左近長者物語ー第2場面 篠尾村の大総持寺前にて


 第2場面  足羽郡篠尾村の大総持寺前にて

ナレーション
 ここは、5年後の越前国足羽郡の酒生村。足羽郡の中心地で生江臣東人の住まいがあるところです。生江一族の資金によって益田の縄手の家族が建てた篠尾総持寺とその5重の塔がそびえ立っています。
 生江臣東人と益田の縄手が何か話しをしています。

東人:益田の縄手殿。東大寺の大仏殿のときは大変じゃったのう。あれだけの大きい建物はさぞかし難しかっただろう。ご苦労さんでした。

縄手:ありがとうございました。良い仕事をして、皆さんのためになったと思っております。

東人:親から聞いた話だが、足羽郡には何世代も前から我々生江家が住み着いておったそうな。成願寺山や天神山には吾が家族や親戚のお墓が沢山作られておる。特に、天神山の大きなお墓には、戦いのための鉄のよろいや剣が一緒に埋葬されたと聞いて居る。
 昔は、他の一族との戦いが良くあって、苦労したそうだ。今は、戦いもなく落ち着いて田んぼを作ることが出来る。ありがたい時代になったものだ。

ナレーション
 この古墳時代の末期に国の政策で大きなお墓は作ることが禁止になりました。豪族達は、その代わりとして、それぞれの氏寺を作ったという説があります。同じような時期に、丹生郡では野々宮、深草、大虫の三つのお寺が作られました。足羽郡ではこの篠尾の総持寺、坂井郡では三宅と5つのお寺が建てられました。
 篠尾の総持寺が創建された頃、奈良の斑鳩の里では聖徳太子が建てたとされる法隆寺が既に50年ほど前から存在していました。篠尾の総持寺は、残された礎石の大きさから、法隆寺の西院伽藍の5重の塔と同じぐらいの規模だったと考えられています。

東人:おじいさんの時代になるが、ここに大きなお寺を建てることになってのお。初めてのことだし、大変苦労したと聞いて居る。

縄手:そのときに、寺を作り上げた大工が、吾が益田家の祖父と父親だったそうです。丹生郡の3つの寺は隣の滋賀県の近江から大工が入ってきたといいます。篠尾の総持寺は遠く山城、今の京都に技術を求めたと聞いております。

東人:山城の国には昔から知り合いが居ってのう、何かと世話をしてくれたんじゃ。総持寺が出来たのも、知り合いが居ったおかげかも知れんなあ。
 ここの篠尾の総持寺も建ててから既に100年ほど経っておる。あちこち傷んできたようじゃから、大改修が必要だ。最近のはやり言葉でいえばリホームになるのかな。

縄手:それだけ経てば、瓦も傷んでくるでしょう。建てられた時ぐらいの瓦の量が要るかも知れません。今回の補修は、私どもがやらせて貰ってよろしいでしょうか。

東人:これだけ高い建物は、大地震や台風が来ると弱いものじゃ。地元の縄手殿にぜひとも頼みたい。しっかりと頼むぞ。
 
ナレーション
 この総持寺の五重の塔は、8世紀になると大規模な修復を受けています。丹生郡の各廃寺は資金不足のため廃寺になる中、ここの五重の塔は生江氏の支援があり、末永く続きました。その後の京都東寺の資料によると、東寺の修理の際に、この総持寺と9つの末寺からあわせて5貫文の寄付があったそうです。そのときこの寺の僧の数が、9つの末寺あわせて46人居たそうです。足羽郡では飛びぬけて大きなお寺だったんですね。

 暗転

ナレーション
 あるとき、泰澄大使が篠尾の総持寺にお見えになりました。泰澄大使といえば、浅水の三神家にお生まれになり、越智山で修行されました。文殊山や白山を開き、豊原寺や勝山の平泉寺を建立されています。養老6年723年には元正天皇さまのご病気を治され、大僧正位を貰っている有名なお坊さんです。
 
村人:東人様、泰澄大使様がお見えになりました。

東人:これはこれは、泰澄大使殿。この篠尾の総持寺に良くおいでなさいました。どうぞ、ゆっくり休憩していってください。

泰澄大使:ここが篠尾の総持寺か。大きいお寺じゃのう。私は、金津の豊原の寺を建立したが、ここのお寺はその50年も前に建てられて居った。丹生郡の深草寺とともに、越の国で一番古いお寺だと聞いて居る。

東人:そうです。皆のためを思って、精一杯のお寺を建てさせてもらいました。祖父の時代に京都に技術を学びに行って建てたと聞いています。ここで修行した僧達が、多くの人たちの幸せを願って、修行に励めば良いと思っています。

泰澄大使:そうじゃのう。人の幸せが一番じゃ。私が白山に登った時は若くて元気があったが私はもう歳をとってしまった。それほど残りの命はないが、生きている限り仏教を広めて世の中を幸せにしたいと思って居る。東人殿もがんばっておくれのお。

東人:承知しました。泰澄大使殿もお体を大事にされてくださいね。

ナレーション:生江臣東人と泰澄大使は、同じ時代に生きた人たちです。知り合いだったかどうかは記録にありませんが、もし会っていれば、こんな感じだったのでしょうか。




第3場面 足羽郡のある荘園にて

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