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太鼓持ちの発生と歴史の流れ

(C)お座敷遊びと太鼓持ちの繁栄江戸時代/1603年〜

 

 


 

 

 やがて日本を平定した武士の頭領徳川家康(とくがわいえやす)様(1542〜1616)が1603年江戸幕府を開く事で、政治の中心が上方(現在の京都・大阪)から江戸(現在の東京)へ移ってまいりますが、まだまだ文化は50代桓武天皇(かんむてんのう)様が794年に平安京(へいあんきょう/現在の京都)に都を造られてから、依然として天皇様や貴族の居られる京都が中心でございました。

 1603年、出雲大社の巫女だったと言われる出雲阿国(いずもおくに)様は、「時宗(じしゅう)」の「念仏踊り」からヒントを得て、非常識で派手で異様な振るまいの「傾く(かぶく)」踊りを京都四条河原で行い流行ったのが現在の歌舞伎の原形ですし、大名お抱えのお側同朋衆であった「お伽衆(おとぎしゅう)」とか「話衆(はなししゅう)」は平穏な時代になりますと総合判断やアドバイスから楽しさへと需要は変化して行き、面白いお話を求めて京都でネタ収集をされておりましたし、市井にも降りて色里で上流階級のお客様のお相手もされた様で、京都誓願寺(せいがんじ)55代法主(ほっす/管長)の安楽庵策伝(あんらくあんさくでん/1554〜1642)様が笑い話千余りをまとめられた「醒睡笑(せいすいしょう)」を書かれ、落語や太鼓持ちの元祖とも言われております。

 江戸初期に三味線(弦楽器)文化が入ってから遊女の中から芸者が生まれました。それまでは「芸者」(芸をする者なので芸者と言います)と言えば太鼓持ち(幇間/ほうかん)の事だってので、初めの頃は女性が芸事をするので男の太鼓持ちと区別する為に「女芸者」と言っておりました(今では逆転して芸者と言えば女性で、男で芸をする者は「男芸者」と太鼓持ちは言われてます)。

 特に徳川幕府の江戸(現在の東京)の地の最初は小さな村だった所ですから、武士政治の中心になってからは諸国大名達の居住地にもなり、町を造る為に全国から出稼ぎ労働者の男性が大勢集り、そのお相手をする遊女や芸者や太鼓持ちの需要が高まって参りましたし、全国各地から知らない人達の集った江戸ですから、企業としても宣伝が必要となり、特にミカン船で財をなした材木商の紀国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)様のお遊びは今でも伝えられておりますが、それらを立案し企画実行してお客様をご接待した裏方全体を統括し、お座敷で盛り上げて楽しい遊びにしてお客様に満足いただける様に調整していたのが、元大名のお抱えだった太鼓持ちとも言われておりまして、その当時の太鼓持ちを「無官の太夫(むかんのたゆう)」、今の会社で言う所の営業販売促進企画部長て〜所ですが、実際には肩書きは無いので無官ですが、ご宴会の企画実行から最後の宣伝まで全部委託されており、最上位の遊女や芸事の長に付けられる官位「五位(ごい)」の名称の「太夫」でも有るので、この様に呼ばれた事もございます。

 

 



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