あぜみちの会ミニコミ紙

みち34号

(2003年春号)


「水と陽光と微笑みの国」スリランカにて(玉井道敏)


シグナル34

福井市 中川 清

今年、田植えは五月の連休過ぎにという、通達指導が徹底的になされた。
私も、コシヒカリを、例年より遅く、五月の十五日後に植えることとなった。
これは、昨年の産米の品質が悪い結果の対策だとされている。昨年の結果反省の中で、その原因の一番が、暑かった天候のせいにされてしまった。その対策として、稲の生育期の暑さを避けるため、田植時期を遅らせる方法を指導された。でも、昨年の生理障害の第一原因を、天候だけの責任にしてよいのだろうか。
自然界では、植物は(稲も勿論)多少の天候には、たくましく育つ性質を持っている筈である。
それを人間の手で、弱くしてはいないだろうか。
少し雪が降ると、山に植林された杉の木が着雪により折れる被害が出る例などである。これは、あちこちに植林して生育促進に肥料を施し、いくらか軟弱に育つ事が原因にありはしないか。
最近の稲は田植え時、側条施肥といって、植えたすぐ側に肥料を施す方法がとられている。これは、植えた苗が直ぐに肥料にありつける仕組みである。その後、稲が根を伸ばして生育しても地力の乏しい田には肥料分が少ないから、肥料のある側条の株元に大部分の根が集まる結果、夏の暑さに強いしっかり根の張った稲の姿とは違った形になってはいまいか?
以前の全層施肥とか深耕の稲と、根の分布姿に違いがありはしないか?
自然界では、たくましいものが自然淘汰で生き残ってきた歴史があります。
こんなことと、今の子供の最大の欠点は「我慢する事の出来ない事」だというのと考え合わせてみる。
人も、植物も、育てるものの都合で、早急な結果を求めすぎて、甘やかしすぎては、駄目だということではないだろうか。


よろしくお願いします
あぜみちの会 会長   北 幸夫(朝日町)


 人間とは、生まれながらにして競争という世界に生きなければならない動物なのでしょうか。
 私が就農した昭和三十年代には、増産ということばが、巾をきかせ、あらゆる物が量を作れば売れた時代でした。少しでも多く穫ることに精出し、天皇賞を始め多収穫競争にあけくれていました。最近になり良質物を、いかに安価に提供出来るか。外圧にも耐えられるというか、世界各地からの低価格攻勢にまで巻き込まれ、更に安全、安心、環境配慮まで加わり、我々生産者にとっては、かつてない競技会なるものの舞台に立たされています。
 かつての私の人生設計では、六十才を過ぎれば楽隠居して、写経などし感謝の日を送ること、となっているのだが、今も尚今年こそはと精出しているのであります。
 山間地での農業経営であり、規模的にも、企業的農業経営からも、ほど遠いものではありますが「環境保全型農業」に共鳴して集まって協力して下さる若い人達と一緒になって、自然を語り、明日の農業を夢見ています。食物の生産基地としての、使命感を秘めながら、年がいもなく「今年こそは」と計画をたてているところであります。後継者のいないことをいいことに、食と農の再生を目指し汗を流しているところです。
 図らずも、昨年秋、上良会長の後を「あぜみちの会の代表に!」を安請けしてしまいましたが、昨年十一月二十三日の杉本様にお世話になった収穫祭や中川賞の選考会等、大変な重責で驚いている次第です。
 会員の皆様と一緒に考え、行動に結びつけ、新しい風を起こさなければ、と考えています。よろしくお願いします。
 


今年の春、二題

福井市 名津井 萬

その1

 一 選挙戦

 去る四月の市議会議員選挙で、私は再選を目指して立候補した友人、I君の後援会連合会長と事務長を兼務することになった。
 私は一農家(稲作と酪農)で、選挙戦の一責任者になる柄ではないが、I君のためにも重責であるが受けさせてもらった。
 選挙告示から一週間、朝の搾乳を草々にすませ、午前八時から午後十時まで務めた。午後に一回だけ三十分ほど乳牛の状態を見に帰った。稲作の方は幸いにして県の指導で遅植奨励のため余裕があった。
 I君の尊敬する点は、素晴らしい友人を財産として得ていることである。F高校時代の恩師が駆けつける。級友では参議院議員のM議員、K書店のK氏等を筆頭に多くの級友が応援弁士を務めてくれる。
 M大学の同期生や、先輩のS市のT市長、後輩のS郡の県会議員で上位当選のS議員等も駆けつけてくる。
 小学校の級友は連日、車の運転をし、時には応援の言葉を吐くY君、大型稲作経営のT君、黙々と弁士の配車や組み合わせに働くT君、他にS君、先輩、同輩、後輩が応援する。
 地元町内の男も女も一生懸命である。
 総元締めの幹事長は、私の青年団入団時代の青年団長であったN大先輩である。
 私も連日、夜は候補者のI君と共に各個人演説会場を十八会場回った。
 私のI君を応援する気持ちと言葉は、彼は人と人の出会いを大切にしている。一期一会を身に付けている。「人生最高の幸せは、良き師と良き友に恵まれることである。」そして、「一夜、友と語るは、十年の書を読むに勝る」という言葉もある。今、テレビで放映されている「宮本武蔵」の究極の言葉は「我レ以外、スベテ師」である。それ等を身につけたI君を応援し、当選という栄冠を勝ち得たことは、私の人生の最高の喜びと幸せでもあった。
 選挙戦後は、連日、トラクタで田作りに熱闘中で、春風と日照りで、風呂に入ると顔がヒリヒリする。改めて、農家としての実感を味わっている。


その2


二 農協運営で思うこと

(一)昭和六十一年一月に米国農業研修(九日間)でカリフォルニアの果樹生産協同組合を訪ねた。理事長以下理事九名ですべて専業農家で非常勤である。組合の運営は総支配人(専務)が常勤で組合運営の全責任を負っている(職員十二名、パート二百名)。

 月一回の理事会では運営についてと組合員の意見などを討議し、執行は総支配人(専務)が全責任をもって行う。その当時の総支配人の給与は年間千二百万円の高額であった。組合運営の成績が出なければ免職されるという、きびしいものである。そのため総支配人は高学歴で優秀な人材でなければならないという。

(二)平成五年に韓国農業の視察で、ある農協を訪ねた時、挨拶と説明に組合長がされた話しの中で、組合長は常勤でなく、一専業農家であって、組合運営は職員の手でなされるという。組合を代表して出席する時は、それに応じた出張費が支払われるという。韓国は戦後、米国流の農協運営を取り入れたのかと思う。

(三)数年前に農業誌「現代農業」に北海道の三友盛行氏が「風土に生かされて」と題して酪農経営の連載をされた。
 私は三友盛行氏に電話し、福井の酪農研修に講師としてお願いし、心よく来福してもらった。講演の後、会食を共にした時、三友氏は農協の組合員の希望で中標津農協の組合長になったとの事であった。その中で理事はすべて専業農家で、常勤理事といえども必ず牛舎作業をしなければ理事の資格なしとの事であった。
 私は四年ほど前に農協理事の時、組織運営のあり方を提言しようかと思った事があった。しかし、理解を得る事はむずかしいと思った。はからずも今回、福井市農協の運営は経営管理委員会と執行理事会に分離された。よくも決断されたと思う。
 唯、農と名のつく農協である以上は、農とは何か、農に生きるとは何か真髄に迫る農協運営を願っている。


ヘーナ(スリランカの焼畑)を
垣間見る


福井市  玉井 道敏


はじめに


スリランカ国花・紫色の蓮

 アジア太平洋農耕文化の会企画「スリランカ 茶と稲と仏の島を訪れる」の研修旅行は、農業・農村、仏教遺跡、宝石採掘などなど、多岐にわたる視察と盛りだくさんな研修内容で魅力的なものであった。特に、視察対象の一つとして平地の焼畑が取り上げられており、自分にとっては強い興味を持たざるを得なかった。というのは、一九九五年より二十数人の仲間で福井県の伝統野菜を掘り起こし、調査し、それらを取りまとめる過程で(調査結果は一九九八年十月『ふくいの伝統野菜』として福井新聞社から発刊)、県内の山間部で作られている嵐カブラや河内赤カブが現在でも焼畑栽培によって生産されていることを確認したこと、福井県に隣接する石川県白峰村での焼畑農耕について膨大な資料、調査結果を取りまとめた『白山麓の焼畑農耕』(橘 礼吉著 白水社 一九九五年)との出会い、さらには、二〇〇二年の七月〜十一月にかけて、美山町河内の山林を借りて行った河内赤カブの焼畑栽培の実践などを通して、焼畑農耕に強い関心を抱いていたからである。また、今までの調査、体験では、焼畑農耕は一般的には山間部における作物の栽培方法というイメージが強いが、平地における焼畑とはどのようなものか、ぜひこの目で確かめたいという思いもあった。
 二月十三日から二十二日の研修旅行に参加し、二月十五日の午後、ヘーナの火入れ作業を見ることができた。視察の時期や時間的な制約により、ヘーナについてのごく一部を垣間見たに過ぎないが、その視察内容と印象について、さらに、今回の視察に触発された形での焼畑農耕についての考察を、ヘーナおよびスリランカの農業・農村に関する文献の紹介も含めて記述したい。


ヘーナの火入れ作業見学


大きな木下に集合
火入れ作業
瞬く間に燃える潅木類
約15分で燃え尽きる

 ヘーナの現場見学は、今回の研修旅行のスリランカ側における実質的なコーディネーターで、旅行中、終始我々と行動をともにしてくださったラティナさんのお世話によって実現した。我々の訪問に備えて、アヌラーダプラの近郊の彼の親戚がいる村の平地林であらかじめ伐採がなされていて、すぐにでも火入れができる状態で準備がなされていた。
 二月十五日、スリランカの旅の三日目、南アジアを見るのは初めてで、十三日に入国してからココヤシプランテーションの見学、農家の訪問、仏教遺跡の見学、野生イネとの出会い、稲刈り現場の視察をはじめ、あちこちで見られる巨大なため池や湿地、象の水浴風景等々、目に入るものすべて珍しく、少しカルチャーショックを感じていた時期だった。ため池(というより湖のイメージ)の湖畔に建つ瀟洒なレストランで昼食を取り、期待に胸膨らませてヘーナ視察に出発、天候は晴れで(研修旅行中一度も雨に降られなかった)、暑く、日本の夏と同じ気候であった。チャーターバスでかなりの時間農村部を走って、これ以上は道が狭くてバスが入れないというところでバスを降り、準備された二台の乗用車に乗り換えたが、二十人全員は乗れなかったので、半分の人は徒歩で現場を目指した。バスが走ってきた道路は幹線道路で周辺には水田が広がっていたが、支線の道路は未舗装で狭く、赤い土の色が目立った。支線道路からさらに枝線が分岐していて、周りはヤブの原野のような感じで時々レンガ造りの農家が現れるという感じだった。我々の乗った車は道に迷ったようで、さらにぬかるみに車輪を取られて、車から降りてみんなで押してなんとかきりぬけるというハプニングが二回あった。昔からの農村地帯というよりも開拓地という印象だった。
 苦労しながら三十分ほどかけて午後三時ごろ現場に到着、徒歩組みもすでに到着していて、刈り込んで準備された空き地の一角に残された大きな木(この木は何らかの意味を持っていたと思われるが未確認)の下に村のリーダーの人たちと一緒に集まっていた。
 切り開かれた面積は一エーカー(四十アール)程度だろうか、藪を切り開いたという感じで、伐採されていない周囲は、ブッシュ状の原野にところどころやや高い木が散見されるという光景だった。伐採地の一角に伐採された植物が燃料素として帯状に集められていたが、見たところは木の枝などはほとんど見られず、藪を構成するような潅木や草本類がほとんどだった。
 一人の村の人がたいまつのようなもので中央部に火をつけた。このところの晴天でよく乾燥していたのか、瞬く間に燃え広がって十五分程度で燃え尽きた。


リーダーの説明と質疑応答


 このあと、ヘーナを仕切ったリーダーから説明を受け、質疑応答を行った。聞き取りメモが不十分なこともあってすべてのやり取りを記載できないのは残念だが、主なものを箇条書きにする。
・準備作業として一週間前にブッシュを刈り、伐採して、それらを集めて乾燥しておいた。
・焼いたあとにはこれからゴマを作る予定である。ほかには、カウピー(フジマメ)、クラッカン(シコクビエ)、ムング(アオアズキ・リョクトウ)などを作付する。十月のマハ季にはオカボを作ることもある。焼畑では主に換金作物を作る。
・近年は焼畑は禁止されている地域もある。
・土地は個人所有地であり、以後は常畑として利用する。
・肥料は使わない。
・伐採作業、火入れ作業は共同作業で行なう。
・作物の播種、植え付け後、うまく雨が降ってくれることが大事である。
・大きな面積を焼畑にするとそこに生息する動物たちの行き場がなくなってしまうのでよくない。
・種子は自家採種でなしによい種子を分けてもらう。

併せて、現場視察に先立ってバス内で行われた渡部先生の講義の要点を記載する。
・焼畑農耕は、一般的には山岳部で行われているが、平地林での焼畑はスリランカのほか、スカンジナビア、ロシアなどでも行われている。
・焼畑ではキャッシュクロップであるトウモロコシやトウガラシを作ることが多い。
・焼畑の監視や栽培管理のために出小屋が作られ、若夫婦がそこで暮らすことが多い。


ヘーナ視察からの考察


 今回のヘーナの現地研修は、研修企画の要望に沿うため、我々の訪問に対するセレモニー的な要素が強かったことや、現場での一時間強の限られた研修時間の制約などにより、ヘーナの火入れ作業というごく一部の作業を垣間見たに過ぎない。しかし短い見学、調査時間や現地リーダーとのやり取りの間にもいろいろと触発されたことがあるので、ヘーナについて、また日本の焼畑について発表されている文献や研究論文や昨年の福井県内での焼畑体験などを参考にして、ヘーナについて若干の考察を加えてみたい。


スリランカの自然と農業


 予備知識として足立明氏の論文「スリランカの焼畑農耕技術」(アジアの農耕様式 七十七〜九十二P 一九九七 大明堂)により、スリランカの自然と農業について概観しておこう。
「年二回の熱帯モンスーンの影響で、スリランカにはマハ季(十月〜一月)、ヤラ季(五月〜六月)の二回の雨季がある。マハ季の雨は全島に降るが、ヤラ季の雨は南西部が中心である。この降水パターンにより、スリランカは湿潤地帯、中間地帯、乾燥地帯という三つの気候区分に分けられる。・ ・ ・また、戦後、乾燥地帯に発展してきた入植地の農業や、植民地時代からの湿潤地帯のプランテーション農業を別にすれば、スリランカの伝統農業の基本的な構成要素は、水田稲作―焼畑―園地である。」
 これらを総括的にあらわしたのが図である。


焼畑農業の地域


スリランカの気候区と土地利用図
出所:足立明『スリランカの焼畑農耕技術』アジアの農耕方式、大明堂、1997

 図に見るように、スリランカにおける焼畑地域は、主に乾燥地帯中央部と中間地帯の東部に分布しており、今回のアヌラーダプラ近郊のヘーナ視察地域は、スリランカで最も広く焼畑が行われている乾燥地帯中央部に属している。バスから見た印象では、この地域は山岳地帯ではなく、大きなため池が所々に見られ、湿地や水田、ココヤシ林や原野の風景が目に付いた。このような平地で焼畑農耕が定着しているのは珍しい。平地やジャングルで開墾のために一時的に火入れをして開畑することはあっても、農耕方式としての焼畑が成立している要因は何なのか。山岳地帯と平地での焼畑農耕の違いは何なのか、などの疑問がわいたところである。
 もう一点、気になったのは、「近年は焼畑が禁止されている地域もある」という発言であった。杉本良男編著『アジア読本スリランカ』(一九九八年 河出書房新社)によれば、戦後、スリランカ独立以来、大規模な農村開発プロジェクトが実施され、人口過密な南西部の湿潤地帯から、人口希薄な北部の乾燥地帯への入植が行われ、水田稲作を柱とする経営への転換が図られ、その過程で、主な生産手段であった焼畑は当局から禁止されたとある。
我々が視察した地域には、そのような入植地が含まれていたのかもしれない。


火入れの時期


 前掲の足立の論文によれば、スリランカにおける伝統的焼畑農耕技術の作業開始時期は
 八月より始まり、土地の選択―伐採―火入れ作業を行う。この時期は、北東モンスーンによる雨季、マハ季の到来の前の季節で、乾燥期に当たる。播種、作付けは十月のマハ季の雨の到来を待って行う、とある。(福井県美山町河内の焼畑でも七月に入ってから伐採作業を行い、昨年は八月七日に火入れと同時に赤カブラの播種を行った。夏季の乾燥期の作業となる。昨年は播種後雨が降らず発芽が悪くて不作となった)。現場のリーダーが、「播種・作付け後の雨が焼畑がうまくいくかどうかのポイントとなる」と言われた事が実感される。今回の研修での火入れ作業の時期は、確認はしていないが本来の作業時期ではなかったようである。我々の研修に備えて時期はずれではあったが、特別に準備されたようである。ただ足立の論文には、八月伐採からマハ季を経て三月ころに、耕地の一部を除草してゴマを植えることもあるとあり、リーダーの「あとゴマを植える」との発言は、この土地における本来の火入れ作業は前年またはそれ以前の八月に行われていたのかもしれない。渡部先生と伐採されたあとの地面を見ながら、「すでにこの土地は畑地化しているようですね」との会話を交えたことを思い出す。


焼畑作物


作物名 栽培頻度
シコクビエ +++
トウモロコシ +++
キャッサバ +++
カボチャ +++
トマト +++
ナタネ +++
トウガラシ +++
アオアズキ ++
フジマメ ++
ナガマメ ++
サツマイモ ++
オクラ ++
ナス ++
モロコシ
キビ
アワ
オカボ
タイマ
+++:ほとんどの焼畑で栽培
     されているもの
++:上記の作物に次ぐもの
+:稀に栽培されているもの
出所:出所:足立明『スリランカの
焼畑農耕技術』アジアの農耕
方式、大明堂、1997

 ヘーナにおいてはどのような作物が栽培されるのだろうか。足立の前掲論文から引用すれば、焼畑で栽培される作物の種類と栽培頻度は表のとおりである。なんと多くの作物が栽培されるのであろうか。その種類はおもに穀類、豆類、イモ類で換金作物が主体であり、混作、間作の形態がとられる。またその作付けの種類や割合は、水田稲作の規模によって大きく影響されるが、トウモロコシとシコクビエが優先する。このことは、スリランカの焼畑には、後にも触れるように雑穀を主体とした畑作農業がその根底に存在するのがうかがえる。今回の調査地でも、ゴマや豆類、またオカボを作付けするとの説明で足立の調査と一致する。
 ところで、日本の焼畑作物の種類を見ると、一年間の作付けを見る限り極めて単純である。県内では赤カブラに特化しているし(我々の栽培体験では、赤カブラのほかに青首ダイコン、辛味ダイコン、ハクサイも播種した)、白山麓白峰村の焼畑で作られていた作物は、ヒエ、アワ、アズキ、ダイズ、ソバ、ダイコン、カブラ、エゴマ、カマシ(シコクビエ)などが挙げられるが、同じ焼畑では一年一作、四年を一サイクルとした輪作体系をとることが多く、雑穀とカブラを混播する例もあるが、混作や間作はほとんど行われていない。


ヘーナの成立と今後


 スリランカの平地において、焼畑農耕が成立した背景について紹介し、今後の推移について考える。
 足立は次のように考察している。「結論から言うと、南インドからの移住民が水田稲作と常畑雑穀農業を伴って、スリランカに移住してきたことにより、水田稲作を維持しながら雑穀栽培を常畑から焼畑での工作に置き換え、それが現在の「シンハラ」伝統農業につながってきたのではないかということである。・ ・ ・ ・また常畑から焼畑への転換が起こったのは南インドとスリランカの生態学的な背景の違いにもとづいており、スリランカの乾燥地帯(ジャフナ半島や本島の北端部分を除く)には十分焼畑を維持できるマハ季(十月〜一月)の降雨があり、人口が少ないため適当な休閑期間を経た二次林を利用できたためと推量できる。そして常畑ではなく焼畑耕作を選択することにより施肥と除草が省け、伐採の苦労を耐えればかなり安定した収量を確保できたであろう。・・・・・」(足立明前掲論文)。
 ヘーナ成立の背景には南インドの常畑雑穀農業、民族の移動、スリランカの自然条件が基本的な要素として存在するということである。垣間見たヘーナの現地研修からは体系だった考察は不可能であるが、うなずける見解であると思われる。
 今後のヘーナの動向であるが、スリランカにおける焼畑農耕が定着していた地域は、過去にはもっとスリランカ全土に広がっていたようであるが、プランテーション農業の拡大や、戦後の農村開発プロジェクトによって縮小を余儀なくされてきたようである。スリランカにおけるヘーナの位置づけが現在どのようなものか、確認できなかったが、日本の焼畑が戦後の農業近代化の過程でほとんど姿を消した事実を考えると、その将来には危惧感を持つたところである。


終わりに


 垣間見たヘーナの印象を思い出しながら、そして極めて不十分なメモによって、なんとか与えられた責務を全うするために悪戦苦闘した。ただその過程で今回のスリランカ旅行を何度も反芻することができ、旅行の印象そのものが極めて濃密なものとなった。
ヘーナだけでなく、多岐にわたる研修内容によって、南アジアの文化の一端に触れることができた事とともに、日本という国を考えるまたとない機会を与えられた。日本が近代化によって何を失ってきたのかを考えさせらるまたとない機会となった。
 研修旅行中にお聞きしたスリランカのお茶の研究所長ジャヤワルデナさんの講演での発言が記憶に残っている。
「スリランカは今後も農業を中心に国づくりをしていく。」日本とは違ったスリランカの国づくりにこれからも注目し、期待したい。
今回の研修旅行のテーマ「スリランカ 茶と稲と仏の島を訪れる」に「水と陽光と微笑みの国スリランカ」を付け加えたい。


寄らば大樹の陰
「あぜみちの会」と私


福井市  細川 嘉徳


 私が「あぜみちの会」に入れて頂いたのは、同級生の名津井さんの誘いがあったからです。会の性格としては農業者の集いであることは承知していたのですが、会員の資格は農業者にこだわらないということと、会そのものに土の匂いが感じられたので入会した次第です。
 「あぜみちの会」は平成五年から会員同士のミニコミ紙「みち」の発行を始めました。以来今日まで十年間続いたことになります。また毎年場所を変えて、ユニークな「秋の収穫祭」が開催され、平成十三年七月には「ファームビレッジさんさん」のオープンと目を見張る躍進を続けています。お陰で多くのイベントにも参加出来ました。なかでも楽しいのは、「収穫祭」で友人と出合うことです。搗き立ての「おろし餅」や「ソバ」の味は格別です。
 「あぜみちの会」の歴史は「みち」にすべてが記録されています。最近迄段ボールに放り込んであった「みち」を、創刊号から全部まとめ十年分ホルダーに綴じ込んで背表紙を付けました。創刊号の出た時は「タイ米」が出回って、味や安全性について世の中は騒然としていた時でした。それからも食の安全に関する事件は後を絶ちません。新聞は暗いニュースばかり、そんな中で「みち」はニュース、エッセイ、短歌、俳句ありで、素晴らしい人たちがそれぞれの立場で夢を語り怒りをぶっつけて紙面は楽しさ一杯です。
 さて、この中にあって、恥ずかしながら私も何回か投稿させて頂いています。今思うことは、門外漢がこともあろうに創刊号から拙い文章で貴重な紙面を使い、多くの会員さんに申し訳ないことをしたと思う反面、「みち」というステージで素晴らしい仲間と共演させて頂けたことを思うと、檜舞台に立ったように晴れがましい気持ちです。また多くの読者を意識すると身の引き締まる思いがするのも事実です。出来上がった「みち」を配布すると喜んで下さる読者があることも楽しみの一つです。
 生産手段を持たず何の協力も出来ませんが、「みち」で多くのことを学ぶことが出来ました。最近玉井さんから頂いた「寸鉄」で「ていねいに生きる」と言うことを学びました。「あぜみちの会」の生みの親、中川さんは「あぜみちのシグナル」で「自分の意志で歩く農業者になる事が大切で、そのためには物を書く事で生きた足跡を残す。そういう人が経営者だ」と書いておられます。これは私自身にとって大きなシグナルです。
 「若人は夢を語り老人は過去を語る」と言う言葉があります。私自身もう若くはありません。十年一昔とはもう古い言葉ですが、「みち」によって私の十年の軌跡を知ることができます。自分の書いた物を読むことで、自分が何に憧れ何を嘆いていたか客観的に見ることも出来ます。
 「友達は財産である」とは名津井さんの言葉ですが、多くの良き仲間がいる「あぜみちの会」は、今や私にとって身を寄せる大木のような存在です。「寄らば大樹の陰」です。これからも皆さんと共に頑張りたいと思いますので宜しくお願いします。


あぜみち中川賞
原稿受付のおしらせ


 本年の「あぜみち中川賞」の応募原稿を受付しています。
この賞は、中川清さんをはじめとする有志の方により運営されており、「あぜみちの会」が、これからの農業を担っていく方の夢の実現を支援していくものです。ふるって、ご応募ください。

●応募資格
 福井県在住の農業者(個人)で五十歳未満の方

●応募方法
 農業を始めた動機、現在の経営状況、そして、あなたの農業経営で、是非実現したいと考えている「夢」について、書いてください。そのような夢を持つにいたった理由、その実現のための具体的な方法などもあわせて書いてください。
・原稿は、図表、イラストを含めて四〇〇〇字程度。必ず、住所、氏名、生年月日、連絡先電話番号を明記してください。
 ・原稿受付締め切り   平成十五年十月六日(月)
 ・提出先(問い合わせ先)
  〒九一〇 ― 〇八〇三   福井市高柳町三 ― 八
あぜみちの会事務局
安實正嗣 宛  電 話 0776-54-7565 FAX 0776-54-8075

●審査・発表
 作文の内容審査と対面による現地調査を行い、夢の内容と意欲、実現性等を審査し、特に今後の発展が期待できる方、一名を選考します。審査結果と受賞された方の原稿は、当ミニコミ誌「みち」において発表し、十一月二十三日に開催されるあぜみちの会収穫感謝祭において表彰します。

●賞金
 三十万円

     編集後記
◎ 今号では、スリランカの焼畑「ヘーナ」について紹介しました。焼畑農耕は日本ではほとんど廃れましたが、世界各地では現在でもいろんな形で行われているようです。
「焼く」という作業が荒っぽいイメージを持たれて、焼畑は粗放的な農法と理解されがちですが、金沢市内にお住まいの橘礼吉さんの大著『白山麓の焼畑農耕』を読むと、なんと総合的(山に棲む動物たちのことまで配慮している)で緻密、集約的な農法であるかということがわかります。今、むしろ稲、麦、大豆、蕎麦などの土地利用型作物の栽培がどんどん粗放化しているのではないでしょうか。
◎ いろいろな農業施策がこれでもかこれでもかという形で実施され、また、されてきましたが、それらの施策が最終的に現場でどのように実施され、現場をどのように変え、そのことによって農家個々の農業経営がどのように向上するのかという想像力が、施策立案の段階で決定的に欠落していることが致命的です。行政マンだけに任せるのではなく、農家が直接施策立案に参画する大胆なシステムの改変が望まれます。
◎ あぜみちの会の活動も十五年目に入りました。活動内容も毎年『みち』の発行、十一月二十三日の収穫感謝祭の開催、あぜみち中川賞の授与と定着しているのですが、このあたりで何か一つ刺激が欲しいところ。カギは千人を数える『みち』の読者の参画にあるようです。今年度は以前からの懸案事項である十五年間の活動の歩みを集大成して、久しぶりに本を発刊すること、またそのことをネタにして『みち』の読者も含めた交流会を開くこと、会員の写真展の開催などを企画しています。収穫感謝祭も十回目の節目となりますので、工夫を凝らしたいものです。やらねばならないでなしに、やりたいからやる、だから楽しくやる、これをモットーにしたいものです。
         (玉井)

     玉井道敏 還暦・退職記念講演会
「我、歩いた跡に道はできたか − 口とペンを滑らせつづけて60年 −」
日時:平成15年(2003年)7月6日(日)午前10時〜午後5時
場所:福井県国際交流会館 多目的ホール(福井市宝永3丁目1−1 電話:0776-28-8800)
講演会参加費:1,000円  (ご希望の方に玉井道敏記録集を3,000円で販売いたします。)
※引き続いて午後5時30分から同会館・3F・特別会議室にて、交流会を開催します。
交流会参加費:7,000円

 


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