生江氏の関わる話ー生江氏の活躍範囲とその時期


生江一族の活躍範囲とその時期

 生江氏が最初に出てくるのは、681年の飛鳥京出土簡削に残っていた「生江臣」の文字でした。最後は、1016年の右大臣藤原の実資の日記「小右記」に出てくる生江為良です。730年から770年頃が生江の名が登場する一番多い時期になります。

 地域で言えば、一番多いのはやはり越前国で36名、大和5名、尾張国1名、山背国1名、佐渡1名となります。越前国の中では足羽郡27名、今立2名、大野郡2名、不明5名だそうです。

 古文書に出てくる生江氏を列挙すれば、生江臣積多丹生郡司主政〈731年〉、生江臣氏緒今立郡司大領(866年)、生江臣金弓大野郡司大領(731年)、生江臣東人足羽郡大領(755年)・造東大寺司史生・墾田100町を東大寺へ寄付、生江臣古麻呂東大寺産業所に関係(758年)、生江臣国立足羽郡司少領(759年)、生江臣安麻呂足羽郡司大領(766年)、生江臣長浜足羽郡目代(767年)、生江臣息嶋足羽郡司目代(767年)・東大寺使、生江臣村人東大寺使(767年)、生江民麻呂梶取(759年)等と名が続きます。

 ところで、生江氏の生活の根拠とされる場所は何処だったのか。先ほどの足羽郡内での生江氏の名は江下郷が5名で最大になります。岡本郷1名、日理郷、中之郷、小名郷が各2名となります。生江氏の拠点が江下郷、今の和田中付近とされる根拠の一つです。

 現在の酒生用水は酒生地区の成願寺町にて二手に分かれ、1つは上江用水となり酒生の一部と岡保地区の田を潤します。もう一つは、下江用水となり酒生と岡保の一部、それに和田地区の田を潤しています。この上江用水と下江用水の範囲が、生江上里と生江下里、そして江上郷と江下郷と呼ばれるようになったとされています。つまり、酒生用水の流れる地域、岡保地区と一部の酒生付近が江上郷、和田地区と岡保の一部が江下郷であったと想定されるそうです。




生江一族は何処へ消えたのか

歴史あれこれの目次へ戻る