日本人のルーツを考えるー大陸に残る足跡



第3話 大陸に残る足跡

 前20世紀ごろ、中国の最古の夏王朝の頃に、九夷と呼ばれた異国人の存在がありました。それは、?夷(けんい)、干夷、方夷、黄夷、赤夷、白夷、玄夷、風夷、陽夷の9部族からなっていたといいます。ちなみに、シュメール人は前21世紀ごろ、アモリ人によって征服され突如消えていますが、文化的な特徴がこのシュメールやイスラエルと類似していたとされています。
 
 この九夷は殷時代の前17世紀から前11世紀に中国東部でその数を増やし、東夷と呼ばれるようになりました。
東夷人の特長は「酒を飲み、歌舞をすることが好き。時には冠をかぶって錦の着物を着て、祭壇にお供え物をして儀式をした。一般に穏やかに行動し、心を慎むことを慣習としている。衣服については、一般の服装と礼服が兼ねており、儒教の経典を学ぶのが好きで、文学や史書を愛読する」とあります。まるで、現在の日本人に相通じるものがあるようにも思います。東夷は、前8世紀から前6世紀には大勢のイスラエル難民と合流し、一大勢力となっていきました。

 紀元前770年に周が東西に分裂してからは、春秋戦国時代とよばれる混乱の時代が始まります。一説には、中東からの大量の難民によって、国の経済や治安が混乱し、春秋時代になったとも言います。この時代に、孔子、老子、荘子、墨子、孟子などの諸子百家と呼ばれる思想家が輩出します。以後の中国に大きな影響を与えた人たちですが、彼らの多くがイスラエル系であったといいます。顔つきは西アジア特有の顔ですし、体格は2mちかくあったようです。これらはこの時代を過ぎると、ピークを過ぎて消えていきます。

 この春秋時代を含め、前789年から前206年までは、黄河西部に秦という国が存在します。出自ははっきりしないとされていますが、かの始皇帝が前259年に史上初めて中国を統一します。部族が土地を所有する封建制から、国が所有する郡県制に。貨幣や計量単位を統一したり、交通規制制度を制定したりしました。万里の長城や兵馬俑で知られる始皇帝陵の建設もします。法による統治など、今までにない先進的な事業を行いました。

 始皇帝は49歳で亡くなりましたが、長寿なら5帝にも入れられるとも言います。辰韓の人達は、この秦の末裔とも言われています。この秦が206年に滅びてからは、先ほどの東夷は朝鮮半島を中心とした地域を指すようになったようです。

 それとは別に、前7世紀には河北省から吉林省の西部にワイハクと呼ばれる国が存在しました。前4世紀から494年まで、同じく中国東北部には扶余という国が存在しました。双方とも、イスラエル文化と類似した文化を持ち、扶余では自らを亡命者と呼んでいたそうです。扶余は、3世紀ごろには弱体化し、朝鮮半島の3韓、馬韓、弁韓、辰韓(秦韓)に勢力を移しました。

 特に辰韓(秦韓とも書く)は時期的には紀元前2世紀から356年まで存在し、その後は、新羅になりました。自ら中国の秦の末裔とも言い、苦役を避けて韓国に来たと言ったということです。「辰韓人の言語は秦人に類似しており、穀物と稲を育て養蚕を生業としていた」と中国の記録にあるといいます。
新羅からだけではなく高句麗や百済からも、3世紀から7世紀ぐらいまでの間、切れ目なく大量の移民となって日本へ渡来することになります。

 話は現代に戻りますが、皆さんはキルギスという国をご存知でしょうか。ソビエト連邦の時にはキルギスタンと呼ばれていましたが、今は独立してキルギスと言う国になっています。人口は590万人、面積は日本の半分ぐらいです。このキルギス人の顔つきが日本人そっくりと言われています。コマ回しや凧揚げの習慣もあるそうです。キルギスの言い伝えに「昔、エニセイ川流域に住んでいた人たちが移動して、魚の好きな人たちは東の海へ行き日本人になった。肉の好きな人たちは西の高原に移動してキルギス人になった」と言うのがあるそうです。キルギスの存在も、古代イスラエルの部族が東へ移動したという痕跡の一つになるのでしょうか。

 シルクロードとは地中海諸国と中国との間の歴史的な交易路であり、2014年にはユネスコの世界遺産に登録されています。欧州側の起点は地中海に面するトルコ南部のアンテオキアであり、東の起点は中国の西安とされていますが、一説には日本が東端とも言われています。
 モンゴルやカザフスタンの草原を通る「草原の道」はもっとも古い交易路であり、スキタイ、匈奴、突厥などの遊牧民も東西の文化交流を担っていたようです。「オアシスの道」と呼ばれる天山北路、天山南路、西域南路は天山山脈やタリム盆地の周辺を通る道で、中国の敦煌は東の玄関口であり、キルギスを通って黒海の南を通り地中海に出ます。

 さらには「海の道」として、中国福建省泉州市(台湾の対面)を起点として、東シナ海、南シナ海、インド洋、インド、アラビア半島を通る海道もありました。
 これらのシルクロードは、中国からは絹製品などを運ぶ交易路として栄えました。日本の奈良の正倉院にも中国製の他にペルシャ製の宝物が数多く残されています。

 地中海と中国を結ぶシルクロードですが、シュメール人や古代イスラエルの大量の人達が東へ移動した痕跡であり、そのルートを交易路としてのちの人達が利用したとも考えられています。

 日本列島へは、海路を使って割合早く日本に辿り着いたグループと、陸路を中国や朝鮮の文化を取り入れながら、苦労の末に辿り着いたグループがありました。船を使った早いグループでも数十年かかり、陸路を使った遅いグループは何百年もかけて遥か遠い東の島々へたどり着きました。
祖国を追われた古代イスラエルの人達が、預言で示された自分らの理想国としての日本列島に辿り着き、それぞれが部族となり日本各地に住み始めました。弥生人と呼ばれる渡来人の多くが、彼らだったというのが実情のようです。

 弥生時代前期である紀元前3世紀ころから、古墳時代を経て奈良時代にいたるまで、絶えることなく牛の涎のごとくにこの日本に渡来人としてやってきました。大量の渡来人を抜きには、縄文晩期の8万人から奈良時代の500万人近くにまで急激な人口増加を説明できないと言います。

 北海道の民謡でソーラン節をご存知ですか。ニシンが大量に採れて大いににぎわった時期もあったようですが、そのソーラン節の歌詞は
「ヤーレン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン ソーラン ハイハイ。沖のカモメに潮どき問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ ヤサエエンヤサンサノ ドッコイショ。」となります。

 「ヤーレン」は喜び歌う。「ソーラン」は1人で歌う者 「チョイ」は行進する、「ヤサ・エンヤン」はまっすぐ進む 「サ」は嵐 「ノ・ドッコイショ」の「ノ」は願う、「ドッコイショ」は神の力で押しのける」の意味になります。「私は1人で喜び歌います。嵐の中でも神の力でまっすぐ進みます。」のような意味で、古代のイスラエル人が苦労の末に海を渡って日本で来た時に、船の漕ぎ手が歌ってきたのでしょうか。

神々が集ったとされる高天ヶ原の話

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