三重秘伝鈔第一(2)

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三重秘伝鈔第一(2)

第七に種脱相対して一念三千を明かすことを示すとは、


今文底秘沈と言うは上に論ずる所の三千は猶お是れ脱益にして未だ是れ下種ならず、若し其れ下種の三千は但文底に在るが故なり。

問う、何れの文底に在りとせんや。答う、古抄の中に種々の義あり、

有るが謂わく、如来如実知見等の文底なり、此の文能知見を説くと雖も而も文底に所知見あるが故なり。

有るが謂わく、是好良薬の文底なり、是れ即ち良薬の体、妙法の一念三千なるが故なり云云。

有るが謂わく、如来秘密神通之力の文底なり、是れ則ち文面に本地相即の三身を説くと雖も文底に即ち法体の一念三千を含むが故なり云云。

有るが謂わく、但是れ寿量品の題号の妙法なり、一念三千の珠を裹むが故なり。

有るが謂わく、通じて寿量一品の文を指す、是れ則ち発迹顕本の上に一念三千を顕わすが故なり。

有るが謂わく、然我実成佛已来の文なり、是れ則ち秘法抄に此の文を引いて正しく一念三千を証し、御義口伝に事の一念三千に約して此の文を釈するが故なり云云。

有る師の云わく、本因妙を説くに但三妙を明かす、所謂我本行は是れ行妙なり、菩薩道は是れ位妙なり、所成寿命は是れ智妙なり、

故に天台云わく、一句の文三妙を証成す等云云。

然るに妙楽の云わく、一句の下は本因の四義を結す云云。

是れ即ち智には必ず境ある故なり。故に知んぬ、文面は但智行位の三妙なりと雖も文底に境妙を秘沈したまえり、境妙は即ち是れ一念三千なり、故に爾云うなり。

今謂わく、前来の諸説は皆是れ文の上なり、不相伝の輩焉んぞ文底を知らん、若し文底を知らずんば何んぞ蓮祖の門人と称せんや。

問う、当流の意如何。

答う、此れ一大事なり、人に向かって説かず云云。

重ねて問う、如何。

答う、聞いて能く之れを信ぜよ、是れ憶度に非ず。師の曰わく、本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云。応に知るべし、後々の位に登ることは前々の行に由ることを云云。

問う、正しく種脱相対の一念三千とは如何。

答う、此れ即ち蓮祖出世の本懐、当流深秘の相伝なり、焉んぞ筆頭に顕わすことを得んや。然りと雖も近代他門の章記に竊かに之れを引用す、故に遂に之れを秘すること能わず今亦之れを引く。輪王の優曇華、西王母が園の桃、深く応に之れを信ずべし。 本因妙抄に云わく、問うて云わく、寿量品の文底一大事と云う秘法如何。

答えて曰わく、唯密の正法なり、秘すべし、秘すべし、一代応仏の域を引かえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文底とは久遠実成名字の妙法を余行に渡さず直達正観する事行の一念三千の南無妙法蓮華経是れなり云云。

問う、久遠名字の妙法とは其の体如何。

答う、当体抄・勘文抄等往いて之れを勘うべし云云、今且く之れを秘す云云。

第八に事理の三千を示すとは、

問う、事理の三千其の異なり如何。

答う、迹門を理の一念三千と名づく、是れ諸法実相に約し之れを明かす故なり。本門を事の一念三千と名づく、是れ因果国に約して此れを明かす故なり。若し当流の意は迹本二門の一念三千通じて理の一念三千と名づけ、但文底独一の本門を以って事の一念三千と名づくるなり、是れ当家の秘事なり、口外すべからざる者なり。

問う、迹本二門の一念三千何んぞ通じて理の一念三千と名づくるや。

答う、此に二意あり、一には倶に理の上の法相の故に、二には倶に迹の中の本迹なる故なり。

本因妙抄に云わく、一代応仏の域を引かえたる方は理の上の法相なれば一部倶に理の一念三千なり云云。

又云わく、迹門を理の一念三千と名づけ、脱益の法華経は本迹倶に迹なり、本門を事の一念三千と名づけ、下種の法華経は独一の本門なり云云。

本尊抄に云わく、一念三千殆ど竹膜を隔つ等云云。

迹本事理の三千殊なりと雖も通じて理の一念三千と名づく、故に竹膜を隔つと云うなり。是れ則ち文底独一本門事の一念三千に望めるが故なり云云。

問う、文底独一本門を事の一念三千と名づくる意如何。

答えて云わく、是れ唯密の義なりと雖も今一言を以って之れを示さん、所謂人法体一の故なり。

問う、証文如何。

答う、且く一文を引かん、仰いで之れを信ずべし。

御義口伝に云わく、自受用身即一念三千。

伝教の云わく、一念三千即自受用身云云。

御相伝に云わく、明星が池を見たもうに日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり云云。

本尊抄に云わく、一念三千即自受用身云云。

報恩抄に云わく、自受用身即一念三千云云。

問う、本尊・報恩両抄の中に未だ此の文を見ざるは如何。

答う、是れ盲者の過にして日月には非ず云云。応に知るべし、一代の諸経は但是れ四重なり、所謂爾前・迹門・本門・文底なり。此の四重に就いて三重の秘伝あるなり。謂わく、爾前は未だ一念三千を明かさず、故に当分と名づけ、迹門は即ち一念三千を明かす、故に跨節と名づく。此れは是れ権実相対第一の法門なり。迹門に一念三千を明かすと雖も未だ発迹顕本せざれば、是れ真の一念三千に非ず、故に当分と名づく。正しく本門に真の十界互具、百界千如、一念三千を明かす、故に跨節と名づく。此れは是れ本迹相対第二の法門なり。脱益の本門文上に真の一念三千を明かすと雖も、猶お是れ理の上の法相、迹の中の本なるが故に通じて理の一念三千に属す、故に当分と名づく。但文底下種、独一本門、事の一念三千のみを以って跨節と名づく、此れは是れ種脱相対第三の法門なり。学者若し此の旨を得ば釈尊一代五十年の勝劣、蓮祖の諸抄四十巻の元意、掌中の菓の如く了々分明ならん。

第九に正像未弘の所以を示すとは、

文に云わく、龍樹・天親は知って而も弘めたまわず、但我が天台智者のみ之れを懐けり文。

文を分かって二となす、初めに通じて三種を結し、次ぎに但の下は別して第三を結するなり。初めに通じて結するとは、龍樹・天親内鑒冷然なりと雖も而も外適時宜の故に正法千年の間三種倶に之れを弘めざるなり。故に本尊抄に云わく、問う、龍樹・天親は如何。答う、此等の聖人は知って之れを言わず、或は迹門の一分之れを宣べて本門と観心とを云わずと云云。龍樹・天親は三種倶に之れを弘めず、故に言わずと云うなり。然りと雖も若し迹門に於いては一念三千を宣べずと雖も或は自余の法門を宣ぶ、故に一分之れを宣ぶと云うなり。若し本門と観心とに於いては一向に之れを宣べざる故に云わずと云うなり。本門と言うは即ち是れ第二なり、観心と言うは即ち是れ第三なり、文底は本是れ直達正観なるが故なり。

別して結すとは、天台は但第一第二を宣べて而も第三を宣べず、故に之れを懐くと云うなり。

問う、天台は即ち是れ迹門の導師なり、故に但迹門の理の一念三千を宣ぶ、故に治病抄に云わく、一念三千の観法に二つあり、天台・伝教の御時は理なり、今の時は事なり、彼は迹門の一念三千、是れは本門の一念三千、天地遥かに異なり云云。既に彼は迹門理の一念三千と云う。故に知んぬ、但第一を宣べて第二を宣べず、何んぞ第一第二を宣ぶと云うや。

答う、大師仍お第一第二を宣ぶるなり、若し第二を宣べざれば則ち一念三千其の義を尽くさざる故なり。

十章抄に云わく、止観に十章あり、大意より方便までの六重は前の四巻に限る、此れは妙解迹門の意を宣べたり、第七の正観十境十乗観法は本門の意なり、一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る略抄。但像法迹門の導師なるが故に第一を面となし第二を裏となすなり。故に本尊抄に云わく、像法の中末に観音・薬王は南岳・天台と示現し、迹門を以って面と為し、本門を以って裏となす、百界千如、一念三千其の義を尽くすと雖も但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊未だ広く之れを行なわず等云云。若し治病抄の文は、今日迹本二門面裏異なりと雖も通じて迹門理の一念三千と名づくるなり。

故に本因妙抄に云わく、脱益の法華経は本迹倶に迹なり等云云。

本尊抄に云わく、迹を以って面となし、本を以って裏となす、一念三千其の義を尽くすと雖も但理具を論ずる等云云、

但論理具の文、天台・伝教の御時は理なりの文、之れを思い合わすべし、

故に知んぬ、彼は迹門の一念三千と云うは面裏の迹本倶に迹門と名づくるなり云云。

若し爾れば天台は第一第二を宣ぶること文義分明なり、而も未だ第三を弘めず、

故に本尊抄に云わく、事行の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊未だ広く之れを行なわず等云云。

問う、天台、第三を弘めざる所以は如何。

答う、大田抄に云わく、一には自身堪えざる故に、二には所被の機なきが故に、三には仏より譲りあたえざるが故に、四には時来たらざるが故に云云。

第十に末法流布の大白法を示すとは、

問う、正像未弘を結する其の元意如何。

答う、此れ即ち末法流布を顕わさんが為めなり、今且く前の四故に対し更に末法の四故を明かす。

第一に自身能堪の故に、

本尊抄に云わく、観音・薬王等又爾前迹門の菩薩にして本法所持の人に非ず、末法の弘法に足らざる者か云云、

本化の菩薩は既に本法所持の人なり、故に末法の弘法に堪ゆるなり。

御義口伝上終に云わく、此の四菩薩は本法所持の人なり、本法とは南無妙法蓮華経なり云云。

太田抄に云わく、地涌千界末法の衆生を利益すること猶お魚の水に練れ鳥の虚空に自在なるが如し云云。

第二に所被の機縁に由るが故に、

立正観抄に云わく、天台弘通の所化の機は在世帯権の円機の如し、本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり云云。

熟脱に渡らず直に下種の機縁なり、故に直機と云うなり。寧ろ文底の大法を授けざらんや。

第三に仏より譲り与うるが故に、

本尊抄に云わく、所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以って授与すべからず、末法の初めは謗法の国悪機なるが故に之れを止め、地涌千界の大菩薩を召し寿量品の肝心妙法蓮華経の五字を以って授与せしむるなり云云。

血脈抄に云わく、我が内証の寿量品とは文底本因妙の事なり云云。

問う、仏、迹化他方を止むる証文は如何。

答う、即ち是れ涌出品の、止善男子の文是れなり、此の文但他方のみを止むるに似たりと雖も義意は即ち亦迹化を止むるなり、古抄の中種々の義ありと雖も之れを挙ぐるに遑あらず、故に且く之れを略す

問う、仏、迹化他方を止めて但本化を召す所以如何。

答う、天台已に前三後三の六釈を作り、之れを会して末法に譲る、仍お未だ明了ならず。故に今謹んで他方本化の前三後三、迹化本化の前三後三の十二の釈を作り分明に之れを会せん。

問う、此の義前代未聞なり、若し明証無くんば誰人か之れを信ぜんや。

答う、今一一に文を引かん、何んぞ吾が言を加えんや。

問う、若し爾れば他方本化の前三後三の其の文如何。答えて曰わく、

一には他方は釈尊の直弟に非ざるが故に、嘉祥大師の義疏第十の巻に云わく、他方は釈迦の所化に非ず等云云。

二には他方は任国不同の故に、天台大師文の九に云わく、他方は各々自ら己が任あり、若し此土に住せば彼の利益を廃せん等云云。

三には他方は結縁の事浅きが故に、

天台大師又云わく、他方は此土に結縁の事浅し、宣授せんと欲すと雖も必ず巨益なからん云云。

一には本化は釈尊の直弟なるが故に、天台云わく、是れ我が弟子応に我が法を弘むべし文。

二には本化は常に此土に住するが故に、

経に曰わく云云、

太田抄に云わく、地涌千界は娑婆世界に住すること多塵劫なり云云。

三には本化は結縁の事深きが故に、

天台云わく、縁深広なるを以って能く此土に遍じて益す等云云。

他方と本化との前三後三畢んぬ。

問う、迹化と本化との前三後三其の文如何。答えて曰わく、

一には迹化は釈尊初発心の弟子に非ざるが故に、太田抄に云わく、迹化の大衆は釈尊の初発心の弟子に非ず等云云。

二には迹化は功を積むこと浅きが故に、

新池抄に云わく、観音・薬王等智慧美じく覚ある人々なりと雖も、法華経を学ぶの日浅く末代の大難忍び難かるべし、故に之れを止む等云云略抄。

三には迹化は末法の利生応に少なかるべきが故に、

初心成仏抄に云わく、観音・薬王等は上古の様に利生有るまじきなり、されば、当世の祈りを御覧ぜよ、一切叶わざる者なり等云云略抄。

一には本化は釈尊初発心の弟子なるが故に、

観心本尊抄に云わく、地涌千界は釈尊初発心の弟子なり等云云。

二には本化は功を積むこと深きが故に、

下山抄に云わく、五百塵点劫より一向に本門寿量の肝心を修行し習いたもう上行菩薩なり等云云。

三には本化は末法の利生応に盛んなるべきが故に、

初心成仏抄に云わく、当時は法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まり利生得益あるべし、上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり等云云。

迹化本化の前三後三の明文見るべし。

第四には時已に来たるが故に、

経に曰わく、後の五百歳の中に広宣流布す云云、

撰時抄云云、

当体義抄に云わく、凡そ妙法五字は末法流布の大白法なり、地涌千界の大士の付嘱なり、是の故に天台・伝教は内鑒して而も末法の導師に之れを譲りて弘通したまわざるなり。

畢んぬ

享保十乙巳三月上旬大石の大坊に於いて之れを書す

                     六十一歳

                     日 寛(花押)


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