血脈相承について

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阿部宗門人の云く

「正信会は日顕上人を否定している。これは血脈相承 を否定することだ、謗法だ」

この邪義を破します。

一、

まず、はじめに頭を整理して下さい。

一、阿部師が血脈相承を受けたかどうかという問題は「事実に関する問題」です。

二、正信会が血脈相承を否定しているかどうかという問題は「教義に関する問題」です。

両者は別件です。正信会は「事実に関する問題」として、阿部師の血脈相承は疑わしいと疑義を投げているのです。教義としての血脈相承を否定した覚えはありません。

 阿部宗門側では、この両問題を錯綜させて正信会を非難していますが、ここがずるいところです。

彼らは次のように言います、

『日蓮正宗の教義・信仰では血脈相承は絶対切れないことになっている(教義問題)。だから日顕上人の相承の事実を否定することは(事実問題)、血脈相承の 教義を否定することになる(教義問題)』と。

どうも、彼らにとっては、事実に関する問題は二の次になるようです。血脈相承の事実がウソであろうが本当であろうが、それはたいした問題にはならないのです。要は、彼らが信じるドグマの要請に基づいて、阿部師に血脈相承が有ったことにしておけばいいのです。

事実は事実、不実は不実と認識して、それでも日蓮正宗の血脈相承はちゃんと続いていると会通できる教義を立ててこそ、良識ある教団と言えるのだと、私は思います。

 「事実問題」と「教義問題」、この分別を踏まえた上で、次の点を理解して下さい。

 当初、正信会は、『阿部師に血脈相承の事実はない』と「事実問題」だけに限定して事を論じました。

しかし、この事実問題を論じる過程において、阿部宗門側が事をすりかえて「教義問題」であるとして、切り返してきましたから、正信会としてもこれに応ぜざるを得なくなりました。

 阿部宗門は歴史事実の上において、『血脈相承は絶対に断絶したことがない』と主張しました。そして、『だから阿部師にも血脈相承がなくてはならない』と言うのです。

これに対し、正信会は、『もっと正直に歴史事実を見たらいかがか、血脈相承は阿部宗門が主張するように都合よくばかりはいっていない、しかしそれでも信仰事実において血脈相承は切れはしない』と主張しました。

 そこで、血脈相承の歴史事実を述べてみます。

二、

*六世日時上人と七世日阿上人の間、及び、七世日阿上人と八世日影上人の間

 この三上人は、室町時代を生きました。

実のところ、日阿上人の事歴は不明であり、歴代への晋山年月日もはっきりはしておりません。しかし日有上人の筆になる「御歴代忌日表」という書物に『日阿上人三月十日』と記録されていますから、歴代に間違いはないようです。

 江戸時代初期頃の貫主であった十七世日精上人が「富士門家中見聞」(通称家中抄)という書物を残されています。この書物は、日興上人を始めとして、上代の諸上人、及び大石寺十八世日盈上人までの歴代上人の事歴を記録したものです。内容自体は虚実入り混じっていて、取るべき内容、捨てるべき内容があります。近年の学匠である五十九世日亨上人(以下、堀上人と呼ぶ)などは、辛辣にこの書物の内容を批判しています。が、それでも歴代の事歴を記した古書であるという点から資料的価値があり、捨てがたいのも確かです。

 この家中抄には、日阿上人について次のように述べています。

「伝説によると、日阿上人は貫主の代官であって、正式な貫主ではないとのことだが、私(日精)には正式な貫主であったようにも思われる」と。

江戸時代中期頃の貫主に三十一世日因上人がいます。この日因上人が「日有上人物語佳跡聴聞」(通称 物語抄・佳跡)という書物を著しています。この書物には、日阿上人について次のように述べています。

「六世日時上人が血脈相承をされずに遷化された。そこで日阿さんが血脈相承をあづかり代官となって日影上人を招こうとした。

 が、日影上人が到着する前に日阿さんも遷化した。日阿さんは遷化前に柚野浄蓮という在家に血脈相承 をあづけた。

 この柚野浄蓮が日影上人に血脈相承を渡した」と。

が、堀上人はこの説を一蹴されています。かといって真相はどうなのかという点については『阿師代官説も事実であろうけれども、有師の歴代記に載せてあれば法脈を受けた人に相違なしと見るべきである』というのみです。

日阿上人が正式な貫主であったのか、それとも代官であったのか。日阿上人はいつどうやって日時上人から血脈相承を受けたのか。日阿上人はいつどうやって日影上人に血脈相承を授けたのか。この点については不明のままです。

そうした真相問題以上に注目すべきは、十七世日精上人にしても、三十一世日因上人にしても、あまりにもあっけらかんと血脈相承の断絶を語られているという点です。大石寺貫主自らが自門の不利を語っているのです。こうした態度は、阿部宗門にとっては驚天動地の思いでしょう。しかし、我々は、この点において、現阿部宗門教学とは大いに相違して、先師方の血脈相承観は、もっと大らかな認識であった事を知るのです。且つ、血脈相承の形式的断絶があっても、我が門流の血脈にはいささかの断絶もあり得ないと確信されていたことを知るのです。



*八世日影上人と九世日有上人の間

この両上人は、室町末期から戦国時代を生きました。戦国の到来を告げた「応仁の乱」は日有上人の時代の出来事です。日有上人は長命で八十一才まで生きられました。宗門が発行している「富士年表」によりますと、日有上人が血脈相承を受けた年齢は二十才前後となります。血脈相承を受けてから約六十年間生きられたわけです。

 前出の家中抄には、日影上人から日有上人の血脈相承について次のように述べています。

「日影上人が遷化する時、血脈相承を伝えるべき適当な人物がいないと日影上人は歎かれた。そして、柚 野浄蓮という在家に血脈相承を授けた」と。

つまり、この説に従うならば、日有上人は柚野浄蓮から血脈相承を受けたということになります。

これについて、堀上人は、「日有上人はきっと日影上人から直接に血脈相承を受けられたに違いない。柚野浄蓮という人が日影上人と親密であって、若い日有上人をも補佐していたのだろう、そんな事情からこうした伝説が生じたのであろう。それを確認もしないで日精上人が漫然と筆にした」と、この説を退けられて、日精上人の軽率を責められています。

しかし、かといって、堀上人は自説を立証できる文献を何も出されてはいません。要するに真相はヤブの中というところでしょう。日影上人と日有上人の間は不明というのが本当のところですが、日有上人が血脈相承を受けられたことに間違いはありません。

私は、血脈相承の欠陥をあげつろうつもりは毛頭ありません。日有上人に血脈相承が引き継がれてよかったなと素直に思っております。ただ言いたい事は、阿部宗門が『血脈相承は絶対切れたことがない、前の猊下から次の猊下へとピシっと通じているんだ』と前提して、(まあ・・・何事も無ければそういうことにしておくことに異存はないのですが・・・)、『だから、日顕上人にも血脈相承が切れるわけがない』と、ずるく我が田に水を引こうとされますから、ちょっと待て、と申し上げているまでです。

阿部宗門が主張する「前提」とやらは、歴史事実に照らすとき、「前提」にはなり得ないのです。そのことを言いたいのです。また、神話を創作して信者を盲目にし、現在のウソにふたをしてしまおうとする根性が許せないのです。

四、

*九世日有上人と十世日乗上人・十一世日底上人の間、及び日鎮上人の間

これら上人方は戦国時代のまっただ中を生きられました。

日乗上人と日底上人の事歴は全く不明です。家中抄には『伝を失った』とあります。ただ大石寺過去帳に両上人ともに「文明四年(一四七二)遷化」と資料が残っているだけです。

日有上人の遷化年代には諸説がありますが、堀上人の説に従いますと「文明十四(一四八二)遷化」です。富士年表もこの説をとっています。

 そうしてみると、九世日有上人が血脈相承した十世日乗上人と、その日乗上人が血脈相承した十一世日底上人は、日有上人より前に遷化されたことになります。十二世日鎮上人を決定したのが、十一世日底上人であったのか、それとも隠居の日有上人であったのかは定かではありません。

十世、十一世の歴代が遷化したのち、血脈相承を授ける適当な人物がいなかったのでしょうか、十二世日鎮上人は、幼い年齢で血脈相承を受けました。血脈相承を受けた年齢については三説があります。「四才」「十才」「十六才」です。いづれの説をとるにせよ幼年であることに変わりはありません。ですから他門は「稚児貫主」といってバカにします。幼年の日鎮上人を後見役として支えた人に南条日住がいます。この人は僧侶だったのか在家だったのかわかりません。この南条日住が日有上人の常々の仰せを記録して、指南書として日鎮上人にさしあげたのが「化儀抄」です。してみると、この化儀抄は相伝書の性格を持っています。

幼年の日鎮上人が血脈相承を受けた時点で、血脈の奥義を極められたかどうか、わかりませんが、常識的に考えれば、無理であったろうと判断するのが自然でしょう。さればこそ、南条日住が後見をしたわけでもありましょうから。

このことを思うに、日鎮上人が日底上人から血脈相承を受けたとすると、「現住から次住へ」と形式的に血脈相承の継続はされていますが、内容理解という点ではどんなものでしょうか。まあ、少なくとも『前猊下から次猊下にピシっと』と、威張れるようなものではなかったでしょう。

また、日有上人から日鎮上人に血脈相承が行われたのだとすると、「隠居から次住へ」と血脈相承がされたことになります。血脈相承が継続したという点では何の問題もないことですが、厳密にいえば、隠居は現役ではないのですから、『前猊下から次猊下にピシっと』とは言い難いものがあります。

五、

*十二世日鎮上人と十三世日院上人の

この両上人は、戦国時代を生きられました。

日院上人が日鎮上人から血脈相承を受けた年齢については、諸説があります。「十三才」「二十才」「三十二才」などです。堀上人は苦労して会通をつけられ「三十二才説」にこぎつけられています。そして『決してバカにされるような稚児貫主じゃない』と言われていますが、失礼をかえりみず申し上げさせていただくならば、残りの他説を退ける根拠がうすく、あくまでも一学説の域を出ないことです。

いづれにせよ、この日院上人の場合も、前記の日鎮上人と同じことが言えようかと思います。

六、

*十四世日主上人と十五世日昌上人の間

この両上人は、織豊時代から江戸時代のごく初期を生きられました。

日主上人の時代、大石寺は極貧の状態にありました。この頃、日目上人の直弟子である日尊上人が開いた京都要法寺はたいそうに繁盛していました。

 以前、日院上人の時代に、この京都要法寺の大物僧侶である日辰という人が、日院上人に対し、大石寺と要法寺と手をつなごうと、誘いをかけにきたことがありました。日院上人は『大石寺は貧乏しているが、要法寺とは手をつながない、なぜなら、要法寺は釈尊像を造立して拝み、法華経二十八品を読んでいるからである、これは謗法である』と突き放しました。

 しかし日主上人の時代になると、何が理由なのかは不明ですが、西山本門寺の信者を仲介として、大石寺と要法寺は盟約を結び、大石寺貫主を要法寺から迎えるという事に決まりました。要法寺から晋山した貫主が十五世日昌上人です。家中抄の説によりますと、『身延の僧侶が戒壇本尊を奪おうとして日主上人を誘惑した、誘惑に乗ってしまった日主上人は責任を感じて辞任した』のだといいます。

日主上人は、血脈相承を持ったまま栃木県・蓮行寺に隠居しました。日昌上人は蓮行寺まで行って、日主上人から血脈相承を受けました。

日昌上人は最初の要法寺出身者ということで苦労したようです。大石寺大衆が前住の日主上人を呼び戻そうとしたり、ストライキをして日昌上人に抵抗したからです。

この後、十六世・十七世・十八世・十九世・二十世・二十一世・二十二世・二十三世と、合計九代にわたり要法寺から大石寺貫主に晋山します。年数にすると約百年間になります。

 かって、『十四世・日主上人と十五世・日昌上人の間の血脈相承は断絶しているのではあるまいか』と疑う向きもありましたが、堀上人が断絶していないことを立証されました。

血脈相承は、虚飾されるようなきれいごとばかりではなく、様々な葛藤の中で、苦労しながら、伝えられてきたということを知ってほしいのです。

【血脈相承について その二】

七、

*十五世日昌上人と十六世日就上人との間

 この両上人は江戸時代初期の慶長・元和・寛永の頃を生きられました。江戸将軍でいいますと家康・秀忠・家光の時代です。

日昌上人は、後継者として要法寺僧の日就上人を選びました。しかし、日昌上人は日就上人が大石寺に到着する前に遷化しました。そこで理境坊日義さんが日昌上人から血脈相承をあずかり、次の日就上人に渡したのです。これを「理境坊日義の預かり相承」といいます。

ここにおいて、「前貫主から次貫主へ授受」もしくは「隠居から次貫主へ授受」という、貫主有資格者同士の直接主義的な授受形態は切れました。

これについて、堀上人は次のような見解を示されています。

『相承を、理境坊から日就上人が継がれたのを史実と 見ざるをえないわけである』とされた上で、

『この一件において、形の上では、血脈が断絶した、 法水がゆるやかになり・ふさがったと言えば言える。

しかし、相承の内容に立ち入って見るとき、

 相承は、「授受の型式作法」が主か、それとも「受け る人」が主か、という問題が起こる。

もし、「受ける人」が主であるとすれば、「授受の形 式作法」は形式にすぎなくなるから、日就上人のよ うな場合でも、不都合はない。

「授受の形式作法」が主であるとすれば、「受ける人」 は誰でもよいということになり、日就上人のような 場合は、血脈断絶となる。

「授受の形式作法」と「受ける人」の両条件がそろ っていなければ血脈相承は成立しないとするならば、 日就上人のような場合は、法水が一時的に枯渇した 不祥事となる。』 堀上人の意は、血脈相承を断絶から救うために、日就上人を是としたいのですから、「受ける人が主となる」と言いたいのでしょう。つまり、血脈相承は形式よりも、受ける人の能力・品位・信心の方が大事であると言いたいのです。

日昌上人と日就上人の間の血脈相承は、貫主から貫主へと直接に伝わったわけではありませんから、「相承断絶」と表現されるわけですが、中間に理境坊日義をはさんだとはいえ、血脈内容は伝わっていますから、実質的な「血脈内容は不断」といえます。

阿部上人の場合はどうかというと、人格においても、形式においてもこれ以下でしょう。してみると、堀上人の言葉を拝借すれば、現在は「法水の一時的枯渇」の時といわなくてはなりません。

血脈相承で、何を相承したのかを考えますと、ひとつは法門相承といって法門書を渡すことでした。ふたつは法体相承といって戒壇本尊を渡すことでした。貫主から貫主へと直接に渡しますから「直授相承」といいます。ただ一人を選んで相承しますから「唯授一人」といいます。法門書や戒壇本尊は大聖人の血液のようなものですから「血」と表現し、これを信心の脈絡で歴代が次々と伝えてきたところを「脈」と表現し、両方をあわせて「血脈」と呼ぶのです。この血脈を信心に乗せて伝えるところを「血脈相承」といいます。ですから、相承をいただく貫主に信心が無かったなら、血脈相承は意味をなしません。  血脈相承というと、なにか神秘的なものを想像し、以心伝心でもって、形而上的な精神が次の貫主の心性にのり移るもの、と信じる向きもあるようですが、そういうものではないように思います。

ところで、法門相承ですが、家中抄の「日道伝」には、いささか得意気に嫡々相承法門として三十二の名目をあげています。しかし、この中には「大黒の切り紙」「日興御作の釈迦一尊一幅」などという、とんでもない謗法まがいの代物も含まれています。家中抄の作者である十七世日精上人の時には、この三十二が法門相承として伝えられていたのでしょう。これらを割り引いてみれば、「本尊七箇相伝」、「本因妙抄」、「百六箇抄」、「産湯相承」、「御義口伝」、それに「六巻抄」などなど、これらの書物が「唯授一人」と称して伝えた法門相承だったと思われます。

 ですが、大石寺が「唯授一人の法門相承」と主張してみても、これらは昔から他門も内容は知っていましたし、昭和になって、堀上人がすべてを活字にして公表しました。それに、江戸時代中期の貫主である三十一世日因上人が、自分の代には相承は失われていたと明言しています。してみると、現在では法門相承といっても、とりたてて見るべきものはないでしょう。

 なによりも傑作なのは、阿部上人が次のように発言されていることです。『相承はもらってみると、なんだこんなことか、というようなものです』。阿部上人に相承が有ったか無かったはこちらへ置くとして、阿部上人が『なんだ、こんなことか・・・』と正直に告白されるほど、平凡な内容しか残っていないのが、現在の法門相承だといえるでしょう。

現在、血脈相承として残されている聖域は、「戒壇本尊の管理権」くらいではないでしょうか。

この権限を行使するには「正式に選ばれた貫主であること」「己義を構えず、信心があること」が条件となります。

もし、血脈相承に一時的な枯渇があったとしても、正式な貫主を選び、この貫主が正義をもって戒壇本尊を受持されれば、そこに血脈は再生するのです。本尊書写権はこの貫主に付与される特権でしょう。

 堀上人が「受ける人による」と言われたのは、この辺の事情を述べられたのでありましょう。「受ける人」のいかんによって、血脈は清くもなるし、濁りもするのです。

 『血脈相承は断絶していない、断絶したと言うのなら、今、血脈はどこにあるのか』と、えらい剣幕で問う人もあります。お答えしましょう。血脈相承が法門相承をさすとするならば、大衆はみな存知しています。したがって血脈相承は断絶していません。

 血脈相承が法体相承をさすとするならば、だれも相承を受けていないのですから、血脈相承は宙に浮いた状態でしょう。

 血脈を、戒壇本尊という外相にではなく、戒壇本尊の内心に約してみるとき、戒壇本尊とは「日蓮が魂」なのですから、今は、謗法の所を捨て去り宗開三祖のもとに還っています。ただ謗法の無い正直な器に宿るのみです。当家の法門裁きはそうなります。

以上、阿部宗門がえがいてみせる神話的血脈相承観は歴史事実ではありません。また、血脈は貫主一人が独占して継承してきたものでもありません。大衆も共に苦労して伝えてきたのです。長い歴史の間には血脈相承が一時的に枯渇する時もありましょうが、必ず、再生します。

八、

*十六世日就上人と十七世日盈上人の間、及び、十八世日精上人の間

この三上人は、江戸時代初期の寛永年間を生きられました。日精上人に限っていえば、長命で、正保・慶安・承応・明暦・万治・寛文・延宝・天和の頃まで生きられています。

日精上人も、日盈上人も要法寺出身者です。

日就上人は、日盈上人と日精上人の二人に血脈相承を授けました。いわば、血脈相承の二重相承です。唯授一人ではなく唯授二人というところでしょう。富士年表でも貫主二人の存在を認めています。

 日精上人は寛永九年(一六三二)に、血脈相承を受けています。日盈上人が血脈相承を受けたのは、日精上人より前だったのか後だったのかは不明です。

 堀上人は、『どちらとも言えないが、日精上人より前に日盈上人が血脈相承を受けていたのではなかろうか』と想像されています。富士年表はこの逆で十七世は日精上人・十八世は日盈上人としています。

血脈相承の順番はこちらへ置き、大石寺に晋山した順番からいいますと、家中抄によれば日盈上人の方がさきです。富士年表によれば日精上人の方がさきになっています。私は家中抄の説をとって、十七世日盈上人、十八世日精上人としておきたいと思います。

 寛永十年(一六三三)に日盈上人が大石寺に晋山し、十七世を継ぎました。寛永十四年(一六三七)に日精上人が大石寺に晋山し十八世を継ぎました。

日盈上人にしても、日精上人にしても、血脈相承を受けてから大石寺に晋山するまでには数年を要したことになります。もっともその間は現住の貫主がいましたから、問題視するにはあたりませんが。

なぜ、二重相承が起きたかといいますと、次のような事情が考えられます。

日盈上人は福島県会津にあった実成寺という大寺の住職をしていました。遠方の地でもあり、大寺でもあり、血脈相承を受けたとはいえ、おいそれと大石寺に晋山できるような状況ではなかったと思えます。あるいは、貧乏でしかも要法寺とは違う教義を立てている大石寺に晋山するのは気がすすまなかったのかもしれません。日就上人は日盈上人を待っていたのですが、待てど暮らせど日盈上人は大石寺に来てくれません。そこで、日就上人は日盈上人をあきらめて、新たに別人の日精上人に血脈相承を授けたのです。

しかし、日精上人が血脈相承を受けた寛永九年の頃、日精上人は江戸浅草鳥越にあった法詔寺の住職をしていました。この法詔寺は京都要法寺系の末寺です。徳川家康の曾孫にあたる敬台院(阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮公の室)の絶大な庇護下にありました。こうした大寺の住職であった日精上人も、大石寺に晋山することにはためらいがあったようにみえます。また、敬台院にしても、貧乏で宗義違いの大石寺に日精上人をやるのは反対であったようです。また、もし日精上人を大石寺にやるにしても、それ相応の支度がいりましょう。こうした事情から日精上人の大石寺晋山も遅れていました。

日精上人の大石寺晋山が遅れている間に、会津の日盛上人が大石寺にやってきて十七世に晋山しましたから、日精上人の方は遠慮をしてそのまま法詔寺に居ることにしました。日盈上人が大石寺貫主を辞してから日精上人は十八世として大石寺に晋山しました。

 ちなみにいいますと、大石寺の御影堂はこの法詔寺にあった本堂を、日精上人の大石寺晋山の手みやげとして移築したものです。ですから、法詔寺という寺の規模が大きかった事が察せられるでしょう。

ところで、日盈上人ですが、寛永十年に大石寺に晋山してから、ずっと大石寺に居たのかといいますと、そうではありません。翌寛永十一年には千葉県にあった宮谷談林(談林とは大学みたいなもの)の教授として趣かれました。寛永十三年に大石寺に帰ってきましたが、翌寛永十四年には古巣の会津実成寺にもどり、そのまま遷化されました。ですから大石寺貫主といっても名誉職みたいなものだったでしよう。

また、日精上人ですが、寛永十四年に大石寺に晋山しましたが、翌寛永十五年には公儀年賀の挨拶のために江戸に行ったきり、数年間は大石寺にはもどらなかったようです。大石寺は貫主不在になりました。その頃、日精上人と敬台院が不仲になってしまったのが原因であろうと言われています。

 四十八世日量上人が著した「続家中抄」によりますと、無住の期間は二年ほど続いたといいます。富士年表によると三年ほどは続いたようにみえます。

 血脈相承は、阿部宗門が言うような「唯授一人」とばかりはいかなかった時代もあるという意味で、この歴史をとりあげました。また、大石寺には無住の時代もあったという意味でとりあげました。

九、

*十七世・日精上人につい

 日精上人の時代、長かった戦国の世も終わり、疲弊のドン底にあった大石寺は、経済的には面目を一新しました。その繁栄は京都要法寺がもたらしてくれたものです。特に日精上人と敬台院の力には絶大なものがありました。政治的には大石寺が要法寺に牛耳られていた時代でもあります。法義的には大石寺が不本意な思いをした時代でもあります。 要法寺は、大石寺とは違った教義を立てていました。ここでは「大石寺とは違った教義」と表現しておきましょう。当家からみれば謗法なのですが、歴代をいただいていたのですから、謗法よばわりまでは失礼かと思いますので。

 戦国時代、要法寺には広蔵院日辰という超大物僧侶が出現しました。この日辰が「造像読誦論」という教義を唱え出しました。釈尊像を造立して本尊とし、法華経を全部読誦するという教義です。この日辰の教義は、その後の要法寺教学を決定づけ、一時的な停滞はあったものの、現在に至るも要法寺を支配し続けています。

こうした要法寺の教風の中で育ってきた方々が、大石寺歴代に晋山してきたのですから、その悪弊が知らず知らずのうちに大石寺に浸透してきたであろうことは想像にかたくありません。文献には確と残ってはいませんが、要法寺系貫主と大石寺系僧侶が衝突した場面も多々あったろうと想像されます。また、大石寺系僧侶が要法寺系貫主を避けて法門を潜伏させた場面もあったろうと想像されます。

三十一世・日因上人は、この辺の事情を次のような文面で匂わせています。

『・・・これは要法寺日大が比叡山から相伝したもの で、要法寺系貫主の十五世日昌上人の時から大石寺 に入ってきたものである。だから日因は用いない。

 ・・・これは大聖人以来の相伝であり、要法寺系貫 主が入ってくる前の、最後の大石寺系貫主であった 十四世日主上人が栃木県・蓮行寺に伝え残したもの である。今に関東・奥州の末寺がその法門を伝えて いる。だから日因はこれを用いる。

 十五世日昌上人から二十三世日啓上人に至るまでの 百年間は要法寺系貫主が続き、その間に大石寺の法 門は要法寺流の邪義に染まってしまった。

 したがって、要法寺系貫主が持ち込んできた教義よ りも、その貫主の目の届かないところで、貫主に反 対して大石寺大衆が伝えてきた法門の方が正しい。

 ・・・三通の御相伝も目録は残っているが、内容は 要法寺系貫主の十八世日精上人が失ってしまった。 要法寺系貫主の二十世日典上人の時代に大坊が火事 になったが、その時にほとんどの御相伝も焼けてし まい、今は十七条の目録が残っているだけである。 それがために、要法寺系貫主の二十一世日忍上人、 同系の二十二世日俊上人が、新たに要法寺の邪義を 大石寺に持ち込んだのである。』

日因上人は、要法寺系貫主をずいぶんとこっぴどく断罪されています。日因上人の時代には要法寺との紛争が燃えさかっていましたから、言葉が激越なのでしょう。また、日因上人は福島県妙法寺に出家して、同地方で長年弘教した経験者でしたから、古義と新義の見極めがついたのでしょう。そして次のように結論されています。

『大石寺大衆方は正法を守ったが、要法寺系の上人方 はみな正法を失い、天台真言の邪義になってしまっ た。』

この日因上人の言葉を聞くとき、阿部宗門人がよく言う、『法主は絶対だ』『法門は血脈相承で猊下が伝えてきた』『血脈相承には間違いはない』『平僧は血脈相承に関係ない』『血脈相承にはすごいものが伝わっている』『法主に逆らう者は謗法だ』なんていうセリフは、ものの見事にふっ飛んでしまいます。

さて、日精上人は、要法寺日辰の「造像読誦」を強烈に信仰した貫主でした。でもさすがに大石寺ではこの「造像読誦」はできなかったようです。この辺の事情を掘上人は『大石寺大衆の心情を汲んで日精上人自身が自粛したのかもしれない、あるいは周囲の者がとめたからであろう』と想像されています。私は、大石寺大衆が抵抗したからであろうと思っています。日精上人は、江戸では下谷常在寺を再興したり、小梅常泉寺を天台宗から改宗させたりしましたが、こうした自分の私権の及ぶ範囲では造像読誦をしています。 この一件から学ばれる事はなんでありましょうか。それは、貫主にも間違いはあるということです。そして、大衆もまた血脈の正嫡をにない守ってきた脇役であったということです。

次に学ばれる事はなんでありましょうか。それは、間違えた貫主には従ってはならないということです。 みなさんは、日精上人が成仏したと思いますか。私は思いません。みなさんは、日精上人に逆らった大衆は地獄に堕ちたと思いますか。私は思いません。

日精上人は、血脈相承を確実に受けた貫主でしたが、謗法を犯しました。阿部上人は血脈相承がチトあやしいお方です。その上に謗法です。何をかいわんやではありませんか。

【血脈相承について その三】

十、

*十九世・日舜上人について

日舜上人は江戸時代初期も終ろうかという頃を生きられました。要法寺系の人です。 三十二才の時に大石寺に晋山し、三十六才の時に十八世日精上人から血脈相承を受けました。大石寺に入山してから血脈相承を受けるまで、四年間のブランクがあったことになります。

前述のように、日精上人は寛永十五年に江戸に行ったきり帰ってきません。大石寺は無住となりました。この間に困った問題が起こりました。「御朱印改め」です。将軍秀忠の死後、将軍家光は代替わりの「御朱印改め」を寛永十年から寛永十九年頃までかかって行いました。これに対応しなくてはならなくなったのです。

「御朱印」というのは、幕府が寺社に与えた領知安堵状に朱印を押したものです。「御朱印」によって、寺社は、土地所有権や租税徴収権や労働免除権や裁判権などの、各種特権を幕府から保証してもらいました。この「御朱印」を改めて確認するというのが「御朱印改め」です。極端な言い方をすれば、「御朱印」をもらえない宗派は国家の公認を得られないのですから、土地も経済基盤も失うことになります。

 宗派が、幕府から改めて「御朱印」を公認してもらうためには、一山に貫主がいなくてはなりません。無住の寺ではクリアできないのです。大石寺大衆は困りました。日精上人がヘソを曲げ、大石寺が無住のままであれば、「御朱印」はもらえず、大石寺はお取りつぶしとなります。続家中抄には「当山、無住について、まさに廃寺におよばんとす」と悲壮感をただよわせています。

困り果てた大石寺大衆は、敬台院の袖にすがり、後住を選んでほしいとお願いしました。敬台院は法詔寺住職に相談しました。その時の法詔寺住職は要法寺系僧侶の日感さんです。日感さんは『大石寺貫主は要法寺僧の我が弟子、日舜がよかろう』と返事しました。これで決まりです。のちに大石寺十九世に晋む日舜上人が誕生したのです。日舜さんは日感さんの肝入りで寛永十八年に大石寺に入山し、同年夏に江戸へ行き、無事に「御朱印改め」を終えました。そのついでに江戸にある常在寺に出向いて日精上人と会い、師弟の契約を結びました。おそらくは、敬台院と日感さんが日精上人に根回ししたのでしょう。  それから四年後の正保二年、一時的ではありましたが、日精上人は江戸から大石寺に帰ってきて、日舜上人に血脈相承を授けました。ここでやっと日舜上人は正式な大石寺十九世に就任したのです。

日舜上人に不足はありませんが、要法寺系の一末寺住職が、大石寺貫主を決めたというのは、正直いって、不愉快千万です。

 堀上人は、『要法寺から大石寺に晋山した貫首は、始めは大僧がやってきたが、後には小僧がやってきた』と嘆かれています。

ところで、続家中抄には、日舜上人が血脈相承を受けた時に、日感さんが大石寺大衆に与えた書状を載せています。

『日舜いまだ若年に候あいだ、寺檀さだめて軽々しく おぼしめし候わんかと笑止に存じ候。大石寺事は金 口の相承と申すこと候て、この相承を受くる人は学 不学によらず、生身の釈迦日蓮と信ずる信の一途を もって、末代の衆生に仏種を植えしむる事にて御座 候。その器量の善悪をえらばず、ただ相承をもって 貫主と定められ候。故をもって、一山みな貫主の下 知にしたがい、貫主の座上を踏まざる事、ことごと く信の一字の修行にて候。釈迦日蓮代々上人と相承 の法水相流れ候。この旨を相知り候上はいかようの 僧、貫主となるとも相承伝授候うえは、生身の釈迦 日蓮たるべきこと開山の御本意、一門徒の肝要にて 御座候。もし、世間の貪瞋痴にふけり、互いに述懐 を起こし、学者非学者をえらび、軽慢の志あらば、 謗法の苦因を御植え候わん事必せり。ただ法を日昌 上人の御仰せのごとくなされ候わば、法燈再び富山 の峰にかがやき・・・』

敬台院の権勢をカサに着て、大石寺を見下し、可可大笑している様が見えるような文面です。

『お前の寺の法門はこうなってるんだろうが・・・だ から言うことを聞け、逆らうな、日舜をバカにする な、かって要法寺から晋山した日昌上人も言ってい たであろう、その仰せにそむくでない』

とスゴんでいるのです。

 門流の序列からいえば、大石寺の下に位置する要法寺、その要法寺の末寺僧侶から、当家の法門を逆手に取られ、またとない大層な御説教を賜ったのです。大石寺大衆はどんな思いだったでしょう。屈辱の限りだったろうと想像します。

 この書状から、大石寺大衆の中には、日感さんの処置や日舜上人に対して、不愉快な思いを抱いていた人々がいたことがうかがえます。

阿部宗門の中には、この書状が大石寺を圧迫するために書かれたものであるという事も知らずに、『ここに、こう書かれているのが証拠だ、だから日顕上人は大聖人だ』という人もいるようです。歴史と人情の機微に暗い愚言です。

十一、

*二十四世・日永上人について

日永上人は江戸時代中期の元禄・宝永・正徳の頃を生きました。

要法寺系ではなく純粋な大石寺育ちの貫主です。十五世日昌上人から二十三世日啓上人までの、都合九人の貫主はみな要法寺育ちの僧侶でした。この九人がしめた年数は約百年間です。二十四世日永上人の時代になって、再び大石寺系貫主がよみがえったわけです。二十三世日啓上人の英断というべきでしょう。

この二十三世日啓上人、そしてその前の二十二世日俊上人について話をしますと、両上人とも要法寺系ではありましたが、大石寺の法門を守られたお方のようです。要法寺系貫主の十七世日精上人が「造像読誦」の謗法を犯しましたが、四十年後、日俊上人や日啓上人がこの謗法を払っています。

そもそも、要法寺という寺について話をしますと、日目上人の弟子に日尊上人という人がいました。この日尊上人が京都に寺を造りました。この寺を上行院といいました。日尊上人は上行院を弟子の日印に譲りました。日尊上人には日大という弟子もありました。この日大も別に上行院という名前の寺を京都に造りました。日大が造った上行院の方は、のちに住本寺という名前に変わりました。日印と日大はライバルで、不仲でした。そこで上行院と住本寺も不仲でした。

教義的なことをいいますと、日尊上人は曼荼羅本尊論者ではなく、造像本尊論者でした。つまり、釈尊像を造立して本尊とするという考え方の持ち主でした。ですから当家の流儀からみれば異端者です。日尊上人の後継者であった上行院日印は日尊上人の造像に不審を持っていたようです。住本寺日大は日尊上人の造像を信奉したようです。

 時代は戦国の頃になって日辰という僧侶が出ました。この日辰が上行院と住本寺を一つにして要法寺という寺を造りました。しかしそれでも上行院と住本寺の両流の不仲は解消されませんでした。日辰は「造像読誦」を唱えました。住本寺日大系はこの教義を信奉したようですが、上行院日印系とこれに属する伊豆・会津の両実成寺系には微妙なものがあったようです。以上、要法寺の御家の事情を見ますと、要法寺には両流があることが知られます。日精上人は住本寺日大系を支持し、日俊上人や日啓上人は上行院日印系を支持したとみる事もできましょう。

さて日永上人ですが、この時代に入って、大石寺と要法寺の間の亀裂が表面化しました。それは「造像読誦」を容認するかどうかという問題、つまり「釈尊本仏」か「日蓮本仏」かという教義的な問題の衝突は勿論ですが、日永上人が要法寺出身ではないということから、両寺の通用が停止して、いくつかの末寺が要法寺を離脱するという問題にまで波及しました。その一例が、生蓮院日命(自明院日命)と山城阿闍梨円教坊日躰の要法寺離脱でした。生蓮院日命は要法寺末であった大阪天満蓮興寺を離れ、自明院という寺を買い取り蓮華寺と改称して大石寺に帰依しました。現在の天満蓮華寺、神戸正蓮院はその縁故寺院です。また、山城阿闍梨円教坊日躰は、要法寺を離れ、良円寺を買い取り、要法寺の前身であり尊門の名跡でもある住本寺と改称し、復興して大石寺に帰依しました。九条住本寺がこれです。明治二十八年に住本寺は東山の地に移りました。現在、住本寺や九条住本寺が正信会であることには不思議な因縁を覚えます。

 このような末寺問題に象徴されるように、大石寺は日永上人の登場を機にして、要法寺の邪義を排除し、百年間の鬱積を払って、古義に還ろうと必死でした。当時、日永上人を補佐した日寛上人が「六巻抄」を著したのはこれがためといっても過言ではないでしょう。大石寺二十六世日寛上人の徳化によって、大石寺流儀はいよいよ明確となり、要法寺でも一時「造像読誦」を改める動きもありました。また、後の寛政年間のことですが、要法寺一山を挙げて大石寺流儀に従った時代もありました。しかし京都の日蓮宗各本山の圧力でそれもつぶされてしまいました。

この大石寺と要法寺の離間問題はずっと尾を引き、幕末になって江戸妙縁寺の所属をめぐる事件ともなりました。さらには大正年間末には仙台仏眼寺の所属をめぐる事件ともなりました。

日精上人が開いた江戸常在寺、江戸常泉寺などの大寺、それに千葉県真光寺などが事件に巻き込まれなかった事は、当家の幸いでありました。

 以上、ここでは、濁っていた血脈を先師方が苦労して浄化したという事を知っていただきたいのです。血脈・法門は、阿部宗門が言うような「おきれい事」で現代まできたのではありません。

十二、

*五十二世日霑上人と五十三世日盛上人の間

両上人は幕末から明治の時代を生きられました。

 日霑上人は近年の英傑ともいうべき貫主です。

 幕末・維新の騒乱と廃仏毀釈により、次々と大石寺諸堂は羅災しましたが、そのたびに苦労して復興されました。九州地方に本格的な布教のクサビを打たれたのも日霑上人です。その他、東京、奥州、野州、名古屋、京都、大阪、奈良、讃岐などを次々と行脚され布教に努められました。数々の問答に勝利され、興門派合同問題などでも苦慮しながら大石寺を守りました。幕末・維新の好機をとらえ徳川幕府に申状を捧げてもいます。また、多くの勝れた弟子を輩出しました。近年の貫首の中で、徳行はひときわ秀でています。

日霑上人は嘉永六年(一八五三)に日英上人から血脈相承を受けました。三十七才の時です。それから十年後の文久二年(一八六二)に隠居して、五十三世日盛上人に血脈相承を授けました。隠居したわけは、幕府に申状を捧げるためでした。申状は駕籠訴、直訴でしたから身の安全は保障されません。そこで後継を日盛上人に委ねたのです。もっとも、隠居として日英上人が存生ではありましたが。

 ところで、文久二年から三年後の、慶応元年(一八六五)六月八日に、日盛上人の「代替わり法要」が予定されていました。「代替わり法要」というのは歴代上人にとって最重要儀式です。前貫主が次貫主に宗宝を譲る儀式で、「お肉牙」を披露するのはこの時と御遠忌法要の時だけです。ところが、日霑上人はこれほど重要な法要をボイコットして、慶応元年二月初旬に旅に出てしまいました。宗門人の常識ではちょっと考えられない行動をとったのです。この行動について日霑上人は「御自伝」に次のように述べています。

『日盛師晋山、始めての虫払にて、いわゆる代替わり法宝譲り渡しなり。故にその前に遠足はもっとも遠 慮慎むべき時なり。しかるに、予が身にとり堪えざる窮愁ありて、やむを得ず、しばらく奥地に身を避 けんと欲する』

何があったのかについては日霑上人は黙されたままです。史実も伏せられています。『堪えざる窮愁』が何であったのかは想像するしかありません。

 が、日霑上人が旅に出かけて間もなしの慶応元年二月二十八日に大石寺が火事になりました。客殿・六壺・大坊が焼失しました。この急報を日霑上人は三月三日に旅先で受けました。さっそくとって返し三月中旬に大石寺に帰り着きました。帰ってみると大石寺は大モメの最中でした。その時の様子を「御自伝」には次のように語っています。

『大石寺の大衆は、ある事情から大いに沸騰し、こぞって日盛上人に退座を迫っていた。日霑は聞くにたえず、ひそかに問題をあつかったが、事情を聞けば、日盛上人をかばいきれなかった。』

出火の不始末に加え、何かの事情があって、大石寺大衆が日盛上人を擯出しようとしていたのです。

 日霑上人はモメ事に巻き込まれるのを避けようとして、また江戸をめざして旅に出てしまいました。日盛上人を擯出して日霑上人に再住してもらおうと期待していた大石寺大衆は驚きました。そして日霑上人に帰ってきてもらうために日盛上人と和解しました。隠居日英上人からも、現住日盛上人からも、日霑上人に帰ってきてほしいという手紙が届きました。そこで日霑上人は五月初旬に沼津市にある本広寺までもどってきました。が、そこで日霑上人は、『日盛上人が先非を悔いて、下の坊に隠居した』という報告を受けました。

これを聞いた日霑上人は、『(あたかも自分が日盛上人を追い出したような案配になり)、自分は大石寺に帰れない、日盛上人が元どおり貫主にもどるか、隠居の日英上人が再び貫首に就任するか、どっちかにしてほしい、日霑は再住したくない』と使僧を大石寺にやりました。大石寺の衆檀会議の結果、日英上人が再住すると決定しました。そこで日霑上人は大石寺にもどったのですが、日盛上人は、下の坊を脱出して行方不明になっていました。日霑上人はあちこちを捜索させましたが、三十日たっても日盛上人の行方はわかりません。二カ月ほどのちに、栃木県の信行寺にいることがわかりました。

日英上人は六十日ほど再住したのちに、『自分は老齢であるから勤めがつらい、貫首を日霑上人に代わってほしい』とたのみました。日霑上人は『自分はイヤである、日英上人の弟子であり、且つ、日盛上人と兄弟弟子になる能化二人の中から、貫首を選ばれたらよろしい、さすれば日盛上人も異念を残されないでありましょう』と答えました。これに対し、日英上人は『私はもうダメである、今の能化二人など何の用にもたたない、大火災のあとを挽回できるのは、日霑上人しかいない、大石寺大衆もそれをのぞんでいる、もし日霑上人が再住を引き受けてくれないのなら、私は今晩自殺する』と泣きました。これには日霑上人も恐れ入ったようで、しぶしぶ、慶応元年六月に再住を引き受けました。四十九才の時です。

結局、日盛上人は血脈相承を受けて大石寺に晋山しましたが、代替わり法要はできませんでした。

この事件につき日霑上人は、次のように述懐されています。

日英上人への嘆願

『日盛師は、自身の過ちを自覚せず、かえって日霑に 怨念をだいているようである。信者講中も心配し、 日盛師に和解するように働きかけているのに、あろうことか、手紙をもって寂日坊に数カ条の文句を言 ってきた。その中には、日霑が大石寺をのっとった などと書いてある。ここまで悪念が深いのであるから、どんな返事をしたとしても、いよいよ日霑を憎むばかりであろう。』

信者への手紙   

『天奏をしたいと考え、先例を欠いて、能化未満の日盛師を引き立て貫首に据えた。が本当のところを言 えば、いろいろと自分の意見もあった。そうしたところに、はからずも火事が起こってしまった。その後、日盛師は大石寺を出奔してしまった。そこで日 英上人が再住された。日英上人や大衆は、日霑に再 住せよと言う。日霑はイヤだと重ね重ね辞退し、日英上人の弟子の中から次の貫首を選んでほしい、さすれば日盛師の心もおさまるであろうと申し上げた。が、日英上人のたっての命令で、よんどころなく再住することになった。それでも日霑は早く隠居した いと思い、その気持ちを日英上人に申し上げるのだ が聞き入れてはくれない。

 日盛師は四月に大石寺を出奔した後、六月には野州に至ったようであるが、そこからいろいろと文句を言ってくる。困ったものだ。』

こうした日霑上人の嘆きを聞き、且つ、『堪えざる窮愁の思い』を重ね合わせますと、どうも日盛上人に血脈相承を授ける時点から、日霑上人と日盛上人・日英上人との間にしっくりいかないものが胚胎していたようにみえます。それが何であるかはおおよその見当はつきますが、今は黙したいと思います。

日盛上人は大石寺を出たあと、明治七年には東京常泉寺住職を勤め、明治十三年には長野県に信盛寺を建立し、翌明治十四年には静岡県に妙盛寺を建立し、種々に活躍されて汚名を挽回されたようです。

晩年、日霑上人と日盛上人の仲がどうであったのかはわかりませんが、後年に至っても、霑師応師系の蓮葉庵と英師盛師布師系の富士見庵が不仲であったことを思うと、なかなか・・・との感を禁じ得ません。大正年間末に、霑師系の柱開両師が管長選挙で争った時、布師系の大慈院能化が割って入って立候補した一件などはこれを象徴的に物語っています。これが修復のきざしを見せてくるのは、昭和十六年の「僧俗護法会議」以降から戦後にかけてであろうと思われます。この会議において当家は軍部の圧力に屈せず、一宗の存亡をかけて日蓮宗との合同を否決しました。派閥を越えて宗門一丸となったおかげで、さしもの犬猿の仲も溶解し始めたようです。戦後、日淳上人、日達上人、観心院能化、本種院能化、観法院能化、大東院能化、観妙院能化などは、こうした派閥を解消されることに心を砕かれました。しかし、阿部宗門はまたぞろ昔の「御一門」思想を復活させようとしているかのようです。いわば日蓮正宗に「阿部屋」のノレンをかけようとしているのです。悪夢再来というところでしょうか。

これは余談ですが、正信会前議長であった渡邊広済師などは、戦後まもなく、七才にして、両派をつなぐ「希望のかけはし」として人身御供にされた一人であったろうと私は想像しています。

こうした一件から、さまざまな軋轢を乗り越えて血脈は伝えられてきた事を知ってほしいのです。

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