渡来人とはいったい誰
古代に日本に渡ってきた人たちを渡来人と呼んでいます。もともと住んでいたのは縄文の人達ですが、そこへ渡来人達は何回にも分かれてこの日本へやってきました。でも、この渡来人とは一体どんな人達だったのでしょう。
第1陣として
最初にやってきたのはメソポタミア南部を紀元前1800年頃に追われた人達でした。アムル人、エラム人、シュメール人の三民族共存集団がハムラビ王に追われてシュメールの地を出ました。本来は遊牧民であるため、日本人が考えるほど移動が苦にはならなかったのかも知れません。
大陸を東へ移動して、カラス民族、カイラス山などの痕跡を残して中国にたどり着き、殷(商)を建国したようです。メソポタミア起源の高度な青銅技術や、クサビ文字から変形した甲骨文字を持ち込み中国文明の基礎を作りました。周に紀元前1046年に敗れて、その末裔が日本へ渡来人の第一陣としてやってきたようです。氏で言えば加茂氏(司祭)や忌部氏とされています。
第2陣として
その次はエジプト第18王朝とも関わりがあったアムル人(ヤマアド人)達。エジプトを出てカナン北部にて生活していましたが、紀元前1200年頃地中海から進入した海の民に追われて、東方へ移動します。インドのほか中国へたどり着き、殷を倒して紀元前1100年から1000年頃に周を建国します。700年のときを経て、紀元前250年頃に秦に敗れ、主に新羅などを経由して日本へやってきます。氏では物部氏(軍事防衛)海部氏(司祭)であり、ヤマト王権の祖先もこの中に含まれます。日本書紀を編纂させた天武天皇は海部氏とされています。
第3陣として
パルティア帝国のペルシャ人(エラム人)が百済(ペクチャ)を経由して1世紀以降にやってきます。他にも、中国や朝鮮の文化圏において育まれたイスラエル系のユダ族である秦氏が百済から渡来してきました。秦の末裔とも言われ、絹織物、土木技術、砂鉄や銅の採鉱や精錬、薬草技術に長けていました。聖徳太子の片腕だった秦河勝は秦氏とされています。
こうして、日本にやってきた3陣の渡来人たちは、日本で複雑に混ざり合い日本独自の文化を育んでいきます。