邪馬台国徳島説

 3世紀に存在したとされる邪馬台国はどこに存在したのだろう。畿内説や九州説、そのほかにも幾多の候補地があるが、最近話題に上がっている四国の徳島説を考えて見たい。魏志倭人伝に書かれている邪馬台国はそれなりの人口を持っていたはずである。これだけの人口を養うには、山の上や小さな島では不可能であり、広い面積の耕作地と水源が必要であろう。さらには、国はある日突然に発生するわけではないので、縄文や弥生時代からつながりも必要である。四国の徳島は、これらの条件を満たしているが、ここで、魏志倭人伝で述べられている事柄を検討してみることにする。

 魏志倭人伝の内容から、福岡県の不弥国から南へ水行20日で投馬国へ到達する。これは、愛媛県宇和島市受南町を投馬国として、水行10日は高知沖を黒潮に乗って徳島まで到達する期間。又は、山道で四万十、高知、大歩危小歩危、吉野川と通って1ヶ月で徳島へ至る。これは、おおむね合っている。

 海上の島で一周は5千余里、約400キロとある。四国は、約700キロであり、当時の距離の誤差を考えれば、ほぼ同じ。

 女王国から1000里(75キロ)東へ海を渡るとまた倭の国になる。現在の和歌山や奈良盆地は丁度この位置になる。

 ショウガ、山椒、ミョウガの産地である。現在は高知県がこれらの産地である。邪馬台国が国家連合体であり、中心に女王国があったとすると、高知県はその圏内になる。

 真珠や青玉を産出する。真珠は徳島県で産出している。青玉は徳島県の産出している緑泥片岩のことで、徳島城の城壁に使用されている。

 水銀丹が採れた。徳島県阿南市の若杉山辰砂採掘遺跡は当時では唯一の水銀採掘遺跡である。朱丹を体に塗っている。徳島県鶴島2号墳からは朱色に染まった人骨が出ている。

 邪馬台国の周辺にあったとされる20数国のうち、少なくとも8カ国(都支国、弥奴国、蘇奴国、鬼国、鬼奴国、邪馬国、鳥奴国、奴国)が現在の地名と比定できる。

 徳島県の矢野遺跡は100戸以上の竪穴住居跡が出ており、これは西日本最大級。萩原墳墓群は3世紀前半であり、これは日本最古の古墳になる。卑弥呼の死没は240年から246年であり、ほぼ重なる。

 現代に目を向ければ、天皇の即位時に催される大嘗祭に届けられる食材は、太古から大正期まで、新鮮な魚介類は紀伊から、その他のすべては阿波から届けられていたという。

 新天皇が着る鹿服(アラタエ)は麻で作られた反物であるが、古来より剣山山麓の阿波忌部の当主三木家が畑で作って、天皇家へ届けている。

 阿波には多くの元宮が存在する。橿原神社、鴨神社、下加茂神社、住吉神社、大山※神社、天岩戸神社、秋葉神社、勝浦神社、熊野神社、八幡神社、大倭国玉神社、出雲神社、諏訪神社、八倉比売神社など。全国の主要神社は阿波から出たと推定される。

 卑弥呼の墓とされているまき向遺跡には水田跡や住居跡、環濠がなく、人が定住していた形跡が無い。四国の徳島で熟成されたヤマト王権が、ある時期に畿内へ移動したと考えれば、様々な事柄の説明がつく。

「阿波風土記」の闇

 阿波出身の国学者小杉すぎむらは幕末から明治に活躍し「阿波国徴古雑抄」を出す。明治5年に「阿波古風土記考証」を出版するも、明治政府によって回収される。当時蜂須賀家と徳川家にあった「阿波風土記」原本も所在不明となっている。明治政府が問題視して回収したとされる。

 阿波出身の国学者池辺真榛は延喜式の研究を行い、自分の故郷である阿波国が日本のルーツだと確信する。その後、池辺は阿波藩政を非難したとして、文久3年1863年、明治維新の4年前に身柄を拘束され、不振な死を遂げている。

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謎多き継体天皇

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