疑問の多い継体天皇
継体天皇には分からないことが多い。なぜ、天皇家との血縁が薄く(4親等以上はなれ傍系)畿内から遠い越前(古事記では近江から)の継体天皇が天皇になりえたか。なぜ、即位してから畿内へ入るのに19年もの年月がかかったのか。誰もが疑問を持つだろう。
この疑問を解決する一つの説がある。男大迹王(をほどのおおきみ)(後の継体天皇)は応神天皇の5世の來孫、父彦主人と母振媛の間に生まれるが、父が若くして亡くなったため母の実家(越前国丸岡の高向)で育てられた。58歳で即位するが、大人になってから越前に住んでいたのか近江の高島に住んでいたかは定かではない。
記紀では、506年残忍とされる武列天皇が崩御する。丹波の亀岡市にいた倭彦王に天皇を依頼するが、恐れて隠れてしまった。そのため、越前の男大迹王(をほどのおおきみ)に天皇を依頼したと記されている。
これは、前任者を悪者にし、その後の皇位継承を正当化するのは古代中国からの常套手段であったようだ。
当時、男大迹王(をほどのおおきみ)は息長一族であり、15代応神天皇の子の系譜で三国を中心に日本海側に大勢力を持っていた。松岡古墳群は大型前方後円墳を含む50基の墳墓があり、日本海だけでなく、琵琶湖、淀川推計、西日本の日本海側の広大な面積の覇権を握っていた可能性があり、大和に負けないくらいの大王であった。
この時期、筑紫大王、磐井氏は九州、山口県を納める大王で、朝鮮半島とつながり、大和政権と対立する関係になっていた。この磐井氏を抑えるために、畿内の大和王権が、対抗できる力を持つ継体天皇に話を持って言った可能性がある。磐井氏は朝鮮半島とつがなりがあり、海上交通にも長けていた。畿内の大和政権は水運には不慣れで、船を使った戦いは得意ではなかったと考えられる。
男大迹王(をほどのおおきみ)は58歳で即位するが、当時の寿命から見ればかなりの高齢だったはず。磐井氏との戦いに必要な経済力や長年の経験が大和王権に見込まれたのかも知れない。 継体天皇は皇位継承後、自分の勢力下にあった淀川沿いに宮を変え、磐井氏との戦いのために19年を費やした。その数は船が1000隻、6万の兵とも言われる。
準備が整った526年、畿内の桜井市に入り、翌年には九州の筑紫君・磐井氏と戦いを交えこれを鎮圧する。4年後の531年、82歳にて崩御する。 このように考えると、2つの謎が解けてくるような気がする。継体天皇以後はばらばらだった国内の豪族勢力が、大和政権の下にまとまったとされている。
継体天皇の継体とは天皇の血を繋いだ天皇という意味という。
年表
507年、58歳にて河内国障草宮(大阪府枚方市)にて即位する。
511年、筒城宮(京都府京田辺市)に移る
518年、弟国宮(京都府長岡市)に移る
526年、磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に移る
527年、筑紫君・磐井の乱が起こり鎮圧する。
531年、崩御、今城塚古墳に埋葬される。