あぜみちの会ミニコミ紙

みち35号

(2003年秋号)


大野七間朝市(松田宗一)


シグナル35

福井市 中川 清

冷夏だ!異常気象だ!といいながら、熱さ寒さも彼岸までの九月も過ぎた。
しかし、今年の米の収量低下もさることながら、その情報に右往左往する現実には、いささか驚きを感じる。新米を求めて、自由米市場の価格は高騰し、店頭では、昨年比、五キロ千円も値上がりしているものを見かける。各地で米泥棒が頻発し、ニュースになっている。
でも、農家がやっている直売所を覗いてご覧なさい。良心的な価格で、消費者のことを考えて、ちゃんと販売しているところが多いですよ!
各地で、秋祭りが行われている。祭りの起源は、豊作を祈って感謝することであって、形骸化した単なるカーニバルではないと思っている。
子供の頃、「食物を粗末にするな」とよく叱られたことを思い出す。
「節約」という言葉も、耳にタコができるくらい聞かされて育った。
今、環境の問題もあって、資源を大切にとよくいわれる。水を節約して大事にするとは、流れを止めることではない。効率よく使うことが肝要だ。繰り返し使うこと、リサイクルして利用することがなにより大事である。これに農業の果たす役割は大きい。
経済でも「お金」を大事にするということは、(使わないようにするのではなく)効率よく使うことだと思う。
環境問題は難しく考えることはない。一言でいえば「自分の為したことが、後に続く人にどんな思いを残したか」ということだ。
トイレに入って出るとき、スリッパを次の人のために向きを揃えて、出てくることが基本だ。
日常生活で、これもできない人は、環境を語る資格はありません。

私の農業経営リズム
福井市 名津井 萬


 今年の米作りは日照不足から、十年振りの大不作である。
 大自然の力の偉大さを知らされた。先人が太陽に、月に手を合わせ祈りを捧げる姿こそ、自然との調和だと改めて実感する。
 五十数年前の米の反収から見ると、今年の大不作も大量豊作になる。それは水稲の早植技術からだと思う。
 私は五十三年前、中学卒業と同時に稲作々業に従事した。その頃の反収は五俵ほどであった。今年は大不作とはいえ、反収は八俵ぐらいある。米作技術の進歩は見事である。
 その頃の米作りは水苗代で育苗し、五月二十五日頃から手作業での田植えであった。その後、育苗は保温折衷苗代、ビニールトンネル育苗、電熱育苗などで五月初旬の早植えと進み、今日の稲作体系ができ上がった。
 近年、遅植えが指導奨励されているが、今年はやっぱり早植えの方が収量も食味も勝っているようだ。ちなみに昨年、私は水稲の早植えをして、米の検査等級は二等であったが、食味値は九七であった。
 生産物とは、生育日数が一日でも長いほど、収量、品質は良い成績が上がるのではないかと思う。
 米も早稲より中稲、中稲より晩稲が収量、品質、味も良いのではないかと思っている。
 コシヒカリの食味は特別だが、私は作期の長い日本晴が好きである。今年は日本晴を作った。いま正に見事な黄金色である。稲刈りが楽しみだ。
 私は水稲と酪農の複合経営をしている。畜産物の食肉も生育日数の短い物より長い物の方が価格も高く、味も良くなっている。
 生育日数の短い鶏肉(ブロイラー)が一番安く、次は豚肉、次が牛肉である。中でも最高級の和牛肉は生育日数は三年かかる。
 今年、私は水稲の遅植栽培を取り入れたが、私の水稲と酪農の経営には不向きであった。私の場合、田植えは五月初旬に行い、中旬から下旬にかけて、一年で最も天候の安定している時期に牧草の一番刈りという農作業リズムが最適だと分かった。その後は六月に水稲管理、七月から八月にかけて牧草の二番刈り、九月に稲刈作業、十月に三番刈り、十一月に田の秋耕し、これが私の農業リズムである。今年は農作業リズムがあまりかみ合わず、現在まだリズムに乗れずにいる。
 来年からは水稲の早植えから始め、自分の農業経営リズムを守りたい。


槍ヶ岳登山記

福井市 細川 嘉徳


七月十九日 雨 
  午前五時 福井発 九時 新穂高温泉駐車場着 九時四十分 登山開始 午後五時十五分槍平山荘着
七月二十日 曇り時々雨 
  午前六時三十分槍平山荘発 九時昼食 十一時三十分飛騨乗越 十二時槍ヶ岳山荘到着 雨 視界不良
七月二十一目 雨後曇り
  午前六時五十分 下山開始 十一時三十分 槍平山荘着 
七月二十二日 曇り時々晴れ
  午前五時三十分槍平山荘発 七時三十分 藤木レリーフを過ぎて朝食 十一時三十分新穂高温泉着 午後一時露天風呂入浴 一時三十分新穂高温泉出発 午後五時福井着
(往復四百キロ)



槍ヶ岳。長野・峻阜両県境上北アルプス第二の高峰、その先頂が槍の穂のように直立している姿は存在感抜群。穂高山塊に連なる。海抜三千百八十b。
以前に義父から貰った槍ヶ岳の写真がきっかけで、機会があったら登りたいと言ったのを義弟が覚えていて、私の体調に合わせた登山計画を立て、お陰でこの夏夢が実現した。
七月十九日早朝五時、義理の兄弟姉妹四名で福井を出発、一五八号線大野を出た辺りから雨になってきた。山に雨は付き物と思っていても現実となると気が滅入ってくる。今日の雨は仕方がない、明日を期待するしかない。九時新穂高温泉着。駐車場で登山準備をする。幸い雨は小降りになったが上がる気配は無いので完全武装、先ず登山案内所で登山屈けに記入する。案内所の前に白出沢が増水しているとの警告が目に入る。いやな予感がするなか登山開始。今日に備えて二週間ほど百坂を登って足羽神杜参拝のトレーニングをしたが、その効果も無く林道を一時間も歩いた所で、もう疲れが出てきてしまった。林道はまだ一時間歩くという。下を流れる沢の音がするだけで鳥の声も聞こえない。
林道を外れて小道を右に下ると白出沢を直角に渡る。ここは路が有るわけでなく玉石の間を足を取られないように歩くのが精一杯、ザックが急に重く感じ足を取られてしまった。幸い怪我は無かったが足ががたがた震えて立つのがやっと、膝が笑うとはこのことかと思ったが、もうどうにもならない。せっかく連れてきて貰ったのに、早や疲れたなどと言いたくなかった。ここから自分との戦いが始まった。
五十bほどの沢を渡って不規則な飛び石の続く登山道に入る。ここに来て初めて鶯が啼いた。谷はガスがかかり視界は百b位で足下に注意するのが精一杯、ただ歩くだけ呼吸をどう整えるかに専念する。いつしか谷はガスで埋まり前後をガードされながら岩角に手をついて登る。滝谷避難小屋を過ぎると激流の沢を渡る。上流に雪渓が見える。疲れて写真を撮る気にもならない。もう足元に注意しながら後について行くのが精一杯。沢を渡り茂みを抜けて槍平山荘にようやく着いた。意外に客は少なく食事も良くゆっくり休めた。ただ足が人の足のような感じがする。一晩で回復するだろうか。義弟が体調を心配してくれる。
二十日槍平山荘出発。ひたすら沢を登る。不要品を預けたので幾分身軽になり、昨日とはかなり歩きやすい。しかしその分険しくなってきた。昼食に作ったラーメンを食ベコーヒーを飲むが疲れで食欲がない、視界不良。約四十分の休憩でまた歩き出す。雨になってきた。いつしか樹木が無くなり近くの山影が見えない。やがてお花畑が広がってきたが、疲れで鑑賞のゆとりがない。坂道は砕石で滑りやすく、月面を歩くような感じで、ジグザグをくり返して気が遠くなる。時々ガスが切れて回りの景色が見え隠れする。斜面の中に小さな槍ヶ岳がいくつも見える。槍もどきだと教えられた。槍ヶ岳の案内標識が出ている。ここは日本一高い峠飛騨乗越だと聞いた。別のルートから人が登ってくる。義弟が健闘を健闘を讃えて握手をしてくれた。ガスの中で互いに写真を撮り合う。雨の中キャンプを張っている人がいる。疲労困憊雨の中ようやく槍ヶ岳山荘に着いた。ラーメンとビールで乾杯する。
 山荘の中は人で一杯。食事の後は寝るだけだ。袖すり逢うも他生の縁。槍は今回で八回目だが、いずれも雨で未だ穂先を見ていないと話す人がいる。身動きできない寝床の中で、互いにお国自慢を出し合う。福井は白装束の話が馬鹿受けして、ソバやカニの影は薄い。いびきの嵐の中眠れない一夜が明けた。
 外は雨。苦労して何のためにここまで来たのか。自問自答をくり返す。ここは三千六百b。せめて外の霊気を満喫したいと外にでる。何も見えないのであきらめて中に入ろうとしたその時、左手にガスの中何か見える。紛れもない槍の穂先だと思ったらスーッと消えてしまった。その間時間にしたら二十秒位だろうか。
 午前六時五十分 食事もそこそこに下山開始。小雨、登るより降りる方が危険だという。急がず歩幅を縮めてゆっくり降りることに努める。道は次第に急勾配になり、一寸の油断もできない。一歩踏み外したら谷底へだと思うとゾッとする。途中、お花畑で小休憩。ゴゼンタチバナ、クロユリ、キンバイカなどが疲れを癒してくれる。やっとの事で槍平山荘に着く。夕方晴れ間が見えるとの知らせに外に出ると、雲間から山頂が眩しく輝いている。ここでようやくアルプスの風景に出会えた。
 二十二日午前五時三十分 曇り 槍平山荘 下山開始。ザックは軽くなったが疲れは取れない。一時間ほどで藤木レリーフについた。ここでやっと雨具を脱いで記念撮影をする。ついでに朝食を取る。
 爽やかな風と水の音が何とも気持ちがいい。沢の大きな岩石が待つの大木と見事に調和している。ここは神様が造った大庭園だ。借景に不足はない。空が晴れてきた。右手の滝谷の奥、北穂高岳だろうか、異様な形の山頂が金色に光って見える。次第に周りの峰々も光り出す。あまりの美しさに苦労も疲れも忘れてしまう。この感動は今ここにいる者だけが味わえるものだと誰かが言う。何か叫びたい気持ちになる。ふと北宋の詩人蘇軾を思い出す。是造物者之無尽蔵也(これこそ造物者の与えて下さった尽きせぬ倉です)と。まさにこのことかと思う。
雨の中、苦労して登った槍ヶ岳の思い出は尽きない。運良く微かに見えた穂先、そして谷間から見たアルプスの荘厳な夜明け、狭い山荘の触れ合い等々。義弟と入った露天風呂が全身の疲れを払拭してくれた。

飛騨自由大学セミナー・講演録
「人と人」、「人と自然」の新しい繋がりを求めて

福井市 玉井 道敏



 皆さん、こんばんは。福井から来ました、玉井です。こういう場にお招きいただきまして、大変ありがとうございます。じゃあ早速、始めたいと思います。
まず自己紹介ですけれども、私は、一九四二年、昭和十七年生まれで、ちょうど還暦、あと一ヶ月で満六十歳になります。生まれは、拉致事件で一躍有名になりました福井県小浜市、あそこの生まれでございます。一応、公の立場としては、福井県の職員ということで、農業の技師です。福井県の農業試験場におります。県に入りまして、三六年。あと五か月と少しで、めでたく定年ということになっております。結婚はしておりまして、結婚してから三二年ということで、子供は三人おります。そういうような、自己紹介を初めにしておきます。それと、今日の講演の段取りですけれども、特に、今日は農業の話しはあまりしないと思います。私が今まで取り組んできたと言いますか、そういうことをお話して、少しは何かの参考にしていただければありがたいかなと、そのように思っております。資料が六種類来てると思いますけれども、交流の場作り実践論。二枚つづりの、これを中心にお話しをしたいと思います。あとは適宜、資料を取り上げて、お話しをしたいと思っております。ひとつよろしくお願いいたします。あとだいたい一時間少し、お話しをいたしまして、あとはスライドをですね、二百枚ほど持ってきておりますので、それをサッと、三十分ほどやりたいなと。あと、もし質疑がありましたらですね、十分か、十五分ほど、質疑等の時間を取りたいと思っております。ひとつよろしくお願いしたいと思います。
 それでは早速ですけれども、資料に基づいて、お話しをいたします。最初に、夢中になったことということが書いてあると思いますけれども、だいたい私の記憶はですね、十歳、小学校高学年の頃から始まっています。その前に、ちょうど終戦時やったと思うんですけれども、僕の記憶ではですね、飛行機がブンブン飛んでおったという記憶が三、つぐらいの時にあります。それ以後ですね、だいたい十歳前後から、いろんな主体的と言ったらおかしいんですが、自分のやりたい事をですね、やり出していたと。まあ今も、この時分と変わらずに、自分のやりたい事をやっているわけですけれども。だいたいこの頃が、一つのポイントになるかなと、いう感じがいたします。夢中になったことということで、いくつか書いてあるんですけれども、なんかやっぱり今の子供はどうかちょっと分かりませんけれども、「なになに、せいせい」と言われて、やることが多いんじゃないかなと思うんですけれども、やはり親が何を言おうが、自分が夢中になる、そういう体験はですね、大変必要じゃないかなと。それがやっぱりいろんな、後々のいろんな人間形成に役立つと言いますか、そういうものに影響するんじゃないかなということをですね、今六十歳になりまして、過去を振り返って、そんな感じを持っております。
 そういうことで、ここにいくつか挙げてございますけれども、私はどちらかと言うと、非常に虚弱体質で、四つまで歩けなんだということを、僕は聞いておる。それはちょっとオーバーだと思うんですけれども、非常に虚弱体質で、あまり近所の子と遊ぶというようなことはなかったと思います。
 次に、十歳から二五歳、大学卒業ぐらいまで何をやってきたかということですけれども、小学校五年生の頃からですね、新聞の切り抜きを始めたと、いう記憶がございます。特に火山とか、風水害、そういう気象的なことに非常に興味を持ってですね、新聞の切り抜きをしたことを覚えております。今もその桜島のですね、桜島が爆発したという新聞の切り抜きを覚えておりますけれども、そういうことを小学校五年の頃からやり始めた。それと小学校五年生の担任の先生がですね、日記、作文を非常によく、たくさん書かせたんですね。その時分、僕が今から思いますと、学校の先生方は非常にですね、ノビノビしておったなと、いう感じがしますね。昭和二七、八年になるんですかね。朝鮮事変が始まっておりますけれども、なんかその学校の先生方に、自由な雰囲気があったなと。それを僕等は、その小学校の教育で受けついだと言いますか、そういうことをですね、今から思うと感じていたというような感じがいたします。で、新聞の切り抜きにしましても、日記、作文にしましてもですね、先生が必ずなんかこう、書いてくれるわけですね。赤でですね、毎日こう持っていきますと。それが嬉しくて、一生懸命書いたというような記憶がございます。やはり先生に褒められるとですね、非常に嬉しいと。新聞の切り抜きもですね、そういう帳面を作って、中学の時やったと思うんですけど、それを理科の授業に持っていったら、先生が、「おまえはこんなことをしておるんか」というようなことを一言、言うてくれたんですけど。なんかそんな事が非常に、励みになったというんですか、やはり子供は褒められるということは、大変嬉しかったという記憶がございます。
あと、天気図作りということで、ラジオで、今もやっておりますけど、朝の9時から、気象通報と言いまして、どこに、何ミリバールの、低気圧があるとか、高気圧があるとか、そういうような気象通報というのがありますけれども、それを聞いてですね、自分で天気図を作るというようなことをやってました。まあ、そういうようなことに一生懸命、夢中になったことがございます。新聞のあの、気象のですね、毎日の天気図を切り抜いて、それと自分の天気図を比べたりですね、そういうことをやっておりました。それとあと、中学になりましてですね、クラシック音楽に、かなりかぶれました。中学から高校にかけて、非常によく、クラシック音楽を聞きました。私が一番好きなのは、ベートーベンの田園。主に交響曲です。やっぱり一番大きいことは、園芸ですね、園芸にかなり打ち込みました。自分のうちは、町医者をやっておったんですけれども、親父が非常に園芸が好きで、100坪ぐらいの庭を持ってまして、よく手入れをしてました。特にバラの花が好きでですね、手入れをしてました。それを助手のような形でですね、よく親父の手伝いをしたのを覚えております。

(以下、次号)

「あぜみち中川賞」原稿募集!
「あぜみち中川賞」は「あぜみちの会」が、これからの農業を担っていく方の
夢の実現を支援していくものです。
●応募資格
 福井県在住の農業者(個人)で五十歳未満の方
●応募方法
 農業を始めた動機、現在の経営状況、そして、あなたの農業経営で、是非
実現したいと考えている「夢」について、書いてください。
・原稿は、図表、イラストを含めて四〇〇〇字程度。
 ・原稿受付締め切り
  平成十五年十一月七日
 ・提出先(問い合わせ先)
  〒九一〇 ― 〇八〇三
  福井市高柳町三 ― 八
あぜみちの会事務局
安實正嗣 宛
 電 話 0776-54-7565
●審査
 作文審査と対面による現地調査を行い一名を選考します。
●賞金
 三十万円



編 集 後 記

福井市  玉井 道敏


 この十月十一日〜十三日の三日間、若狭路博二〇〇三の『福井さんちの食祭り』に、ふくいの伝統野菜・るるぶ≠フブースをもらって、県内伝統野菜の展示、即売、試食を行ってきました。展示品として、カブラ五種―穴馬カブラ、河内赤カブ、嵐カブラ、古田苅カブラ、山内カブラ―、ナス三種―妙金ナス、吉川ナス、立石ナス―、他に谷田部ネギ、大野サトイモ、苗の状態の越前白茎ゴボウの計十一種類を展示し、即売品としては、青果物では大野サトイモと谷田部ネギ、加工品として花ラッキョウ、スコ、マナの漬物、妙金ナスの黄金漬、越前白茎ゴボウの醤油煮、梅干(旧西田村産の在来品種『紅映』の完熟梅と福井市の伝統野菜・木田チリメンジソを組み合わせた特注の梅干)を販売しました。試食品としては、越前白茎ゴボウの炊き込みご飯、河内赤カブの味噌汁、大野サトイモのころ煮、マナのまぜご飯、谷田部ネギのヌタ、木田チリメンジソのジュースと葉と実の佃煮、ナオケの煮物を、それぞれ数百食分用意し、来訪者に供しました。
 なぜ、しつこく、展示・即売・試食の品目を羅列したか、みちの読者の方々にも、県内の伝統野菜について知って欲しかったからです。
 最近、“地産池消”、“身土不二”、“スローフード”などという言葉が飛び交っていますが、伝統野菜の生産者はそんな社会の風潮に関係なく、昔から、営々、黙々と地域にあった野菜の種子採りをし、栽培し続け、工夫を凝らして料理を作り食してきたわけです。
 「福井の伝統野菜はいかがですか」、「福井の特産はいかがですか」と、三日間立ち詰めでブースへの来訪者に大声で呼びかけながら、“生産者を実質的に支援するということはどういうことなのか”ということを考え続けていました。(玉井道敏)

 


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