シグナル42
福井市 中川 清
「今日も元気だ!」という一言の明るい挨拶が、相手をも元気づける。最も金のかからぬボランティアです。
お役に立つことが楽しい。それが私のこれからの人生の使命なんです。そうです、命を使うことです。
「幸せ」は仲間で味わうと倍の味がする。
「辛いこと」も、仲間で耐えると半分になる。
仲間を夫婦に置き換えても同じことが言える。
ホリエモンとか、ライブドア事件など、今、とかくゼニ銭、銭の世の中、銭とは、¥の事、その¥を、醜い汚いと、無理遣りに蓋(⊥)をすれば辛いという字になる。
ところが¥に土を被せれば幸という字になるものだ。
じゃ、土とは何か?
方言で「ベト」のこと??土という字は、プラス(+)一と書く。すなわち、今までやってきた事に、何かをひとつ加える事だと解釈すると面白い。
このところ、神奈川県下、平塚市、鎌倉氏などの小学校に、食育ボランティア活動の出前講師で、「米作り」の話に行く機会が何日か続いた。熱心に、話を聞いてくれた。米作りビデオを見せ、あと、「人が米でも、何でも作れると思ったら間違いです。私も、米は作れません。稲が作るのです。その稲を一生懸命育てているのです。そうすると稲は花を咲かせ米と言う実をつけてくれるのです。」と話して来た。そして最後に稲は、米と藁を残してくれます。その藁は、注連縄、畳など、私たちの周りに生活文化として生きているのです・・・・とも・・・。その児童の何人かから後日、便りが届いたのが一番嬉しい。
牛乳を飲んで下さい
福井市 名津井 萬
私は酪農と稲作の複合経営で生活をしている。
現在、酪農は牛乳の消費激減の影響で、平成十七年度の生産乳量は、後半に入って生産抑制が求められ、生産調整に入った。十八年度から日本酪農は、本格的に牛乳の生産調整に入る事になってしまった。
過去に、昭和五十四年頃に、牛乳の生産調整の経験がある。個々の酪農家に対して上限が示され、それ以上生産した場合は、ペナルティが課せられた。この時に多くの酪農仲間が廃業した経緯がある。この時、残念ながら仲間同志が、個々の牛乳生産量の割当について、いがみ合った覚えがある。この時、「同業者は最大の敵」と云う言葉が身にしみた。今回も大きな、ゆさぶりで酪農仲間が脱落しなければと思っている。
この原因は、牛乳消費の激減である。牛乳消費の調査によると、現今の大学生は、中、高校生の牛乳飲用より少ないとの結果が出ている。一因として、大学生になると一人生活となり、下宿生活などにより金銭的な事もあり、自分から牛乳を買って飲まないそうだ。代わりに、お茶、コーヒー、ジュースだと云う。
過日の日本農業新聞(17・12・1)に奇しくも二つの牛乳についての記事が掲載されていた。
一つは、雪印乳業と長崎大大学院の共同研究チームが、牛乳には抗エイズ効果がある事を見つけ、日本エイズ学会で発表するとの朗報である。
もう一つは、論説で牛乳の新しい効用として、牛乳は肥満の予防になるとの記事である。高血圧、高脂血症、糖尿病などの生活習慣病は、内臓に脂肪が蓄積した肥満が原因との事である。ラットによる実験の結果、牛乳や乳製品に含まれている乳糖は、内臓脂肪型肥満や高脂血症の予防に役立つと示唆している。
次は私の事だが、私は乳牛の飼養に携わり五十年ほどになる。酪農歴は福井県で最高位である。この間、カラスの鳴かない日があっても、牛乳を飲まない日はなかった。
私は七十才を一歩踏みだし、二歩目を踏み出そうとしているが、お陰様で、人間ドックでの骨密度の検査の結果は、二十才代平均の上との事である。これは五十年間、毎日、牛乳を飲んだ成果だと思っている。
牛乳は自然が生む完全食である。
ぜひ「牛乳を飲んで下さい」
タイマグラばあちゃんを見て
福井市 高橋さえ子
タイマグラばあちゃんの映画を、義元さんのハウスで見たのは、昨年の十一月二十二日であった。その日は一日中時雨模様で、時折みぞれも交った寒い日だった。しっかりと整備された会場、その中に座布団を持った地元の人達や農業に関心のある人達が百名程集まった。
昭和二十年代に小学生だった私は、地元の小学校で二ヶ月に一回の割合で夜行われる映画会を欠かさず母と妹の三人で見に行った。中村錦之介や東千代之介の笛吹童子や紅孔雀、片岡千恵蔵の大菩薩峠等。
映画の始まる前に、隣の人にこのことをいったら、そうだったなと相槌を打ってもらえた。初対面なのに、こういう会話ができるのが嬉しかった。
タイマグラばあちゃんの映画は、岩手県の早池峰山の麓にある開拓地「タイマグラ」という所で、春には大豆の種をまき、秋には収穫、冬には豆腐や味噌をこしらえるというばあちゃんを十五年に渡って撮った記録映画である。ばあちゃんは、毎年毎年同じことをしている。そして毎日毎日体や手を動かしている。季節によってやることは違っていても、ぼんやりとしていることはない。表情はおだやかである。おだやかということは、喜怒哀楽がないということなのか。感情の起伏がないということなのか。私には不思議に思えた。
最初はじいちゃんと二人暮らしだったが、そのじいちゃんも亡くなり、一人暮らしとなった。淡々と老骨に鞭打ちながらの一人仕事に打ち込む姿に、これを天職と思う堅固さ、一途さに胸がせまった。物語性のない映画なのに時々私の脳裏をかすめるのはなぜなのだろう。ふりむけば、すぐ後にいられるような気がするのだ。
十五年の歳月は、ばあちゃんの体を徐々に蝕んでいった。それはあのつやつやだった顔に現れ、ついで足腰に現れた。意志強さだけではどうにもならない避け難い老と病が襲いかかってきたのだ。春の種まきの時のまわりの自然は厳しかった。心臓が凍ってしまうのではないかと危惧したが、執念によって苛酷な自然と対峙し、その年も味噌作りを成就させた。
ちょうど、私の母の世代がそうであったように、土を愛し、そこから収穫される作物を愛し、労働を愛し、舅や姑や夫に従い、大勢の子共を育て、身を粉にして働いた一昔前の農婦の姿ではなかったか。ばあちゃんの姿が一昔前の農婦の生き方そのものではなかったかと。時々背後からばあちゃんがしのびよる。私の脆弱な生き方を鞭打つかのように。いや私達の脆弱さを無言の圧力でおさえつけるかのように。自然を破壊し続ける私達に警告を鳴らし続けるかのように。
ハウスで上映会
福井市黒丸町 義元孝司
あぜみちの会の秋の収穫感謝祭に何か今までにないものをと考えていた。私も地域の百姓となって四年目、地域の百姓達と一体となった企画をしたいとの思いもあった。
さっそく収穫感謝祭の企画として映画の上映会を提案したところ、良しとのこと。どんなものを上映したらよいものか考えてみたのだが、以前妻と観た「郡上一揆」が印象に残っていたので、そのフィルムを借りようと、玉井道敏氏と一緒に福井市教育委員会の映像文化センターに東正一郎氏を訪ねた。
細面の東氏と、玉井氏、私の三人でいろいろ話をするうちに「タイマグラばあちゃん」を上映してみてはということになった。ドキュメンタリーの映画で監督の澄川氏は元NHKのプロデューサーでこのドキュメンタリー映画を製作
するためにNHKを退職。そして岩手県の山中の「タイマグラ」に住みついてしまったとのこと。映画を観る前にその映画づくりの背景の方に興味を持ってしまい、さっそく「タイマグラばあちゃん」の上映会を開くことに決定した
。
十一月上旬、福井での国民文化祭も終わり、東氏も手があいたので、さっそく私のハウスの現場を見にこられた。現場は物置として使っているところを整理し、スクリーンをかかげて即席の映画館にしようということになった。以前、あぜみちの会でD6のハウス(開口6m)で「風ものがたり」を上映したことがあったが、その時は昼間だったので多少観づらかった。その反省をふまえて、収穫感謝祭の「前夜祭」として、夜、上映会、参集者目標約100名ということで準備を進めた。手前のチラシを作り、町内や地区に配布した。広報がしゃきっとしたのか、当日は近所の子供や隣のおばちゃん、おじちゃん、そして『みに・キネマ・;福井』の人たちも集まってにぎやかな上映会の開幕となった。澄川監督のあいさつは人柄がでていて好印象であった。
「タイマグラばあちゃん」を観ていて気付いたのは、映画づくりは百姓仕事と同じだということだ。百姓仕事も一年のプラン(台本)に従って仕事をすすめていく。時にはその現場に(田んぼ、畑)に合わせて仕事を変えていかなければならないことも起きてくる。特にドキュメンタリーの場合は、農業の気候変化への対応と同じように、その場に合わせた対応が必要となってくる。
「タイマグラばあちゃん」の上映会に話はもどそう。約100名の参加した人たちは、ソファーもない少々寒い会場でうすぼんやりと映し出される映画を熱心にみてくれたと思う。私が5、6才の頃から小学5〜6年生の頃まで、映画は小学校の体育館やお宮さん(神社)でよく上映されていた。映画の観方も、現代のように2人でとか1人でとかでなく、たくさんの人といっしょに観るという感じだった。時にはそのストーリーの中に入りこみ拍手をし、相槌をうち、そこで声をかけたりした。たとえば「かいけつ黒ずきん」のヒーローが馬に乗って悪者を追っかけるシーンともなると拍手が会場いっぱいになったり、観客の中から「ガンバレ」の声がかかったり、時には仲間どうしで涙をながしたりと、映画と観客の一体感が会場にみちみちていたように思われる。
今回の「タイマグラばあちゃん」の上映会も幼い頃の映画館のようになればと思っていた。終わってから子供やお年寄りからは「以前のような映画を久しぶりに観た」「楽しかった」「もう一度」「場所が良かった」などなど私の期待していた感想をたくさんいただいた。
これからも、農をキーワードに楽しい企画を地域の中で実行していきたいと考えていますので、皆さん、ぜひご支援ください。最後に、たくさんのご来場、まことにありがとうございました。
「タイマグラばあちゃん」に圧倒される
福井市 高橋 ます
タイマグラとは地名の表示では珍しいカタカナの村落の名前である。早池峰山の麓この村の開拓農家集落の最後まで住み着いた老夫婦の記録である。
澄川監督はNHK仙台の支局に勤務中にこの記録映画を製作した。私は以前この記録映画をNHKの放映で観ているが、澄川監督はこの政策の後、それを監督はNHKを辞してからもう一度編集再構成している。このタイマグラにすむ老夫婦の生き方に憑依を受けたがごとくにこの土地に家族共々住まいを移してしまったのである。何故か、映画を観ていくうちにだんだん謎を解くように、映画は展開していく。
早池峰山の懐に開墾された畑は丘陵地に見える。朝は朝日の祈りに始まり、畑にいくときは祠に参り、一日の安全を祈る。
自分も自然の生き物であるかのような生活が見て取れる。
畑は雪のある季節をのぞいてあいてることがない。夫婦はよわっているのだがはいつくばってでもやらねばという意気込みに驚く。作物の収穫近くにねらってくる動物にもほほえんでいるだけである。人間がここに入って動物の生活をおびやかしたのだからと、彼らも生き延びねばならぬからと明るく笑う。この言葉がこころ打たれる。
この映像で素晴らしいのはなんと言っても寒気の中での味噌づくりと豆腐づくりだった。
大きな釜で朝早くから煮始め、臼の中で長靴をはいて足で踏ん張りながら長時間踏んですりつぶす。このたいへんな作業を監督は長い時間にかけて観るものに訴える。今回のこの映像の中では地元に住み着いた若い家族が踏みつぶしていたが、少し前まではこの老夫婦で作業していたのだ。麹菌を使わずとも味噌玉をつるしているうちに麹菌が住み着いてこの味噌玉を発酵させてくれる。麹を入れて作る我々にはこの作業には驚いた。天井いっぱいの味噌玉が並んで圧倒させられる。何十年もこの暮らしが変わることなく、ごく普通の生活しているようにしか見えない。今では売るのではなく人にあげることを楽しみにしているという。一年中手を休めることがない暮らしで、夜も暖を取りながらでも針を持つことやら毛糸を編む暮らし、そばで夫がいろいろ話をする。楽しそうに応答している妻。しかもこのおばあちゃんは、冬になれば私の仕事が忙しいと、こともなげに言う。人間まで凍り付くような酷寒の中でジャガイモを凍結させて作る団子とシミ大根(大根をゆでて凍らせた高野豆腐のような作り方)をつくる。そんな環境の中でも土地を捨てることがなかったのは何故だという疑問が起きてくる。そこでばあちゃんは言う。春になればきれいな花が咲きこころを休めてくれる。早春のこぶしの花に目を投げかけるシーンがすばらしかった。美しい自然の移り変わりに感謝して喜びを体で感じていたのだという答えは見つかる。小さな世界でも精神的には満ち足りた暮らしだったと感じ取ることが出来る。心豊かな暮らしがあったと気づかせてくれる。貴重な民族資料ともなりうる映画であった。
撮影中にこのタイマグラばあちゃんは亡くなってしまった。
今、この映画を撮った澄川監督は家族でこの早池峰山麓に住居を構えた理由もわかるような気がする。
コッコハウスを使って
越前市 垣内秀志
安心、・安全の卵の自給を!
はじめに
今、時代の流れは「省資源」と「リサイクル社会」に向けて動いています。大は地球環境問題から小は家庭内の生ごみの堆肥化までさまざまな対応が始まっています。このかけがえのない地球を少しでも長く守ろうという人類共通の危機意識が底にあると思います。
国も政策として、あらゆる業種について、省資源やリサイクルへの取り組みを推進していますし、県も農業分野について、各地域の未利用有機性資源の活用推進に向けた事業を進めようとしています。
豊かさを求める経済優先の中で、我国の食料自給率は四十%まで低下しましたが、将来は、行きすぎたグローバル化の反動として、自給率の高さが「豊かさ」「贅沢さ」の指標になることがあるかもしれません。
省資源とリサイクルは、単に頭で理解をするだけではなく、各個人がある程度の意識の下で、実感を伴う実践を経験することも大事ではないかと思われます。
そこで、今回、身近なところで実感を伴うリサイクルの実践が手軽に、かつ継続して体験できる場として、家庭用鶏飼育小屋(コッコハウス)を考案しましたので紹介します。
コッコハウス活用の効果
昔の農家では、家の周りで野菜を作ったり、庭先で鶏を飼うのは、ごくありふれた風景でした。いまでも家庭菜園は健在ですが、庭先養鶏は壊滅してしまいました。家庭菜園をする理由には、余暇の活用、安心安全の農産物の自給、身近な資源の活用などがありますが、これらは鶏飼育にも相通ずるものがあると思います。にもかかわらず、鶏は皆無になったのは、世話が大変、卵では価格が安く馬鹿らしい、飼育する適当な場がない、鳴き声がうるさいなど、面倒なことや煩わしいことを避けようとする大人の都合が大きな理由だと思われます。それでも、敢えて鶏を飼育すれば、動物故に、野菜栽培とは違った面での効果が期待できます。
@ 家庭から出てくる大部分の生ごみを「餌」として使えるので、生ごみの量を減らせる。
A 自ら生産を行うので、食の安全性の意味がより身近に理解しやすくなる。
B 鶏とのふれあいや観察を通して、子供の情操教育に役立ち、犬や猫のようなペット的な存在になる。(特定の動物との濃密な付き合いが情操面での人格形成に役立つとされている。)
C 新鮮、安全、安心な卵が自給できる。自給する楽しみは野菜と一緒。
D 越前地鶏、日本鶏、チャボなどのいろいろな愛玩鶏なども飼育できる。
特に、Bの子供の情操教育への効果は、動物であるが故に効果も大きいと確信している。実際、県内の清水町で3年前からコッコハウスを使って、鶏の世話はすべて小学生にさせている家族がありますが、子供の動物への愛情の注ぎ方、観察力の鋭さ、ペットのような存在として、兄弟みんなに非常に大事にされているのをみると、これが生きた情操教育かなと感じます。
私も飼育した経験がありますから分かるのですが、鶏にもいろいろな表情があり、特にえさを欲しがるときの「ココココ・・・」という優しい、撫でるような、媚びるような鳴き声は、何にも替え難い「癒し」を感じてしまいます。私もこの声を聞いてもらうだけでも、コッコハウスを勧める価値はあると思っているぐらいです。
コッコハウスの管理上の特徴
コッコハウスは別図のような感じで、大きさは前幅140p、奥行き180p、高さ140pであり、標準的な飼育羽数は5羽です。
@ 屋外で平飼いしますので、鶏には極めて快適で健康的な環境です。
A 鶏は廃鶏(通常のケージ飼育ではご用済みの鶏)を用いても環境がよいので、充分の量の産卵をしてくれます。廃鶏の価格は輸送費を除けばただ同然です。
B ハウスの中に入らずに産んだ卵の回収、餌やり、水遣り、ふんの掃除が出来ますので、管理は省力的かつ衛生的です。
・卵の回収
鶏の習性で卵は狭い箱の中で産みます。産み落とされた卵は、傾斜をつけてある床を転がって、奥へ行きますので、外から蓋をあけて簡単に取り出せます。
・餌やり
餌は外から餌トイの蓋をあけて入れますので、いちいちハウスの中へ入る必要はありません。また、鶏はケージの窓から頭を出して餌をついばみますので食べ方がきれいです。
・水やり
水は水道水をホースで引っ張り、ぽたぽた程度のかけ流しとしますので、いつでもきれいな水が飲めます。
・ふんの掃除
Dの部分はトイレとなりふんが溜まりますが、踏みつけられることが無いのでよく乾きます。Dの部分や遊び場にはオガクズを入れておくと臭いもなく、掃除もしやすくなります。ある程度溜まったらCのふたをめくって外から簡単に取り出せます。
鶏ふんは有機質肥料としいて家庭菜園や花壇に使います。
飼育する上での留意点
@ 家庭や学校から出る生ごみ、野菜くず、くず米など何でも食べますのでどんどん与えてください。なお、栄養のバランスをとるためにある程度の採卵鶏用の市販飼料を与えるとよいでしょう。なお、生ごみはそのままでは直ぐに腐敗が始まりますが、乳酸発酵させたボカシを添加するとサイレージになり腐らないので貯蔵が可能となります。また、サイレージにしてから給与するとふんの臭気は大幅に低下します。
A 飼育羽数は5羽を基準にして下さい。5羽で1日当り4〜5個の卵を産みます。
B 掃除は2週間に1回程度は必要。敷料としておが屑を使うと便利です。
コッコハウスの作成について
別紙の図面(今回不掲載)に沿って、コンパネ、ベニヤ板や角材を切断し、組み立てれば出来あがります。
(作成上の注意)
・ 鶏の頭出し窓には、外敵から守るため金網などを用いて防御用のカバーを付けて下さい。
・ 産卵箱の上には、ゴムマットなど柔らかい敷物を置いて、卵を産んだ時のヒビ割れ防止をして下さい。
・ 後面の卵取り出し部分および両側の金網の上からビニールを垂らすと雨水の浸入防止や冬場の保温に役立ちます。
・ 廃材を利用すると安く仕上がります。
・ 餌トイ、水トイ、頭だし用の窓およびハウス内の足場網などは専門養鶏場のケージの中古品を再利用します。
(鶏の入手方法)
・ 大雛(生後4〜5ケ月令)
1ヶ月程経過しますと産卵を開始します。価格は1羽当たり1,000円と高い。
・ 廃鶏(中古鶏)
専門養鶏場では約1.5ケ年産卵させた鶏は、廃用されますが、御用済みとはいえ快適環境で飼育してやれば回復し、卵を産み続けます。価格的には輸送費を除けばただ同然で入手できます。資源の有効利用の点でも望ましい。
もし、自分でやってみようという気が湧いてきた方、あるいはもっと詳しく知りたいという方は是非ご連絡下さい。
越前市広瀬町121-18 垣内 秀志
電話 0776-81-3130(平日職場) 0778-23-2833(土・日 自宅)
山羊を飼います(連載B)
福井市 土保 裕治
いざ、買いに
今年生まれた子ヤギを手に入れるには、長野県などで開かれる競りに参加することだと聞いた私は、仕事を休み、日頃あまり旅行に連れて行かない罪滅ぼしの意味も兼ねて、夫婦揃って出掛けました。
ところが、競りは予想外の高騰で終始し、「ヤギを連れて帰るぞー」の決意は崩れてしまいました。でも折角、時間とお金をかけてこんな遠い所まで来たのに、このまま帰る気持ちにはなれず、係りの人の頼んだところ、競りに出せない、ちょっと変わったヤギのいる所に案内してくれました。そこでは、豊かな緑に囲まれ、子ヤギが母ヤギのそばでのんびり草を食んでいました。
変わったヤギ
驚いたことに、それは乳が目立って大きい子ヤギでした。まるで出産した母ヤギのように乳房が膨らんでいるのです。今年の春に生まれてたった3ヶ月、まだ妊娠したこともない子ヤギがです。高蛋白のエサを与え過ぎたのが原因で、乳ホルモン分泌異常を引き起こしたと言っていました。牛でも似たような症状があり、なかなか種が付かないので肉に回すそうです。来年子供が生まれるかどうか心配なヤギを買って来てしまった訳ですが、記念の一匹目なので、まだ食べるわけには行きません。当分は、配合飼料を与えず、乾草、牧草、雑草だけを与えて様子を見ることにしました。
ホームページを見ると、一度も出産していないのに乳房が大きくなる子ヤギが稀にいて、搾ったら本当にミルクが出たと書いてありました。そこで、試しに、嫌がるのを無理やり搾っていると、そのうち手が濡れてきて、それが次第に白くなり、脂肪のにおいがプンプンしてきたではありませんか。産んでいなくても乳が出ることが実証されました。でも、搾るとさらに妊娠しにくくなるとの指摘でやめました。
離別
春に生まれて以来3ヶ月間、母子だけで静かに暮らしていたのを突然引き裂いた割には意外にも親子ともまったく抵抗せず、お互い泣き叫んで別れの挨拶をする様子も見られませんでした。そして生まれて初めて車に乗せられ、長時間揺られたにもかかわらず、あまり啼かなかったお陰で、すんなり連れて帰ることが出来ました。
ところが、数日後、牛小屋から外に連れ出したところ、先日とは様子が全く違い、激しく泣き続けました。それは、メエーメエーとは程遠い、興奮した変な泣き方で、心の底から嘆いているような感じです。牛小屋の外は、生まれて以来3ヶ月の間、母ヤギのそばで暮らしていた田園風景と似ているからか、遠いふるさとの母親を恋しがり呼んでいるように聞こえました。
生みの親と育ての親
この時から、子ヤギの中で実の母ヤギと私が置き換わったようです。いくら呼んでも現われない母ヤギを諦め、この人のそばにいれば安心だと覚悟を決めたのでしょうか。それからというもの、私のそばを自分からは離れませんが、私のほうが5m離れると、啼き始め、3m以内に近づくと、啼き止みます。つないでいない時は啼きながら追い駆けて来ます。なかりの甘えん坊ではないかと感じますが、ずっと母のそばで幸せに暮らしていたのだから当然かも知れませんね。これだけ寄って来られると、飼い主冥利に尽きるとも言えるのでしょうが、ただ、あまりに啼くと可愛さよりも、わずらわしく感じます。嬉しいと思う反面、逃げ出したい衝動に駆られます。でも、逃げるとなお、激しく泣きながら追い駆けて来てとても疲れるので、やめておきます。
(エコプランふくいの情報誌
「リレーションシップI」より転載)
野菜作りは知識ではできない
福井市 酒井恵美子
昨年に限るわけではないのですが、少し変わったものを作ってみたいと思い挑戦したものを少し紹介致します。
一昨年、台湾山芋とアピオスとエアーポテトとクワイの種芋を注文しました。何しろ初めてなので、マニュアル頼みの挑戦です。何とかなると思ったのですが、頭の中で理解したものはすぐ忘れてしまって身につかないことを思い知らされた初年度で、成果どころではありませんでした。
先ずはアピオス。香りの強い時計草のような花が次々と咲きます。私は花が結実するものとばかり思って毎日楽しみにしていましたが、さっぱりで肝心の実は地上には出来ないのです。地中を掘りおこしてみると根こぶのようなものが数珠つなぎに成っていて、採集した豆をどうしたものかと迷う年になってしまいました。次はエアーポテトです。種会社で保存中の芋がくさって催芽が遅れたというので、植え付けも一ヶ月程遅れてしまい、その上、採り頃が分からなくて初年度は小さい(むかごのようなもの)のを少し収穫したに終わりました。
台湾山芋もわけが分からず地中に置き去りにしたまま腐らせてしまい惜しいことをしたと今思っています。
昨年は失敗を繰り返すまいと思い、自家採取の種芋で挑戦しました。さすが2年目、そのどれもが見事な出来映えです。山芋は一本長く伸びたつるに他のつるが巻き付いて一束のロープのようになり、風に天に向かって泳ぐのです。一日に30cmも伸びるのでしょうか。高い木の枝に手を伸ばし枝を這い上がり2〜3週もすると柿の木全体を覆いつくしてしまいました。柿の木のおかげで日照権を我が物にした葉は12月になっても勢力がおとろえず枯れることを知らない勢いでした。12月の冷たい雨の中、堀り出してみると見たこともない大きな芋が収穫できました。ところが、これが寒さに弱いのです。でもすごくおいしいので、少しでも何とか保存しようと欲を出して処理したのですが、今年の寒さは異常で、種芋までやられてしまいました。
エアーポテトはじゃが芋くらいの大きさのものが遅くなってたくさん採れたのです。すりおろして餅粉と混ぜてこね、冷凍して鍋に入れると誰もが餅と間違えます。保存は、これに限ると思いましたが、種芋はやはり×でした。
ところがアピオスはたいしたものです。皆さん一度作ってみませんか。煮ても焼いても揚げてもほんとうにおいしい珍味です。常温でも地中でも越冬し丈夫なのですが、普通の豆ほど収量は上がりません。根元に近いところは3cm(直径)くらいの大きいものですが、先に行く程小さくなっていきます。私は初め小さいのを捨てたのですが、食してみるとほんとうにおいしいので、また拾いに行って料理したほどです。種豆まで食べてしまって新たに注文したら小さい粒、10粒で2600円。残しておけばよかったと今、後悔しています。
くわいは今年初めてですが、湿地でないとできないというので、用水の泥揚げ場に植えました。半年間1日も休まず除草と水やりを根気よく続け、掘り上げてみると1つもできていません。あんなに苦労したのにと思い、仕方なく周りをスコップで起こしてみると株から20〜30cm離れたところに太い根茎の先に1つずつ出来ていました。芽が出ているので、お芽出たいといういわれもあり、お正月にほろ苦い食味をほろ苦い思い出と一緒に食しましたが、連作できないというので、今年は止めることにしました。
家庭菜園は喜びというよりこんなほろ苦さの体験の方が多いのです。だから妙味があって楽しいのかも知れません。失敗しても失敗しても続けられるのかも知れません。
最近思うこと
福井市 細川嘉徳
「一人の人間が一生の間に出合う人の数は約二百人である」最近友人が話してくれた言葉が気になる。二百人という数は最低お互いに知り合いの関係と見て、人並みに古希(70歳)を迎えた身であれば、そんなはずはない、親族も含めてもっと多いのではないかとも思うし、知り合いの数を考えるとそんなものかと思う。
ちなみに今年の年賀状を見れば、この数字はまんざら外れてはいないと思う。もっともこの中で一年間一度も会わずに年頭の挨拶だけで、義理に近い友好関係を続けている人もいるが、今から知人の数は毎年減っても増えることはないので、この知人も友人と一人決め込んで大事にしている。友人は無形の財産と言うが、これから友人を作ることは難しい。
さていま仮に友人が二百人居たとしよう。その中で親友と呼べる人は何人居るだろうかと考えると話は深刻になる。ともあれ人はお互いに関わり合いながら、生涯かけて自分の城を築いて生きて居る。その中でせめて人並みの城を築くことを夢に、あくせくして来た自分が見えてくる。とは言っても現にこの人達のお陰で、現在の今があることに感謝しなければならない。
現代の合理化・グローバル化優先のあおりで、昨年来の食の安全問題、振り込め詐欺、JR列車事故、耐震強度偽装建築、ライブドア、動機の解らない幼児の無差別殺人事件などの問題を見聞きするにつけ、世相は荒(すさ)むばかりだ。大きく世相や価値観が変わる中で、今頃になって義理とか人情論を説いて見ても、振り向くのは戦前の教育を受けた年寄りだけで、せっかく築いてきた人間関係が希薄になっていることは事実だ。それは社会のごく一部の現象であって、家に鍵をかけなくてはならなくなっても、親切な人が圧倒的に多いことが忘れ去られようとしている。義理人情は過去の遺産にせず受け継いで行かなければならない。マスコミは騒ぎたてるのが仕事と割り切って、それに踊らされることの無い生き方をしたい。
先日、柄にもなく橘曙覧記念文学館主催の郷土の、作家群シリーズ山本和夫「詩人の生涯」の文学講座に出かけた。山本和夫は明通寺の歌碑で名前だけしか知らなかったが、ここで初めて出合った次の詩に大きな感銘を受けた。自戒の詩にしたい。
老境(山本和夫)
空は昔のように蒼い。誰にも、何も、与えるな。誰からも、何も、奪おうとするな。悠々と 自分の道を歩いて、人生から消えていこう。生爪を剥ぎ 膝小僧をすりむいての果て やっと、かち獲たこの貧しいながらの「老境」 誰にもいうな。誰にも奪われるな。空気は美味しいな。
連載@
『焼畑と赤カブ―福井県福井市味見河内の
焼畑による赤カブ栽培体験録―』
福井市 玉井道敏
はじめに
2004年7月18日未明から早朝にかけて、福井県嶺北地方を襲った梅雨末期豪雨は、福井市を貫流する足羽川の決壊をはじめ、足羽川上、中流域に位置する美山町、池田町などの山間地に甚大な被害を与えた。くしくもこの日は、福井焼畑の会が主催する美山町河内における2004年度焼畑体験の作業初日にあたっていた。当然この日の作業は中止されたが、その後美山町の被害の深刻な状況が明らかとなり、今年で13回目を数える焼畑体験は、残念ながら中止のやむなきにいたった。
本稿は、現在も作り続けられている河内集落の焼畑による赤カブ栽培について、その背景や現状について記述するとともに、十数年にわたる『福井焼き畑の会』による焼畑体験の取り組みと、併せて、筆者も参加した『ふくいの伝統野菜・るるぶ』の2002年度における焼畑体験の記録を現地報告として取りまとめたものである。
一.福井県における焼畑
佐々木高明[1972]は日本の焼畑についての全国的な調査として、戦前では1936年に農林省山林局が取りまとめた『焼畑及び切替畑に関する調査』と、戦後は農林省が行なった『1950年世界農業センサス』を挙げている。それらによると、福井県における焼畑は、1936年には面積で779ヘクタール(1町≒ヘクタールとして換算、以下同じ)、焼畑農家数4227戸、1950年には面積238ヘクタール、農家数5124戸となっている。さらに佐々木高明[1972]による日本の焼畑の地域類型モデルによれば、福井県の焼畑は中部日本に広く分布する「ナギハタ型」1)で、分布の地域集団としては飛濃越山地に属する。この地域でも、石川県の白峰村から福井県奥越地域にかけての白山麓一帯と、福井県今庄町を中心とする東南部の焼畑地帯は焼畑農家率が高い点に特色がある(図1)。
福井県の焼畑は、大野盆地を境にして奥越地域と南条地域に分けられる。前者は白山麓の焼畑としてかなりの調査研究資料が蓄積されているが、後者についてはあまり調査研究がなされていないように見受けられる。美山町河内の焼畑は、河内集落が文化圏、交流圏として古代より大野地域とのつながりが深いため、白山麓・奥越地域の焼畑の系譜とも考えられるが、図1から見ると、河内集落は奥越地域と南越地域の中間地域に位置することや歴史的に美濃の豪族伊自良氏とのつながりなどを通して岐阜県美濃地方との交流も深いため、その焼畑の系譜がどちらに属するかは断定できない。
全国的な動きと同様に、1955年頃より焼畑面積は急激に減少し、1963年に福井県を襲った38豪雪により、焼畑地域に残存した出作り小屋の多くが倒壊したこともその減少に拍車をかけた。現在、福井県内では、大野市上打波地区で個人的に嵐カブラを栽培するために、播種前に火入れをする形での焼畑の名残がみられる程度で、集落単位で組織的に焼畑が行なわれているのは、美山町河内での赤カブ栽培のみとなった。
(注一) 佐々木高明[1972]は、焼畑の輪作形態、特に初年作物の組み合わせと地域における焼畑の呼称に拠って、日本の焼畑をアラキ型、カノ型、ナギハタ型、コバ型の四つの地域類型に区分している。ナギハタ型は、初年目に夏播きのソバと春播きの雑穀(ヒエ、アワ)の2種類の作物を栽培し、二年目には雑穀を主としてこれに豆類が随行し、三年目には豆類を主としてこれに雑穀が伴うという作物構成をとる。わが国における最も典型的な雑穀栽培型の焼畑輪作形態を示す。
二.焼畑とカブ
日本の焼畑における基幹作物は、ソバ、ヒエ、アワ、大豆、小豆であり、焼畑を実施した村におけるカブの作付け比率は、戦前、戦後を通して7〜8パーセントの辺りにとどまる。戦後は、焼畑基幹作物としての雑穀の比率が減少し、代わりにダイコン、菜種、小豆などの商品作物の作付けが増加した。稲作生産体制の強化とともに、米の代替として雑穀の割合が減少し、野菜や工芸作物などの作付け比重が高まったのである。佐々木高明[1972]は、焼畑におけるカブの位置付けについて次のように記述している。
「カブについては、戦前から奥羽・出羽山地の南部において《カノカブ》と称し、集中的に作付けされていたものが著名であり、その傾向は戦後も変化していない。後に詳述するごとく、戦前においてはカブやダイコンの栽培は「カノカブ」(山形県中南部)、「ナナギ」(石川県白峰村)、「ダイコンコバ」(熊本県五木村)などと呼ばれる主穀生産のための焼畑とは別種の小面積の菜園的な焼畑で栽培されていたものが多い。ところが戦後においてはカブ、ダイコンの作付村率の合計は32パーセントにも達し、その比重が著しく向上する(野菜の作付村率も加えると3者の合計は40パーセントをこえる)」。
現在、焼畑栽培で全国的に著名な山形県西田川郡温海町一霞における温海カブや、今回とりあげた福井県美山町の河内赤カブは商品作物として生産されているが、一方で、昔から焼畑で作られるカブは、山間地域における冬季の保存食料としてダイコンとともに重宝され、かなり重要な位置を占めていた。山間部の焼畑地帯ではヒエやアワを主食としながら、ダイコンやカブなどを冬季の保存食として大いに利用した。漬物や汁の実などの副食としての利用以外にも、かて飯の材料として、主食の増量剤として、準主食的な役割も担っていたようである。だから、少しの面積であっても、必ず自給用としてカノカブやナナギの形で作付けされていたのである。
カブは、日本原産の野菜ではなく温帯ヨーロッパの原産とされているが、日本へはダイコンより早く、8世紀までには渡来していた古い野菜といわれている。それが日本全国に普及する中で、それぞれの地域の環境に適応して多くの品種を分化していった。その結果として、現在においても豊富な地方品種が存在する。芦澤正和[2002]は全国に存在する野菜の地方品種について「全部で556品種の品種・系統が収録されているが、種類別ではダイコンが最も多く66品種、ついでカブが55品種、アブラナ・カブナ類46品種と上位3品種までをアブラナ科野菜が占め、日本に早く渡来し歴史の長いアブラナ科野菜の重みを示している」と記している。
野菜の在来品種研究の第一人者である青葉高[1985]は、「焼畑カブは古くは準食料として雑穀に準ずる重要な作物であったものであろう。その後食糧事情が好転し、主食にこと欠かなくなったので、多くのカブの焼畑栽培は行なわれなくなり、ただ商品作物となる場合だけ栽培が続けられたのであろう。」と指摘している。続けて、「日本で栽培されるカブ品種には和種系品種と洋種系品種があり、主に和種系品種は西日本、洋種系品種は東日本に、カブの色彩では、大まかに見て日本海側には色カブが、太平洋側には白カブが分布している。焼畑で栽培されている品種は洋種系の色カブが多く、焼畑作物としてのカブがソバや大豆などとセットになって栽培されていることから、古くに焼畑のカブが北方系の作物として渡来したのではないか」と推測している。
福井県、岐阜県と滋賀県の地域は、近畿地方と中部地方の境界線にあたり、和種系カブと洋種系カブの分布の境界域でもある。中尾佐助[1967]は、敦賀湾から伊勢湾にかけてカブラ・ライン2)を設定している。このラインの周辺地域には、多くのカブ品種が分布し、その中には、和種系カブと洋種系カブの中間の形質を備えたカブの品種も多く見られる。福井県に現存するカブとしては、北から穴馬カブ、嵐カブ、河内赤カブ、古田苅りカブ、山内カブなどの品種が見られ、現存はしないが過去に作られていたカブとしては、板取カブ、木田青カブが確認されており、このうち、河内赤カブ、木田青カブは、和種系と洋種系の中間系品種として扱われている。
(注ニ) 中尾佐助はカブラ・ラインを、作物を外国から受け取ったときの異なる系統を示すラインと性格付けている。
短歌
やすらぎ
福井市網戸瀬町 小林としを
如月のやわき日差しにさそわれて堤の傾斜に蕗の薹摘む
川霧は徐徐にうすれておぼおぼと東の空に日輪うかぶ
わが頭上かすめては鳴く二羽の鴫土手の叢に雛の居るらし
早苗田の水面に映る影もなくせぐろ鶺鴒夕べ翔びゆく
勢いよく夕陽たばねてホースより出でくる水に間引菜洗う
洗う菜に注ぐ夕陽の定まらず緑あたらし光弾きて
夕雲の映れる盥の水濁し泥に汚れし野良着を洗う
夫の知らざる年を重ねて幼かりし孫の娶りに今日は逢い得し
陽だまりの中
新年えの気負い稀薄となりたれど春めく陽差しに湧きてくるもの
耳遠き人との会話はちぐはぐに憩う堤の陽だまりの中
ひとたびは閉まりし電車の扉開く息せき切りて駈け来し吾に
またたく間に早苗田は成り遙かなる早乙女の日の賑い恋し
浮き雲のあわいに白き昼の月補植に倦みし眼は吸われゆく
さみどりの若葉に遊ぶ蝶かとも風にさゆらぎ花水木咲く
風にほぐれ今し飛びたつタンポポのとどまる先はいづかたの土
みづからに宥め聞かせて晴れゆくに薄穂むらは煌き止まず
耕し 福井市 鉾俳句会
耕しの土ころ一つ車庫の前 田中 芳実
羊の毛刈りて静かに日射しけり 旭 政子
瓜切って明日蓮如忌の寺へ 伊阪みゑ子
春耕を控へたる田にショベルカー 嘉藤 幸子
まだ名無き赤子に立てる鯉幟 川田 邦子
塗り終へし畦の面に夕日射す 高氏 砂子
新校舎雑木林を雉走る 中川ヒロ子
喬木に枝混み合うて鴉の巣 西 惇子
火鉢の火守りて長き経を聞く 西田美弥子
耕しのでこぼこ土に温かみ 西本 きく
ライトアップ整ひ花の三分咲く 畑 純子
朗読の声透き通る若葉風 藤田フジ子
こだはつてこだはり切って田を均す 前田 孝一
大けやき天にて芽吹き競ひをり 山口 浩
大野市 酒井二三子
冬空にうれたるかきの二ツ三ツ
赤き実のむらがる小鳥寒む空に
ふりしきるあまりの雪にあしあとぞなき
どんどやき、よろずのねがいあかく映へ
こたつの中、春まくたねの数かぞへ
ぼけ防止あれよこれもと筆走り
ふきのとう 春一番の旬を盛り
ねこやなぎ 帽子ぬぎつヽざわめきおり
春一番 土手の若草出番待ち
大雪も 春の日ざしに淡くとけ
取り残したる秋大根 雪の下より大かん声
アイデアも いかされし小物入れ
冬の夜長をたのしめにけり
シグナル の感想
長野県 松本市 竹内孝功
みち」届きました。
昨日、じっくり拝読させていただきました。中川さんが、どうして若々しいのか、どうしてすばらしい発想ができるかがわかった気がしました。僕の「自給自足倶楽部」も学習と努力が養われ、ほんものの価値判断ができる場にしたいと改めて思いました。道を教えていただき、本当にありがとうございます。
「食卓に感動を!」自給自足の休日倶楽部
みち」の感想
石川県 金沢市 野村明展
前略
みち¢謔S1号送付有難う存じました。尊兄(中川さん)の播かれた一粒の種が、十余年前からあぜみちのシグナル≠フ卷頭で真の農業の在り方と力強く説き始め、三年後にはこのみち≠フ創刊となり、立派な編集スタッフが集い、以降絶えることなく発刊、次第に力強い流れとなり、遂に41号の発刊を数え、あぜみちの感謝祭≠烽P2回を重ねることとなった事を知り、心より敬意をこめ、お慶び申し上げます。その上、中川賞の制定に感動しました。着実に同志の輪を固め広め、しっかりとその成長を支えて居られるのですね。素晴らしい友を持ったことに感謝すると同時に、小生も貴重な晩節の日々を何とかあやからせて頂き乍ら、常に新しい知識を求める努力を怠ってはならないと自分に申し聞かせて居ります。確かあぜみち≠フ創刊号にお孫さんが財布を拾得され、警察に届け出た作文が載りましたね。非常に夾やかな感動を覚えたことと記憶しております。あぜみちの会の益々の御発展を心より念じて止みません。
時節柄くれぐれも御身御自愛下さい。 敬具