、薄袈裟にうづら衣はスワウハカマに対するなり、イクワンの時は法服なり、帷を重ねたる衣に長絹の袈裟は直垂に対するなり云云。
一、釈尊一代の説教に於て権実本迹の二筋あり、権実とは法華已前は権智、法華経は仏の実智なり、所詮釈尊一代の正機に法華已前に仏の権智を示さるれば機も権智を受くるなり、さて法華経にて仏の実智を示さるれば又機も仏の実智の分を受くるなり、されば妙楽の釈に云く権実約智約教と釈して権実とは智に約し教に約す、智とは権実実智なり、教に約すとは、蔵通別の三教は権教なり、円教は実教なり、法華已前には蔵通別の権教を受くるなり、本迹とは身に約し位に約すなり、仏身に於て因果の身在す、故に本因妙の身は本、本果の身より迹の方に取るなり、夫れとは修一円因、感一円果の自身修行の成道なれども既に成道と云う故に断無証理の迹の方へ取るなり、夫れより已来機を目にかけて世々番々の成道を唱え在すは皆垂迹の成道なり、華厳の成道と云うも迹の成道なり、故に今日華厳、阿含、方等、般若、法華の五字の法輪、法華経の本迹も皆迹仏の説教なる故に本迹共に迹なり、今日の寿量品と云うも迹中の寿量なり、されば経に約すれば是れ本門なりと雖も文さて本門は如何と云うに久遠の遠本本因妙の所なり、夫れとは下種の本なり、下種とは一文不通の信計りなる所、受持の一行の本なり、夫れとは信の所は種なり心田に初めて信の種を下す所が本門なり、是れを智慧解了を以てそだつる所は迹なり、されば種熟脱の位を円教の六即にて心得る時、名字の初心は種の位、観行相似は熟の位分身究竟は脱の位なり、脱し終れば一文不通の名字初心の凡位の信にかえるなり釈に云く脱は現に在りと雖も具に本種に騰ぐと釈して、脱は地住已上に有れども具に本種にあぐると釈する是れなり、此の時釈尊一代の説教が名字初心の信の本益にして悉く迹には益なきなり、皆本門の益なり、仍って迹門無得道の法門は出来するなり、是れ則ち法華経の本意滅後末法の今の時なり。されば日蓮聖人御書にも本門八品とあそばすと題目の五字とあそばすは同じ意なり、夫とは涌出品の時、地涌千界の涌現は五字の付属を受けて末法の今の時の衆生を利益せん為めなるが故に地涌の在す間は滅後なり、夫れとは涌出、寿量、分別功徳、随喜功徳、法師功徳、不軽、神力、嘱累の八品の間、地涌の菩薩在す故に此の時は本門正宗の寿量品も滅後の寿量と成るなり、其の故は住本顕本の種の方なるべし、さて脱の方は本門正宗一品二半なり、夫れとは涌出品の半品、寿量の一品、分別功徳品の半品合して一品二半なり、是れは迹中本門の正宗なり、是れとは在世の機の所有なり、滅後の為めには種の方の題目五字なり、観心本尊抄に彼は一品二半、是れは但題目の五字なりと遊ばす是なり云云。
一、神座を立てざる事、御本尊授与の時、真俗の弟子等の示し書き之れ有り、師匠有れば師の方は仏界の方、弟子の方は九界なる故に、師弟相向う所、中央の妙法なる故に、併ら即身成仏なる故に他宗の如くならず、是れ即ち事行の妙法、事の即身成仏等云云。
一、当宗には断無証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に地住已上の機に対する釈尊は名字初心の機に感見には及ばざる故に、釈尊の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり、経の文に若遇余仏便得決了文、疏の文には四依弘経の人師と釈する此の意なり、されば儒家には、孔子老子を本尊とし、歌道には人丸・天神を本尊とし、陰陽には清明を本尊とするなり、仏教に於て小乗の釈迦は頭陀の応身、権大乗の釈迦は韵葉舎利弗を脇士とし、実大乗の釈迦は普賢文殊を脇士とし本門の釈迦は上行等云云、故に、滅後末法の今は釈迦の因行を本尊とすべきなり、其の故は神力結要の付属とは受持の一行なり、此の位を申せば名字の初心なる故に釈迦の因行を本尊をすべき時分なり、是れ則ち本門の修行なり、夫とは下種を本とす、其の種を育つる智解の迹門の始めを熟益とし、育て終わって脱する所を終りと云うなり、脱し終われば種にかえる故に迹に実体なきなり、妙楽大師、雖脱在現、上の如し云云、是れより迹門無得道の法門は起こるなり云云。
一、法華経を修するに五の様あり、受持・読・誦・解説・書写等と云云、広して修するは像法の読誦多聞堅固の時節なり、今末法は機根極鈍の故に受持の一行計りなり、此の証人には不軽菩薩の皆当作仏の一行なり、不軽も助行には二十四文字を修したもうなり、日蓮聖人は方便寿量の両品を助行に用い給うなり、文を見て両品をよむは読、さてそらに自我偈を誦し、塔婆などに題目を書写するは、受持の分の五種の修行と心得べきなり云云。
一、一乗要決に曰く諸乗の権実は古来の諍いなり、倶に経文に拠り互に是非を執す、余、寛弘丙午の歳冬十月病中歎じて曰く、仏教に遇うと雖も仏意を了せず、若し空手に終ては後悔何ぞ追わん、爰に経論の文義、賢哲の章疏、或は人をして尋ねしめ、或は自ら思択し、全く自宗他宗の偏党を捨て専ら権智、実智の深奥を擇び終に一乗は真実の理、五乗は方便の説を得たる者なり、既に今生の矇を開く、何ぞ夕死の恨をの遺さんや文。
一、涅槃経の九に曰く、諸の衆生命終の後、阿鼻地獄の中に堕して方に三思有り、一には自ら思わく我が至る所何れの処ぞや、則ち自ら知りぬ是れ阿鼻地獄なり、二には自ら思わく何の処より而も此に来生する、則ち自ら知りぬ人界の中より来る、三には自ら思わく何れの業因に乗じて而も此に来生する、則ち自ら知りぬ大乗方等経典を誹謗するに依って而も此こに来生す
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