日本人のルーツを考えるー謎の邪馬台国と卑弥呼姫


「余話2」 謎の邪馬台国と卑弥呼姫

 邪馬台国とは2世紀から3世紀に日本列島に存在した国である。7万戸の人々が女王卑弥呼のもとで暮らしていたとされる。日本には記録が無く、中国の西晋(265年〜316年)の陳寿という人により書かれた「三国志」の東夷伝の倭人の部分に記されている。

 魏志倭人伝とは、「三国志」の中の「魏書」第30巻の東夷伝倭人条の略称です。その邪馬台国の暮らしぶりを魏志倭人伝より拾い上げてみることにします。
 当時の男子は、大人も子供も体に入れ墨を入れていました。諸国(その頃の国はちょっとした集落集団のようなもの)によって左であったり右であったり、あるいは小さかったり大きかったりしました。また、身分によっても違ったと言います。

 風俗はみだらではなく、男は結った髪を露出し、木綿で頭に括りつけていました。着物は横幅があり、結びつけているだけでほとんど縫ってありませんでした。女性はおでこを髪で覆い、折り曲げて結っていました。上敷きのような衣を作り、中央に穴をあけて着ていました。
 稲を栽培するとともに養蚕をしており、紡いで目の細かい布や絹を作っていたようです。牛、馬、羊などの家畜はいないと書かれています。

 気候は温暖で冬でも夏でも生野菜を食しており、皆裸足で生活していました。屋根や部屋がある住居で、父母と兄弟は別の場所で寝たり休憩をしたりしていました。食事は竹などで編んだ高坏や木をくりぬいた高坏に食材を盛り、手づかみで食べていたようです。
 人が死ぬと、「かりもがり」といって10数日間は埋葬せずに置きました。その間は、肉を食べずに、喪主は泣き叫び、その他の人は歌い踊って酒を飲みました。埋葬が終わると一家そろって水中に入り、洗ったり浴びたりしました。現代で言えば身を清めるという意味でしょうか。

 海を渡る大きな旅をする場合は、ジサイと呼ぶ人が髪も梳かずシラミも取らず、衣服は垢で汚したまま肉も食べず女性も近づかず、喪中のような生活をしました。無事に目的地に着いたなら生口や財物を対価として与えるが、病気になったり危険な目に合ったりしたら命を取ったという。それは、ジサイが慎しまなかったからだと言うらしい。

 気がかりことや、何かを知りたいときは骨を焼いて、吉凶を占ったという。会合での立ち振る舞いは、男女、父子の区別はなく、人は酒を好んだらしい。敬意を表す時は、ただ手をたたくのみ。長寿で100まで生きる人がいるし、80歳も90歳もいるという。

 大人は4から5人の妻を持ち、下戸でも2,3人の妻を持っていた。婦人は貞節で、嫉妬もしない。窃盗せず、訴えも少ない。法を犯すと、軽いものは妻子を没し、重いものはその一家や一族を没した。尊卑はそれぞれ差や序列があり、上の者に臣服して保たれている。

 下級階級のものが貴人に道で出会うと、後ずさりして草むらに入る。言葉を伝えたり物事の説明には、しゃがんだりひざまずいて両手を地面につけ、うやうやしく表現をする。貴人の返答は「あい」といった。
 女王国より以北にひとりの大率を置き検察し、諸国はこれを恐れている。常に伊都国で政務を執っている。国の出入りには伊都国の役人が港へ出向いて調査確認している。

 元々男子を王としていたが、7,80年後に国が乱れ攻撃し合っていた。一人の女子を共に立てて乱れが収まり、その名は卑弥呼といった。鬼道の祀りを行い、人々を惑わせた。高齢で夫はいない。侍女が千人いて自律的に働いていた。男子が一人いて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりしている。
 それでは、この邪馬台国は一体どこにあったのでしょうか。これも魏志倭人伝に詳しく書かれています。

「帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し韓国を通り過ぎ、北岸の狗邪韓国へ到達する。距離は七千里」。一里は短里で70メートルで計算します。7千里だと約490キロで、韓国の釜山の西の巨済島付近になります。

「海を渡り、千余里で対海国にいたる。絶海の孤島で400里四方。山が険しくて深い林が多く、千余戸の家がある」。これは、対馬になります。大きさや距離が合致します。

「南に海を渡り千余里。一大国に至る。300里四方で3000戸の家がある」。これは、壱岐にあたり、島の大きさも合います。

 「海を渡り、千余里。末盧国に至る。山と海すれすれに沿って住んでいる。魚やアワビを採ることが好きで、皆これを潜って採っている」。末盧国は福岡県の鐘崎、宗像市の海岸沿いの場所になります。ちなみにここは海女の発祥地とも言われています。伊都国での入国手続きのため、関門海峡を直接船で瀬戸内海にはいかず、一度九州へ上陸しました。

「東南に陸上を500里行くと伊都国に達する。千戸あまりあり、代々王がおり、女王国に従属している。郡の使者が往来し、常に足を止める所である」。伊都国は、今の福岡県の八幡製鉄がある場所です。東西の交通の便の要所でありました。

「東南に100里で奴国、東に100里で不弥国に至る」。不弥国は北九州市の東岸にあります。ここから、再び船に乗って瀬戸内海へ出ます。
「水行20日で投馬国に至る」。船で行く場合は、手漕ぎを基本にして、天候も考慮すれば、一日15キロぐらいだと言われます。水行20日だと300キロぐらいになります。

 それに、瀬戸内海は潮の流れが複雑で、小さな木造船では通りにくい場所です。当時は、国東半島をまわり、大分から佐田岬を通って四国沿いに移動するのが一番安全でした。投馬国は愛媛県の今治市にあたります。「とうま」はアイヌ語で二つの半島という意味だそうです。今治の手前には二つの半島があります。

 また、松山には古代の天皇が利用したとされる温泉があります。長旅の疲れをいやすため、ここの温泉を楽しみにして倭国までやってきたのでしょうか。
「水行10日、陸行ひと月で女王国に至る」。船で150キロ行って香川県の東端あたりで上陸し、剣山の麓へ入ったと想定されます。四国と言えば、高い山が多く、道なき道を剣山まで行くにはひと月ぐらいかかる可能性はあります。

 ここで、邪馬台国の姿を説明したいと思います。古代の中国、四国地方には高地集落が数多く存在しました。当時、遥か東の島々の日本列島を見つけ出しました。預言書の教えによって山々の頭としてそびえ立つ「主の神殿の山」を求めて、各地の山を上り詰め、その周辺に集落を作り続けました。イスラエル系の渡来人が訪れた四国や中国、近畿や中部に至るまで高地集落が広がりました。邪馬台国もその中の一つではなかったのかと考えられています。

 剣山の初めとして多く山々の頂付近には、いまでも不自然な笹薮が見られます。本来、森林が生い茂る場所であったはずの山腹を切り拓き、集落が存在した痕跡とみられます。それが、有るとき、第2波で渡来した大和を中心とした天孫族に非難され、その集落はすべて焼き払われたと考えられます。徳島県名西郡神山町神領高根にある悲願寺、同じく名西郡神山町には高野山真言宗の寺院四国八十八か所の十二番札所の焼山寺があります。その時の悲劇を伝えているのでしょうか。

 ちなみに、女王の国は東西に徒歩で5カ月、南北が3カ月とありますが、東西の比率は四国のそれと一致します。また、徳島を流れる吉野川はヘブライ語で「ヨシュア」「ナハー」で神の救いの川と言う意味だそうです。

天神山の縄文遺跡からへ

日本人のルーツを考えるの目次へ戻る