神武東征と二人の建国者
神武東征とは、神武天皇が3人の兄と共に日向の高千穂に住んでいたが、東に都に丁度良い土地があると知り船軍を率いて出発した。このときの神武は45歳であった。神武と兄達は大分県の宇佐宮、筑紫を経て瀬戸内海を進み、広島県の安芸に7年滞在した。その後、岡山の吉備に8年留まって船と兵糧を蓄え、東へ向った。国津神の椎根津彦(しいねつひこ)に出会い、道案内を頼む。
一行は難波から生駒山を越えて大和へ入ろうとするが、この地を支配する長髄彦(ながすねひこ)の軍勢が立ちふさがり敗れる。神武は「天照大神の子孫が日の昇る東へ行進したことは天の意志に逆らう」と、紀伊の熊野を経由して大和へ入ろうとした。だが、苦戦が続き3人の兄は次々の命を落とした。
事態を心配した天照大神は、宝剣・布都御魂(ふつのみたま)と道案内としてヤタガラスを神武に送った。神武は勢いを取り戻し大和へ進軍。抵抗する長髄彦や諸豪族を倒し大和を平定した。これが、よく知られている神武天皇東征である。
神武東征後、欠史8代と呼ばれる8人の天皇が続き、その後と第10代の崇神天皇が皇位につく。崇神天皇は日本書紀に詳しく業績が載っており、実在すると考えられている。神武天皇は国の最初の天皇と言う意味の「はつくにしらずすめらみこと」の別名を持つ。不思議なことに崇神天皇にも同じ「はつくにしらすめらみこと」の別名がある。
一方、 周王朝(西周)では、姫発(後の武王)は殷と対立し、2度の戦いで殷を滅ぼした。その後、8代の王が続いたが、9,10代目の王が悪政をし共和制となる。11代の王も追放された。12代目の平王が再び統一し、遷都して東周を建国した。9代から11代の周の王は日本の神話にするには都合が悪いので、記録から消した。
西周の初代の武王が日本の初代の神武天皇のモデルとされ、再び周を復活させた12代目の平王が日本の10代目の崇神天皇のモデルと考えられている。日本の神武東征の基本的なストーリーと、古代中国の西周、東周の建国の歴史が酷似していることは、どういうことなのだろう。何らかの繋がりを感じざるを得ない。。