あぜみちの会ミニコミ紙

みち54号
(2010..11.5 霜降号)




シグナル54

福井市 中川 清

 暑かった夏が峠を越えて、ようやく秋が来ました。今年、暑さに飽きてしまった(あき)でなく、文字通り収穫の秋である。食べ物の美味しい季節です。季節の食べ物には、一種独特の香りがあります。新米の香り、そして果物にもいい香りがします。最近、齢を取ると匂いに 鈍感になってきた気がする。その分味覚も衰えたのかなぁと感じます。味覚と匂いは関係があるのです。その証拠には、鼻摘まんでものを食べてごらんなさい。味が半分もしませんよ! 風邪引いて 鼻詰まりの時の食べ物の不味いのも関係ありますかね。 
新鮮なものの美味しさは、新米の味で、代表されます。それは、収穫の直前まで、命のあった物を食卓に供することへの神への感謝の代償です。いただきます、ごちそうさまの言葉を大事にしたいものです。
最近は、食物の保存技術が発達して、新米とか、獲れたての魚の味とか、野菜の味とかが、蔑(ないがし)ろにされがちです。それに、肉とか、果物とか、取れてから、しばらく時間をおいた(追熟させる)方が美味しいという流通業者の巧みな商才に、味の感覚も惑わされている点もあります。果物だって本当の完熟物の味を知らないからです。けものは匂いをかいで、食べものの良否を判断して食しています。実が熟すると喰べに来ます!
稔りの秋です。
体調を整えて、嗅覚も、味覚もしっかりと 研ぎ澄まして、この良い季節を満喫したいものです。
「新米に まだ草の実の匂い哉 蕪村」
 




   福井県農業誌「福井の農業」から


                         名津井 萬

 今夏、北海道の酪農学園大学の月刊誌「酪農ジャーナル」より、県畜産協会を介して福井県の「酪農のあゆみ」の執筆を依頼され、約二ヶ月ほどかけて資料集めなどして、ギリギリ〆切に間に合った。
 「大震災を超えて、耕畜連携・循環型酪農の構築」と題して、約三千字、写真四葉、表二枚で三頁を埋める事が出来た。十月号に記載された。
 明治、大正、昭和、平成にかけての資料集めで、私の恩人、友人、知人の協力で多くの貴重な資料の提供を頂き、また貴重な体験や話題も頂き、日頃の交友の大切さを改めて実感した。
 資料の中で酪農に関係のない資料に時間を忘れ読み耽った時もあった。
 その中で、昭和二十四年三月に福井県農業技術協会が創刊した「農業技術」誌がある。そして昭和三十八年一月号より「福井の農業」と表題が改められ、昭和四十年中半で廃刊となってしまった。
 私は昭和二十九年に成人式を迎えるを契機に一農家として独立し今日に至っている。そして「農業技術」誌を貧るように読み耽り、それによって農業技術と知識を得た。廃刊されるを知った時は非常に残念であった。ある時、県の農業行政と技術指導者と農業者の「福井の農業について」の懇談会で「福井の農業誌の続刊をぜひお願いしたい」と発言した覚えがある。会合の後、時の奈須田農林部長が直々に一言「残念だが続刊出来ない」と残念そうに言われた。一つには農家の減少に伴い購読者の激減と県の農林予算の関係だと思う。その後、各農業機関が発信する「紙」は各地区または専門的なもので「誌」は県全体、農業全体を表すと感じる。福井県の各地区や専門機関の紙を纏めると見事な「誌」になると思っている。
 約二十年の歴史を有する「福井の農業」誌を今読んでも教訓とすべき原稿があり、充分一読に値いするものがある。
 その中で執筆者の一人、農協連大野支所長、土蔵武雄氏の升が今も鮮やかに思い出す。昭和三十年ごろ、稲作研修で田へ肥料のまき方について「粗々に丁寧に」と強調された。この事については、私は家庭の事情で昭和二十四年から二十九年にかけて叔父の山形寿家で養育された。叔父は私に施肥は「粗々に丁寧に」と一言いわれた。土蔵武雄氏が、叔父、山形寿と同じ事を言われたので強烈な印象がある。田へ施肥する時に、丁寧に一回より粗々に二回やった方が施肥ムラを無くする事を意味している、今も私の人生教訓の一つでもある。先日、新聞記事で、開高健の残した色紙に「悠々と急げ」と記した物についての記事があった。人それぞれの感性で感じた方は違うと思うが一顧に値いする言葉である。私の好きな言葉に「逆もまた真なり」がある。
 他に昭和四十三年十月号より十二月号にかけて、県農業試験場、友永富場長(農学博士)の「福井の農業を育てた人人」と題して、天保時代から昭和にかけて、百二十九名の先人の事績を取り纏められたものがある。
 その中に「山形寿」県興農同志会長・県議・酪農奨励・篤農家の連携とある。私は嬉しかった。
 最後に私の執筆した、福井県の「酪農のあゆみ」に最初に出てくる福井県酪農の最先駆者「岡研磨」も記されている。
 「率先洋牛を購入繁殖をはかり畜牛組合を組織、その組合長となった」とある。
 改めて「福井の農業」誌の再刊が夢である。




      猛暑に思う               
               酒井恵美子


 暑い暑いそして長い夏も、ようよう終わりに近づいてきました。人も動物も植物もヘトヘトに疲れてしまいました。地球温暖化がこんな形でこんなにも早く訪れようとは誰が想像したでしょう、少なくとも私は徐々に徐々にやって来るものと思い、ゆったりと構えていたのです。熱中症にも何度もなりかけて、とてもエコなんて言ってられないとクーラーはつけっ放し、散水のため水は使いっ放しです。温暖化現象は自らがまいた種なのに、誰も自分がやったとの認識が低いところに、ますます追い打ちをかけ拍車がかかってしまうのでしょう。蛇口をひねれば冷水が飛び出し、ボタンを押せば冷たい空気が流れれば、手は伸びてしまいます。地球上の人間がみな日本人のような暮らしをするならば、地球が二個以上必要と言われても、文明社会から脱出することは容易なことではなさそうです。
おまけに春先から初夏にかけては、冷たい雨が降り続き、肌寒い日が続きました。営農指導員の真柄氏は、こんな年はベテランと普通の人との間に、作物栽培上、大きな開きが生じると何度も話されました。全くその通りになりました。私は、春先は、夏野菜に暖かい寝床を用意しましたので、作物の生育がよく、みんなから、「すごいね」と言われ、ちょっぴり天狗になっていたのですが、お盆後一ヶ月の連日36~37℃の猛暑には、すっかり参ってしまいました。「蒔かぬ種は生えぬ、蒔くから芽を出せ」と種蒔きの時、いつも言う口癖ですが、今年は蒔いても生えない、生えても育たないの連続で、賽の河原のようなことを積み重ねてきました。
九月上旬、ある人が私宅を訪ねて来られた時、こんなことを言っていました。今、坂井丘陵地帯へ行ってみると、夏野菜も秋野菜も全くなくて、畑作地帯は砂漠化しているも同然。スプリンクラーは何の役にも立たず、畝に横づけされた穴あき散水ホースが24時間フル稼働して、やっと人参だけが育っていると。例年なら早出しの出荷大根なども緑化している時節なのに。農家の人は「これからは畑作はもう出来なくなるのではないか。代替えにミカンの木でも植え付けた方が、採算も合い合理的なのではないか」と話し合われているそうです。
一雨降ってようやく畑に植え付けた白菜は、殆んど芯喰い虫にやられてしまいました。一見遠目に見るとすくすく育っているようです。芯くい虫は2~3mmの大きさで葉物の芯の部分を喰い荒らすので芯止まりのような状態になり、生長を阻害された野菜は外葉だけが異常に大きくなるので発見が遅れるのです。そして、口から細い糸のようなものを出して、芯葉を巻きこんでその中に閉じこもるので、農薬をかけても生き残る率が多いのです。蒔き直すにしては時既に遅しなので、一株70~80円の苗を購入して植えている人が多いのですが、出来た産物が100円前後で出廻れば何をしているのか…ということになります。
とかく、居心地がよかったのは虫達です。私は夏の青菜は寒冷紗をかけて育てているのですが、布をはずした途端にどこからやってくるのか、虫達が一斉に青菜目がけて飛び込むのです。そして、2日もすれば見事に青菜は骨皮筋エ門になり、葉脈だけが地上にさらされることになります。こんな年は未だかつて経験したことがありません。そんな中でも、農家の人は種を蒔きつづけるのです。その中に私も居るということになりますが、9月中旬を過ぎれば、畑は緑色に変わりました。何事もなかったように蝶がひらひら、近頃はトンボも少しスイスイ飛んでいます。
地上だけではありません。地面を虫たちは走りまわり、地下でも活発な動きをしているようです。虫たちの楽園で、みな自分を精一杯アピールして劇場か運動会でもしているようで、腹が立つより、もう唖然として眺めています。
営農指導の先生方、どうか温暖化に即した野菜の育て方を勉強されて、私たちに指導して下さい。自給率40%の日本は沈没してしまうかも知れませんから。




    東京スカイツリー
                
細 川 嘉 徳 

 「暑さ寒さも彼岸まで」とは、昔からよく言ったものだ。あれほど暑くて長かった夏も、お彼岸ともなると一気に気温が下がり、時には肌寒いと感じることもある。この時期になって東京に所用があったついでに、今話題になっているスカイツリーを見て来た。テレビが普及し始めた昭和三十三年に東京タワー(三三三メータ)が建ち、それから五十年、摩天楼が立ち並ぶ都会の電波事情の解決と、地域活性化の手段として高さ六三四メータで世界一高いタワーが出来ることになった。二○○八年七月に着工し、二○一一年十二月完成の予定と言う。
 スカイツリーとは、大空に向かってすくすく伸びる大樹を意味する。その成長が止まった時(完成の時)ツリーは単なるタワーに変わってしまう、よし見るなら今の中だと思った。何時かテレビで、スカイツリー建築工事の写真を、最初から毎日撮影し続けている人が紹介されたのを見て感動したこともある。
 さて、スカイツリーの建設場所は、東京都墨田区押上と言う下町で、あまり聞いたこともない所だ。JR総武線錦糸町駅から町に出た途端、ビルの向こうにスカイツリーの出迎えを受けた。出迎えを受けるなんてこちらが勝手にそう思うだけだが、スカイツリーは既に第一展望台が出来上がり乳白色に輝いている。なんとも逞しく美しいことか。胸が躍り早速デジカメで先ず一枚撮影する。初めて来たところだが道案内は不要、迷子になることはない。
 目標に向かって人通りの少ない路地を歩いていると、祭りの太鼓の音が聞こえてくる。近くの神社の祭りで、道中いくつもの威勢のよい御神輿に出会った。白足袋にハッピ姿で老若男女入り交じって、ワッショイ、ワッショイのかけ声勇ましく、御神輿を担いで練り歩く姿は、活気に満ちあふれ、まるでテレビなどで見る江戸時代の粋な風情の中に、現代が同時進行しているようで、年甲斐もなく血湧き肉踊る思いがした。これもスカイツリー効果だろうか。
 三十分程歩いたら北十間川に到着。その向こう岸にスカイツリーが建てられている。狭い路に多くの見物人がいて、みんな一様に上を向いて笑っている。とにかくその大きさを目の当たりにして圧倒され息を呑む。正面に「現在の高さ四六一メータ」と掲示してある。とてもそんなに高くは見えないから不思議な気がする。みんなそれぞれ記念写真を撮っている。三脚を立てじっくり構えて写す者、家族連れで記念写真を撮っている者、タワー全景を家族も入れて撮したいと言う思いから、地面に仰向けに寝そべってカメラを構える者、またその様子を取る者、何れにしてもここに来た者は記念写真を撮るのに夢中になっている。私もその中の一人だった。
 こんなに高いタワーを建てて風や、地震、雷の自然の脅威に耐えられるのだろうか。そんな心配はご無用、現地で買った説明書によると、このスカイツリーに使われる鉄骨はすべて鋼管で基礎の一番太い物は直径ニ.三メータ厚さ十センチで組み立てられているという。しかも土台は一辺が七十メータの正三角形で、直ぐ上の方から円筒の長い籠になって空に向かって伸びている。安全性に不安はなく科学の粋を集めた工法で、毎日五百人の作業員で建設が進められているとのことだ。
 九月一九日現在の高さは四六一メータ。巨大で美しく逞しく、そして高さは世界一。ここに来て、毎日大空に向かって延びているスカイツリーの雄姿に、大きな元気を貰い、そしてまた一つ私の記念日が出来た思いがする。





 農業経営の確立過程における
      経営者能力の発揮(連載4)

                    代表 玉井道敏

 4戸の農家の今日の経営確立までの道程を追ってきたが、まさにチャレンジの連続であり、それを確実にものにし、蓄積してきた強い意思を感じるとともに、経営は生き物であるとの認識を新たにしたところである。ここでは、これら農家の経営展開上での共通した特色と経営者能力について考察する。

1)経営上の特記事項
(1)早い経営移譲
 
 紹介した4戸の経営主の年齢は、SH氏が40歳、AM氏、MK氏が55歳、KY氏が65歳であるが、就農経験はそれぞれ10年、34年、36年、47年にわたり、さらにいずれも10歳代から20歳代の早い時期に経営を任せられている。これは現在の経営主が若くしてそれだけの資質を備えていたこともあろうが、先代の英断であるといえる。あぜみちの会で先輩格に当たるNK氏やNY氏も家の事情で10代に就農せざるをえなくなり、早くに福井県でも有数の経営を築いている。一つの経営が安定的に確立するには30年程の年月が必要と思われるが、早い時期の経営移譲は苦労も多いがそれだけの経験期間を確保できることともなり、現在の経営につながっていると考えられる。このことは、現在の後継者への経営移譲をいつ行うかということにもつながる。まだ若いSH氏を除いて、いずれの農家も後継者が確保されており、すでに経営に参画している。現在の経営主が移譲を受けた時とは異なり、もうすでに優れた経営が確立しているなかでの経営移譲となり、状況が異なるなかで、いずれの経営においてもスムーズな経営移譲へのタイミングが計られている。

(2)農業への想いの継承

先代はいずれも篤農家として地域でも評価され、それなりの経営基盤をすでに築いていたことも、現在の経営主がそれほどためらうことなく経営を継承したことにつながっている。妻の家に入ったSH氏の発言、「尊敬するのは義父である」は、血の繋がりに関係なく農林業への想いが継承されていることを物語る。農業への想いとそれに裏打ちされた農山村での生き方、また蓄積された技術は継承される。現在の経営主の後継者にも、おそらく農業への想いは連綿と継承されていくことだろう。

(3)環境変化への対応

 近年の社会情勢の変化は極めて激しく、農業の世界でもそれへの的確な対応が経営の成否を分けることとなる。まさに経営は生き物である所以である。取り上げたいずれの農家も先見性をもってタイミングよく状況の変化に対応している。AM氏の市街化への動きに対する大胆な対応、MK氏の果菜類の連作障害への対応から始まり、園芸ブームを取り込んだ経営内容の転換、KY氏の稲作の合理化と数回にわたる規模拡大、SH氏の中産間地域が着目されるなかでの就農などである。ときには多額の設備投資が伴い、経営破たんのリスクを抱え込む場合も予想されるなかでの決断と実行は見事である。それが、多くの仲間が農業から脱落していくなかで今日の経営を作り上げる重要なポイントとなっている。

(4)投資と後継者

経営の規模拡大と経営の転換、それに伴う大きな設備投資の必要性は、およそ10年に一度のサイクルで訪れるようである。なかでも最も大きなリスクを伴う投資は、後継者の経営継承の意思表示と深く連動しているようである。今までの体験から、後継者が確保されたことを口にするときの農家の表情は、誰の場合も本当にうれしそうである。自分が苦労して築き上げてきた経営を継いでくれる確信を得たとき、農家はその経営基盤の一層の充実を図ろうとするのではないか。AM氏における平成3年のミニライスセンタ設置などの大投資やKY氏の昭和62年からの三回目の大増羽の背景には、後継者への期待と就農への励ましを感じ取れる。

(5)制度や指導機関の取り組み

KY氏の語録「…農業の仕組みを変えていくには個人ではどうにもならない」に見られるように、国や県の制度や補助事業、農協や農業委員会や土地改良区などの農業団体や普及機関などを、いかに自らが主体性をもって協力関係をつくり、活用していくかが大切である。M農園は国の補助事業である第二次構造改善事業の導入から出発しているし、その後も制度資金や補助事業を活用して施設の拡充を図ってきた。KY氏は制度資金活用による増羽、補助事業の導入による所属集落の稲作生産組合の機械整備などを図っている。
またSH氏も現在進行形の形での補助事業を活用して農園の整備を行っている。制度や補助事業は、受身で活用するのではなく、主体的に導入することで自らの経営に大いに役立てていくことが可能である。今回の調査農家はいずれも巧みに制度や補助事業の活用を図って、経営の拡大を図ってきている。
一方で、農業団体や普及機関などと常に協力関係を結びながら、生産物の販売や、技術の習得に努めてきた。M農園の野菜苗の接木技術の習得や生産物の販売において普及機関や地元農協はかなり寄与している。ときには制度の枠にとらわれてこれら機関との対立関係が生じたこともあったようだが、おおむね良好な関係を保って、自らの経営に反映させてきた。

(6)必然性と偶然性

4戸の経営の発展過程を見るとき、経営は必然性と偶然性の合体の産物ともいえる。経営に参画する人々が本来もつ資質は必然性として作用するが、結婚などによるこれらの組合せはまさに偶然の産物としてしかいいようがない。M農園におけるMK氏とMHさんとの資質の組合せは、結婚によってもたらされ、相乗効果を発揮して現在の経営を築いた。F農場におけるSH氏の経営継承は、妻との結婚により、義父としての妻の父親と身近に接触することによりもたらされた。人為の及ばない自然災害は偶然の現象であるし、人為によってもたらされる状況の変化は必然的であることもあるし、偶然に生じることもある。予測できることと予測できないことがある。どちらにしても、この偶然性と必然性がもたらす環境に、的確に対処し、またそれらをうまく活用して経営の発展につなげていくことが大切と考える。




   逃げ水の道       小林としを

 早稲の田の四ツ角刈らんと吾と子は保冷剤首に夕時を待つ
 息と孫のコンバイン操作は交代に日陰けのパラソル畷に立ちて
 冷房の中なる親子がこの猛暑に稲刈り作業はさぞ辛からん
 暑さ尚残る夕べを茂り合う葉陰に光る茄子をもぐなり
 木綿針に絹糸通しかるがもの親子のいくつ造るこの日々
 道具唄きくこと絶えて黄と赤の手拭二本昔を語る
 父の帯の結び目腹に痛かりき背負われて遠き逃げ水の道
 移りゆく車窓の景色明るくて白雲流る空はもう秋



   北風尚子

 手をあげて席空けくれる友の顔うれしさあまり涙ポロポロ
 クラス会六十余年の月日経て君にも残る幼な面影
 くじ作り席順決めてこもごもに顔見合せてしわを数える
 ちゃんつけて呼び合い楽しクラス会男女殆ど集う我が部屋
 早春の満月淡(あわ)は輝やきて今し入り行く西の山の端



 葉月      鉾の会

 大根を播く一ト夜一ト日の雨を得て     田中芳実

 秋菜摘み洗へば桶に砂沈む        阿部寿栄子

 宣誓の声透き通る運動会         伊藤房枝

 報恩講蓮如の御真筆拝む         宇佐美恭子

 運動会昼のバザーに走り出す       黒岩喜代子

 小望月仰ぐホテルの最上階        小玉久美子  

 秋暑しオーバーヒートのコンバイン    榊原英子

 電話越しちちろの声が良く聞こゆ     近間喜久子

 蜘蛛の囲の雨がプラチナ艶光り      月輪 満

 点滴の一滴づつや鱗雲          坪田哲夫

 新米を炊けば立ちたる白き湯気      友永リユ子

 秋桜筆を持つ日を決めて居り       西川幸子

 さわさわと稲穂のうねる今朝の風     橋詰美禰子

 徒競走勢ひ残して梨を食ふ        長谷川智子

 そしらん節海の子踊る運動会       畑下信子    



   馬来田寿子

 献吟の心にしみる左内の忌

 後世に遺訓伝へて左内の忌

 志士讃ふ子らの歌声天高し

 白菊を気高く供へ左内の忌

 新米の味かみしめる笑顔かな

 新米をほおばる顔のしあわせな

 藤袴香りをそっとしのばせて

 あるなしの風にさゆれる萩の寺

 園児らの声山々に秋日和

 かたまりて土手を色どる曼珠沙華


 


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