あぜみちの会ミニコミ紙

みち55号
(2011.2.5 立春号)




シグナル55

福井市 中川 清

 「松過ぎの 又も光陰 矢の如く 虚子」    
 年が明けて、あっという間に月日が経ちました。私達の仲間に、県内で稲作で生計を立てていける仲間のグループがあります。名付けて「県稲作会議」と言います。その組織が近く創立三十周年を迎え、記念式典と記念誌を発行すると聞きました。
あぜみちの会も二十年を迎えます。記念誌と言うと、記念式の来賓祝辞とか、その三十年の歩みとか会員の紹介とかを編集するパタンがありますが、稲作会議では「十年後の私の稲作経営を語る」と言う、若い会員の特集記事などを企画していると聞いた。
 この会は会員現在五十名足らずですが、親子での加入者や、三十歳台前後の若い人が全会員の四分の一以上も居て、県下一般の農業者の年齢統計からは(六十五歳以上が多いとかいう)かなり若々しいです。
 農業というのは、土を肥やし種をまいて数ヵ月後の収穫を夢見る仕事です。本来は、就業者の年齢などの問題ではなく、若々しい情熱とか、将来に対する夢を抱いているかが何より一番、肝要なのだと思っています。その意味でも、この組織の記念式後の更なる活躍に期待をして見ています。
 あぜみちの会も二十年を迎えてこれをステップに、今後の夢を描いてみたいものです。
「急ごう 人生は短い 焦るな 人生は長い」含蓄のある言葉です。
「節分」は一年の節目でもあります。また、頑張りましょう。
 


日本の酪農47 福井県
  大震災を越えて耕蓄連携・循環型酪農の構築へ


                         名津井 萬

 1.指導者の団野格爾と岡研磨
 福井県の酪農は明治4年、福井藩の柔術師範を務めた団野格爾によって搾乳業として始められた。明治15年に福井県の乳牛は42頭との記録がある。
 明治17、18年ごろ、県は牧畜を奨励し、代議士を務めた岡研磨は、後に福井市で自ら牧場を経営し、牛乳を販売した。明治30年にホルスタイン種5頭を初めて導入した。
 団野と岡は、初期の福井県酪農の指導者であった。

2.福井酪農を先導した野村牧場
 福井県で最も古い本格的な牧場は、吉田郡円山東村(現福井市)の野村牧場で、野村紋太夫氏(初代福井県ホルスタイン協会長)の『牛づくり70年』を読むと、氏が家業に就いたのは明治26年ごろで、牛舎には15頭の乳牛が飼われており、品種はデボン種、ショートホーン種、短角種だった。
 牛舎は団野の柔術場を譲り受けたわらぶきの小屋であったが、由緒ある建物だった。野村氏は朝早く、露の乾かないうちに乳牛を連れ出し、草を食べさせ、乳を搾り、高温殺菌して缶に入れ、50戸ほどの家を回った。薬用としても飲んでくれたが、「けものの乳」と嫌われたこともあった。値段は1合(0.18ℓ)2銭5厘で、卵2個、油揚げ2枚に相当した。
 野村氏は明治41年に県の乳牛共進会で4等に入賞し、それを機に乳牛での改良に専念した。大正8年に農商務省主催の第1回五県連合共進会が石川県で開催され、野村氏出品の牛が2等と3等に入賞した。賞金は1等100円、2等50年であった。
 一方、足羽郡(現福井市)の藤川牧場は明治29年創業で20頭の乳牛を飼い、牛乳をおけに入れ、担いで売り歩いたという。
 昭和5年に県種蓄場で乳牛の人工受精に成功したとの記録がある。
 昭和15年に酪農調整法が施行され、福井市、足羽郡・吉田郡の28戸の搾乳業者が福井酪農組合を設立し、旧国鉄福井駅裏に牛乳処理場を設置した。
 そのころ、県南西部美浜の武長を人力車に乗せて牛乳を売り歩いたという。

3.戦後は水田酪農と畑作酪農
 昭和20年の福井大空襲により野村牧場では乳牛37頭焼死し、子牛3頭だけになったが、その3頭を基礎に再起し、昭和45年には80頭の牧場に成長した。
 食料増産が急務であった昭和21年、福井県は5大事業の中に酪農振興を位置付けた。それに呼応し、吉田郡西藤島村(現福井市)の山形寿氏が水田酪農を提唱。賛同した黒川恒雄氏とともに水田への厩肥投入による知力の増進、牛乳販売による現金収入、牛乳飲用による生活改善を掲げ、北海道から乳用子牛10頭を導入したのが、戦後の福井県酪農の先駆けであった(写真1)。
 山形氏は地元小学校の教員から43歳で村長となったが、終戦によって公職追放となり、野に下った。それが幸いし、農業実践家として県興農同志会長を務めた。黒川氏(第2代福井県ホルスタイン協会長)は山形氏の手足となり、各農家の分娩に搾乳にと、自分の仕事も顧みず指導に歩いた。
 県北西部の坂井郡(現坂井市)では、昭和22年に畑作酪農を推進し、加戸村の近藤哲静氏ら石川県から子牛7頭を導入した。しかし、翌23年6月28日の福井大震災(坂井郡が震源地)で子牛は倒壊家屋の下敷きとなり、全頭死亡の惨事となった。西藤島村では、家屋は倒壊したものの乳牛被害は免れた。その後、坂井郡では初妊牛を導入し、畑作酪農への第一歩を踏み出した。
 一方、美浜の安井牧場では、淡路島から成牛5頭、育成牛6頭を導入して酪農を始め、当初、生乳は敦賀乳業へ出荷していたが、後に京都府の舞鶴乳業へ出荷した。

4.相次いで酪農組合を設立
 昭和20年代前半の乳牛への授精は西藤島村では県種畜場まで約6kmの道のりを発情牛を引いて行き、「本交」で種付けした。この“引き運動”が奏功してよく受胎したそうだ。
 昭和24年に県ホルスタイン協会、26年には県家畜人工授精師協会が設立され、人工授精の時代に入った。授精師は精液の入った試験管を胸のポケットに入れて体温で温め、ピペットで乳牛の子宮口に精液を吹きかける方法が採られた。
 昭和26年に福井酪農協が設立された。同酪農協は福井市の中心部に土地を求め、牛乳処理場を建設して牛乳販売事業に進出した。各地区ごとに集乳所に生乳を集め、2人1組の当番制で荷車に生乳を積んで約4kmの砂利道を処理場まで運んだ。夏場は2等乳が出て酪農家を悩ませた。生乳処理場と牛乳販売事業は昭和36年、日本酪農協同(株)と統合し、同社福井工場となった。
 一方、南西部の三方・美浜・敦賀の酪農家は、昭和28年に若狭酪農農協を設立し、森永乳業と取引を開始した。

5.大野に百石会が発足
 昭和27年、県北東部の大野地区では寺島利鏡(後の大野市長)が米国での農業実習を終えて帰国し、農業に酪農を加えた経営を熱心に提唱した。
 大野地区は石川県から子牛7頭を導入して急速に酪農が発展し、昭和37年に寺島氏の創案で年間搾乳百石(1万8,000kg)を目標に大野市酪農百石会が発足した。また、県下各地に作業機などを協同利用するための協業体や全面協業の牧場も誕生し始めた、一番大きい共同牧場は搾乳牛50頭であった。田畑転換による飼料作物の生産に取り組む酪農家も現れた。
 昭和31年になると家畜人工授精師試験に初めて女性が合格し、35年には県内で初めて凍結精液の生産に成功した。

6.乳牛改良と奥越高原牧場
 昭和40年、県は乳牛改良の一環として、先進地からの優良乳用牛の導入に対して1頭10万円の助成事業を行い、主に北海道から導入した。昭和43年には、それらの酪農家35人によって福井乳牛改良研究会が設立され、血統登録の推進、高等登録の受検や共進会への出品に励んだ。
 一方、県は大野地区の標高600mの奥越高原に育成牧場を建設し、その名も「奥越高原牧場」(写真2)として現在も県下乳用牛の育成を一手に引き受け、非常に足腰の強い乳牛が育成されている。このころには県内各地で3~6戸規模の酪農団地が造成された(写真3)。
 昭和53年には第1回福井県ホルスタイン育成牛共進会が開催された。第4回からは経産と未経産の2部制となり、現在25回を数えている。平成15年に第10回中部日本ホルスタイン共進会(福井県が担当)が美浜町で開催され、福井県の出品牛3頭が入賞した。第11回では4頭出品して3頭が入賞し、改良の成果が表れた。

7.乳質規制で廃業者も
 昭和53年ごろには生乳の生産調整が始まって乳質が重視され、乳脂率の基準が3.5%以上に引き上げられた。その結果、この基準をクリアできない酪農家が廃業していった。
 一方、急速に輸入乾草が給与されるようになり、現在は乳脂率3.5%を楽々とクリアするようになった。しかし、今度は乳脂率が高すぎると言う。酪農家としては「ふざけるな」と言いたいのが本音である。とはいえ、輸入乾草が増えてきたことは日本酪農にとってマイナスである。
 平成15年ごろからは体細胞数の規制が始まり、福井県では生乳1mℓ当たり40万以下とされ、このときも廃業者が出た。酪農家は、次は何よって“ふるい”にかけられるのかと暗い気持ちである。平成14年、大野市の北野牧場が福井県で初めて搾乳ロボット2基を導入した。

8.稲発酵粗飼料で耕畜連携
 水田酪農の先駆けである福井市西藤島地区で、平成18年から法人組織の稲作専業2農場が県の指導の下で稲発酵粗飼料(WCS)の生産に取り組み(写真4)、管内の酪農家が利用し、定着し始めた。耕畜連携による理想の水田酪農に育ってほしい。WCS給与の牛乳は「福井県産牛乳」の名で販売され、順調に消費されている。
 また、県内各地で酪農家が乳製品の加工・販売も手掛けるようになり、県も6次産業化を推進している。
 県家畜改良協会主催のホルスタイン共進会を機に、酪農後継者が育ち始めている。まだ小さいが、暗闇に灯明が見えた感じである。

〔福井県酪農のあゆみ〕
明治 4年 福井県柔術師範の団野格爾が牛の乳搾りを指導
   15年 県内の乳用牛頭数は42頭
   30年 岡研磨がホルスタイン種5頭を導入
   31年 三方郡畜牛組合が設立され、県有種雄牛1頭を貸与
大正12年 県種畜場を設置
昭和 5年 県種畜場で乳牛の人工授精に成功
   21年 吉田郡西藤島村に北海道から水田酪農用の乳用子牛10頭を導入
   24年 県ホルスタイン協会設立
   26年 福井酪農協を設立し、牛乳の処理・販売を開始
       県家畜人工授精師協会設立
   37年 大野市酪農百石会設立
   43年 県乳牛改良研究会設立、35人が参加
       県奥越高原牧場開設
   48年 大野市に6戸からなる新興酪農団地完成
   53年 第1回福井県ホルスタイン育成牛共進会開催
平成14年 大野市の北野牧場が搾乳ロボット2基導入
   15年 美浜町で第10回中部日本ホルスタイン共進会を開催

[引用文献]
福井県畜産会(1987)福井県畜産会30年史
福井県畜産会(1993)畜産経営技術マニュアル(酪農)
福井県家畜人工授精師協会(1981)家畜人工授精30年の歩み
福井県農林水産部畜産課(1983)福井県畜産統計便覧
福井県農林水産部農畜産課(2008)福井県畜産統計便覧
福井県立農事試験場(1964)酪農協業化の現状
野村紋太夫(1970)牛づくり70年
大野市(1966)伸びゆく大野酪農




      福井新聞大野支社
                   土山実穂


 「審査する」なんてことは初めてのことで、「総評」といわれても、何を書いたらよいのか・・・。とにかく、あぜみちの会の収穫祭が大野で開かれると知り、「当日行きますね!」と玉井さんにメールを送ったのが審査員をさせていただくきっかけになりました。2006年4月に入社して、農業を担当した私は縁あって玉井さんにお会いしました。担当したばかりのころは、国の施策を覚えるのに必死であまり農家の意見を聞く余裕がありませんでした。そんな時に出会った玉井さんの話はとにかくすごく面白かったのです。元県の職員で、いろんな農家と接した経験を基にいつも広い視点でものごとを解釈し、説明してくれるからだと思います。その上、国や県の方針、報道するマスコミの姿勢までもばったばったと切り倒す。穏やかな口調で辛口の批評を展開する玉井さんの魅力に圧倒されました。
 あの頃は、それなりに忙しかったにもかかわらず、仕事の合間を見つけては、あの秘密基地(研究所)によく足を運びました。いつも熱いお茶を入れて笑顔で迎えてくれる。玉井さん、今さらながら、ありがとうございます。それから2年後、別の部署に異動になり、今年4月大野支社に参りました。あれからずっと、メールで送られてくる「ほっこり道楽通信」を読み、それで収穫祭のことを知りました。私の今住む大野市で収穫祭が企画されたことも、4年前取材したことのある帰山さんの工房が会場になったのも何かのご縁だと感じ、メールをしたのです。「絶対当日行きますね!」と。
 そんなこんなで読ませていただいた論文はともに素晴らしく、それぞれのお人柄がうかがえるような内容でした。
まず佐藤さんの論文は農業者の道を選ぶことになったきっかけから、これまでの取り組みや苦労、現在の活動、今後の課題などが素直な言葉でつづられていてとても好感が持てました。1つ1つの言葉に、農業に対する実直な姿勢や誇りがにじみ出ているように思います。読み終わった後、佐藤さんの農業や農作物を応援したい気持ちになりました。
次に松原宏文さんの作品は、インターネット販売や石焼き芋「ラブいも」など松原さんの農業に対する前向きな姿勢が随所に表れていました。経営者だけでなく、新規就農者を受け入れるエコビレッジ建設など、地域の視点で農業を考えていらっしゃる点が特にすばらしく、今後のご活躍が楽しみです。農業を取り巻く環境がますます厳しくなる中、こうして若い世代が前を見て農業に取り組んでいる姿を見聞きすると心強く、頼もしく思います。そして同世代としてうれしく思います。佐藤さん、松原さん、あぜみちの会、これからの農業に幸多くあれ!



    楽しく農業を続けるために
               大野市土打   松 原  宏 文

 私が農業をするきっかけになったことは、四つあります。
 第一に農家の長男に生まれたことです。兼業農家では有りましたが3町歩ほどの田んぼで水稲を中心に特産野菜のサトイモを栽培し、転作率に応じた残りの面積を麦あとそばとして栽培を行っていました。
 子供のころは、手伝いをすることが当たり前だと思っていましたが、友達と話をしてみるとみんな、家の農業の手伝いなどほとんどしていませんでした。しかし、親の育て方が良かったのかだまされたのか、それほど苦になることもありませんでした。大学生時代を東京で過ごしたときも帰郷して手伝いをしていました。東京で野菜を食べる機会は減りましたが、友人が家で取れた野菜を喜んでおいしいと食べているのを見て、同じように野菜を作ってみたいと思いました。
 第二に大学を卒業後、地元の農業協同組合に就職し、農家と接する機会が増えたことです。
 営農指導員として勤務しているときに「家の若い者は、全然田んぼのことせんのや」とお話しするお年寄り「なぜ、農業をする人がいないのか」と考えるようになりました。
 そして、毎年のように変動する転作率、補助金を当てにした転作作物の画一的な品目の設定、売れないものをなぜ作るのかという疑問を持ちました。
 農家は、ほとんどが兼業で農業以外の所得が生活を支えている農家ばかりで米の価格が下がっても農協に文句を言っても農業を辞める人はほとんどいませんでした。大事なのは価格でなく、家の土地が荒れるのを守っているような状況でありました。
 「農業は資産管理であり、定年後の職場でしかない」と言っていたのです。
 兼業の農業と専業の農業は全くの別物と感じました。専業農家として農業で生計を立てることができたら、サラリーマンよりも家族との時間も取れて楽しい生活が送れるのではないかと思いました。
 第三に、農業の技術を引き継ぐことも大切な使命だと思いました。家庭菜園であっても連作や病害虫を避けるための耕種的技術があるにもかかわらず肥料や農業の発達によりその技術がないがしろにされていると思いました。農業を引き継ぐ人が減っていきその技術や地域に根付く品種が衰退してしまうことを心配します。技術を身につけるためにもお年寄りの話で聞いた技術や、書籍で読んだ知識を実践して地元で利用できる技術であるのか検討してみたいと考えました。
 第四に、他業種の経営者との接点が増えたことです。商工会議所が開催していた農産物加工品の開発プロジェクトセミナーに参加したことで農家に足りない経営の感覚や農家に対する疑問を投げかけられました。農業では当たり前のことが他の業種では疑問であり、経営の観点から見ても無駄であるといわれることがたくさんありました。農業に他業種からの経営のノウハウを生かしてみたいと思いました。
 このようにして農業を手伝いから真剣に営みとしてやってみたいと思いました。
 現在は、サトイモ、五四アール、ネギ二七アール、サツマイモ、二七アールを中心に露地野菜を栽培しています。
 サトイモは、奥越の特産物として有名でありますが農協への出荷だけでなくインターネットを利用した販売、小さい規格のサトイモは、洗い子にしてスーパーへ直接納品するようにし、規格外のものを加工用に出荷するようにしています。
 ネギは、ほとんどを農協に出荷していますが市内の飲食店にもわずかながら直接販売もしています。規格外が沢山出るので今後の利用が課題だと思います。
 サツマイモは、インターネットでの販売はもちろん、冬期間には、石焼いも屋「ラブいも」として出店しています。奥越は、雪が多いので冬期間の所得の維持と自分の作ったものを直接消費者に食してもらう良い機会だと考えています。
 また、集落営農の水稲部に所属して農繁期の段取りやオペレーターとしても農作業に携わっています。集落営農では、水稲を中心に栽培を行っていますが、情勢がどのように変化しても対応できるように今後、園芸作物を導入して米の価格が下がった場合や関税が自由化になっても競争力のある作物の生産に転換していくことが必要になると思います。
 農産物を栽培するときには、できる限り化学肥料や農薬の使用を減らし栽培を行っていますが、これからも続けて行きたいと思います。
 今後の課題として、栽培面では農産物の価格が下がった時に、安値補填をもらう事よりリスクを回避するために気象の変化に対応できるように少雨、多雨に対応した作物の作付けを行うなど適地適作を地域で考え、麦や大豆の単一的な転作から脱却していくべきであると思う。
 また、流通、販売の面では、農産物は市場に流通させると生産費に関係なく市場において一方的に価格が決定されてしまうために農家が出荷するほど赤字になるなど最低賃金さえも保証されない価格で販売しなくてはならない場面がある。価格を自分たちで決めることができるシステムの構築が必要である。消費者や仲買人が正しく理解した販売価格の決定ができないようであれば、個人での販売が拡大していくことは確実である。その時のためにもインターネット販売のシステムを個人の農家で手軽にできる方法を開発して農家の手助けになればと思う。
 加工品の開発、保存の方法、規格外農産物や出荷残渣の有効利用、循環サイクルの確立がこれから必要になると思います。
 加工品の開発は、保存の長期化、出荷の調整のメリットとして農業経営の安定のためには欠かせないものだと感じています。もちろん売れるものづくりでなければなりませんが業者向けの一次加工や消費者向けの最終加工まで行うなど方法は様々であります。自分の作った農産物がどのような形で消費者の口に運ばれるのか、消費者の立場からどのようなものが喜ばれるのかを考え販売することが必要であると思います。
 規格外農産物や出荷残渣は、小さいサイクル内での循環で有効に利用していくことが必要であると考えています。農畜連携はもちろんのこと地元の消費者からの野菜くずなども水分調整の技術を導入して、有機野菜の肥料や堆肥の原料として利用拡大することができると考えています。資源を輸入に頼っている日本では少量でも安定した肥料や堆肥の生産を地域のみんなで手を取り合って行っていく必要があると思います。
 また、自分で価格を決定できることからもインターネット販売の拡大を進めていき、その農産物に対して理解を持った飲食店や消費者に対しての市場を広げていきたい。インターネットで農産物を販売する場合には文章や画像で農産物のよさを伝える必要があり生産する側としてもどのようなことを伝えながら販売すると良いのかを考えさせられます。
 経営の面では、まだまだ合理的な農業経営ができているとはいえないので家族経営としての農業から規模を拡大するとともに法人化を検討し、雇用の創出もできると良いと考えています。また、新規就農しようとする場合、機械の導入が新規就農者のネックになるので機械利用の効率化によって共同利用できる方法などを検討していきたいと思います。
 そして、かみなか農楽舎のような新規就農を目指す人たちを受け入れる施設が必要だと思います。受け入れ施設がまだまだ少ないためにいろいろな農業を体験することは難しく県内に受け入れ施設が何箇所もできれば交流を行うことでいろいろな形態の農業に触れ選択することができるようになると思います。
 また、これからの地域活性のためにエコビレッジ建設の計画を進めていきたいと思います。
 エコビレッジでは、ほとんどのものを自給でまかない小電力の発電や家畜の有効な利用によってエネルギーも自給して多くの人びとが一緒に生活していけるようなイメージです。勝ち組、負け組ではありませんがみんなが競い合うのではなく平等に働き分かち合うような社会が地域の中に出来上がるとすばらしいと思います。そして、有機農産物や癒される自然環境を資源に多くの人の心を癒す村づくりをしたいと思います。
 私は、これから多くの人たちが農業の世界に入ってきてもらえるように見本となれるように農業に取り組み、それが今後の農業の発展につながれば良いと思います。
 最後に、ここまで農作業を一緒にがんばって手伝ってくれた家族や農業を始めるに当たって応援してくださった方々に感謝し、青年農業者として一緒に活動してくれる仲間と、これから出会う多くの方々を大切に、これからも楽しく農業を続けていきたいと思います。



 
  地元で農業をするということ
                    大野市土打   佐 藤 順 子

 農業を始めたきっかけの一つに、父の怪我があります。一月ほどで完治しましたが、しばらく意識もないほどの大怪我で自分の人生について考えるきっかけになりました。
 それまで自分のやりたいことをやってきて大きな不満もなく、そのときの勤め先でも順調に過ごしていました。しかし、父が死ぬかもしれないと思ったその出来事でこれから先の見方が変わりました。
 それまでは自分のやりたいことをやるという自分中心の世界で物事を見ていましたが、それ以来、家という枠組みの中での自分というものを考えるようになりました。当時は色々悩み、どういう経緯でそうなったのかははっきり覚えていませんがとにかく一生続けられると思える仕事に就かなければという思いが強くありました。
 その時はまだそれが何なのかはわかりませんでした。20代半ばで会社を辞めて、一生続けられる仕事に就く前に、悔いがないようまずやりたいことをやりきってしまおうと思い数ヶ月間の世界一周旅行に発ちました。戻ってまだその仕事が何なのかわからなくても、次に勤める先は一生やめないという覚悟でいました。
 元々海外生活に憧れていたので、夢を膨らませてその先で何か見つかればという期待も持っての旅行でした。結局、劇的な何かはありませんでしたが、日本を見つめ直すいい機会になりました。
 どこの国でも思ったのが、日本はなんて便利なんだろうということです。それまではそれが当たり前だったので何も思わず感謝もしたこともありませんでした。そしてほとんどの人が自分の国を誇りに思っていることです。こんな素敵なところがあるとか、こんな歴史があるとこ、1つ聞いただけでたくさんの答えが返ってきます。
 それで日本は?と聞かれても、富士山ぐらいしか思い浮かびませんでした。そこではじめて自分の無知さに気付きました。外に何かを求める前にまず日本のこと、福井、大野、自分のことを知らなければいけないと思い始めました。

 大野に帰ってきて予定通り職探しを始めました。旅行は家業である春の野菜苗の時期を終えてから行ったので帰るともう冬に近づいていましたが、就職先はなかなか見つかりませんでした。
 その時のひと冬はとても長くて色んな事を考えました。私は大野で一体何をやっているのだろう?昔はこの福井が嫌で都会に行きたいと思っていたけれど何をやりたかったのだろう?なぜ今ここにいるんだろう?会社勤めで夜中まで残業続きだった頃、時間があればどこかに行きたいと思ってた、その時間が今はたくさんあるのにどこにも行かず、何をしているんだろう?など延々続きそうなことをじっと考えていました。
 行きついた答えは、「何もない」でした。一生やり続けたい職業もなく、都会に出る理由もなく、だからと言って大野にいる理由もない。社会に属さず、つながりと呼べそうなものは家族だけという、宙に浮いたような孤独な時間でした。
 自分の国を誇りに思ってる人たちを羨みながら、私も何か一つでも誇れるものが欲しいと心底思いました。
 そしてまた春がきて野菜苗の時期になりました。手伝いながら、あるときハッとしました。
 理由がないならつくればいい。やりたいことがないならできることをやればいい。都会に行く理由がなければ大野にいればいいし、大野だからできることをやれば大野にいる意味ができる。そうすればつながりを持てることに気付きました。
 それからは割と簡単に農業の方向に向かっていきました。苗づくりは昔から手伝っていたのでできるし、それ以外の時期も野菜を作って売ればいい。
 たくさんの本を読み、長期計画を立てました。
 苗の時期が終わり、早くできるラディシュからつくりはじめ、あとはつくりたい野菜をつくってみました。ラディシュが日に日に大きくなる様子を見て毎日が楽しみでした。間引いた葉っぱも大事に食べ、収穫して食卓に並べました。早くうまくつくれるようになってお客さんに食べてほしいと思うようになり、青果市場に時々出すようになりました。
 その年に野菜の知識を少しでも増やしたい思いで野菜ソムリエの資格をとりました。私の場合その資格の内容よりもその時出会った人にとても恵まれていて、教わることも多く、またお客さんを紹介して頂くこともありました。
 翌年からは七間朝市に行き始め、珍しい野菜も多かったので注目を浴びるようになりました。珍しい野菜は当時は周りにつくってる人がおらず、まず自分が食べてみたいという理由からつくり始めました。大野という土地柄あまり売っていない野菜が安い価格で気軽に手に入り、調理の仕方もその場でわかればお客さんも喜んでくれるし、野菜にもっと興味をもってくれるだろうと思いました。
 はじめは見慣れない野菜を敬遠する人がほとんどでしたが、説明したり試食を出したりしているうちにそれを求めて買いに来てくれる人が増えてきました。
 また当時は食の偽装が相次いで取り沙汰され、食に対する不信感が強まっていました。自分でつくったものを自分で売るというシンプルな直売に魅力を感じ、お客さんにとっても安心して買うことのできる市場だと思います。実際にお客さんからそう言っていただくこともありました。
 そのうち常連のお客さんができ、飲食関係、農業関係の方々と知り合う機会も増え、どんどん農業での世界が広がっていきました。
 現在は、七間朝市の出店と福井市内でのショッピングセンターの出店、飲食店の卸数軒、直売所への出荷をしています。
 途中加工グループにも入っていたので漬物や野菜を使ったジャムなど加工品もつくっていましたが、そのグループが解散してしまったので今は野菜のみの販売をしています。

 若い時から農業をしているとなぜ農業を選んだのかすごく聞かれます。私としては何も知らない会社に就職するより知っている世界でやっていくことはとても自然なことに思えます。なぜ農業だけがそんなに興味深く聞かれるのか不思議です。
 農業ではやっていけないという声もありますがやり方次第だと思っています。それを考えるのは楽しいし充実感もあり、自分で人生を切り開いている感じがすごく好きです。収入が少ない時もありますが顕著に収入として表われる分、危機感も早いうちから持てるのでその対処も早期に手を打つことができます。
 農業で苦労したこともよく聞かれますが、始めてから4年の間は苦労したと思うようなことは本当にありませんでした。想像していたよりも順調すぎるほど環境に恵まれていました。
 しかし今年がその苦労にあたる年になりました。
 私だけに限ったことではないけれど、今年の天気はひどく、春先は雨ばかり夏は雨が全く降らずいきなり寒くなるという予測できない天候が続きました。
 そのせいで全体的に収穫も少なめで、苗は枯れ、種まきは芽が出ても消えてしまうことが多く、何をやってもうまくいきませんでした。
 不景気が長引く中、野菜の高騰で平常通りの価格の朝市でも特に夏はお客さんが少なかったです。収穫が少ない上にやっと採れた野菜を朝市で並べていてもお客さんが来ず、ただ野菜がしなびる日々が続きました。その雰囲気は人にも影響するのかギスギスした人が多く、いわれのない非難を浴びることもよくありました。そういう日が続くと普段は聞き流せる言葉も許せなくなるときもありました。
 お客さんに「こんな所で座ってたってどうせ売れんのやで全部半額にして早く売って帰んねんや。持って帰ったって無駄になるだけやろ。」と言われた時は頭にきて返す言葉もありませんでした。
 悪天候でただでさえ野菜が採れず、その中からいいものを選んでいるのにそんな言い方をされ、初めて朝市に行く気がなくなりました。
 おいしい新鮮な野菜でお客さんに喜んでもらおうと頑張っているのに誰も喜ばすことができず、買いにも来てくれない。何を売っても値段しか見られてないと感じ、もう何をすればいいのかわからなくなりました。
 と言っても種は蒔かなければならないし、収穫もあるのでただ日々こなしていました。寒くなるにつれお客さんも増え、前のように憤ることもなくなりました。ただその時の気持ちから、今までと同じようにしていてはいけないと感じています。そろそろ変化が必要なときです。
 まだどういう形でやればいいのかわかりませんが、今模索しているところです。

 現在の難題はいくつかあります。
 出荷数が増えて嬉しい反面、出荷準備などに時間を取られ野菜の世話をしている時間が少なくなりいつも追われてるような状況になっています。家族にも手伝ってもらわないとこなせない日が増えてきています。
 始めた当初、自分1人でできる範囲での計画を立てましたが、今となっては1人では無理かもしれないと思うようになってきています。特に栽培と販売の両立が難しいです。販売に力を入れるとやはり売れるので、収穫と発送をするだけで1日が終わってしまいます。毎日生育し変化する野菜を見て世話をしたいのですが、とてもそんな余裕がありません。これでは悪循環となっておいしいものをつくりたいという根本が崩れてしまいます。直売をやめれば随分楽になりますが、嬉しいこともたくさんあるし、お客さんの生の声を聞けるので次年度の作付などに関わる貴重な意見として必要なのでやめたくはありません。
 そして一度経験した加工品は、ぜひもう一度やりたいと思っています。今度は本格的に自分の加工所を建ててじっくりやりたいので今、加工所をつくっている最中です。
 今もそのときの加工品を買ってくれたお客さんがそれを求めて来てくれるときがあります。特に野菜のジャムはつくり応えがあったのでまた挑戦したいです。
 そして大野で農業というと、やっぱり冬の雪が積もる時期がポッカリ空いてしまうので、少しでもその時期に加工品を回せたら年間通して安定した収入を得られるのではないかと思っています。
 これらの課題を時間をかけて克服して、これからも大野に根付いた自分なりの農業をやっていきたいです。




 食と農と健康について思う
                酒 井  恵 美 子

 毎日のように食と農関係のテレビ画像や新聞の紙面を飾り、人々の関心や意識の高揚を喚起しているようです。そうした中で最近身近に感じていることを、2~3例を挙げてみたいと思います。
そこで一句「白菜の嘆き」
“レースカーテン、奥座敷にはヨトウムシ”気をつけていたのに我が家の白菜はこの様です。でも味は抜群。

・12月ともなれば、露地の法蓮草には、白い筋のような模様が入り、スーパーに出ているような見映えするものとは程遠いものです。ある日、独居老人で足が悪く買い物もままならないおじいさんに「こんなものでもよかったら…」と恐る恐る差し出したところ、「そんなものちっとも気にしません、どんなものでも有難く戴きます」とたいへん喜ばれました。

・例年、採り込んで漬ける大根が、外見大きくなったので収穫しました。ところが、太さはあるのですが、丈が短く、本数はあるのですが、量は例年の2/3程しかありません。12月の終わり頃、ようよう平年並みの大きさになったので、追加して漬け込みました。
種まきが遅れた農家では、12月になっても収穫できず、正月に間に合わないというので私の畑に採りに来ました。大根の葉を全部つけていく人、落としていく人、泥付きのままの人、きれいにあらっていく人様々です。そして農家なのに、10本、20本とまとめて持っていきました。

・冬至が来ても畑には青々と堂々とした白菜が、そっくり残っています。不要なのかそれとも余ったのかと近づいてみると、殆どは結球していないのです。春になればそれらは全部抽台してしまうので、入用な分は購入ということになるのでしょうか。
一般的に今年の秋野菜はざっとこんなものです。
農家の人が近くに立派に育っている畑を横目で見ながら、指をくわえているといった様で、肩すかしをといおうか何とも淋しい風景です。それでも、近所、知り合いの間で何とかつないでいくのですが、お金はあっても土地を耕している人は、大根1本買うのにも抵抗があるのです。見ていて、やり切れない感じもします。

・最近なかなか手に入らないくず大豆(発酵堆肥用)を手配に手配を重ねてようよう手にいれました。来春に向けて只今発酵中ですが、袋を開けてみると、くず豆なんて殆どありません。大豆のさやや多少のごみが少し混じっているだけで、虫喰いもなければ、病気で傷んだり色が変わった大豆もなくて、食用にしようと思えば、その殆どが食べられます。本当にきれいなもので勿体ないと思わずにはいられません。話によると、形(まん丸でない)が悪いとか、小粒で基準に満たないとか唯それだけの理由で、家畜の餌になったり、発酵堆肥(それもほんの僅か)にしたり、ひどいものは全部廃棄されていきます。食料自給率40%の時代に何をか言わんやと少し腹立たしくなりました。

・私も最近、直売に少しかかわってきたのですが、少し葉が傷んでいるもの、穴があいているもの、大きさが揃わないものは、畑の肥料になっていきます。いいとこだけを選りすぐって袋詰めとなり、お金を戴くのだからと、涙を飲んでいますが、こんな勿体ないことをしてまで何故出荷するのと、もう止めようと思うこともしばしばです。

・何年か先には、地球の人口は90億に達するとか。今の状態でいけば、すべての人の命を支えることは出来なくなります。穴あきの葉も、形が悪いの、大きさがバラバラなどの食材は不良品ではありません。きれいで見映えするものの中に残留農薬等があったり、味の悪いものがあったりする事も往々にしてあると思います。

・12月18日、タイではウンカが大発生して収穫が大幅に落ちこんでいる様子が放映されていました。農薬散布したにもかかわらずなのです。日本にも九州の方に渡っているようです。耐性ウンカです。いつの時代も強い者が生き残っていきます。新しい農薬を出しても、耐性菌はその上手上手を行き、天敵である生き物は次々と絶えていき、イタチごっこです。収量を上げるために開発された農薬ですが、耐性種が生まれ、食材の残留農薬が体に蓄積されていくのでは、人の命を支えることは出来ません。日本の途上国への農業支援が、農薬であったり、大型機械であったり、化学肥料であったり、許されることではないでしょう。
安心で安全でおいしくて価格が安いもの等、易々と手に入るものではありません。消費者の人が生産する人の立場に立って、お互いに支援し合う態勢が整うまでは、有機栽培の食材の広がりは難しいと思います。

健康を支えるもう一つの要因を、ある冊誌に出ていた話を紹介します。納得して頂ければ幸いです。

「下痢と腸」
   丹羽 是
「先生、私、旅に出て早起きせにゃならんで、時間のズレで大便が出ません。ですから、下剤を下さいませんか」
先生「早馬を毎日馬場で走らせるのは、馬の足腰や体力を鍛えるためだけではない。運動もさせず、餌だけ与えて、ただ馬小屋につないで置いたら、馬は便秘になって、腸閉塞を起こし死んでしまう。大便の元になる、わらを食べさせたって、運動させなきゃ駄目。人間だって同じ事だ。ハイッー。終わり!」
実に簡単明瞭なこの講義。早起きの上にまた一時間の早起きはエライだろうが、頑張って、胃や腸を目覚めさせてから便所に行きなさい。必ず出る…と。
薬はもらったけれど、服用の必要はなかったとか。以上。


 農業経営の確立過程における
     経営者能力の発揮(連載5)
               
代表 玉井道敏

(4)感性と好奇心
  農業は動植物を対象とする。ということは、生命を対象とする、ということでもある。優れた感性は、対象の動植物に対する日ごろの観察や生育診断において力を発揮し、それらに基く栽培や飼育面での的確な対応、処理などで効果をもたらすと考えられる。M農園の経営主の妻であるMHさんの就農前の職業は看護師であったが、そのときの経験が、就農してからの野菜や花の栽培や種苗育成の面で大いに役立ったとMHさんはいう。またSH氏は蚕が桑を食べている音に感動したともいう。またKY氏は趣味として長く写真を撮り続けている。日ごろ感性を研ぎ澄ましておくことは、生命をもつ動植物を扱う農業分野において、ことさら重要である。
 さらに、農業経営を営んでいく上では、広い分野に対する関心と知識が要求される。直接的に効果のある分野は当然として、常日頃幅広い世界に好奇心を張りめぐらせておくことは、経営に幅をもたせることにもつながる。KY氏はよく海外旅行に出かけるし、MK氏、MHさんは国内外を問わず、機会を捉えては園芸のイベントや園芸の先進地へ出かけている。

(5)役職体験と調整力
 調査対象農家は、いずれもこれまで多くの農業関係の公職や地域の役職に携わってきているが、結果として、組織におけるリーダーとしての資質や調整能力の獲得、向上、また、主に農業分野における人脈の広がりにつながってきている。これらの役職を引き受けることは、日常的に多忙ななか、経営への悪影響のある場合も考えられるが、長期的には、信頼感の形成や新しい仲間づくりにもつながり、経営を発展に寄与してきていると思われる。

(6)資質と環境
 経営者能力について、実例を踏まえながら考察してきたが、対象とした経営主などの個々人を思うとき、“本来もっている個人的資質が、農業経営を営むという行為と環境に触発されて、花開いた”という感慨をもった。
 個人的資質は、就農して農業経営を作り上げていくなかで発現し、さらに磨かれてきたのであり、別の環境下では、また違った形で発現していたかもしれない。資質と環境の相互作用としての営みの蓄積が、結果としてそれぞれの現在の農業経営を作り上げた。だからそれは極めて個別性の強いものであるといえる。

おわりに
 農業の担い手不足が叫ばれ、各種の施策が打ち出されているが、必ずしも成果が十分とは言いがたい。本論をまとめて思ったことは、ひとつの農業経営が確立するには少なくとも30年を単位とする期間が必要であり、(接木という一つの技術を取り上げても、その原理や基礎作業を習得するのは1~2年で可能であっても、実際の経営のなかで実用技術として日常的に生かせるまでには短くとも5年程度はかかる)、さらに経営の形成過程を、資質と環境の相互作用の集積としてとらえると、農業経営は本来個別的なものである。それを短期的、一般的、面的な施策で対応しても、当面の就農者は確保できても、長期的な定着化はなかなか困難である。
 現在農業経営を確立している農業者を核として、農業担い手育成への彼らの全面的な協力を仰ぎ、あわせて、彼らへの手厚い支援を行うことを基本とした担い手育成政策に組み直すことが検討されてよい。ただ単なる仕事で担い手は育たない。餅は餅屋に任せるべきである。それぞれの農業経営者はその力量を十分にもち、担い手育成の必要性を強く認識して自ら取り組んでいる経営者も多く、期待に応えてくれるものと考える。


  私の好きな漢詩
                  細川嘉徳

  凱 旋

 王師(おうし) 百萬(ひゃくまん) (きょう)(りょ)(せい)

 野戦(やせん) (こう)(じょう) 屍山(しかばねやま)()

 愧()ず (われ)(なん)(かんばせ)あってか ()(ろう)(まみ)えん

 凱歌(がいか) 今日(こんにち) 幾人(いくにん)(かえ)

 凱 旋
       乃木(のぎ)(まれ)(すけ)

 王 師 百 萬 征 驕 虜

 野 戦 攻 城 作 屍 山

 愧 我 何 顔 看 父 老

 凱 歌 今 日 幾 人 還

 

   テレビドラマ「坂の上の雲」に出てくる乃木将軍が、日露戦争終結後、同戦争の第三軍司令長官として指揮し、多くの兵士を戦死させた激しい戦いを振り返って作られた詩です。
 「わが皇軍百萬、驕慢無礼なロシア軍を打つために満州原野に出征した。強敵ロシア軍の備えは万全で、野戦の要塞攻略で討ち死にした兵士の屍は、累々として山を成したのである。戦には勝利を収めたとはいえ、多数の戦死者を出したことはまことに申し訳もなく、国に待つ父老に合わせる顔がない。勝ち戦の歌を歌いながら、今日、故郷に帰ることの出来る兵士は、一体何人いるだろうか」
 王師百萬とは漢詩独特の表現で、多くの皇軍という意味です。この時の死傷者は五萬五千といわれていますから、それはそれは大変な数です。
「凱旋」とは「戦いに勝って勝ちどきを上げて帰る」と辞書にありますが「愧(は)ず 我(われ)何(なん)の顔(かんばせ)あってか 父(ふ)老(ろう)に看(まみ)えん」の一句は、詩の題名と裏腹に、将軍の悲痛な心の叫びが胸に迫ってきます。この詩は好きな詩というよりも、忘れられない「反戦の詩(うた)」に聞こえてくるのです。



   馬酔木       小林としを


人住まぬ軒場に竿は在りし日を語りて淋し小春日の中
我を癒す借景の庭手入れ良く対う机の位置変えがたし
芥子漬け造るも吾で終わりかと茄子と麹に芥子まぜおり
かかわりを絶たれし河原に起重機の音ひびかへりつもごりの夕
九頭龍の河原に音なく起重機は並びて静かに年あらたまる
夫の知らざる外孫ふたり鴨居にもとどくばかりの青年となる
白衣翻し颯爽とゆく若き医師に汝の未来を重ねときめく
花芽すでに整う馬酔木の紅き房に積みたる雪のしずるる早し




             北風尚子


手をあげて席あけられる友の顔嬉しさ余り泪ぽろぽろ
クラス会六十余年の月経ても幼面影君にも残る
くぢ作り席順きめてこもごもに顔見合わせてくわを数える
川ひとつ越ゆれば見ゆる古里のいちょう成る樹や紅梅の花
幼友肩たたき合い相よりて話はつきぬ夜の更けるまで
ちゃん付けで呼び合う楽しいクラス会男女ほとんど集う我が部屋
玉石を流れにおきてせせらぎの音かもし出すナチュラみや川
早春の満月淡々輝きて今し沿(い)りゆく西の山端
病室の窓よりのぞく屋上に名も知らぬ花風にゆれおり
名月を愛(め)でつつ孫の被うう頃ドレスの裾が気になる花嫁




 去年今年      鉾の会

初夢に回る雛の御所車             田中芳実

流木を集めて浜の缶焚火        阿部寿栄子

お買初め流るる歌のめでたけれ     伊藤房枝

筆始父の墨書を範として        宇佐美恭子

初詣馴染みの仲間達者にて       黒岩喜代子

年賀状写真の子等の凛凛しくて     小玉久美子  

歌留多取る少年の指美しき       榊原英子

小正月とて外食に過しけり       近間喜久子
 
甘酒を振舞ふ小寺の初勧行       月輪 満

老練が門松を組む田舎駅        坪田哲夫

小春日や歌舞伎見に行く孫娘      友永リユ子

年や明く嘶(いなな)く絵馬に願ひ事      西川幸子

獅子舞の開けし口より赤き舌      橋詰美禰子

降り止まず不気味に白き雪明かり    長谷川智子

蓬莱(ほうらい)や敷石伝ふけんけんぱ       畑下信子 



   馬来田寿子

初明り 参道人の絶え間なく


神井戸を 守るしめなわ あらたまり


水仙の 格調高く 神前に


御神酒をつつしみ受けて呑みほしぬ


神木にもくじ結びし 二人添ひほしぬ


 


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