あぜみちの会ミニコミ紙

みち38号

(2004年夏号)


シグナル38

福井市 中川 清

昨年の天候不順を教訓にして、豊作を願い、今年も県下各地で田植えが行われ、六月にもなって、もう遅植地帯の田植えも殆ど終わった。

機械で真っ直ぐに整然と植えられていく水田を見て、「昨年の古株の跡が残っているわけでもないのに、昔は縄を張ったり、木枠を転がしたりしてそれに沿って植えたと聞いていたが、広い田をあのように真っ直ぐに植えるのは大した技術だ!」と感心してみていた人がいた。

 毎年、植えている私達農家には、当たり前のことでも、周りから見ている人には、不思議な高等技術とも見えるらしい。

「あれは先に植えたときに、次に植えるために、道標となる跡を残していくという秘訣があるんです。その道標を頼りに植えるから、真っ直ぐになるんです。」と説明すると、「なるほど!そうですか、、、!」と感心しながら、納得された。考えてみると、人の生きていく人生行路だって、今の難しい世の中、真っ直ぐに生きられるためには、田植え時のように、先人の残してくれている道標を大切にし、それを頼りにすることが大切なのではあるまいか。

そして、自分も、さらに、次の人のために、なにがしかの足跡を残して、道標になるものをしっかり残せる歩き方をしなくては…と、水が張られ、若苗の青い植跡の水田を眺めながら思うのである。




「嫌になります」

福井市    名津井 萬


国会で政治家の年金の未納問題が紛糾、責任追及があるが、その政治家も跡に続く人のよい道標たるか、反省して欲しいものです。

 去る四月十日、私の集落の鎮守の社、愛宕神社の春祭りであった。神事の後で、お供えの神酒を下げてきて、男、十名が酒を酌み交わし雑談にふけった。

 その中で戦火の絶えない中東の民族戦争、宗教戦争の話になった。特に宗教戦争の怖さと深さが出た。その中で日本の良さに幸せを話し合った。それは日頃、我々は佛に手を合わせ、神に拝礼し、感謝と敬いの祈りを捧げる。

 キリスト教会での結婚式にも参列し手を合わせる。これらは日本人の柔軟性のある、共存共栄の証ではないだろうかと結論が出た。

 数年前に地元の小学校の児童達が歴史探訪で、愛宕神社について話してほしいと訪ねてきた。色々と説明の後、神殿を開扉し拝観してもらった。
その時、一人の児童は拝殿にも入らず外に立っている。親から決して中に入ってはならないと言われているそうだ。ある宗教を信じているからとのことらしい、私は寂しい想いと可哀想に思った。
 私はいいかげんな農夫だが、自分の宗教を信じ、他人の宗教にも手を合わせる心の広さがなければならないと思っている。
 そこで私には嫌なことがある。私の先祖代々が信教している真宗大谷派の東本願寺は、私の父が祭られている靖国神社を相手取り、首相参拝は憲法違反だと告訴している原告団の最リーダーである。「同胞」という機関紙にもそれを報じている。なぜか偏った考え方をもって、一新聞の記事などを取り上げている。佛の宗教団が、裁判という俗人社会で、被告席に靖国神社を座らせて糾弾している。佛につかえ、佛の道を我々凡人に導くべき教団でなければならないのに何たることだろうかと嫌な思いをしている。
 佛の心とは、無限の包容力の大きなものではないだろうか。東本願寺はかつて新聞紙上を賑わした「お東騒動」を引き起こしたことがある。私は門徒の一人として恥かしかった。裁判慣れしている東本願寺は、今、靖国神社を血祭りに挙げようとしている。私の最も嫌な「嫉妬、妬み、やきもち」かと思う。
 私の父は、昭和十三年、支那事変で北支で戦死している。戦死の直前まで走り書きしていた手帳には、一死報告、守死ス、と記してある。今年の三月三一日に発行された「福井市史、通史編三、近現代」の五三五頁より五三九頁にかけて「名津井進の陣中日記」として記載されている。戦争とは良いも悪いも国難であり、敵も味方もともに聖戦のつもりである。戦争とは一点をとらえず、先の先からと裏、横からもよく見る必要がある。A級戦犯という言葉があるが、それは戦勝国が戦犯国を裁いた結果である。戦勝国にも戦犯は必ずいるはずだ。
 先祖代々、今も手を合わせている信教の真宗大谷派の東本願寺が、私の礼拝する靖国神社を裁判という俗人の世界で争う姿に「本当に嫌になります」。

〔付記〕里別所のフキ
        玉井道敏
福井の伝統野菜の掘り起こし調査で、この六月〜七月にかけて二度、名津井萬さんのところへでかけました。里別所は名津井さんの自宅がある福井市地蔵堂町に隣接する集落ですが、里別所、地蔵堂町を含む地域では平成に入る前まで多くの農家がフキを栽培し、福井市のお神明さんの祭り(五月の連休のころ)の頃に出荷していたそうです。農家の兼業化が進むにつれて出荷しなくなったそうですが、今でも各家で自給用に作られています。
自宅から少し離れたところに名津井さんの畑があり、その片隅に写真のようにフキが作られていました。十五平方メートルぐらいの面積でしたが、わらで編んだ囲いや日覆がしてあって、ていねいに作られていました。
そして、その畑の一画に墓所があり、立派な石碑が建てられていました。それが支那事変で戦死された父親、名津井進さんの碑です。名津井萬さんがお父さんの戦死以後、幾多の苦難を乗り越えて、今日の経営を築き上げられた経緯については、一九九三年にあぜみちの会が発行した『あぜみちのシグナル第U集』に詳しく記載されています。この文章と併せて、ご覧下さい。



私が見る都市化された農村事情

福井市  酒井 恵美子


春の暖かい陽気に誘われて、菜の花は一斉にぐんと丈を伸ばし蕾をつけ始めました。開花すれば硬くなって食用にならないので摘み始めた折り菜を両腕に抱えて近所に宅配するのにその対応がおぼつかない状態です。
 折りしも、三月二八日は『マナまつり』です。
 「敦賀くんだりまで高い交通費を払ってマナを摘みにいくこともあるまい」…と思うであろう家族の顔色が目に浮かんで「連れて行って」とは言い出しませんでした。二八日は最高の行楽日和との天気予報を聞くと、「行かなかったら後悔が残る」と思い立ち、渋る主人を拝み倒して早朝から出掛けてみました。
 会場は、広々とした一面の緑とまだら模様の黄色が織りなす畑に人々が蝶のように舞っていました。
 静かな山里にこんなにも生き生きした人達が、こんなにも大勢集まっていようとは思いもよらなかっただけに、驚きと感動で胸が一杯になり、年甲斐もなくはしゃぎたいような気分になり、ちょっと欲を出して五〜六軒分のマナを知り合いの手土産にと摘んで帰りました。マナは柔らかく、色よく、食味良く最高の出来映えだと思いました。
 私は福井市内の近郊農村に住んでいます。私が嫁いだころは一面の田んぼが拡がる米作地帯でした。私の家も勿論割に合わない米作りをしていてよく手伝わされ「まっぴらごめん」と思ったこともしばしばだったと思います。しかし、そのうちに周りから農業離れが目立ち始め、土地を売る、貸家やアパートを建てる、農地は供託するようになり、老いも若きも稼ぎに出て行きました。その間にも、いろいろ事情があり、今では農家でありながら自給用の作物を育てる土地すらもたない人が多くなりました。中には菜園の土地を人に借りる人もいて、おかしな現状になっています。
 私は今、四百坪の自給用の菜園を持っていますが、「採算の合わないことを物好きな」といわれ続けてきましたし、今でも思われているかも知れません。
 また話が変わります。
 近年、私の娘が生前相続だとか言って田んぼを一反埋め、小さな家を建てました。余白の土地が百坪ほど残った所を実は持て余していたのです。放っておけば、生いや茂れるの野草国になるのを懸念して、とりあえず、接木スイカとカボチャとサツマイモを作付けしました。「これなら来年は連作の心配もなく何でも植えられるし、放っておいても何とかなる」と考えたからです。期待はしなかったのにまずまずの収穫はありました。
 昨年はナスとスイカを追加して作付けしました。ところが意外な収穫がありました。近所の子どもが遊びに来て、夏にはとれたてのスイカを食べ、余ったナスやスイカを時々家に持ち帰り、イモを掘って焼きいも会をしたりし始めたのです。
 今年は、キュウリ一列とホウレンソウを二列ほど増やそうかと思っているのですが。
 今年になって思わぬ反応を耳にしました。お母さん達が「畑がほしい」「うらやましい」と言い出したのです。また、近所の農家の人たちの中でも定年を迎え、何もすることがなくなった人(特に男の人)が、自家菜園を始めたいと思う人が出始めたのです。農家でありながら耕地がないという人がかなりいるのです。これが、近郊農村の現状ではないかと思います。
 田舎にいて都会のような暮らしが幸せかどうかは私にはわかりませんが、なんだかさびしいような気がします。私は耕地がある限り、ダイコンやトマトを八百屋に求めに行くようなことは、命のある限りはしたくないと思っています

 



福井の専業農家・その群像
第2回
杉本英夫(45歳)


やまあいのけむり

日本海を見下ろす福井市郊外
炭焼きを中心に椎茸、花木、桑畑
銀杏、山菜、ほうれん草、養蚕
少量多品目主義、農林複合経営
山の暮らし、森の技を
今に生かす

山あいにけむりが昇り、生業を営む
炭は炭として呼吸し生きる
桑を食む音、蚕の逞しさ
山の息吹を肌で感じながら
緑の大切さを、より多くの人に
体験型の農園を目指す
山で生きることに迷いはない
(福井市足谷町)

(写真・文  松田宗一)



「初めて撮った一枚の写真」
福井市足羽山動物園長
北 村   徹


福井市のど真ん中に、標高約百メートルの小さな山がある。この山は足羽三山と呼ばれ足羽山、兎越山、八幡山の三つの山を総称している。この山に約五十種の蝶々が生息していると言われている。その中の一種"ギフチョウ"が福井市の天然記念物(昭和四五年十一月三日)に指定されている。"ギフチョウ"は"アゲハチョウ"の仲間でカタクリ(片栗)の花が咲く早春より蛹から羽化し、その花の蜜を吸って成長していく、そして、飛び交う姿が優美で美しいことから春の女神とも言われている。またサクラの開花を告げる蝶々だとも言われている。
 足羽山での最初の出会いだが、私がミニ動物園に勤めてから三年目の平成八年の早春であった。それまで一度も見なかったのだが、ある日突然にミニ動物園の芝生の広場一面にまだ嘗て見たことのない無数の"ギフチョウ"が飛び交う素晴らしい光景に遭遇した。
一瞬立ち止まり驚きと感動に唖然と見ていたのだが、この光景はどこの昆虫園にも負けない大規模なものであった。
しかし翌年には全く見られず、その後も"ギフチョウ"の姿は見られなかった。この事があってから、なぜだろうの疑問と素晴らしい光景をもう一度見たい欲望に駆られて"ギフチョウ"の幼虫を育てるための園内圃場造りと幼虫の餌となるカンアオイの移植、それにカタクリの群生地の調査と保護に乗り出した。その結果、大小併せて十数か所の群生地を見つけることができた。
こつこつ山歩きをしているといろんな人との出会いがあるものだ。散歩している人、自然食愛好家だといってフキノトウを取っている人、なかにはカタクリの群生地で長寿の妙薬だといって花を摘み取っている心無い人達との出会いもあった。人魚の肉を食べて長生きした八百比丘尼の伝説のような話だ。しかし甲斐あって平成十五年三月二九日"ギフチョウ"が七年ぶりに戻ってきてくれた。その"ギフチョウ"を見て思わず喜んだ。写真撮影をして早速、情報機関に報告。そして今年(平成十六年)は前年の数倍になってミニ動物園に戻ってきてくれた。こうなってくると人間は欲が出るものでカタクリの花に止まっている"ギフチョウ"の写真を撮りたくなる。早速カメラを担いでここと決めていた場所に跳んで行った。ついに三月二六日、撮影に成功、心臓の高鳴りを覚えた感動の一瞬であった。初めて新聞(日刊県民福井)に掲載された。自分が撮った写真はやっぱり宝物。年老いても人生いつまでも楽しく生きたいものである。


「鬼がいた山」

福井市   細 川 嘉 徳


 「鬼ケ岳」に登らないかと親友のOさんから誘われた。山の名前に惹かれロマンを感じたので参加をお願いした。当日の五月三〇日は数日前から天気予報は雨だった。どうせ駄目だろうと思っていたが幸い朝は快晴になった。出かける面々は男性二名、女性四名の計六名。八時ごろ車二台に分乗して武生に向かう。途中コンビニで昼の弁当を買い大虫町のカントリーエレベーター近くの「鬼ケ岳駐車場」に着く。既に二十台ほど来ている。
九時三十分頃登山開始。登り口に大小二台の水車が回って水を汲み上げている。洗い場になっているようで、数人がタオルのようなものを洗っている。すぐ近くが登り口だ。登山案内板に昔この山に鬼がいたと書いてあり、高さは五三三mとなっている。道はすぐに杉木立の中に入り、緩やかで山鳥が鳴き風が爽やかで気持ちが良い。ものの五分もすると降りてくる人と会う。早い人が居るものだと思っていると「あの人たちはまた別の山に登るのです」と先輩が教えてくれる。足羽山よりすこし高い山ぐらいに考えていたが、次第に勾配が急になってきた。これは違うぞと思って歩くと今度は険しくなってきた。道は薄茶色の岩肌になっていて滑り易い。もう周りの景色を見る余裕はない。まず水を飲んで後を追いかける。「あと千百メートル」、前の方でそんな声がする。いつの間にか曇って視界も悪い。道を覆う木がないので登るのには今日のような日が良い。先に行った仲間の話し声が賑やかに近づいてくる。道幅が少し広くなり下界が見える「子鬼展望台」で待っていてくれたのだ。
荷物を降ろし腰を下ろすと看板には「白鬼や大鬼(青鬼)が帰ってこないので、里人達に殺されたことも知らず里の方を眺めては帰りを待った所です。」と書いてある。ちょっとわかりにくい感じもするが「昔この山に鬼が住みつき、里に下りては田畑を荒らし悪さをした。」と登り口に書いてあったのを思い出す。
前方に見える日野山はこの辺りでは一番高いと聞いているが、さすがに周りの山々を従えて聳える姿は貫禄十分だ。ウグイスがしきりに鳴いてくれる。こればかりは登山の醍醐味だ。ギャーッと鳴いて飛び回る鳥はなんだろう。山鳥の声が賑やかだが鳥についての知識のない身には猫に小判で情けない思いがする。
 小休止の後出発、数分で汗が出てきた。また道が一段と険しくなる。曲折があまりなくその分きついのだろう。「この山を登れば白山にも登れますよ」と先輩が親切に言葉を掛けて元気をつけてくれる。周りを見ると広葉樹に混じって松も見える。有り難いことにこの山は百メートル間隔で標識が出ているので気分的に助かる。
 あと六百メートルと書いてあるところで「大鬼展望台」に出る。展望台と言っても木立が切れて腰掛が作られている程度のものだ。先の所とは高い分だけ景色が広く見える。ここでも一息入れる。Oさんからいただいたリンゴがとても美味しい。食べ慣れたリンゴもここでは不思議と味が違う。これも登山の楽しみか。ここにも案内板があり「白鬼の帰りを待ちわびながら大鬼(赤鬼)が悪計を考えた所ですが、この鬼も里人たちに追われ日本海の方へと追われ海辺にて殺されました。現在の敦賀市赤崎海岸です」と書いてある。日野山の形が変わって美しい。一行を見守ってくれている感じだ。
 道は険しいが幸いロープが付けられている。これを使えば安心だ。と思ってもあまりこれに頼りすぎると体のバランスが崩れて危険だ。岩角に手を掛け這い上がる所もあった。あと二百メートルの標識を見たとたん元気が出て足が軽くなった。道は緩やかになり前方が開けてきた。右手に大きな小屋が見える。神社の鳥居が見える。山頂は公園のようになっていてかなり広い。時計は十一時を廻っている。
 神社の後ろの展望台に登る。白い花が咲いているのはヤマボウシだろうか。晴れた日は白山や敦賀半島が見えるというのに今日の天気では仕方がない。無事に登れたので神社にお礼参りをする。案内板に「大虫神宮社跡」とあり祭神は南越開闢の神(神武天皇の祖父神)で難しい名前が書いてあった。また昔イナゴの大群が発生した時、この神社のご利益で全滅し天下安泰となったとも書いてある。
 すぐ近くでウグイスの鳴き声がする。何処にいるのだろうとみんなで探し始めてまもなく「あっ居た。」Aさんの声にみんなが集まる。松ノ木の頂上に居るという。みんなが騒いでもこのウグイスは動かず鳴いている。「いい子だね。」誰かが言うとみんな大笑い。里ではなかなか見つからないし、近づくと逃げてしまう。それに日本画の世界では「梅にウグイス」が常識だが、此処では「松にウグイス」が自然にとけ込んでいて、新しい発見をした思いがする。夢中で望遠レンズを一杯伸ばして何枚も写した。
 良い気分になってみんなで昼食を食べていると、若い娘さんが一人小さな水筒一つ持ってズック姿で登って来た。登る途中にすれ違った人だ。ここまで登る間に彼女は二回登ったことになる。カメラのシャッターをお願いしたら気軽に応じてくれ、聞けば子育ても一段落したので、体力づくりに山登りの練習をしているとのことであった。すごいなーと思っていたら、なんと毎日登っていると聞いて二度ビックリ。美人様はお菓子や果物を貰って降りていった。
 Oさんのご主人から「福井は雨が振っている」と電話が入る。下山開始。帰りは登り口と反対方向の広葉雑木のナラやブナ林を下る。登り道と違って土の道なので足は楽だが、坂が急なのでうっかり油断は出来ない。少し降りかけた雨はいつの間にか止んだ。道は一旦上昇したのちまた急な下り坂になり、モミジや夏ツバキの中をかき分けるようにして下る細い道、周りは全く見えないが木漏れ日の中の世界は最高だ。ヤマユリがところどころに咲いている。歓迎されている気分で見ている間は疲れを忘れさせてくれる。下りは展望が出来ない代わりに緑のトンネルが嬉しい。山鳥の声が聞こえなくなったころ、麓に着いていた。
 水車がコットンコットン音を立てて廻っている。何かを搗いているのではなく音を出す装置がしてあるだけだが、これも名物の一つになる。ここでザックを下ろし顔を洗う。良い気持ちだ。
 ふとこの山にいた鬼達のことを思う。悪さをして村人達に追われ殺されたとも知らず、泣いて帰りを待っていたのが気にかかる。鬼の目に涙、中には良い鬼も居たのではないか。
今、人間社会では良い意味で鬼という言葉が使われている。仕事の鬼、学問の鬼、鬼才と呼ばれる人達がいる。私の親友も仕事の鬼だったが、残念ながら今春鬼籍に入ってしまった。そして鬼の世界からこちらを見ているに違いない。鬼を身近に感ずる昨今である



ま じ は り
     福井市 鉾俳句会


睡蓮の一つ二つと試し咲き    田中芳実

狛犬の口の中より雀の子     伊阪みゑ子

湧水の鼓動戴く水芭蕉      川田邦子

減反の田に枝豆の房揺るる    西 惇子

藻の花を遠目近目に声高し    畑 純子

母の日や一番風呂の贈物     月輪 満

夏も炭焼き赤銅の顔に笑み    嘉藤幸子

献穀田風の高みを秋燕      榊原英子

村興しテントに並ぶ朴葉飯    笹岡美津枝

色づきて柚子の初生り知らさるる 豊岡露滴

父の忌や苺一粒熟しけり     中川ヒロ子

泣き止まぬ子に一房のミニトマト 西田美弥子

鍬の柄に休みし蜻蛉飛び立ちぬ  西本きく

早乙女の姿縁起の餅拾ふ     前田秀義

猪の子の背丈確かめ柵を張る   前田孝一

飛騨自由大学セミナー・講演録(連載第四回)

「人と人」、「人と自然」の新しい繋がりを求めて

福井市  玉 井 道 敏


 あと、「あぜみちの会」の設立ですけれども、一九九一年に、農業試験場におりました時に、その部下と非常によく気が合いまして、一緒に仕事をやりました。その時に、農家のですね、農家の言葉を本にしようやというようなことを考えたわけです。今、その農業・農村について発言しとる人は、マスコミか、学者か、官僚か、そういう人ばっかりが言うとるわけです。自分で実際に、体を動かしとらん人間がですね、農業・農村について、物事を言うとるわけですけれども、それはそれで、その自由は認めますけれども、そうでなしにですね、実際に農業をやってる人のその声をですね、やっぱりこう、発信しようやないかということで、この「あぜみちの会」というのを作って、そして本を四冊ほど作りました。今日ちょっと持ってきておりませんけれども、飛騨・世界生活文化センターにあるんじゃないかなと思います。その活動が十二年目に入ってます。皆さんの今日のお手元にですね、収穫祭。収穫感謝祭の一枚の案内があると思うんです。毎年十一月二三日に、一枚だけの、裏表両面の資料があると思うんですけれども。そういう形で農家のハウスとかですね、農家の農園を会場にして、収穫感謝祭を、やっています。今年で第九回、毎年続けてやっています。この「あぜみちの会」で面白いのは、若い農業者の支援をしようということで、ある農家が、農業者年金がもらえるんですけれども、年金はいらんから、寄付する。それを若い人にですね、論文を一応出してもらって、夢を語ってもらうと。その内容を見て、現地審査もやりますけれども、その方に三十万円のお金を出そうということで、今年で五年目ぐらいになります。実は何通も応募があるといいんですけれども、あまりありませんね、残念ながら、多くて二つか、三つですね。これはもっと宣伝の仕方とかそういうのもあるんですけれども、三十万円の金というと、かなり若い農業者にとっては魅力じゃないかなと思っていますけれども、そういう活動もやっております。この「あぜみちの会」というのは、規約もございませんし、会費も無いんですね。機関紙『みち』の購読料は年間千円もらっていますけれども、規約無し、会費無しで、誰がスタッフであるというのもですね、何となくありますけれども、それ以上のものではない。きちっと何も文章には決めてないと、いうことでございます。そういう漠然とした中で、この会の活動を今、進めているということでございます。あとは、福井の伝統野菜の発刊ということで、伝統野菜は飛騨にもたくさんあると思うんですけれども、この本を作りました。これは三年前、一九九八年の十月に発刊されました。我々と福井県の農業改良普及員も含めて、二十人ぐらいでまとめたんですけれども、県内の伝統野菜二七品目の紹介をしたんです、これで。京野菜は、今、いろんな振興に向けて活動、推進をされていますけれども、加賀野菜というのもありましてですね、岐阜もそういう動きがあるというのを聞いております。伝統野菜は、今、全国で静かなブームという状況です。今はたいてい、タキイとかサカタ種苗とか、そういう大手の種苗会社の種を使うんですけれども、そういうものでなしに、自分で自家採種してですね、自分の野菜にこだわって作り続けている農家がいたこと、そのことが一番の最大の収穫でした。これは我々で、全部作ったんですけれども、最終的には福井新聞社に持ち込んだんですね。そしたら新聞社が受けてくれて、これを発刊してくれた。三千部を作りました。一冊二八〇〇円なんですけれども。今はもう殆ど無くなりました。最近この改訂版を作ろうかという話しをしております。これも非常におもしろい作業でしたね。これは別に、県の予算が付いたとか、そういうことではありませんでした。課外授業として、課外の仕事として、こういうものを作ったということでございます。それを元にですね、三年前に、伝統野菜についての会を作りました。それが「ふくいの伝統野菜・るるぶの会」結成ということです。この「るるぶ」とはなんぞや、日本交通公社も、るるぶという本を出しとるんですけれども、見るの"る"と、食べるの"る"と、遊ぶの"ぶ"ということで、そういう会を作っていろんなことをやっております。ただ基本的に内部で意見が分かれるのは、伝統野菜を振興しなければならないという考え方の方と、そんなものはどうでもいいと、結果として振興に繋がればいいのであって、大いに遊んだり、食べたりしようじゃないかと、大きくは二つの意見がございます。僕は当然後者のほうなんですけれども、振興するのは行政がやってくれればいいやろ、我々は大いに遊ぼうやというのが僕の考え方です、今年そこでちょっと取り組んでいる、おもしろいことが、焼畑の体験なんです。今皆さんのお手元に、「るるぶ」の最新の機関紙七号をお渡ししてあると思います。それを見てもらうと、書いてあるんです。美山町。福井県の美山町の河内、さんずいへんのカワですね。河の内。そこに赤かぶらがございます。なんか日本三大赤かぶというのがあるそうですけれども、飛騨の赤かぶも入ってるんやないかと思います。日本三大赤かぶですね。これの一つとして、その河内の赤かぶがあるんです。この赤かぶは焼畑栽培で作られていたのです。今も一町くらい、焼畑で作っております。我々、野次馬根性でですね、今年は自分等も体験しようじゃないかということで、地元の山を借りて、木と建築の会と(彼らは焼畑をもう十年ぐらいやっている)一緒になって、焼畑の体験をしました。読んでもらうと分かるんですけれども、七月の一番暑い時にですね、木を切って、草を刈ってですね、だいたい延べ六十人/日ぐらい入ったですかね。二反か、三反ぐらいしかないと思うのですけれども、ここはちょっとスリバチ状の地形やったんです、そこでびっくりしたのは、地元の八十才を越えた方がですね、このチェンソーをひょいひょいと担いでですね、三十メートルぐらいの木をいとも簡単に切り倒すわけです。あれにはたまげましたね。やはり全然、そういうことをずっとやってきた人と、我々とでは、全然能力が違うということを強く感じました。それでもやはりそういうことをですね、一般の素人でも、そういうことをやると、地元の人は注目するんですね。地元の人が、自分たちも焼畑でそばを作ろうとかですね、そういう話に今なっています。非常にしんどい経験をしたわけですけれども、そういうこともやっております。
あとですね、まあこういうことやってきた、というようなことで、説明を申し上げましたけれども、僕はやっぱり物事は具体的に成果を挙げていかんとあかんやろう。自己完結して、小さいことでも、大きいことでもいいんですけれども、具体的にきちきちっと、物事を成果として挙げていく、その蓄積が大事やろうと。そういうことを普及センターの所長時代にもよく、部下にも言うたんですけれども。なんとなくですね、活動はしているんだけれども、実績の上がらん人がたくさんおるわけです。やはりその、そういう集中力というか何か、これ絶対成果を上げるんやという気構えですね、そういうものの積み重ねが大事やないかなという感じを持っております。
来年の三月で一応今の職は退職しますので、非常に自由になるということでございます。やはり県の職員ということでですね、制約を、私はあまり制約を受けなかったほうなんですけれども、でもやっぱり制御せざるをえなかったという面がたくさんあります。そういうことでこれからは、お金は無くなるんですけれども、より自由にですね、やれるなと、そのように思っております。今までやってきたわけですから、あとはまあ、余禄で楽しもうかなということを考えております。そこに、皆さんのお手元にお渡ししているんですけれども、私設研究所というものを作ってですね、今までの集大成なり、総合化なりをやってみたいと。そこに書いてございますけれども、官と民ということであれば、民の立場に立つと。公と私であれば、私の立場に立つと。個と組織は、個の立場に立つと。生産者と消費者は、生産者の立場に立つと。最近消費者に軸足を置いた農政なんて言うておりますけれども、僕はあんまり好きではありません。私はあくまでも、生産者に軸足を置いてやっていきたいと。それと支配する側と、支配される側と分かれますけれども、私は支配される側に身を置きたい、そういうふうに思っております。一円以上の、寄付やカンパをしていただければ、全員が研究員というような形で、自由に研究所の資料等を使って、研究をしていただく、そういうような研究所にしたいと思っております。
あとですね、そこに付録として、家族はどうなっておるんやとか、仕事はどうやと、いうことですけれども、家族は五人ですね。長女は結婚しておりますけれども、長男と次女と三人子供がおります。僕の嫁さんは、寸鉄とかそういうことには、一切関わらないということでございます。自分でも、日本語の輪を広げる会で、日本語を外国の人に教えたり、合唱団にも一つ入ってますし、そういう活動をしてます。もう一つ、最近フラメンコを始めました。お互いにそこの所は干渉しないと、好きなようにやるというのが、我が家の考え方でございます。やはり、三十何年間、県庁が金をくれましたので、家庭が持てたと。それだけでやりましたけれども、そういう点では非常にありがたかったなと、今思っております。家庭がすべてではないんで、今拉致問題なんかでも、家とか、家庭とか、そういうことにものすごくこだわっていますけれども、私は家庭は一つの過程にすぎないとそのように思っております。三十何年間、家庭生活をしたということで、僕はいいんじゃないかと、別に家を継ぐとか、そういうことは一切考えておりませんので。家族状況はそういうことです。
 あと、仕事はですね、そこに書いてありますけれども、三六年の間で、九回変わりました。一応、行政、試験研究、普及・教育、全部やりました。やっぱり一番おもしろかったのは、六番目の福井県農業試験場の五年の間ですね。それと奥越農業改良普及センターの三年。ここで一番よく仕事が出来たと思っております。先ほども言いましたけれども、行政は一番長かったんですけれども、行政に染まらなかったということも言えますし、ただ行政で勉強になったのは、大枠で物事を捉えるというんですか、パッと決断をして早く、拙速主義でもいいから、早くその物事をやるとかですね、なんかそういう面では訓練になりましたですね。そういう面は、現在の自分の物事のいろんな考え方の中にも入ってるんじゃないかなと思います。今、体調等、非常に健康でございますので、六十歳の還暦の一区切りとしてはですね、非常に幸せであったなと、そのように今思っております。
あとですね、スライドをやりたいと思います。最近十五年の間に行った旅とかですね、そういうことをちょっとお見せしたいと思っております。二百枚ほどありますので、流します。この中に自分の一番下の子供は、杏子と言うんですけれども、彼女が一年間、高校一年生でタイへ行きまして、その時のフィルムというか、スライドもあります。ちょっと親ばかで申し訳ないんですけれども。
これはですね、先ほど言いました、ドイツのクラインガルテンを見に行きました。これは二十日間、一人で行ったんです。汽車でずーっと回ってですね、フランクフルトから、ミュンヘン。それからミュンヘンから東へ入りまして、ライプチッヒ、ベルリン、そしてハノーバー・ブレーメン、ボン、そしてフランクフルトへ戻った。これが、ミュンヘンですね、ミュンヘンはクラインガルテンが非常に盛んです。こういう形でだいたい百坪ですね、一区画。日本のその、市民農園というのはですね、だいたい僕の家の近くにあるのは、三坪くらいですかね。こういう小屋、ラウベと言うんですけれど、小屋を必ず中に建てている。その地域によって違いますけれど。主に、僕が行った時点では、こういった花を作ってました。これはラウベの中の様子ですね。ここで休んだりですね、非常に、やはりこう、いろんな置物とかそういうのを置いて、この中で楽しむと。ただ宿泊は、ミュンヘンでは出来なかった。宿泊してはだめと言うことになっている。それは地域によって違うのです。この方は、通訳の長谷川さんです。この方とは、今も付き合い、寸鉄を送っています。こういう感じで、これはダリアですけれども、きちっとした帽子をかぶってですね、こういう手入れをされている。これはその、こういう一つの単位の、百坪のクラインガルテンが、二百とか、三百とか、集まっているわけですね。そして一つの園地を形成している。その二百、三百のクラインガルテンの所有者で交流を図っておるわけですね。それようの建物です。こういう小人の置物とかですね、こういうのがかなり、皆さん好きで、かなり見られました。これはドイツのミュンヘンのクラインガルテンのボスといいますか、元締めのマースさんという方ですけれども、その方の所へ行きました。先ほどの部屋の中ですね。そういう全体のその交流の施設の部屋の中はこういうふうです。これは今、剪定したものとか、生ゴミを堆肥にするために、堆肥場があるわけですけれども、そこへ持っていくところです。これは駐車場なんですけれども、駐車場もまさに日本の駐車場ですよというよう、線引きしたような駐車場じゃなしに、出来るだけ、そういうコンクリートは見せないと、こういう状況の駐車場です。これは堆肥場です。クラインガルテンの堆肥場です。こういうことで、子供が今遊んでいますけれども、そういうクラインガルテンがたくさん集まって、一つの園地を形成しておりますけれど、その隣に、大きな公園があるとかですね、ということで一体が大きな緑地になってるわけです。これはちょっと分かりにくいかも、アリッサムですね。作る花は、その人の個性でいろいろです。こういう感じで、ここは芝の手入れをされています。これはですね、東ドイツのほうなのです。やはり東ドイツはですね、この時点では、ライプチヒへ行った時にまず公害の臭いがしましたね。駅で。こういう感じの、間に柵を置いてですね、これも一つの、中はクラインガルテンだったと思うんですけれど、ちょっと対照的やったなと。こういう感じですね。絵を置きまして。これはハノーバーだと思います。この方が案内をしてくれました。この方はフンボルト大学の副学長です。金沢大学にいらっしゃったことがあって、その時会っていましたので、フンボルト大学を訪ねたのです。この方は通訳。東ドイツの通訳の方です。この方が副学長です。その通訳の方がですね、俺の所もクラインガルテンあるから、それなら案内するわということで、案内してくれました。自分のクラインガルテンです。ここの場合はですね、ここで寝てもいいよ、泊ってもいいよというような、だから場所によって違うんです。これはベルリンです。これはハノーバーへ行った時に案内をしてくれた人です。この方は通訳の方です。ハノーバーは非常にきれいなクラインガルテンがたくさんありました。これはアリッサムですね。これはマメ科の植物ですね。これは非常にきれいなアーチになっていました。それぞれ皆、持ち主の個性が出ています。これはブロッコリーではないのですけれど、ブロッコリーのような野菜でしたね。これはラウベの小屋の壁面というか、つたで覆ってる状況です。これはこういう、この中に堆肥を作る場をもうけてあります。これは剪定したものを、このチョッパーで砕いて、堆肥にするということです。以上がクラインガルテンです。
(以下、次号)




編集後記


◎編集長の怠慢で、「みち三八号」の発行が大幅に遅れ、早々と原稿を提出していただいた方々にご迷惑をおかけしました。こころよりお詫びいたします。その結果、提出原稿の季節感が発行時とずれましたが、あえてそのまま掲載させていただきました。ご了承ください。
◎今夏は台風の当たり年、その内のいくつかが日本海を北上し、福井地方、何回か高温の強風が吹き荒れました。また、七月十八日には福井豪雨によって大きな被害が出るなど、今夏は荒っぽい天気模様でした。それでも何とか無事に稲の収穫時期を迎え、刈り取り真っ最中です。日本へ稲作が伝来してから、通算二千年を超えて作られ続けられてきた歴史と栽培技術の蓄積の重みを感じます。
◎先日、越廼村を訪れ、特産である『沖漬イカ』を作られているS夫妻のお話しを伺いました。それぞれの漁家で自家用に作っているスルメイカの醤油漬けを商品として売り出すまでに、五年間あれやこれやと試行錯誤を繰り返したこと、材料となるイカや漬け汁を徹底して吟味するので、限られた季節に限られた数しか作れないこと、儲けよりもいい物を出してみんなに評価されたいことなど大変いい話をお聞きできました。また、今流行の『サバのへしこ』にしても、材料としては地場産のサバしか使わない(へしこにしても、焼きサバにしても一般に出回っている商品はその殆どが海外産のサバを材料としている)ので、自家用に毛のはえた程度で数は作れないなどとも言っておられました。篤農家という言葉がありますが、篤漁家という言葉を新設したい気にさせられました。何はともあれ、その志にすっかり魅了され、口先だけの、いい加減さが横行する風潮の中で、そのこだわりは得難いものであると感じ意識を高揚させられました。
◎申年の梅干は縁起物、西田ウメの本場、三方町の友人に完熟ウメの紅サシと木田チリメンジソで漬けてもらっていた梅干しが出来上がってきました。色といい、香りといい、柔らかさといい、なかなかの新梅干しに仕上がりました。"たかが梅干し"ですが、"されど梅干し"でもあります。
(玉井道敏)


 


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