左近長者物語ー第1場面 奈良の東大寺前にて
第1場面 奈良の東大寺の前にて
ナレーション:
ここは、今から1250年ほどさかのぼった奈良の都です。西暦710年に聖武天皇が奈良の平城京へ都を移して、既に40年ほど経ちました。仏教は朝鮮半島の百済国から伝わってきましたが、国の隅々まで広がっている訳ではありませんでした。律令制度によって国を治めていましたが、中国や朝鮮の国からはまだまともな国として扱ってもらえなかったようです。。
聖武天皇はこれらを解決するため、国の1大事業として大仏殿を建てることを思いつきました。国の威信をかけて奈良の都に世界に誇れる巨大な大仏と大仏殿をつくることにしたのです。
742年、奈良の若草山のふもとで大仏の鋳造を始まりました。銅などの材料や技術が不足する中、8年後の大仏が完成しかけた頃、大仏殿の建築に掛かることになりました。
国では、この大仏殿の建設に伴う役所として造東大寺司をもうけました。この中の一人として、越前国足羽郡の生江臣東人が採用されました。
ここは、造東大寺司として仕事をする生江臣東人とその部下の安都雄足です。
東人:大仏を見上げながら「大きい大仏が出来たもんじゃのう。天皇様も大変な事業を始めたものじゃ。何とかして、完成させなくてはならないね。」
雄足:「東人殿、遠い越前国からこの奈良までさぞかし大変でしたでしょう。この大仏は、聖武天皇が国の威信をかけて作っているものです。何とかして、完成させたいものですね。」
東人:「そうだな。資金面でも大変だそうだ。国の予算だけでなく朝鮮半島から帰化した人たちから資金を得ていると聞いている。それだけでも足りないから、東大寺の荘園を広げて収入を上げる必要があるようじゃのう。」
雄足:「わたしもそう思います。」
東人:それに大仏を囲う大仏殿は今までに建てたことがないほど大きな建物になるはずだ。高い技術を持った大工でないと務まらないはず。ワシの地元で総持寺を建てたときの大工の家があるのだが、その息子の益田の縄手殿に頼もうと思うのだが、どうだろう。
雄足:そうですね。これだけ大きな建物だと、特別の技が要りましょう。実績のあるその方なら大丈夫でしょう。お願いしてはどうでしょうか。
ナレーション:
そして、生江臣東人から頼まれた益田の縄手が奈良の都へ出て来る事になりました。はじめてみる大きな大仏にびっくり。恐る恐る造東大寺司へ入ってきました。
縄手:ここが東大寺を作るための役所か。東人殿が居られるところじゃな。大きな大仏殿を作るなど、自分には出来るかどうか不安だが、まずは東人殿をたずねて見よう。
東人:おお、益田の縄手殿。久しぶりじゃのう。お元気か。あなたのお宅は代々大工業を営んでおり、お父さんやおじいさんが篠尾の総持寺を作り上げたことは良く知っておる。今度の大仏殿の建立にはぜひともあなたの力が必要と思って居る。どうかやってもらえないか。
縄手:東大寺の大仏殿は今までにない大きな建物だと聞いています。自分に出来るかどうか不安ですが、この大きな事業に関わらせてもらうことは、大変な名誉です。ぜひともやってみたいと思っています。
東人:そうか。それはありがたい。縄手殿が大仏殿に関わることは、越前国、そして足羽郡にとっても大変に名誉なことだ。ぜひとも、あなたにお願いしたい。
ナレーション:
そして、益田の縄手は大仏殿の建築に携わることになりました。生江臣東人や益田の縄手らの働きにより、東大寺の大仏はこの年から2年後に、そして大仏殿は8年後に完成することになりました。
1250年経った現在でも、この東大寺の大仏は多くの人々の参拝を集めています。ただ、多額の国家予算を使った巨大なプロジェクトだったため、国の経営が立ち行かなくなったこと。それに、大量の銅の精錬による環境汚染が問題になっていたようです。
第2場面 篠尾村の大総持寺にて
歴史あれこれの目次へ戻る