シグナル36
福井市 中川 清
俗に石の上にも三年というが、あぜみちの会は結成から十五年、この秋松井農場で催した収穫感謝祭は十回を数える歴史を重ねてきた。この「みち」も季刊発行で三六号を数えました。この間、夢中で過ごしてきたともいえるが、夢中ということは、「夢を持って生きている」ことでもある訳でしょう。夢を持っていることが元気の秘訣だともいえます。
一方で、元気を出させる秘訣は、ぬるま湯に漬けておかぬこと、困難に直面させることから、元気とやる気の素因が生まれるともいいます。そういう意味からすると、今、農業に元気がないのは、恵まれていた時代のぬるま湯が原因なのか、一揆を起こすほどの、真からの困難に直面していないからなのかと、反省する点もあるのではないでしょうか?
先般行われた総選挙でも、投票率の低さから国民の意識が云々されました。でも考えてみれば、投票率が低いということは、人々が問題意識も特に持たず、のんびりと平和に暮らしていることの裏返しかもしれません。
それはさておき、農業を取り巻く状況は変わりつつあります。新年早々、新聞は、米の流通販売の新しい流れを正月特集記事として報道するといいます。何年ぶりかの米不作とかで、米の流通市場価格のじり高現象が続き、正月の餅までが異常に値上がりして「不景気の中でもちあがり」と洒落てもいられません。
新しい年こそ、夢を描けるような年にしたいものです。そのために何が一番大切かを確認しましょう。
あぜみちの会が、農村からの情報発信基地たらんとして夢中で歩んできた十五年の「つぼみ」が膨らむことに大きな期待を繋ぎたいものです。
「国見・本郷吟行」
福井市 鉾.俳句会
「鉾.俳句会」は、西は鷹巣より東は岡保に至る間に住んでいる者約六十名で作っている俳句会です。昨年、今年と「あぜみちの会」の収穫感謝祭の催しを見せていただいて句を作りました。未熟ですが、お読みいただければ幸いです。
一 四肢畳む子牛と坐り日向ぼこ 田中 芳実
二 木酢の匂い零れて秋たける 旭 政子
三 山の村収穫祭の走り蕎麦 阿部 寿栄子
四 帽尖る棚田の案山子メキシカン 宇佐美恭子
五 収穫祭行列できる牛蒡汁 黒岩喜代子
六 藁を以て繋ぐ百足虫の唐辛子 滝波 トシ
七 イベントに餅搗く音や好天気 田中 照子
八 舌鼓打つ新米の黄粉餅 月輪 満
九 蛸島の祠に供華のとべら海桐の実 寺前 孝子
十 新藁に兎と寝転ぶ児等二人 中川 正行
十一 冬枯れの道に名水溢れけり 畑下 信子
十二 山頂に地鶏飼はるる収穫祭 藤田フジ子
十三 イベントに出す伝承の牛蒡汁 松村伊久江
十四 海桐の実岩場に弾く荒磯道 皆川 誠道
十五 藷を焼く煙漂ふ収穫祭 吉田 早苗
「焼きイモとゴンボ汁」
福井市細 川 嘉 徳
十一月二三日、日曜日快晴、昨日までの荒れ模様は嘘のように気持ちがいい。気のあった仲間三人がTさんの車で九時半、案内図を頼りに鮎川町の「松井さんちのキノコ園」に向かう。絶好のドライブ日和になった。九頭竜川の高屋橋から見る大安寺山の紅葉が美しく、沿道に沿って移り変わる晩秋の絶景に喚声が上がる。約三十分程走ると海岸に出る。亀島を右に見て十分足らずで会場に着く。もうすでに二〜三人が大根や白菜を買って車に運んでいる。
受付で名前を記入して少しばかりのカンパをすると、先着百名様優待のエノキダケが貰えた。「これは運が良かった」と気をよくして会場に入ると、今度は搗きたてのおろし餅の試食が待っている。これが収穫祭にくる目的の一つでとにかく美味い。
間もなく開会式が始まり、福井市長さんの挨拶を聞く。初めて見る主催者松井さんの顔が輝いている。会場は決して広くないが、すごい人出だ。毎年一回場所を変えて開催される。これが「あぜみちの会の収穫祭」の最大の特徴だ。開催の場所に好奇心が有るのも常連客が生まれる要因かもしれない。先輩が後ろから肩を叩いてくれる。あぜみちの会でしか会えない友人知人が言葉を掛けてくれる。
会場が海岸近くなので当然海の幸が人気を呼ぶ。やはり越前ガニの人気が高い。ハマチの三枚下ろしは五百円。これは安いので買った。「ゴンボ汁、一杯どうですか、おいしいですよ」の呼び声が聞こえる。何処の会場でも豚汁はあるが、これは珍しいと好奇心も手伝って三人で試食をする。ゴボウにニンジン、厚揚げとニシンが入って鰹味だろうか、ゴボウの風味が生かされ、あっさりしてなかなかいける。ついお代わりをする。米パンは今日の土産気分で買う。独特の粘りと風味がいい。搾りたての牛乳の試飲をはじめ、山の幸、里の幸、味噌、漬け物等々お互いに話しながら試食のハシゴは楽しい。里芋がおいしかったので、店の奥さんに友人のところへ発送を依頼する。
会場の片隅に会員の作品展示コーナーがある。Kさんの写真とNさんの水墨画を見る。どちらも腕前はプロ並みで作品は見る者を圧倒する。忙中閑有りと言うが、作品を見る限りどちらが本職か解らない。収穫祭の原点はこの辺りに有るのかも知れないと思う。
前の畑で籾殻でサツマイモを焼いている。焼イモと言えば石焼イモが常識だが、籾殻で焼いたイモは一味も二味も違う。籾殻の匂いと燻された煙の香りがサツマイモとミックスしてこの田舎の風味が何とも言えない。この味こそ「あぜみちの会」の専売特許だと思う。籾殻の山を前にして焼けるのを待つお客さんと担当の二人の表情がいい。こんなことは、駅前では絶対にできない「田舎の原風景」を一枚パチリ。私が子供の頃にはサツマイモでなくジャガイモやイナゴを焼いて食べた憶えがある。
今年は春から異常気象で七月は長雨、八月は冷夏、九月になって残暑が続き、特に米は不作であった。コシヒカリを始め米の値段が急騰するなど、生産者も消費者もお互いにいい年ではなかった。しかし、今日の会場にはそんな影はない。
籾殻の焼き芋の煙の中、ゴンボ汁の味、お互いに語り合った楽しい一時は、後日の語り草になっている。
あぜみち中川賞 受賞
「農業〜新しい時代の予兆」
武生市 納 村 誠 二
ここ数年前から、農業回帰が静かなブームをよんでいます。「定年就農」「脱サラ就農」という言葉が定着し、定年とともに、もしくは定年まで待たず勤めを辞めて地方に移り住み、農業に従事するのだというのです。かくいう私も脱サラ組の一人です。父が病気のため帰省し、その父の死をきっかけに大学時代から考えていた農業の道へ進むことにしたのです。兼業農家生まれの私にとって福井のこと、農業のことは『格好わるい』対象でしかなかったと思います。東京の大学に進学したのも、そういったコンプレックスを払拭したかったからかもしれないと今では思っています。
そんな考えを変えたのが、船井幸雄先生です。先生の本を読んで、比嘉照夫先生を知り、楢崎皐月先生、赤塚充良さんを知りました。そして、土地にはイヤシロチ、ケガレチがあり、イヤシロチにはマイナスイオンが集まり、波動が高くなり、植物にも人にもいい影響を与えることを学び、エントロピー(崩壊)ではなく、その逆シントロピー(蘇生)のエネルギーが存在し、そのエネルギーを生み出すものが本物技術であり、その本物技術の多くが日本で発明されていることを学びました。私の頭の中で、「先生達の提唱している本物技術を組み合わせれば、農業の未来が変わるかもしれない」という考えが芽生え、農業が『格好いい』存在へと変化していったのです。
余談になりますが、ホンダの「サ・ラ・ダ」というミニ耕転機のCMをご存知でしょうか?ヘアスタイル雑誌『ChokiChoki』の読者モデルの田中順一君という大学生を起用し、高校生の園芸部員が格好よく耕転機を操作し、それを同じ高校の女の子たちが、カメラ付き携帯電話片手に熱いまなざしで見つめるというものです。このCMが効いて二ヶ月間で一年分の予約台数が売れたそうです。若者にとって『格好いい』ということは、とても大事なことだといういい例だと思います。時代に敏感な若い人たちは、就職に魅力を感じなくなっています。フリーターと呼ばれる人たちが急増しています。右肩上がりの経済発展の時代の終焉とともに、リストラされたり、定年になったりして気力を無くしている親の世代の人を見て、一生懸命働いても幸せになれないのではないか?と思っているのです。いまフリーターをしている若い人たちが、農業の格好よさに気づき、地方への大移動が始まり、一気に農業回帰志向が顕著化するのではないかと思っています。
そうして、四年前に就農したわけですが、頭で考えるのと実際にやるのとではまったく違い、試練のときがづづくこととなりました。まず、楢崎皐月先生の言う炭埋没法によるイヤシロチ化はコストがかかり過ぎることで断念。研修で一年間お世話になった農家がEMで栽培していることもあって、EM+FFC技術を利用して栽培をはじめました。私の住んでいる武生では、ハウス園芸は春トマト、秋キュウリが中心で、私もそれぞれの部会に仲間入りさせていただいて諸先輩の指導を仰ぎながら、白分のやりたい無農薬栽培を目指しました。一年目、二年目と思うような結果が出ず、栽培技術が伴わずにいきなり無農薬なんて無理なのではないかと思った時もありましたし、本物技術も万能ではないと、疑ったこともありました。しかし実際に無農薬で栽培している人たちがおられるし、人にできて自分にできないわけがないと、勉強会に参加したり、農家を尋ね回ったりしました。
そして現在、トマトについてはほぼ農薬を使わないで栽培することができています。残留農薬検査・波動測定(別表)を見ていただいても分かるように安心・安全な物になっていると思います。来年度には完全無農薬栽培のできる見通しもたちました。二〇〇六年六月末までには全農産物に識別番号をつけ、誰がどこでどのような農薬を使い作ったかインターネットでトレースできる仕組みがつくられるとのことですので、こういった作物でないと売れない時代になっていくと思います。企業にとって信用は何よりの財産ですから、食べ物にさらに厳しい目が注がれることとなるでしょう。実際、様々な本物技術が広がっています。「EM菌」「アローゼン」「万田酵素」「バイオ酵素」「ファイングリーン」などの技術や、「ハイポニカ農法」「FTI農法」「FFC技術」「BMD技術」「ピロール農法」など、挙げればきりがありません。新しく農業を志すもので、自然循環型農業を目指さないものはいないと思います。これらの技術が我々の生活を支える事となるでしょう。自分も現在、叶ヤ塚のカトレア会員に買っていただいています。FFCの技術を利用して地球環境を良くしようと頑張っておられる素晴らしい人たちです。今後会員さん達との関係を密にし、販売ルートを広げ三年以内に出荷農産物のすべてを無農薬で生産できるようにしていきたいと思っています。前筆したように今後、都会生活が格好悪くて、農村で生活するのが格好いい時代が来ると思います。自然の中で悠々白適の生活をするのが憧れの的となるはずなのです。
世界に目を向けると、国全体で自然とともに生きることを選び、成功を収めている国があります。中米のキューバです。このキューバという国は、島国であり、輸出立国であり、食糧はほとんど輸入に頼っていて、人口は都市部に集中していました。日本にとてもよく似ています。冷戦構造が崩壊したとたん経済が立ち行かなくなったという点も似ています。この国の農業については、吉田太郎さんという方が『二〇〇万都市が有機野菜で自給できるわけ』という本を書いています。その本によると、一九九一年のソ連崩壊により食糧危機に陥ったが、化学肥料や石油もソ連に頼っていた為、国全体で有機農業に取り組むことになり、「バイオ農薬」「バイオ肥料」などの近代農法、都市農業の促進により、一人の餓死者もなく乗り切ったというのです。さらに、ソ連の崩壊直後は、「食べていくため」に農業の道を選択せざるをえない状況でしたが、今では別の仕事を捨てて農業に就く人が多くなっているというのです。収入も安定し、都市農業に従事している人たちはすべて、自分で作った作物を地元の学校や老人ホームに寄付しているといいます。キューバの農業には、「体にいいものを、みんなで作ってみんなで分け合う」という『共生』の精神が貫かれているのです。
キューバとソ連の関係ほど極端ではないにしても、日本もアメリカという国に依存して経済を発展させてきました。その裏で農業をないがしろにし、一九七〇年に六十%だった食糧自給率は、四十%まで下げてしまいました。四十%といっても米と卵がどちらも大体百%ですから、この二つを除くと、ほとんど三十%を切る数字になってしまいます。それだけに、キューバが一九九〇年代前半に陥った食糧危機は、とても他人事とは思えません。今、世の中は「断末魔」のあがきを見せています。有限な資源を浪費し、物的なモア・アンド・モアの追求によって、地球環境はすでに人類の生存が危ぶまれるところまで悪化してしまいました。日本経済もデフレ進行で悪化の一途です。
しかし、今がチャンスです。農業回帰によって、戦後の大量消費時代に忘れられてしまった物を大事にする気持ちや共生の楽しさ、「無尽」「結」といった日本人の心が蘇ってくるのではないかと思うのです。都会の人間関係は希薄だといわれていますが、これは相互に依存する関係がほとんどないからです。農村では、周りの人たちとの人間関係がうまくいかないと大変です。自分勝手なことをいっていては生活できなくなりますから、他人を思いやる心、気遣いが日本人の生活に自然に戻ってくるのです。農業から日本の心を変えることができると思うのです。
私はまだ駆け出しでたいした力はありません。しかし、そんな時代の到来の前に就農した我々には、先駆者として目標となり、受け皿になる義務があると考えています。これからも栽培技術を磨き、さらに勉強して、より良い農家になっていきたいと思います。
あぜみち中川賞 受賞
「私と農業」
福井市 片 岡 仁 彦
私が農業を始めたきっかけは、一九九三年十二月のガットウルグアイラウンドの合意でした。これで米の値段が安くなり離農者が増えると思ったからです。
しかし、現実は、そう甘くはありませんでした。会社を辞めて収入が無く、ただ、がむしゃらに仕事を探す日々が続きました。仕事をしていない自分がどんどんミジメになってきます。未来はあるが明日はない、夢はあるが仕事が無い状態でした。経営が全く立ち行かない状況が続き、米作りでは生きていけないぞ、他の水稲専業者とは何が違うのだろう?、と考えました。答えは、自分に実績が無いことと、周りに水稲作を請け負うたくさんの農家(ほとんどが兼業でしたが)がいることでした。
仕事を増やす突破口は、誰もやらない減反大麦跡の大豆栽培でした。経営面積は、二、三年後には二十fぐらいになり、規模だけは大きくなりました。しかし、安定した収穫物が採れません。何か違うぞと思い、本を読んだり周りの人に聞いたりしましたが、良い解決方法がありませんでした。
ある農業雑誌の中に、「北海道型機械化玉ねぎの府県導入の可能性」というプロジェクト会議があり、それになんとなく参加しました。その会議がいままでの単なる農業経営者と生産に関わる関係者の集りではなく、農作物需要企業との出会いの場でも有りました。ざっくばらんに話せ、現場に出向き、機械に乗り、体験、体感できるものでした。参加メンバーを見ると、農業経営者はもちろん、有名外食チェーン、加工業者、農業機械メーカー、商社、小売など、私にとって、日頃縁が無い人々でしたが、酒を交しながら親睦を深めると、そこからはお互いの色々な問題点などが出てきて、自分なりに実行できるものを考えながら、行動に移しました。
その一つが企業と契約したジャガイモの栽培でした。そんなに安い単価で出荷しないで、もっと高く買ってくれる所を探したほうがいいと言う人もいました。確かに、ジャガイモをきれいに選別し、出荷するとキロ当り三十円は高く買ってくれます。しかし、一反に二〜三dもとれるジャガイモをきれいに処理しようとすると人手が必要になり、人件費がかなりかさみます。少し安くてもコンテナ出荷した方が割に合います。また、金銭的な面だけでなく、収穫時期は一時に作業が集中するので、少しでも省力的にしていかないと体力的にもできません。
機械作業の仕方も工夫しました。稲作ではあまり意識することがなかった土壌条件は、大豆・ジャガイモなどの畑作物では、適期に的確な作業するために、必ず把握しておかなければならないことでした。また、低コスト化のために使用する農業機械が、実は、高品質な生産物を作るのにも必要な物だったことも知りました。例えば、栽培を始める前に、畑全体にプラウ耕を施します。こうすることによって有機物の鋤き込みなども簡単にでき、雑草の抑制効果もあります。排水の悪い所には、サブソイラもかけています。これらの方法は、大変手間がかかるのですが、天候などの条件が悪い時に差が出やすく、安定した収量・品質が期待できるようになりました。大豆作では、青立ちなど発生原因がいくつも絡み合って、対策が確立していないものもありますが、二〇〇一年産の大豆では収量、品質とも良く、個人の部で福井県知事賞をいただくことができました。
販売面では、今年のように米価が上がっても、自分が個別販売しているお客様には昨年と同額で販売しています。目先だけの金儲けは、その時は良いけれど結果としてマイナス面が多く、この金額だったら採算が取れる範囲をきちんと把握しておく必要が有ると思います。また、地域をまたいだ人との交流、こういった事が自分にとってのかけがえのない財産であることも痛感しています。現在は、おおよそ大豆二十f、水稲四f、ジャガイモ六fの規模で経営を進めています。
いつも思っていて口に出す言葉ですが、「何のために仕事をしているのか」、ここに土地が有るから、親が農業をやっていたから、収入を得るため、農業が好きだから、いろいろありますが、それだけではなく、自分の作った物に責任を取り、その中からお客様に選ばれる事が大事だと思っています。
夢ですが、同じ目線の合う異業種の人々たちと協力し合い、農業生産物をお客様に届けていきたいと思っています。情報開示し、お客様の信頼を決して、裏切らないことを心情にして。
あと、若い後継者も育てなくてはいけません。新規参入の人にも機械の貸し出しや土地の融通などを積極的に行い、道を開く手助けもしたいと思います。必ずしも我が息子が後継者でなくてもいいとも思っています。
最後に、「今の日本農業は厳しい環境にある」と、どこのあいさつでも言われるのですが、本当にそのように思って言っているのでしょうか?
「日本農業を守る」というフレーズもよく聞きますが、こちらも本当にそのように思って言っているのでしょうか?私は、農業経営者のまわりにいる各種団体、関係機関、族議員など、今の農業の体制を守られなければ、彼らの居場所が無くなるから言っているだけなのではと思うようになりました。よく、自給率で農業が語られますが、日本の食料自給率はカロリーベースで四十%と言われています。しかし、金額ベースだと七十%です。野菜などはカロリーが少ないために、カロリーベースでの食料自給率の向上にあまり貢献できません。日本国民は、日本の農業に十分なお金を落としています。消費者に日本農業が求められている証拠ですが、私たち農業経営者は、彼らの居場所作りの為に働いているのでは有りません。狭い目しかないと本質が中々見えてこないものです。
日本農業を守るということは、本来、農業者とそれを真剣に求めている人が考え実践していく事なのではないのでしょうか。
あぜみち中川賞審査講評
玉井 道敏今年は、あぜみちの会として、収穫感謝祭が第十回、あぜみち中川賞が第五回と節目の年にあたります。何事も継続していくことは一苦労で、今年のあぜみち中川賞の論文募集も、一時は該当者なしかと心配したのですが、最終的には二人の若い就農者から原稿提出があり、今日の表彰式を迎えることができました。
第五回あぜみち中川賞は、福井市江守中を拠点として、嶺北の北部地域で、大豆、水稲、ジャガイモを主作物としてスケールの大きな土地利用型農業を展開している片岡仁彦さん(四十歳)と、武生市近郊の三ツ屋町でハウス栽培によるトマト、キュウリ、ホウレンソウの無農薬栽培技術の確立に取り組んでいる納村誠二さん(三一歳)の二人に授与することとなりました。
提出された論文に目を通した後、去る十一月十五日にあぜみちの会の北会長、中川さん、安実さん、玉井の四人が二人の経営の現場へ出向き、説明を受け、聴き取りしました。その結果、経営の内容は異なるものの、どちらも、時代を先取りした発想を強い意志で実践し、試行錯誤しながらもそれなりの実績をあげ、地域の関係者からも注目、期待されている点で、甲乙つけがたく、あぜみち中川賞が五年目の節目を迎えたこともあって、二人ともにあぜみち中川賞を授与することで四人の意見が一致しました。
片岡仁彦さんは就農して八年目、就農の動機はガットウルグァイラウンドの合意にあったのですが、若い就農者には珍しく、当初より機械力を駆使した大規模な土地利用型農業を目指し、現在は嶺北北部一帯を営農地域として、大豆二十f、水稲四f、ジャガイモ六fの経営を実践しています。自宅のある江守中に伺った時は、ちょうど集落の転作ソバの刈り取り作業の時期でしたが、昨年設置した農機具格納庫には、彼の経営にふさわしいたくさんの大型の農機具が収納されていて、それらの機械の説明を中心に、現在の経営の取組みや、課題、今後の夢などについて話を伺いました。彼はもともと機械が好きで、その知識や、運転能力を生かしながら、大型農業機械を駆使しその機動力を生かした土地利用型農業を展開しているのです。しかしやみくもに機械を購入しているのではなく、経済性を考えて、機能面を重視し、規模の割には安価な格納庫の設置や中古機械の導入を積極的に図るなど経営面での工夫がなされています。と同時に、一日の作業量目標を十fに置くなど、大規模でありながら、適期作業に心がけています。このような機械の能力を最大限に生かす努力の成果が、二〇〇一年の大豆生産個人の部における福井県知事賞の受賞につながったのです。もう一点、中古機械の導入や農業機械への知識、能力向上に農業者や農機具メーカーで構成される全国的なネットへの参入が大きな力を発揮しています。これからの農業経営者の重要な資質のひとつとして、ネット力、すなわち、いろんな人とのネットワークを作り上げていく能力が求められると思われます。その点、短期間に県内外の農業者とネットワークを構築した彼の行動力は、大いに評価されます。
今後の経営展開ですが、転作田を有効に利用した大豆などの転作作物を主作目として、大型機械を駆使した大規模な土地利用型農業経営の充実にいっそう力を入れ、福井県における土地利用型農業のひとつの経営モデル構築に寄与してほしいと思います。
納村誠二さんは家の事情で武生市の生家に帰省、大学時代から考えていた農業に進む道を選んで四年目、彼が就農した芽は、大学時代の学習にあるようです。現場のハウスではちょうどホウレンソウの生産が行われていました。武生市の近郊地帯は、昔からトマト、キュウリ栽培が盛んな地域で、今もその伝統が残っていて、納村さんもハウス園芸のトマト、キュウリを経営形態として選択し、現在十アールの土地に五棟のハウスを設置し、トマト、キュウリ、ホウレンソウの生産を行っています。彼の取組みの特色は、大学時代に学んだ理論の実践にあります。具体的には、自然循環型農業の確立で、彼が生産する農産物はすべて無農薬で作りたいという夢を持っており、その実現に向けて努力しています。その中核となる農法はEM+FFC技術を取り込んだもので、トマトではほぼ無農薬栽培が完成したものの、キュウリは難しく現在は未完成だということです。民間農法の導入による取組みとしてその成果が注目されます。安全・安心な農産物の提供がキーワードとなっている社会に対する真摯な対応として、無農薬栽培技術の確立が早く実現することを期待します。出荷先は現在農協が主体ですが、一部健康飲料水を扱っている組織の会員にもトマトを中心に出荷しており、その扱いは年々増加しているとのこと、彼の目標としては、県内外も含めた販売ルートの拡大と三年以内に出荷農産物のすべてを無農薬で生産できるようにしたいということです。無農薬栽培技術の確立とともに、近い将来の経営上の課題は、出荷手間もふくめて、現在彼一人である労働力を家族の参入も含めていかに確保するかにあると思われます。それと、地域における専業農家の年齢は、納村さんの次に若いのは五十歳を超えるということです。遠くの仲間とのネット作りとともに、近くで就農する若い仲間が出るように自ら働きかけていくことも大事かと思われます。
以上、二人の経営の内容は異なりますが、共通している点は、"挑戦"ということでしょうか。そして目指す経営の内容が新鮮です。と同時に、感性の鋭さと、強靭な実践意欲を感じます。自分の思い、理想、夢の実現に挑戦するのは若者の特権かもしれませんが、人間いくつになってもこの気持ちを忘れてはならないなと聴き取りしながら思いました。
それと、ある普及員が言った「農家はスーパーマンではない」(いろんな能力を農家に要求することに対する反論)という言葉が印象に残っているのですが、経験豊かな農業経営者と接していると「農家はスーパーマンである」と思わざるを得ません。今回受賞された片岡さん、納村さんも、先輩に倣って将来人間としてのスーパーマンになっていただくことを願望して第五回あぜみち中川賞の講評といたします
「服装のこと」
福井市 名 津 井 萬先日、JAテラル越前阪谷支所で待ち時間に、本棚の「なぜか人を安心させる人の共通点」という本を拾い読みした。その中で服装についての文があった。読みながら私は三十年ほど前の事を思い出した。
それは婦人青年会館(現、県民会館)で酪農経営と簿記についての講習会が開催されたときのことだった。講師は日本大学農獣医学部教授の島津正先生であった、先生は特に畜産簿記に詳しい先生であった。当時、私も農業簿記を少し習い始めた頃であったので受講させてもらった。三十数名の酪農家や畜産指導者が受講したように思う。講習内容については全く定かではないが、島津正先生の最後の言葉が今も鮮やかに覚えている。
講習終了と同時に「今日、受講された酪農家の皆さんは、毎日の酪農作業で鍛えられたその身体は健康そのものであり、仮に裸になったとしたら、贅肉のとれた筋骨隆々とした肉体だろうと思います。その躍動する身体に背広を着ると見事な青年になると思います。これから福井市内などに出るときは、土台がしっかりしているのだから、スーツに身を包んで出かけるとどうでしょうか。それは見事な青年に写るであろう。」と言って締めくくられた。
その頃、私も服装に無頓着であったが、その時はブレザーであった。たぶん帰りに「ちょっと一杯」と命の洗濯のつもりだったのかもしれない。まわりを見ると何名かの酪農仲間が牛舎作業そのままのような服装で受講していた。それ以来、私は会合の度合いを少し考えながら服装ということに注意をするようになった。
その頃、私は三十歳後半であったが体力的には最も充実していた頃であった。裸で鏡の前に立つと肩、胸の筋肉は盛り上がり、腕は力を入れると、力瘤は玉のようになり血管が浮き出て見えた。市内のサウナに行ったとき、年配の人が私に「よい身体をしているね」と言って腕をたたいた。今は筋力は全く衰えてしまい、人生の終着駅へ駆け足である。
余談であるが、その後、東京で全国農業会議主催の全国農業経営者研究大会が開かれたとき、酪農部会の座長を務めることになった。その時の助言者が島津正先生であった。色々と進行についても助言をいただき、どうにか任務を終えることができた。終わった途端に疲れが出て力が抜けてしまった覚えがある。島津正先生に福井での講習会の最後に言われた話が忘れられないと言ったら、「そうですか。しかし、そりゃあーそうだよね。」と言われた。生きる人生にとって服装も大事にしたいものである。
最後に、「なぜか人を安心させる人の共通点」と題する本は、当支所職員のNさんの本で「私の本ですから持って行ってください」と言われたが、来所する多くの人に読んでもらった方が良いと思い、私も一冊買い求めた。他にも良いエッセイがいっぱい書いてある。Nさんの読書センスの良さを感じさせてもらった。
飛騨自由大学セミナー・講演録(連載第二回)
「人と人」、「人と自然」の新しい繋がりを求めて
福井市 玉 井 道 敏
また、この時分は、一般の家でもですね、ニワトリを飼っておりまして、そのニワトリの世話をですね、十羽くらいおりましたけれども、餌をやったり、かなりそういうことを一心にやっておりました。これもですね、おもしろいんで、この時分は、花をですね、学校へ持っていくわけです。親が持たせたわけです。「今日はこの花を持っていきな。」バラの花を切ってですね。これも先生が非常に喜ぶわけです。そういうようなことを覚えております。この園芸に一生懸命打ち込んだというのは大きな影響を与えたんです。
あとでスライドを見せますけれども、ドイツにクラインガルテンという、市民農園があるんです。これがちょうど百坪ぐらいなんです。その時の、その経験がですね、どうしてもドイツで、クラインガルテンを見たいという願望につながりまして、今から十三年前にドイツへ行って、クラインガルテンを見てきたんです。僕のその、農業に対する考え方もですね、百坪の庭に非常に規定されているなという感じがいたします。結局百坪の土地にいろんな物を作ってたわけです。花とか、野菜とか。ですから広い面積の、例えば十町とか、二十町とか、そういう農業にあんまり興味がなかった。今もあんまり興味はないんです。どちらかというと、山間部の農業に関心があるんですけれども。やはりこの時のですね、その印象といいますか、小学校から中学校にかけてのその、百坪の庭というのは、僕の考え方を非常に規定したんじゃないかということを今になると思います。
それと、高校生の頃ですかね。高校生の二、三年の頃、ここに今日持ってきたんですけれども、現代日本文学全集という、こういう本があります。これ全部で五十冊くらいある。昭和二年の本なんです。これ、国木田独歩の全集なんです。田山花袋とかですね、坪内逍遥とか、そういう方の全集。その時分の、その文学者の全集がここにある。これは母親がですね、嫁入り道具に持ってきたもんだと思います。これをこの高校二、三年の頃に一生懸命になって読んだことがあります。そこにやっぱり、有島武郎とかですね、どちらかというと、女性との色恋を書いたような、そういう小説を一生懸命読んだ覚えがあります。それで一遍に目が悪くなりましたね。これは字が細かいんですね。全部その、カナガキがしてあるんです、漢字の部分に。これがおもしろい。で、五、六冊残してある。それに熱中したことがあります。
あとはですね、山歩きと合唱ということで、山歩きと言いましても、僕の場合は、野山を歩いたということで、特に若狭から丹後の、海岸線を、特に大学生の時代に、一人で歩き続けたということがあります。山もですね、一番熱中したのは、二三〜二四の頃ですかね。年間六十回くらい山に行ったことがある。そういう時期的に、非常に山歩きに打ち込んだ時があるということでございます。合唱は中学時代からやっておりまして、大学でもやっておりましたし、社会人になってからも、約二十年ぐらいやっておりましたかね。今はもう、止めましたけれども。合唱もかなり打ち込みました。あとまあ、これは兄貴の影響ですが、僕は兄弟、六人おるんですけれども、すぐ上の兄にですね、黒沢明の映画を見せてもろたわけです。やっぱり、黒沢明の映画というのは、非常に影響を受けました。特に「七人の侍」は、何十回と見ております。今も見ております。そういうものに感銘といいますか、打ち込んだことがございます。考えてみますとですね、十歳から二五歳のこの頃に、こういうことに打ち込めたという環境というか、それは非常に親に感謝せんとあかんと思ってます。自分は、六人兄弟の五番目ですけど、親は、一切、なにせい、こうせいと、口出しはせなんだ。まあ放任と言えば、放任なんですが、ほっておかれたと言えば、ほっておかれたんです。そういうことで、勉強はあまりしませんでしたけれども、こういう夢中になれた事があったというのは、非常に幸せ、今から思うと幸せだったと、そういうふうに思っております。先ほどの、園芸が好きだったということで、大学は農学部へ進みました。大学では、本当に勉強せずに、合唱に打ち込んでおったんです。成績ではアクロバット、卒業の時まで、アクロバットを演じてましてですね、つい最近まで、卒業できん夢を何回も見ましたね。あれは完全に、頭の中に刷り込まれているという感じで。目が覚めると、「アー今、社会人になっておるのやな」と、安心したこと、何回もあります。そういうような状態でした。それともう一つ、大学を半年ほど休学した事がありまして、その時は、僕の母家が上中町にあるんですけれども、そこでニワトリを飼ってまして、それを任されてですね、半年ほど、ニワトリの世話を、四、五百羽だったと思いますが、それをした覚えがございます。そういうようなことで、十歳から二五歳の間を過ごしたと、いうようなことでございます。
あとまあ、社会人になってですね、県庁へ入ったのは別に深い意味は何もございません。ただ、なんとなく入ったということ。福井県の農業をなんとかしないといけないとか、そういう気は毛頭ございませんでした。知らんまに、県庁へ入った。当時の大学の先生から、公務員試験でも受けてみいやと、いうようなことを言われまして、まあ受けたと、いうようなことでございます。農業の技師として採用されたわけですけれども、やはり仕事は仕事でやりましたけれども、その他に、今までの延長でですね、合唱に打ち込んだり、そういうことをしておりました。特にサークル活動として、二五歳から四五歳まで、二十年間、やったことが書いてございますけども、特に福井県庁合唱団を仲間と、作りまして、演奏会を昭和五二年にやりました。これはおそらく、福井県庁最初にして、最後の演奏会だったと思います。誰もやらなかった。そういうことをやりました。あとはあの、山の会を作りました。今は、土日、山へ行きますと中高年で一杯ですね。福井の山も、白山なんかも中高年の方で一杯なんですけれども、そのハシリと言いますか、「若越山友会」というですね、山の会を作りました。僕はもう辞めましたけど、今もこの会は続いております。百人くらいいると思います。そういうようなこともやっておりました。あと「福井ゆうきの会」というのを作りました。これは一九七二年にですね、日本有機農業研究会ができたわけです。有機農業運動というのは、それまでは、今の世界救世教の流れで、岡田茂吉のですね、自然農法という形がありました。一楽照雄とか、そういう人がですね、一九七二年に日本有機農業研究会というのを作りました。やはり有吉佐和子の複合汚染ですね、に影響されたということもありますけれども、一九七六年に「福井ゆうきの会」というのを作って、活動をしたということでございます。最近、その有機農業というようなことはですね、県でも有機農産物認証制度という制度を作りました。僕にもそういう制度を作るときに、委員として入ってくれと言われました。一九七六年当時はですね、非常に批判をされました。宗教と絡めてですね、有機農業というものを宗教と絡めて、「お前は宗教に入ったんか」と言うような、そういう捉え方をされました。今はですね、だいぶん事情は変わりましたけれども、基本的にはその構造は、僕は変わってないなという気がします。有機農業、有機農業と言いますけれども、農業試験場なんかで見ておりますとですね、やはり有機農業そのものの研究というものはですね、熱意を持ってやっていないというのが実情です。まあ、それはそうとしまして、一九七六年にそういう有機農業の活動をしたということでございます。
あとはあの、小学校のPTA。ちょうど、うちの子供は二年か、三年に一人ずつおりますので、最高の時は、六、四、一でしたかね。小学校に三人入ってまして、PTA活動をやったことがございます。五年ほどPTA活動をやりました。会長も三年間やったんですけれども、その時に何をやったかということでございます。我々の所は農村部でですね、今までは学級からPTAの運営委員を選ぶということはしなかった。私の時に初めてその学級委員というものを制度化して、地域と学級、両方から運営委員を出すという形態にしました。それと、体育館の新設をこの時やりまして、その寄付集めに非常に苦労したのを覚えております。あんまり派手にやりますと、外から言われますんで、そこらの所に非常に苦慮したということを覚えております。
あとですね、福井混声合唱団を作りまして、日本全国を視野にした活動を目指しました。福井はどちらかと言いますと非常に、そういう活動があまり盛んじゃないところですので、ちょうど京都産業大学のグリークラブの出身者がおりまして、彼と一緒に、「それなら一回やってみようか」というような調子で、やったことがあります。福井の人口は八三万なんですけれども、なんか母集団がいろんな面で少ないなと感じています。やっぱり人が少ないと、いろんな文化活動というのは非常に弱いなという感じがいたします。それとやはり先生方がほとんどリードしてる。これはやっぱり僕は、おかしいんじゃないかなと、民間の人間が、合唱の好きな人間がやっぱり、合唱活動をもっと盛り上げんとあかんのじゃないかなというようなことでやりました。これは途中で挫折しました。挫折したというか、今、この合唱団は福井コールアカデミーという名前で活動しております。僕は福井混声合唱団と名前付けたんですけど、今は福井コールアカデミーということで、私が考えていたものとは、全然性格が違うものになってしまったというようなことです。まあ、この合唱団に関しては途中で投げ出したような形になりました。だいたい二五歳から四五歳のころはですね、こういうようなことをやっておりました。いろんな活動を通じてですね、特に福井県という風土があるかもしれませんけれども、こういう趣味なり、自主的な活動グループでも、どうしてもその、世話する人間と、世話される人間とに分かれてしまう、誰かがリードしてですね、いつも引っぱってかんとあかんと。そういうのは、おかしいんじゃないかなと思いましてですね、そういうサークル活動というものを、もう一回自分なりに見直してみようというようなことになりました。
だいたい四五歳という一つの年齢、だいたい県庁へ入って二十年。この時分からぼちぼち、自分の仕事に対しての発言力が強まってくるという時期なのです。そういうことで、この時代に一度、今までやってきたことを私なりに見直してみたいと、そういう上意下達の、世界というものをもう一回見直してみようと、僕は四五歳ぐらいの時に考えました。新しい交流、人と人との交流の形というのがもう一回できないかなと考えておりました。ちょうどこの時分、後で書いておりますように、行政に十五年、通算で十五年間いたんです。行政に十五年もおりますとですね、たいていその行政に染まるんですけども、僕自身は逆に染まらなかったと、自分では思っております。行政のいいとこもあるんですけれども、その悪い意味での行政に、私は染まらなかったと思っております。ちょうどこの時分に、この地域にも当然あると思うんですけれども、普及センター、普及員というのがおりますね。農業改良普及員。その時初めてですね、農業改良普及センターへ出たわけです。僕は二年しかそこにはいなかったんですけれども、いろんな調整役の仕事をそこでしとったんですけれども、そこの所長はですね、ずーっとその場所にしかいなかった所長なんです。ずっと最後までそこにしかいなかったですね、その人は。通算四十年間くらいいたんじゃないですかね。同じ場所にですね。普及員でずっといたんです。その人がいつも、僕が帰る頃になるとですね、ちょうど電車で通ってましたんで、仕事が終わってから、ちょっと所長室まで来い、なんて感じで、自分のその普及論をしゃべるわけなんですね。僕は普及の経験はぜんぜんなかったんですけれども、その普及論に非常に共鳴を覚えた。非常にスポンジのように、スポンジが水を吸うように、頭の中に入ったと。そこで行政とまた違う世界、普及の世界というものがあるということを知りました。
(次号へ続く)
編 集 後 記 本年、四号目になるみち三六号は、十一月二三日に行いました、第十回あぜみち収穫感謝祭を中心にまとめてみました。俳句を中心にたくさんの方から投稿をいただき、ありがとうございました。収穫感謝祭にお越しいただけなかった方にも、会場の雰囲気を感じていただければと思います。
今年の収穫感謝祭は、園主の松井利夫さんの計らいで、福井市国見地区自治会連合会の皆様と共催の形で開催することができました。お陰様ですばらしい企画となり、たくさんのお客様に楽しんでいただけたのではないかと思っています。ここで改めて御礼申し上げます。来年の収穫感謝祭については、はじめて嶺南地区で開催させていただく予定になっております。楽しみにお待ち頂ければ幸いです。
今年一年の読者の皆様のご支援に感謝申し上げますとともに、新しい年も変わらぬご厚誼を賜りますよう、お願いいたします(編集部