阿部師に連なる法華講の皆さん初めまして。 nbです。 ここでは、今までしたきた信仰というものを私と一緒に考え直してみませんか? 初めに皆様方ご存じのように総本山五十九世日亨上人が日有上人化儀抄註解に、次のように仰せです。 一、仏の供養を取り次ぎ候に、祝の時は如法目出度く候と申し候、訪いの時は如法有難しと云云。 富要 第一巻 との日有上人の御制誡に対して 当時の社界は悲喜慶弔共に其志を仏法に寄せたるが、徳川幕府の三百年の間に寺院は全く慶賀を離れて葬式等の悲事にのみ使用せらるべく馴致、皇政維新茲に五十年未だ其の余弊の脱せざるは悲しむべき事なり と説明されております。ここで五十余年とは日亨上人が大正時代に日有上人化儀抄を明治四十年より、大正六年に至るまで、化儀抄の解説を宗門機関誌に連載された頃を言っているものと思われます。ここでは、徳川の時代より寺というものは葬式・法事等の悲事の時に使用されるようになってしまっている、明治維新以降五十年も経つのに嘆かわしいものである。と述べられておりますが、私も本当にその通りだと思います。 日本仏教界全体が、徳川幕府の宗教政策によって、いつの間にか本来の仏教に対する信仰観そのものが、変質してきたのではないかと思います。我が正宗もそれに漏れず、少なからず影響を受けているのではないかと感じ入る次第であります。徳川時代といえば、宗門改めにより、日本中全ての人間が、どこかの寺院に所属させられ、寺院は、布教の場というよりも、現在の役場等の戸籍係みたいな役割を担っていた場合もあると思います。 この時代は、実質的に改宗の禁止で富士門流の仏法を大ぴらに興行するというのもかなり制限された状態ではなかったかと思います。中興二祖と呼ばれる日寛上人にされても国家的制限下における布教はかなり困難だったのではないかと思います。言い替えれば、この時代は、仏教界全般にとっての暗黒時代ではなかったのではないでしょうか。実際この時代に末寺建立というのは相当困難な状況だったみたいです。こういう時代の中での当時の方々のご苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったのではないでしょうか。 こういう、暗黒時代も終焉を告げ、王政復古の御維新となり、社会は急激な変革を遂げ、徹底した国家神道に走り出しますが、その中でも、日本仏教界は時流に迎合して、国家権力へすり寄る動きが発生してきます、日蓮門下でも田中智学の国柱会を筆頭として、国家への迎合が始まります。今現在顕正会等が唱えている『国立戒壇論』は国柱会の論法のリメーク版というのは皆様方もよくご存じと思います。 こうした中、我が正宗も、この国家的流れに少なからず影響を受けたことは否めない事実だと思います。そんな中で、戦後は創価学会が出現し、正宗は、未曾有な発展を遂げたように見えますが、その中で、私達在家だけでなく御僧侶方も、正宗本来の、心、信仰観が少しずつなおざりになってきたこともあるのではないでしょうか。 現在は、創価学会とは正宗は、縁が切れたように見えますが、正宗僧俗共信仰観、本尊観、血脈観等は物質至上主義の創価学会の感覚とほとんど違いはないのではないのでしょうか。現在宗門で、叫ばれている、平成十四年の三十万総登山、奉安堂建立、などの発想もまるで創価学会の感覚そのまま、創価学会に対抗した姿勢そのままとしか見受けられません。 この辺でよく、日蓮正宗の信仰とはということを欲考え直してみるべきではないでしょうか。幸い現在は、信仰の自由という事が日本国憲法で保証されています。こんな時代は大聖人が立宗以来、初めて訪れた時代です。こんな時代にこそ、真の日興門流の宗風を大に興行すべきではないでしょうか。 富士門流は、他門徒の方々から良く、「正宗さんは、独善的だから」とか「戒壇の御本尊と唯授一人の血脈のみに頼って自己反戦など全く無い宗派だから」などという批判を聞きますが、こういう考えも、あながち、的外れなことではないのではないかと思います。 確かに、大石寺には大聖人出世の本懐であるところの戒壇の御本尊様と、大聖人日興上人以来の血脈が受け継がれています。しかし、そのことによって、短絡的に正しい信仰をしているとは言いがたいのではないかと思います。例えば、日々の勤行もせず、題目もあげず、弘教の努力もせず、法門の研鑚もしないこういう人が正しい信仰をしているといえるでしょうか。私は思いますが、旧来の法華講の方々は、「自分達は先祖代々よりの信仰をそのまま受け継いでやってきておる。」という方もおられると思いますが、そういう方々でも、例えば、東京に正宗寺院が出来たのも常在寺を十七世日精上人が建立されたのが初めてで、やはり、徳川幕府の制限下の信仰の感覚を受け継がれているのではないかと思います。 最近創価学会から移籍した法華講の方々にしろ、旧来の法華講の方々にしろ、信仰観をもう一度見つめ直す必要はあるものと思います。やはり、正宗信徒は日蓮日興の上代の信仰観を常に確認しつつ信仰していく必要があるのではないかと感じ入る次第であります。 私達正信会信徒は、現在、不本意ながら宗門の外に出された形の信仰をしておりますが、常に戒壇の御本尊大石寺を忘れたことはありません。私の所属させていただいております末寺の御住職も「お山が一大事の時はなにをさておいても、駆けつける。」ということをここ二十数年来常々口に出して言われております。 今現在、最も、大石寺、戒壇本尊、日興門流の信仰というものを憂いているのは私共正信会の僧俗だと思います。現在の宗務行政、阿部師の態度、宗門側僧俗の発言を聞くにつけ、「本当に、このままでは大石寺から大聖人の仏法はなくなってしまうぞ!」と危惧します。 大石寺の正当性というのも先程も述べました、「戒壇本尊」「唯授一人の血脈」というものをもって、皆さん方は主張すると思われますがそれだけでなく、日有上人は 一、信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず、夫れとは世間には親の心を違えず、出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直しきなり高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違う時は我等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず、一人一日中・八億四千の念あり念念中の所作皆是れ三途の業因と文。 と仰せでありますが、高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なりということについて、再興して欲しいものです。 歴史的に考えると、「戒壇本尊」「唯授一人の血脈」という記述は、江戸期より文献に初めて登場いたします。それまでは、文献にほとんど登場しません。これはなぜでしょうか。私の思うには、別に殊更、「戒壇本尊」や「唯授一人の血脈」という言葉を持ち出さなくとも法門的に治めていくことが出来たからではないかと思います。 大石寺が日蓮門下の正系門流であるということを内外に主張できるのも、高祖以来の信仰を間違いなく受け継いでいるからこそ主張できるのではないでしょうか。。決して、「戒壇本尊」や、「唯授一人の血脈」が大石寺に伝わっているから、正しいというような単純な理由ではないはずです。もしそうであれば、戒壇の御本尊を強奪し、勝手に「自分は、日顕猊下より大石寺に伝わる唯授一人の血脈を受け継いだ。」というものが出現したならば、そこに大聖人の魂が存在することになってしまいます。そういうバカな話はありようがありません。 最も大事なことは、大聖人日興上人以来の信仰を、間違いなく手続の師匠に付き随い一身で受け止めそれを世に興行する事ではないのでしょうか。やはり、こういうことを持ち出すということについても、その当時の宗門の力が弱まっていたからという見方が出来るのではないでしょうか。 現在の登山の目的についても戒壇の御本尊にお目通りするということを第一目的として登山されているみたいですが、上代は本当にそうだったのでしょうか。 猊下は絶対の存在であるということを今の宗門法華講の方々は、口を揃えておっしゃいますが、本当にそうなのでしょうか。以下にそのようなことに関して述べておりますので一読のほど宜しくお願い致します。 nb |