生江氏の関わる話ー生江氏は何処から来たのか
生江一族は何処から来たのか
8世紀には栄華を極めた生江一族ですが、その出自は何処にあるのでしょうか。現時点では、証拠となる書物や出土品は有りませんが、残されたもので推測してみます。酒生用水の元の名称である左近用水を開発したのは左近長者とされていますが、この左近長者が生江一族だった可能性が高いと言われています。
当時、氾濫が多かった生江川(現在の足羽川)から酒生用水を引き、現在の酒生地区、岡保地区、和田地区の広い平野を稲作可能な場所にするには、卓越した見識と資金力と指導力が必要とされます。
さらには、7世紀後半には建立された篠尾廃寺(一説には篠尾大総持寺)は、奈良の法隆寺と同等なくらいの大きな規模の寺院であったとされます。この時期は、大和でさえもこれだけの規模の建物はそう多くはなく、越前でこれだけ大規模な建築物を建立するには、トップレベルの建築技術と膨大な資金、それに大和との密接なつながりがあったはずです。
また、奈良の東大寺を建立するにあたり、足羽郡から益田の縄手という大工(棟梁)を輩出しています。当時、日本一ともいえる東大寺の建物を建立のはそう簡単ではありません。これらから推測されるのは、益田縄手を含めた生江一族が渡来人として高い農業技術と建築技術、さらには資金を持って越前に住み付いたと考えるのが自然です。
篠尾町には左近長者は出雲からやって来たという言い伝えが残っています。また、高尾と篠尾の間に出雲谷という地名も残っています。生江一族が、半島から出雲経由で越前へ来たとも考えられます。
しかしながら、生江氏は奈良の東大寺と密接なつながりを持っていたこと。さらには、生江氏の拠点と言われる和田中の和田八幡宮が大阪にある摂津の住吉神社と深いつながりを持っていたという事実があります。出雲から福井へ居付いたとすれば、これだけ大和との深い関係を築くことはできなかったのではないかと推測されます。
生江氏が越前にやって来た時期についてははっきりしません。300にも上る酒生古墳群の持ち主が生江一族のものか、あるいは、それより先に居た地方豪族を押さえつけて、各種事業を行ったのか、生江一族が先の地方豪族と入れ替わったのなら、先の豪族は何処へ消えたのかそれも疑問が残ります。現時点では知る術は有りません。
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