酒生の歴史ー荒木の弥生遺跡から
荒木の弥生遺跡から
弥生時代とは、本格的に稲作作りが始まった紀元前3世紀ごろから紀元3世紀ごろまでを言います。この頃から、南西諸島や朝鮮半島から、数多くの人々が日本へやってきます。ある調査によれば、縄文晩期には10万人にも満たなかった人口が、邪馬台国が存在した紀元3世紀頃には60万人、7世紀頃には500万人まで膨れ上がります。
この時代の人口の自然増化率は年に0.2%だそうです。稲作の拡大により食糧事情が好転したとはいえ、大量の渡来人なしにはこの人口増加は説明できません。一説には紀元前4,5世紀ごろから8世紀ぐらいまでに渡来した人は万の単位にも上ると言われます。
この渡来人は何処から来た人たちだったのでしょう。稲作を得意とする中国南部の人達や、騎馬民族の流れをもつ中国東北部、あるいは朝鮮半島の人達が渡ってきたと以前から言われています。
ただし、最近の研究では、日本語を含め日本の文化的なものの多くがトルコやウクライナ、キルギスと近い関係にあると言います。これらの国の祖先が、海路を使い、あるいはシルクロードを通って中国に辿り着き、何百年という単位の中で最終的に日本へ入って来た可能性があると言います。日本人の遺伝子を調べると、中国や朝鮮半島のそれと明らかに違っているらしいのです。日本人らしいきめ細やかで人を気遣う性格は中国や朝鮮半島にはなく、一概にこの説を無視するわけにはいきません。
昭和42年に荒木町にて弥生遺跡の調査が行われました。かつて足羽川が北西に蛇行しており、荒木遺跡はその自然堤防の上にあたるといいます。弥生時代後期の住居の跡や、古墳時代前期の玉造工房をもつ住居の跡、玉造に関係した遺構が発見されたほか、近くの田んぼのからは弥生時代中期の土器が出てきました。福井県立博物館に荒木遺跡で見つかった玉造の様子が実物大で再現され展示されています。
この荒木遺跡にみられるように、足羽川による広大な平地にできた自然堤防の上に、人々は住まいを作り、堤防背後の湿地において米作が行われていたようです。卑弥呼に率いられた邪馬台国は3世紀ですから荒木遺跡と同時代になります。中国の「魏志倭人伝」に記されたその頃の暮らしを参考にすれば、中央に囲炉裏のある竪穴式の住居に住み、白い一枚の布の中央に穴をあけて頭を通し、腰にひもで括りつけて着ていたようです。この頃の日本の人口が50万人と言いますから、酒生では10〜20戸ほど数十人程度の人口になるのでしょうか。